2022-06-30 25:24

【626GMV】甘えることの必要

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退行しないと見失うもの
00:05
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
久しぶりにおはようでもグッドモーニングでも何でもない時間ですが、
昨日も飛ばしてしまったんですけど、昨日はもうどうこうっていうんじゃなくて、
実家に戻らなきゃなんなくなっておりまして、実家に戻るとなると半日仕事なんですよ。
これを悠長に取ってから色々やって職場してでは、もう実家に戻ることなどできなくなってしまうので、
早々に諦めてさっさと家を飛び出したんですけれども、
そういう事情があったんですが、その流れの中で今日も朝にこれをやる余裕はなく、
昼になっていますが、しばらくこういう状況は続く可能性もあります。
わかんないですけどね、わかんないんですけれども、
また少し時間が曖昧になる可能性はあります。
そのまま夏休みとかに突入するとまた変わってくるんですけどね。
まあまあ、いろんなことが起こります。
で、今日はですね、ここ2日のことを話していた内容について考えていたら、
そういえば実家に自分帰っているなと昨日思ったんですよ。
考えながら帰ってきたなと思ったんですよ。
実家はそんなに遠いわけじゃないんでね。
埼玉県ですから遠いわけじゃないんですけど、
実家に帰るということは、別に前々からの予定でもあるので、
全然不幸とか予兆とかなんでもないんですが、
でも対抗ってものをずっと喋っていましたから、
わりとどんどん連想されてきたんですよ。
自分で喋ったことをですね。
グッドモーニング・バイ・ボイスで喋ったことが、
実家に戻る道すがらどんどん思い出されてきて、
実家に帰るから喋ったみたいに言うと非常にスピリチュアルっぽくなるし、
実家に帰るから喋ったことを思い出したというと、
全然心理学っぽくなって、すごいサイエンスなんですけど、
このサイエンスとスピってね、
逆に見ている見方をするだけっていう感じもするんですよね。
どっちがどっちの原因だというのを逆転させると、
スピになったりサイエンスになったりするんですよ。
で、実家に帰るということと対抗ということはイコールじゃないですけど、
やっぱり親元に帰るわけですから、
自分普段は父親というペルソナをやってますけれども、
親元に帰ったら子供というペルソナに変わりますよね。
これはまた一つの対抗を連想させますよね。
甘えと言ってもいいですけどね。
甘えに帰るわけじゃなくたって、そういうことは意識はしますよね。
それでね、最近つくづく思った、
あ、というか帰り道すがらかわいはようなんぞを読んでいたんですよ。
そしたら当たり前のように彼は魂って出てくるんですね。
彼が魂って言ったときは、
私はフロイトだったらセクシャルと言って必ず脳内変換が起こるんですよ。
03:02
どういうことかというと、
基本的にユングですから、
かわいはよう先生はユングのお弟子さんみたいなところがあるんで、
ユングってのは魂って言うんだけど、
魂って言ったときに彼は女性像をイメージしている、
最初はイメージしてたっぽいんですね。
で、面白いんですけど、
彼は男性女性の中に男の中の女性がいるって、
これが魂みたいな感じの意味付けなんですけど、
ちょっとこう、今のすごく図式化してますけどもっと複雑なんだけど、
魂なんだけど女性というイメージで登場すると、
それをアニマって言ったんですけど、
アニマってのは女性って意味ではないし、
女性イメージって意味でもないんですよ。
あれは魂って意味なんですね。
魂なんだけどラテン語の魂はアニマで、
これ女性名詞なんですよ。
だからアニマはそのまま女性像みたいになってるんですけど、
本当はそうじゃないと思うんですよね。
女性像とは限らない。
で、これをフロイトだったら単に心の中の自分の女性、
母親ですよね、多くの場合って言うだろうなって思うんですよね、私は。
それよりも深いんだってユング派の人たちは言うのかもわからないですけども、
私はじゃあ魂っていう言葉は絶対いるのかと、
ここをセクシャルで説明しようとしたらできるんじゃないかと思うと、
だいたいできちゃう気がするんですよね。
カエファイさんはその本の中ではロミアとジュリエットを持ち出したんですけど、
ロミアとジュリエットは魂の結びつきと言ってもいいでしょうし、
セクシャルの結びつきと言ったっていいじゃないですか。
ちなみに僕もびっくりしたんですけど、
カエファイさんがこういう指摘をするところが先生の面白いところなんですけど、
ジュリエットは何歳なんですか?
先生の面白いところなんですけど、
ジュリエットは何歳なんだ?というふうに書いてたんですね。
私そういえば何歳だろうと思ってたんだけど、
14歳なんですよ。
めっちゃ若いんですよね。
この14歳ってうちの娘からいくつもないじゃんっていう、
中学生じゃないですか、14歳になって。
とんでもねえなと。
でも考えてみると、その辺の年齢の男の子も女の子も、
ロミアとジュリエットどっちもあれですけども、
まあ若いよねっていう。
やってる子供も若いですけどね。
この話をカエフさんが書いている中で、
私がすごく意識させられたのが、
昨日のシチュエーションも手伝って対抗だったわけですけど、
対抗ってのは非常に大事だなと思うんですね。
つまり私たちって絶対行き詰まらない。
つまり私たちって絶対行き詰まるわけじゃないですか。
何かに、現実に。
現実に行き詰まったときは、
普通に考えてみたってうまくいってたところに戻るわけですよ。
非常にわかりやすいところで、
幼稚園に行ってつらくなってきて泣くと、
一旦家に帰ると、これ対抗ですよね。
もともと幼児なんだけど、入幼児まで戻るみたいな。
赤ちゃん帰りっていう言い方をしたりしますけど、
対抗ですよね、完全に。
06:00
お母さんと一緒ならうまくやれるんだけど、
まだ幼稚園ではうまくやれないっていうときに、
お母さんと一緒のところまで戻る。
つまりうまくいってたところに戻るわけじゃないですか。
戻るとどういうことが起こるかというと、
ペルソナから少し解放されるわけですよ。
今さっき私ペルソナって言いましたけど、
父親というペルソナで普段やってるんだけど、
実家に戻ると息子というペルソナに変換されると。
息子というペルソナは、
人によってもいろいろあると思うんですけど、
なんだかんだうまくいっていたわけじゃないですか。
だから息子というものが無事卒業できたわけですよね。
絶対にうまくいってたわけですよ。
だから対抗って非常に大事なんですよね。
そこまでいけばうまくやれるっていうところに戻る。
この番組で何度かお伝えした、
異人たちとの夏。
あの小説でも、あれは完全に対抗で、
死んでしまった父母に再会するという、
古き良き思い出に帰っていけるという、
一部幸福な話なんですけど、
代わりに死にかけるんですけどね。
そういう対抗ってのは、
現実世界では厳しくなってきたと言った時に、
つまりペルソナの限界を迎えつつある。
ペルソナっていうのはちなみに、
ユングの用語で、ユング派の用語で人格なんですよ。
私はこれはミニコットの偽りの事故にほぼ相当すると思うんですよ。
カワイイ俳優さんもですね、
ペルソナは我々にとって絶対必要だと。
例えば、上司がどんなに気に食わなくても、
上司の下で働かせていただいて大変幸せですとか言ったりするのが、
ペルソナだってどっかで書いてたんですよ。
完全にこれはミニコットの偽りの事故ですよ。
嘘つきだっていうのもちょっとおかしいんですけれども、
全然うまくいってない。
例えば人の文章を読んで、
全くこれはまだ無理だなと思っても、
なかなかうまく書いてますとかっていうのも、
ペルソナじゃないですか。
これがペルソナだと言ってもいいし、
偽りの事故だと言ってもいいと思うんですよ。
じゃあ魂って何かっていうと、
ミニコットは本当の事故っていったところのものだと思うんですね。
この魂と、みんな思ってることですよね。
魂とペルソナ。
あるいは本当の自分と偽りの自分が、
あまりにも離しく離れていくと、
僕らの心は限界を迎えるんだと思うんですね。
僕らの心というか、
あるいは僕らの体であるかもしれないんだけど、
何にしても僕らは限界に行き着くと思うんですよ。
その時に、また戻ってくっついていかなきゃなんですよね。
離れすぎたから。
いくら必要だからと言って、
明らかに絶対無理だと思っているのに、
なお上司だからということで、
すごく表面を取り繕って頑張っている。
これが大人のやることですけれども、
学生だってやるんですけどね。
教授がどんなに気に食わなくたって、
ベコベコしていないと退院くれないとか、
我々の時代はそういうのが多々ありましたから、
頑張っていたわけですよ。
学生なりに。下手でもね。
09:00
この分裂が限度を迎えた時に、
戻っていくわけですよね。
ある意味、幼稚園児や保育園児だって同じですよね。
ペルソナでお友達と仲良くやる私みたいなので、
頑張るんだけど、
やっぱりおもちゃの取り合いとかで限界を迎えると。
その時に泣き出してしまって、
お母さんの元に帰っていくというのは、
完全に魂のところに戻っていくわけですよ。
一時的な分離であっても、
分離の限界をすぐ迎えるから、
戻っていくわけですよね。
小さい子の方が、
この距離は当然短くて済むわけですよね。
本当の自分に近いところで生きているから。
それが許されますし。
大人になればなるほど、
本当の自分から遠のいていくから、
もはや本当の自分がどこに行ったか分かりませんみたいな、
そういう複雑な病気にかかってみたりも、
するわけですよね。
そういうことが、
実家に帰ると、
なるほどだと思うんですよ。
実家に帰る道すがら、
確かに、
知らず知らずのうちに、
自分が、
ペルソナ側に寄っていく。
ペルソナの自分が本当の自分じゃないかというと、
そこも難しいんですけれどもね。
父親の自分というのも、
本当の自分ですから。
だけど、やっぱり色々と仕事をしていたり、
最前線でやっている自分というのは、
妄想的になりやすいですよね。
魂のことを、
いつもケアしながら頑張るというのは、
グッドバイブス的には、
そういう道を模索しますけれども、
ついやっぱり、
ふとずれていく。
そのずれがあまりにも、
はなはなしくなったら困るので、
時々対抗して、
だから対抗という言葉はですね、
イメージが問題なんですね。
甘えもそうですけれども、
甘えや対抗というのは、
絶対必需品なんですよ。
絶対必需品があるので。
魂とか、
本当の自分というのは、
そんなに融通が効かないわけですよね。
そうそうお金になるから、
これをするのが好きとか、
嫌いでもこの人が好きなふりをするとか、
そういうのをスイスイやれるのは、
魂じゃないわけですよ。
その時に、
例えばかわいはよさんが今回、
よく持ち出してきたのが、
有名なんですよね。
例えば夢の中で、
男性の患者さんでしょうけど、
それはもう分かりやすいですよね。
離れすぎてしまっている魂を、
救い出しに行ったというわけですよね。
こういう時に我々は対抗しますよね。
その夢の中の女の人が、
お母さんみたいな人であることが多いから、
そうすると当然自分は甘える息子の側に立つので、
対抗がスタートするというか、
対抗の傾向が強くなるんだと思うんですよ。
そういうことをやって、
自分の心の本来のありよう、
本来のありようというのが面白いことに、
男性の場合は、
女の人だということになるんだけど、
女性だということになるんだけど、
だからアニマなんですけど、
そういうところに戻っていって、
合体はしないですけどね。
合体しちゃったら今度は、
多分現実世界の方に、
12:01
いわゆる実無世界の方に戻っていきにくくなるんで、
でもそこで一旦戻って、
自分というのは本来こういうものだったなというのを、
思い出していくと、
また例えばやる気になるとか、
そういったことになるんだろうと、
そういう話が書いてあったわけです。
そう思いながら実家に向かっていくと、
こういうことなんだなって思うわけですよ。
やっぱり。
時々あることっていうか、
私実際に知っていることなんですけど、
私の親類でね、
実家に戻ってしまったまま、
帰ってこなくなる人っているじゃないですか。
離婚とかとは違うんですよ。
離婚で実家に帰らせてもらいますって、
有名なセリフがありますけど、
本当に言うのか知りませんけどね。
そういう人って本当にいるんですよ。
私の親類でそういう人を知っているから、
なるほどなって思ったんですけど、
要は実家にちょっと帰るわけですよ。
ちょっと帰るといって、
自分の家に帰っていかないんですよね。
甘えっちゃ甘えですよね。
原理は甘えてる。
あの人は甘えてるんだっていう、
そういう批判をする私の親類もいました。
で、これ対抗なんですよ結局。
分からないですよ。
結婚生活が嫌になったわけじゃないと
言っているかもしれないし、
そんなに大変だったわけじゃないのかもしれないんだけど、
ふと実家に帰ってしまう。
そしてそこから、
例えばその人は女の人だったけど、
夫の元に戻っていかないと。
非常にある種の問題っちゃ問題で、
でも問題一種を一切しなければ
別に問題にも何にもならなくて、
非常にグレーゾーンですよね。
僕はこういうところに
対抗というものの強さっていうのを感じるんですよね。
つまりやっぱり最前線でやっていくっていうのは、
一見大変でなくて、
気軽にやっているように見えても大変なんですよ。
いろんな意味で。
やっぱりアニマでもアニムスでもいいんですけれども、
から離れた生き方を多少ともすると。
最初はですね、
意識してそんなに離れないようにしていても、
気がつくとふと大きく離れちゃうわけですね。
私はあんまりそういう風には
意識して読んでなかったんですけど、
河合ハウさんがその本の同じ本の中で、
これは僕が要するに、
昨日実家に帰る電車の中で読みふけてたんですけど、
村上春樹さんの本を何冊か紹介していて、
そういう作品としても読めるわけねっていうのを、
そう言われてみればそういう作品多いですよね。
ふといなくなると。
そういえば、ノルウェーの森なんかが
すごく話題作になった初期の方の作品ですけど、
ある意味ふといなくなっちゃってますよね、
いろんな人がね。
あるいはふと会えなくなるみたいな話になってますよね。
ふといなくなるっていうのは、
つまり妙に言ってはなんですけど、
別にそういう風に書いたという風に
作者が受け合ってくれるはずはないんですが、
ふと自分のアニマなりを見失うと。
15:01
あるいはこう、ふと、
これは怖いことですが、
もっとこういう使い方をすると、
本当の自分がいなくなると。
本当の自分がいなくなったら、
ここにいる自分は誰なんだよって話に。
でもこういう話って、
哲学ではおなじみじゃないですか。
ここにいる自分は誰なんだと。
そういえばノルウェーの森って、
自分は今どこにいるんだろうっていうような
つぶやきみたいなので、最後終わりますよね。
ああいう感じになるっていう危機について、
村上春樹さんは多分相当うまく書くんだろうと。
そういう話が、
河合ハネさんの本で出てきていたわけですよ。
で、つくづく思うんですよ。
ライフハックとか仕事術っていうのは最たるものですけど、
ペルソナ側のやることですよね。
あれ絶対魂側の話じゃないですよね。
魂がとか思想がとかっていう人もいますが、
でもやっぱりあれはペルソナ側の話ですよね。
それがいい悪いじゃないですよ。
ちなみに河合ハネさんは魂についても、
決して魂というのはいいものではないと。
少なくともいいだけのものではない。
非常に破壊的だし危険なものだし。
ロミオトジュレットの話ですよね。
最後あれみんな死んじゃいますもんね。
で、非常にまた面白いことを書いていたんですよね。
河合ハネさんが、
あんな若げた死に方をするというのが、
魂というものの若さなんだと。
大人の人だったら絶対ああいう若げた死に方にはならないと。
だからドラマにもならないんですけど。
つまりドラマにならないんですよね。
ペルソナでは。
ライフハックでドラマを作るってわけにいかないじゃないですか。
仕事術でもタスクシュートでも。
あれほど時間をきちっとやって、
例えばミステリーで刑事物でアリバイを成立させるとか、
そういう独特の知的な何かは作れるかもしれませんが、
いわゆるロミオトジュレットのような、
ああいう盛り上がりを猛烈に持ってくるようなドラマにはならないんですよ。
それってつまり、
本当の自分というものと、
偽りの自分というものの違いなんですよね。
そしてこの偽りの自分だけでは、
やって結構ないということを、
私たちの時代というのは、
どうすると忘れそうになるから、
浦上春樹さんみたいな作家が警告を出すんでしょう。
これだけでやって、
本当の自分がふといなくなったなんていうことをやっていると、
大変なことになると。
考えてみると、
ノルウェーの森の人たちって、
何かどこかの施設に入ってみたり、
入っていない主人公も入れられそうな感じの人ですよね、
実際のところ。
これ結局どういうことかというと、
僕らは探しに行っちゃうんですよね、
本当の自分を。
実家に帰るということをしていれば、
住む人は幸せなんですよ。
実家に早々帰れないということもあるでしょうし、
そもそも実家はないといったことだって、
起こりうるわけですし、
18:01
私の年からしても、
そういうことが絶対ないというわけじゃないですし、
実家が魂の居所ってわけじゃ、
もちろんないですよ。
これは結局、
行動をどこに行けばそれが見つかるという話では、
ないから難しいわけで、
要は象徴的な行為ってやつなんですけれども、
その象徴的な行為をでもとって、
それで基本的な意味を了解できるんだったらば、
楽なものなんですよ。
例えばですけれども、
家がもう家庭内の関係がすっごい悪いとか、
あるいはちょっと古いですけど、
息子が不良になって家出ちゃいましたと、
実家帰ったって何の解決にもなんないですよね。
でも、これはやっぱりそれなりに危機じゃないですか。
そして偽りもずいぶん、
絶対解決しない危機ですよね。
いくら表面的にペルソナで、
父親としての自分が息子を取り戻すみたいな話を、
頭の中で描いても無駄ですよね。
この辺がやっぱり、
ライフハックとは違う世界の出来事だったと思うんですよ。
今の非常にめちゃくちゃわかりやすい、
至って単純な話でしたけれども、
もう少しこれが、
たぶん我々の世界、
生きている世の中では、
現実には複雑になっていく。
だけれども、
いつも起きていることは同じで、
この本来分割できないもの、
つまりペルソナと、
ペルソナだけで生きるというのは、
ありえないわけですよ。
ここがおかしいんですよね。
我々のやるとき、
やっていることの中でしばしば。
ペルソナだけで生きていく方法論みたいに、
なりかねないところがおかしい。
おかしくなっていくときに起こる、
たぶん出来事なんですよね。
ペルソナはすぐ限界を迎えてしまうので、
あまり魂から距離を取れないはずなので、
なぜなら本当はそこに、
実体は何もないわけですから。
それは弁儀状を作られたものですよね。
その弁儀状は、
はなはな重要な、
というか必要性の高い弁儀状なんだけど、
でも弁儀状を作り出されたものであることは確実で、
そっちだけでやっていけるはずはないんですね。
だけども逆に、
ペルソナにまとめられて、
ペルソナだけで生きている、
というのは、
アウトなんですよ、
人間社会で生きていくには。
おそらく、
魂が危機的な状況にあるから、
だから、
実家から出て来なくなりましたとか、
あるいは、
なんて言えばいいんですかね、
お母さんであるところの
アニマを探しに、
アニマを探して、
アニマを探して、
アニマを探して、
アニマを探して、
アニマを探して、
アニマを探して、
行方不明の旅に出ちゃいました。
こういう話も結構ありますからね。
その本人は一体何探しに行っているのか、
わからないでしょうけれども、
何か探しに行ってしまうわけですよね。
探しに行くという行為が、
現実世界でやると、
象徴的には旅になってしまうんで、
しかもなるべく遠くに、
なるべく知っている人がいない、
21:00
知られもしない旅、
これ蒸発ですよね、完全に。
こういう話ってでもあるじゃないですか。
そして、
探しに行っているわけですよ。
私も喋ってて思い出したんですけど、
非常に不思議な夢を見たことがあるんですね。
核戦争みたいなのが始まった時に、
妹と母親を避難させて、
それを守るために、
すげえ銃器か何か構えて、
核ミサイルに対抗しようとしているんですよ。
これは僕には、
自分にこんな面があるんだなと、
夢を見て思ったんだけど、
それよりも、
後になってこれを考えてみると、
ずいぶん危機的だったんだなと、
思うんですよね。
これは、
私がこのポッドキャストで何度か
ミドルクライシスを言っている、
割と前に見た夢です。
それよりもだいぶ前に見た夢です。
もうあの時点から、
もう、
無意識的な感覚では、
ずいぶん危機的だったんだなと思うんですよ。
核ミサイルですからね。
守れっこないじゃないですか。
で、
ペルソナとしての自分は、
魂を守る気でいるんでしょうけど、
そんな軽武装で、
核ミサイルに対抗しようというのは、
はなはだ同化していますよね。
その時、私は夢の中で、
同化しているなこれとは思ったんですよ。
この同化しているなと感じたというのと、
でも何とかしなきゃいけないと感じたというのは、
どっちも嘘じゃなかったんですよ。
そういうところに、
やっぱり、
これも非常に、
溺れかけている女性を助けるのと、
ほぼ同じくらいシンプルで、
シンプルな夢を見るということは、
自体が分かりやすいくらい、
何かが起こっている。
そういうふうに見ることもできると思うんですね。
私は、
それがアニマだと思いはしなかったし、
いまだにやっぱり、
ちょっとリューング的な感覚というのは、
フロイト的な感覚に比べると、
受け入れがたいところを感じるんで、
やっぱりアニマという感じを抱かないんですけど、
特に母親とかに対して、
アニマだという感じはしないんですけどね。
でも、
やっぱり内的対象としての母親とか、
環境としての母親と言っている方が、
はるかに自分の感触としては、
しっくりくるんですけども、
どっちをとっても同じなんですよね。
要は、
それというものが、
そんなに危機的な状況にあると、
そして、
その内的な、
何でもいいんですけれども、
女性イメージのようなものと、
一緒にいる自分というところが、
自分の中で、
女性イメージのようなものと、
一緒にいる自分というところまで、
対抗したのでは、
今のところ、
現実の実務世界ではやっていけないと、
5、6年前の夢だったと思うんですけど、
感じていたんだと思います。
核ミサイルぐらいの感じ。
それは明らかに、
大げさな感じがするんだけど、
大げさもへたくれもないんですよね。
私が見た夢なんだから。
つまり、私の無意識が、
イメージとして捉えていた現実というのは、
ずいぶんすごい状態にあって、
それこそ、ある意味、
浦上春樹さんの小説みたいに、
24:01
ひどくシュールな雰囲気があったんですね。
UFOみたいなのに責められてきていたし、
とても現実のものとは感じにくい、
そういう世界だったわけですよ。
そういうのを考えてみると、
私たちは、
対抗というのを、
すごく、
何て言うんだろう、
それを重視するというのは、
変なものなんですけど、
僕らにとっては、
変なものだと思うんですよね。
夢で見るっていうのは、
はっきりした、
ひとつの危機的状況なんだけれども、
そうでなかったとしても、
不意に、
例えばあるじゃないですか、
昨日もそうだったんですよ。
不意に昔見た漫画が読みたくなるとか、
不意に昔聞いた音楽が聞きたくなるとか、
あるいは、聞いているうちにどうなるとか、
そういうのを何で偶然聞いたのかと、
そういった話は、
全部そういうものに含むと思うんですね。
必ず僕らは行き詰まると、
何らかの形で、
昔うまくいっていた時点まで戻るんですよね。
それがどこまで戻るのか、
ということですよね。
中学生の頃までは、
うまくいっていたから、
そこに戻りたいみたいな、
非常に昔ですよね。
その分、本当の自分からは、
離れたところまで来ちゃっている部分がある、
ということなんだろうと思うんですよ。
25:24

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