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2024-08-05 36:09

カフェにこもって仕事をしたくなる?【1032】

他人がいてもいなくても「一人になれる」必要がある。、

サマリー

精神分析チャット第1032回では、タスクシュート手帳術セミナーや9月1日の仕事術の総集編の話題が取り上げられています。ウィニコットの話を通じて、赤ちゃんが一人でいる能力やエディプスコンプレックスについて考えられています。プレットカーよると、不在の母親のもとで遊ぶことは、組み合わせによって難しいものでありながら外からもたらされるものだと言われています。一方、ベルナドームに行くことでお母さんを作り出すことができるため、ベルナドームが自分の移行空間となり、そこで一人でいる能力を発揮していることがわかります。一人で遊べるところが重要であり、その能力を身につけることが大切です。その能力が失われる瞬間に現実に直面しなければならない状況を虚無感と言います。藤山直樹さんは破綻の部分について本に記載しています。移行できない関係や竹宮慶子さんが書いた『風と木の歌』を触れながら、不在の母親のもとで一人でいることの重要性について語っています。

タスクシュート手帳術セミナーと仕事術の総集編
おはようございます。働く人に送る精神分析チャット、第1032回をお送りします。
8月5日、月曜日、朝の朝とは言えないが、10時57分です。
はい、えーとですね。
昨日、めでたくタスクシュート手帳術セミナーというものを開催してまいりまして、
そこで伺った話がすごく、僕はね、僕はこれこそがまさに精神分析的っていうもんだと思ったんですが、
あまりこう、その話を大っぴらにするわけにもいきませんので、
そんな話が出ることもありますよ、ぐらいの感じで、ここは止めておきます。
えーとですね。
あのー、なんだ。
えー、なんだっけな。
もうちょっと今思い出せなくなったから、いいかなと思い始めた。
あ、そうそうそうそう。9月1日に、私の仕事術の総集編みたいなのをやろうと思ってます。
3000円から高くても、まあ4000円ぐらいで、しかも割とがっつり2時間、びっちり2時間半ぐらいになるってもいいかなみたいに思っておりまして、
自分が今までのやってきた、えーと、大体こう全てのことを、あのですね、年末に、今年の年末にタスク集と総決算みたいなものをかなり久しぶりに開催する予定があって、
まあこれもほぼ確定なんですけど、なんか特別な事態でも起きない限り確定なんですが、
その前段ではないですけど、私自身の、えーと、あの、えー、理事のお二方ね。
大橋哲夫さんとJ松崎さんと僕が別に全く同じ考えで、そんな人は一人も世の中にいませんけど、
全く同じ考えで、全く同じ方法で生きてるわけではありませんから、えーと、一番、こう、佐々木賞後成分って言うんですかね。
そんな変なものは嫌ですけど、自分でも。
あのー、その成分、最大にしたものを、この9月1日にちょっと喋っておこうって感じがあります。
でもなるべくこれは多くの人に聞いていただけるとありがたいので、えー、普通はこの総決算の値段が2、3000円っておかしいかもしれないんですけど、
高くするのやめようと思いまして、さすがに無料でやるのはちょっとナンセンスだろうと思いまして、
えーと、この辺の金額で、こういう日寄った金額って言うんですかね。
ただ、僕ずーっと今まで、人生でリアルだろうと、オンラインだろうと、結局セミナーの相場多分もう3000円なんですよね。
だからもう3000円にしとこうみたいな感じで、えーと、やります。
昨日の手帳術の会だって、参加費3000円とかなら全然いい会だと思うんですけれども、
今、物価高くなってますからね。なんか昨日なんてもうそうでしたけれども、
でも、わりと食べたんですよ。でも、わりと渋谷で食べるとやっぱり1人、10人くらいでも3000円くらいになるんで、
10人で3000円って居酒屋じゃないですからね。結構じゃないですか。
あのー、3万円払ってるわけですからね。お店には。
だから、3万円しか払ってないと言えなくはないですけれどもね。
あのー、でも1時間ちょいで3万円払ってるわけだから、お店にとってあれは悪くないんじゃないかな。
やっぱり年月経ってるからなんとも言えないな。
私なんかあの居酒屋に勤めてましたから、その1時間で満を落とすお客さんって実は結構大事だったりするんですね。
まあその、なんでしょうかな。人数にももちろんよるんですけれども。
でもまあ、その超大人数でもない限り満を落としてくださる1時間でね。
えーと、普通は大概2時間はいらっしゃいますから。
そういうようなことを思い出しながら、昨日やっておったわけです。
ああいう回をもうちょっと違う形にするにせよ、続けていきたいなと思いながら。
そうそう、9月1日の話ですね。
9月1日は私の単独でオンラインでやらせていただこうと思っているので、よろしければ開けておいてくださいみたいな。
でももうノートで今回告知して、このノート告知っていうのが多分人々に戸惑いを与えるのではないだろうかと思っているんですけど。
最近はもう極力このノート告知に集めていきたいなというか、まとめていきたいなというふうに思っております。
それなりのわけがありますけど、別にごく普通のわけなんで、ここではいちいち説明せずに問題に入ろうと思います。
ウィニコットの話と赤ちゃんの一人でいる能力
えーとですね、久しぶりにウィニコットの話がしたくなりまして、こういうのも定期的にぐるぐる回るんですよね。
そのうち他の人たちの話をしたい感じが、特にオグデンさんとかの話をしたいんですけど、難しいんですよね、僕には。
よくわからない、ビオンも十分難しいですけどね。
フラインさんは何かわかる気がするんですよ。
こういう感じの、心入れ替えなさいみたいな、そうは言わないんだけど、どこかそういう感じがする発想って、何かよく覚えがあるなって感じがして、そこに引っかかりもあるし、だからわからなくはない気がするんですね。
でもなんかオグデンさんあたりになってくるとよくわからない度が増してきて、ビオンも症例を読むとさっぱりわかんなかったんですね、最初。
最近ようやくわかってきたんだけど、なんか皮膚むしるとかいうのがそれはペニスでみたいな、いかにも精神分析な話が出てくるんだけど、それの言ってることもようやくこう、少なくとも違和感はなくなってきたんだけど、
臨床例は難しいとしてもですね、ウィニコットっていう人は臨床じゃない場面の説明になってる説明が多いなと思うんですよ。
特にやっぱり不眠、眠れませんとか、一人でいられません、この一人でいられないっていうのは本当に各種たまざまな意味がありまして、引きこもってる人って一人でいたいわけじゃないですか。
でも引きこもってる人こそ、ウィニコットにはすると一人でいられないんですよ。一人でいても一人でいられない。この辺がだから情緒ってことにもなるでしょうし、心の問題なわけですよね、心の問題。
物理的に一人でいるかどうかは大した問題ではないというか、そこはあまり精神分析って問題にしてはいないんですよね。
これがすごく病理というものに精神的な症状というものに絡んでくるわけですよね。
例えば会社で一人になれるかって話が僕はずっとあると思うんですね。ノマドってものが流行りだした頃があったんですけど、ノマドブームみたいな。
ノマドって明らかにあれは会社で一人になれないことを問題にしてるんですよ。だってあのほら、行きつけの喫茶店でにこもる、こもるっていう表現は引きこもるの表現の引きを取ったやつですよね。
彼はその人は会社にいるわけだから引きこもっちゃいないのかもしれないけど、結局こもりたいわけですよね。こもらないと仕事にならないと思ってるからこもりたいわけですよね。
それは他の人がいたところにいると自分は一人になれないっていう話じゃないですか。
いや、他の人がいるんだから一人になれないのは当たり前だということかもしれないけど、僕はそうじゃないと思うんですよね。
やっぱり学校で一番くつろげない生徒さんは、一人になることが全然学校ではできない人ですよ。
いや、学校で一人になるなんてありえないでしょうっていう人は、学校つらいと僕は思うんですよね。
やっぱり子供の中には、学校に行ったらもう学校と一体化してしまって、他の人と自分との自他の区別がはっきりしなくなるなんていう子はですね、低学年に行くほどいっぱいいるはずなんですよ。
私だって、私はちょっとそうでもないな。幼稚園の頃からすでに一人になる方法を探っていた。つまり一人になれないってことなんですよ、これは。
なぜなら、紙とかいきなり引っ張り出すやつがいるからさ、一人になれないわけですよ。
一人になるということは、でも何か、例えば工作とかにすごい夢中になっているときは、僕も一人になれるわけですよ。
そうやって一人きりになって油断をすると、紙を引っ張ってくるやつが出てくるわけですよ。
つまりこれは、一人になるなよっていうメッセージでもあるわけですね。
後から考えてみればですよ、当時は、子供ってのは本当に動物と変わらないなっていうことを、子供ながらに非常に腹を立てていたんですね、私はね。
でも動物って紙引っ張ってきたりしませんからね。
サル山を見ているとね、だから私サル山を見るのはすごい好きなんですが、サル山を見ていると、すごい動物というのは幼稚園と変わらないと思うときがあるんですけれども、
あれはサルのレベルだからなんですよね。サルはやっぱり自他の分別っていうのが少し芽生えてるんでしょうね。
ちょっかいを出すっていう行為を頻繁にやりますもんね。
ちょっかいを出すっていうのは、一人の世界にこもっている人にメッセージを送ってるわけですよね。
だからノマドにメッセージを送ってるんですよ。一人でこもんないでねっていうことですよね。
でも一人にこもんないと仕事にならないということはあるわけで、そういう場合にはだから喫茶店に退避するということをするわけです。
その喫茶店の中でも私は特等席って絶対あると思うんですよ。
少なくとも二方が壁であるっていう状態が望ましいっていう人はいっぱいいると思うんですよね。
明らかに四方八方から自分だけが浮き上がってるみたいなところに座りたい人って少ないと思うんですよ。
そういう人はある意味自我が強いとも言えるんですけれども、注目を浴びたいっていうのはまたちょっと別なんですけどね。
いずれにしても大事なポイントはまず二人でいて一人になれるかってことですよね。
特にあなたの母親はそれをあなた子供だったときにやってくれましたかっていうのが最初の問いになるわけですよね。
赤ちゃんが一人になろうとしているときに絶えずこう侵食していくっていうのは非常にこう神経質な少なくともお子さんになっていく可能性がありますよね。
もちろんその遺伝的にめっちゃずぶといっていう子も世の中にいるので、すべてを一概には言えないんですよね。
お姉ちゃんと妹さんでほとんど同じように育てられたはずなのに、なんか妹だけはやたらおっとりしてるっていうことは当然起こるんですよ。
そこがすごくこう無意識の情緒っていうのの微妙さを含んでるんだろうという気はします。
いずれにしても、一人になれる瞬間はいっぱいあるわけじゃないですか。
というか赤ちゃんというのはほぼずっと一人なんですよ。
ウィニコット流に言うと赤ちゃんというのは一人きりなんですよ。
エディプスコンプレックスの始まり
一人きりの赤ん坊などというものはいないっていうのは物理的に見ると二人で一人だからなんですね。
物理的に見るとお母さんが抱っこしているのが赤ちゃん。
一人きりで赤ちゃんがいるとやばいんで、このような夏は特にやばいんで。
一人きりの赤ちゃんはいないっていうのはウィニコットの言った物理的な場面なんですね。
で赤ちゃんの主観の中では一人きりなんですよ。
なぜならお母さんも自分だから。
お母さんが自分じゃないかもしれないって思うのがトラウマですよね。
そこが絶対どんな子にとっても決定的になるのが
お父さんとお母さんのセックスによって自分が生まれたという認識をする。
だってお母さんが自分だってことであるならばですね、そんな生まれ方をするわけがないですもんね。
お母さんが絶対自分じゃないということを確信しなければいけないのが
エディフスコンプレックスの始まりじゃないですか。
それがいつ来るのかっていうのがいちいち論争になってたわけですけど精神分析では。
2歳なのか1歳なのかその辺がメラニクラインで言った方ですよね。
不在の母親と自分の一体化
最早期の赤ちゃんだってそういう瞬間は来るんだぐらいな勢い。
プロイト流に言うと早くて3歳。
多分5歳とか6歳とかそういう虚勢不安が芽生える時期ということになりますね。
ババレー子さんの書き方によるとあんまりお母さんとイチャイチャしてる息子に向かってお父さんが
俺の女に手を出すなと言ったという。
まあなんか面白い早期教育だって書いてたけれども
なんか感じの悪い親父だっていう感じが私だったらしますけど。
いずれにしてもそういうお母さんイコール私ではないっていう瞬間が必要なわけです。
そうでなかったら謹慎相関で発想そのものがいりませんから。
自分なんですからお母さんがね。
でこのお母さんが自分というのは当たり前ですがアレゴリーの問題で
例えば私なんかの場合しょっちゅう言ってますけれども
西武球場今ベルナドームですね。
行くと西武球場はと一体になっちゃうんですよ。
僕はね本当にこれは簡単になれるんですよ。
何の苦労もいらないんですよ。
入った瞬間に一体になれるんですよ。
すっごい心地いいですね。
なんか東京ドームでももちろんいいです。
とにかく野球場というところに入ると一体になるんですよ。
でこれがお母さんですね。
ベルナドームお母さんだし東京ドームもお母さんですよ。
ここに行くともちろん3万人とかいるわけだけど私は一人になってしまうわけ。
特に野球が白熱してくるともうめちゃくちゃ一人になって
他の人がいるということはほぼ忘れますね。
状況的には。
紙ぐらいちょっと引っ張られても気づかないかもしれません。
っていうレベルまで入っていくことはあるんですよ。
まあ白熱した場合ですよ。
こないだタネイチっていうピッチャーが
昨日1対0でずっとやってたんですけど
ああいうシーンでピンチを迎えるともう入り込んでしまって
なんか周りが目に入らなくなっていくんですよ。
これが一体化ですよね。
こういう時にお母さんと僕の関係とかはないわけですよ。
関係はないですよ。
一体なんで。
だけど野球場は当たり前ですけど私ではない。
それに気づいた瞬間にちょっと寂しくなる。
これがトラウマですよね。
心臭というかな。
例えばファールボールが近づいてきて
ぶつかるとめちゃくちゃ痛いので
一歩間違うと怪我するんで
だからファールボールがこっちの方に来ると
自分と球場は一体でないことに
いきなり気づかなきゃいけないわけです。
結構その時は怖いわけですよ。
危機が訪れてるってことですね。
お母さんと一体だと信じている子供にとって
お母さんが、例えばですけど
他の男の人のところに行っちゃったとか
本当に非常に大きな悲劇だし
よくあるパチンコ屋に行っちゃったっていうのも悲劇だし
でもお母さんに言わせれば
パチンコ屋ぐらい行くだろうってことになるわけですよ。
居酒屋ぐらい行くだろうとかね。
僕と一体でいてよって言っても
いつまでもそう一体ではいられないし
そもそも最初から一体じゃないわけですよ。
ということを直面させちゃいけないってことなんですね。
子供にはね。
そういう情緒的にそういうふうに
人と一体になってしまいやすい人は
ベルナドームにおける一体感
当然のことながら
侵襲されやすいとも言えるわけですね。
会社に行って会社と私一体とか
例えば理想の会社とかに入ると
そういうふうな感覚になると思うんですね。
ついに私が目指していた人生が実現したと。
知りませんけれども
この外資系のこういう会社に行って
自分の人生が完結するんだってなってみて
会社に一歩踏み入れた瞬間に
この人はこう
私がベルナドームに入ったみたいにですね
心地よくて
私の人生完璧ってなるんだけども
そこに親父が出てきて
全然その会社にいてほしくない感じの
親父が出てきて
しかも発言がセクハラっぽいとかになると
ショックを受けるわけですよ。
私と一体だったこの会社
でもこういう奴もいるのかもしれないけど
こういう奴は
特殊な例外だろうってことに最初はしません。
退出ですよね。
退出とスプリットオフするんだけど
意外とそういう人が何もいなくなるわけですよ。
そうすると会社との一体感が崩壊して
いわゆる対象喪失が起きるわけですよね。
あるいは浸出になってしまう。
で、一旦そういうことが起きてしまうと
今度はその会社に行くたびに
自分がこう何かこう
下げ積まれているような
人生で損をしているような
いろんなこうネガティブなものが
一言でこれをみんなはストレスと呼んでるんだけど
そういうものが入ってくるわけですね。
浸出される。
一人になれなくなってしまうわけです。
絶えず異物がいるわけですよ。
その会社は本当は外資系で
なんかこう知りませんけど
年収10倍になることが夢見られていて
一体化になって
入った瞬間に自分一人で
みんながいるんだけど一人みたいな
一番いい状態ですよね。
子供がそうだな
すっごいおもちゃが大好きな子の年齢になった子供が
問いざらすに入ったみたいな気持ち
そのおもちゃと自分が
自分が一緒じゃないのはもうわかってるけど
情緒的には区別がつかなくなるんですよね。
一体になっていくわけです。
でもそこに実は異物だらけだったってことになると
今度は自分はそこに誰もいないわけです。
不在の母親のもとで遊ぶ能力
他人ばっかりなわけじゃないですか。
そして常に僕が幼稚園でそうだったように
常にその他者を警戒していなきゃならない。
髪引っ張られるかもしれないし
セックハラされるかもしれないし
ということで常に警戒しなきゃならない。
一体感が完璧に失われてしまうわけですね。
これが親種というインピンジメントというやつですね。
トラウマの元になる。
これが累積されるから累積トラウマみたいな
言い方になるんでしょうね。
これとは別に
今度はお母さんがいて
そのお母さんに親種されない
つまりお母さんと一緒っていう番組ありますが
お母さんと一緒だから
自分は一人自分の作業に集中でき没頭でき
自分一人になって
お母さんがいるんだけど
いないのと同じような心理状態になる。
これが一つの理想であるならば
大人はいつもお母さんと一緒ではないわけなので
家に帰ってくると一人になります。
家族いるかもしれないけど
一人暮らししてる人なら一人になります。
この時今度は逆に
お母さんを作り出さなければならないんですよ。
心の中で。
だから私はベルナドームに行くと
お母さんを作り出せるわけですね。
ベルナドームにお母さんを投影する格好にして
お母さんと一緒なんですよ。
お母さんはそこにはいないんだけれども
お母さんと一緒になれる。
これが不在の母親の下で一人になる能力
っていう言い方をするんですね。
不在の母親というものが
あたかもいるような感じになるわけですよね。
ウィニコット流の表現ですよね。
不在の母親の下で一人になれる能力っていう
一人で遊べる能力っていう言い方を
していたかもしれないですね。
お砂場で一人で遊んでる子っているじゃないですか。
ああいう感じですね。
お母さんが見守っているかのような気持ちというものを
そこに実現させて
だからある種の空間を実現させるんですよね。
最近昔見た鬼滅の刃のアニメに
そんなような空間を顕現させるみたいな
それはすごい大げさですけれども
そういうふうに書斎をしている人とかって
いっぱいいると思うんですよ。
だからそれは書斎お母さんなんですね。
オグデンのあれは病理の話でしたけど
ガレージに引きこもることによって
ガレージをお母さん扱いするっていう
エンジニアがいましたね。
そういうことですね。
この時不在の母親というものを
完全に何にもないところで作り出すのは
非常に人間にとっても難しいので
いくら空想、想像力が働いていたとしても
だからものというか
きっかけになる何かが欲しいと
そのきっかけになるものを
移行対象と呼ぶわけですね。
そして不在の母親のもとで遊べるようになった空間を
移行空間と
ウィニコッタはいちいち定義付けているわけですよ。
その空間というのがその移行対象というのは
当たり前ですけど
自分の外から来たものですよね。
ベルナドームは私の外から来て
しかし私がベルナドームで
ここ完全にくつろげるのは
例えばうちの子が一緒に行っても
絶対そういうふうにはなれないのに
私はなれるということは
私がベルナドームに対して
何かをしてるからなんですよね。
近くしている風景に
何かを見ているからなんですよ。
つまりこの私がくつろいでいる
この私の空間は
まさに文字通り私の空間
つまりこの空間
ベルナドームという空間を作ったのは
当然政府救助を作った
建設会社とかなんだけど
でもあの空間でくつろいでいるときの私が
私がくつろげる空間を作っているのは私なんですよ。
そういう逆説について
ミニコットという人はいっぱい書いていて
最近読んだミニコットの対話という
プレットカーという人が
精神分析の人なんですけども
書いている本を読んでも
その辺のやりとりがすごく
お茶会みたいな
お茶会って既にそれをよくよく示してますよね。
お茶会というのは凝るじゃないですか。
イギリスだから特に凝りますよね。
お茶の時間みたいな。
あれですよね。
インド植民地化した話と関係があって
あの優雅さって
あれな感じがしますけど
まあそれはいいとして
優雅なお茶の時間。
お茶という
例えばそれこそ茶葉とかは
別にユニコットが作ってない。
お茶の入れ物も
テーブルも一切ユニコットは作ってないけど
お茶会というものは彼らが作るわけじゃないですか。
この自分が想像したものでありながら
外からもたらせるものでもあるっていう
この状態の組み合わせにならないと
不在の母親のもとで遊ぶってことは
なかなか難しいんですよ。
この不在の母親のもとで遊ぶときは
一人きりでも遊べるってところが大事なんですね。
なんか中国の漢詩にもそういうのありますよね。
一人でお酒を飲んで遊ぶみたいな。
一人でお酒を飲んで遊ぶみたいな。
なんならですね。
もう少し非禁な例を出すならば
昭和のお父さんが家に帰ってきて
ポチッとテレビをつけて
巨人戦のナイターを見る。
あれですね。
あの瞬間にもう
お父さんは一人きりなのかもしれないけど
奥さんなりお母さんと一緒なんですよ。
お母さんと一緒なんですよ。
ポチッとつけた瞬間に
その空間はガラッと変わるんですよ。
意味が。
間違いなくそういう人はいっぱいいると思います。
なんなら枝豆とビールがあるとなおい
枝豆もビールもナイター集計もテレビも
全部移行対象だと思うんですね。
それらのものを自分で作り出してるわけじゃないんだけど
枝豆とビールとナイターを配置して
自分が見ていると
その空間は自分にとってはまさに
お母さんと一緒になるわけです。
一人ぼっちじゃないんですよ。
そして遊べるようになる。
それが消えた瞬間に
いきなり現実に直面しなきゃならないんですよ。
お母さんがいないということを思い出す
昔、私あんまり好きな本じゃなかったですけど
完全自殺マニュアルって本がありまして
テレビを消した瞬間の
あの虚無感みたいな表現があったんですけど
ああいうことです。まさにね。
テレビを消した瞬間に虚無だってのは
それは現実にただ直面してるだけなんですよ。
お母さんがいないということを思い出したりすぎない。
多分、ミニコット的に言えばね。
精神分析的に言えば。
虚無があるわけじゃないんですよ。
何もないだけなんです。
お母さんがいないことに気づいた子供は
慌てふためくじゃないですか。
夜遅く、夕方日が暮れてね
さっきまではこう
砂場で懸命に遊んでたんだけど
ふと暗くなって
お母さんもいない。
なった瞬間に青ざめるみたいな子供
あれが虚無感だって言うわけでしょ。
それはやってることが虚しいって意味に
とっちゃ僕はダメだと思うんですよね。
マスターベーションの後の賢者モードもそうなんだけど
あれは僕は虚無じゃないと思うんですよ。
ただお母さんがいないことに思い出したっていうのにすぎない。
だからナイターを終わって消して
昭和のお父さんが別に虚無に陥るわけでは全然ないと思うんですね。
それはただお母さんはこの場にいると思い込むように
失礼てみたけれども
実はいないということに気付いたに過ぎなくて
だって最初からいないんであって
マスターベーションってそうなんですよね。
あれは非常にお母さんを思い出す行為だから
完全にあれは意向対象と意向空間
だってあれ遊びじゃないですか。完全に。
一人なんだけど一人じゃないわけじゃないですか。
そこに私の場合であれば女性がいると思い込むわけですよ。
でもいないのは分かってるに決まってるわけじゃないですか。
守ってくれる存在の重要性
なんならお母さんと一体になるんだけど
もちろん一体にはなってないですよね。
終わった後で虚しくなるというのは
いないことに気付くってだけなんですよ。
本当に自分が赤ん坊だったら
いないことに気付いたら大変恐ろしいですけれども
自分は赤ん坊じゃないんで
ただその時情緒的に対抗してぐーっと
2,3歳まで戻ってるから
一瞬恐ろしくなるかもしれないけど
よくよく考えてみれば
そこにお母さんがいないっていうのは別に
悲劇でもなければなんでもないんですよ。
単にナッシングなんですよ。
それがノーシングだと思っている
何か恐ろしい事態が
虚無的な事態が発生していて
これは悲惨なんだっていう風になってくると
侵襲されてしまう。
これは何に侵襲されるかというと
いない母親という存在なんですよ。
ここが要注意だと僕は思うんですね。
これを言ってくれたから
精神分析ってのは僕は斬新だったって思うんですよ。
一人で寂しいですじゃないんですよ。
一人で寂しければ
松尾和尚の俳句みたいに
寂しさを俳句で書くみたいな手も
平安貴族とかがやってたみたいに
あれちょっと精神分析の方に寄ってる気もするけど
それでいいんですよ。
そうじゃない。
寂しいんじゃなくて悪いお母さんなんですよ。
不在の母親という存在がいて
それがちょうど会社でですね
パワハラの上司とかセクハラの上司
それは何がいけないのか
私があんなに希望に燃えて入った会社に
母親はいなかったってことが悲劇なんですよ。
何かがいるってことが悲劇ではない
っていう話をしてるんですね。
精神分析的にはですよ。
社会運動だったら
あるいは社会を是正するって話ならまた別です。
精神分析的には母親がいないということが
いないという認識になってないってことなんですね。
そうではなくて悪者がいるという認識になる。
そして悪者が私を責めてくるという。
そして責めて悪者に責められても
お母さんが守ってくれないという。
だから何ていうのかな。
精神分析の考え方。
心理カウンセリングもそうなんだけど
そこですっごく大事にしてるのは
攻撃されるストレスっていうものより
守ってくれない悲しさの方がでかいって言ってるんです。
お母さんとかお父さんは
そこで身を盾にして敬意して守ってくれるんですよ。
そういう存在が私の一部であるはずなんですよ。
環境都市の母親が。
守ってくれるじゃないですか。
今クーラーなかったら厳しいじゃないですか。
他にもいろんなものがありますよね。
家とか。
この守ってくれるっていうのは
特に何が大事かっていうと
物理的に守ることではないんです。
守ってくれるものがあるということと
自分は守られるに値するんだっていう
情緒的な信頼のことをこれは言っているわけです。
だからそこに本当にお母さんがいて
守ってくれるはずはないんですよ。
そうではなくて希望に燃えて一体となっている
自分が一体感を感じられるような会社であれば
心丈夫だってことですね。
そこに長所おかしなことが起きても
自分はここにいて守ってくれる存在もあるし
価値ある人たちと一緒にいるし
自分も価値ある人間だと思えていれば
そこで一人になった気持ちでやっていくってことは
できるっていう状態。
ところが守ってくれる人は
誰もいないことに気づいてしまうと
バッシングが辛いというよりは
自分がそこにいて
当然あるべき姿をここで保っているってことが
信じられなくなっていくことが辛いんですよ。
だからシーシューは人といても
一人きりでも同じなんですね。
テレビを消した瞬間に虚無だっていうならば
虚無が自分を攻撃してるであって
何にもないっていう認識に至ることができていないんです。
虚無は攻撃しませんよね。虚無なんだから。
何もないものは私を傷つけることはできないのに
消した瞬間にその事態に直面して傷つくっていうのであれば
その人は何もないというものが
物理的な何かであるというふうに誤解しているから
精神病的な状態にあると。そういう話なんですね。
だって嫌味っていうものは
嫌味を言われたから心が深く傷ついたみたいなこと言うんだけど
嫌味を言われても心が全く傷つかない人って
いっぱいいるわけですよ。
これは死座の転換みたいな
つまりビューポイントを変えるって話になるんですけれども
これは結局傷つける人がいるというのではなくて
守ってくれる人がいないということが
自分にとってとても辛いという。
ここで野晒しになって攻撃を受けるっていう
この見方がすでにですね
すごく迫害的なものがあるじゃないですか
つまり何にもないということが認識されず
迫害するものがあるっていう認識になってしまうというのが
すごく見事に強調したところだし
ビューポイントだなと思うんですよね
これを得ることによって私たちは
会社に行っても人がいっぱいいても寂しいし
家に帰って一人きりになってもやっぱり寂しいと
でも人によってはその同じ会社に行って
いろんな人と一緒にいるから
自分の仕事に没頭できて充実しているし
家に帰れば家に帰ったで
自分にとって必要な母親と一緒にいる
空間というものをそこに出現させることができる
例えば一つでいうと電気をつけるっていうのがそうですよね
電気つけるだけでも気分が明るくなる人もいれば
電気をつけた途端に気分が落ち込むっていう人もいるじゃないですか
それは何もないというものに
何を見るかってことなんですよね
自分が作り出した空間なんですよ
電気つけるっていうのは一つとってもそうです
空間そのものを自分が作るわけでなくたって
その空間を自分用に作るっていうのは自分がやることですね
自分がやることなんだけれども
外からもならされるものでもある
そしてそこで遊ぶことができる
一人きりになれるっていうこと
肯定的な意味で一人きりになれるという状態を
どこに行っても作り出せる人もいれば
どこに行っても作り出せないというケースもあると
どこに行っても作り出せないという人にとっては
本当に困るんで一人きりになりたくて
なりたくてしょうがないんで
ノマドとかが開発されるんだけど
その究極形態が心理カウンセリングなんですよ
それを実現してくれる場所
まず他の人がいるカウンセラーさん
そしてそのカウンセラーさんはおおむね母親役をやってくれる
そしてその人と一緒にいて
一人きりになるということが促される
常にやることは
その人にとっての環境としての母親
これはウィニコット流に臨床が進んだ場合の話ですけど
基本的には介入してはこない
だから解釈するんですね
あなたはそうなのねっていうのを繰り返し繰り返し提供することによって
だんだんその空間にいるということが
まるで自分が作り出したものであるかのように
錯覚できるようになっていく
ずっとその空間そのものが用意されたのが
心理カウンセラーによって用意されたんだから
自分で作ったはずはないんだけど
まるであだかも自分のための空間であるような感じを抱く
そこがすごく大事って話ですね
破綻についての考察
これはいずれにしてもいつかは破綻します
実態はそれだけではないからですね
藤山直樹さんがその破綻の部分についてよく本に書いているんだけど
例えば藤山さんが外の週刊誌に載っているのを見ちゃったって人が
精神病状態になる
結構破綻の度合いがすごくて
素人が読んだだけでは何が起きているのかよく分からないぐらい悲惨なことになる
それは藤山直樹というカウンセラーは
私のためだけに存在する
私のために用意された母親じゃないということを認識するのが
その人にとっては大変つらいことだっていう話
これは1,2歳児の子供にとってのお母さんはまさにそういうものであって
やっぱりそういう時に
不在の母親との関係
何らかの意味でその関係がうまく働いていなくて
移行でききらないってことなんでしょうね
いつかは移行しなきゃならないじゃないですか
その関係がうまく働いていなくて
いつかは移行しなきゃならないじゃないですか
私よくこれで思い出すのが竹宮慶子さんの書いた
風と木の歌の主人公のジルベールって男の子なんですけど
彼はいろんな意味で破綻してるんだけど
やっぱりこうなんていうのかな
レースの絹みたいなのを手放せないわけですよ
彼はだから移行しきれないわけですよね
非常に問題のある育てられ方をしてるんですけれども
チャーリーブラウンの毛布も有名です
これを多分移行対象の
世界の象徴として提示されたんですけれども
あれはまさに移行対象ですよね
毛布がお母さんがあり
この感じは普通の人にもみんな伝わると思うんです
何をやってるかというと不在の母親の下でも
一人で遊べるという状態
そしてああいう毛布って実は逆にですね
見知らぬ人がいっぱいいるときにこそ役に立つんですよ
がっちり握りしめるとよく言うじゃないですか
人が知らない人のところに行くと
子供はお母さんの影に隠れると
あれがまさにそういうことなんですよ
多くの場合不在の母親の下で一人になれるのも大事ですけれども
やっぱりたくさん人がいる中で一人になれるかどうか
っていうのが大きい
物理的には一人ではないから
警戒心が働いてしまうと決して一人になることはできない
明らかにつながって
寂しいって話だけではない
寂しくは全くないところでも一人になれなければいけないし
それが慣れないと一人になったときに
全く一人になれなくなってとてもつらいと
お母さんと一緒という状態が
一人になれるということなんですよ
だから一人きりの赤ん坊なんてものはいないんですよね
二人で一人なんだ
これがつい最近
トーアタカイトさんが書いてましたけれども
添い寝しないと寝られないというサミルベケットという
非常に問題のある五道を増しながらという
ものすごく虚無的な劇を書いた人なんですけど
添い寝しないと眠れもしない
劇作家ですからね一橋の世界的に有名な
つまりお母さんと一緒にいないと眠れないんですよ
我々もそうなんですよ
ただし我々はお母さんと一緒じゃ私は少なくとも
お母さんと一緒じゃなくて寝てるんでどうやるかっていうと
お母さんを一人きりになったときは作り出すわけ
作り出すというのは
物理的に作るとかじゃないですよなんかお人形を持ってくるとか
そういうことではなくてそういう人もいるかもしれないけれども
抱き枕っていうのはある程度そうですよでも何にも
なくてもできるわけですよお母さんが隣に
いるっていう想像するって言ってなくてそういう
感覚をそこに出現させるっていうことですね
これが
寂しくないってことなんですね
寂しいか寂しくないかは友達がいるいないかとは
あまり関係がないってことでもありますね
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