2021-03-29 30:30

【GMV 347】攻撃と反省を完全に手放せば現実は平和そのものだった

エピソードをシェアする

Share on X Share on Facebook Share on Threads
怒りとは恐怖のための威嚇
00:04
おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
春休みが始まったので、時間のリズムがまた変わっておりまして、
時間のリズムは多分イリュージョンですが、変わっておりまして、
金曜すっぽかしたんですけれども、一応平日日間に近い形で、
ちょっとですね、一部変えるかもしれないんですけど、
基本的にやめはしないし、最低3、4回はいこうと思っておりますので、
またよろしくお願いします。
今週の土曜日に、グッドバイブス勉強会のシーズン2の第3回があります。
CMですね、これは。
で、倉園圭三さんと主催、私が一緒にやるオンラインのセミナーで、
内容はグッドバイブス。
一つ意識だったかな。
一つ意識が出てこないことは、どの回をとってもありませんけれども、
一つ一つ第1回からですね、一応積み上げていく方式の今回はシリーズになっていて、
でも1回、2回、3回いただいてなくても、3回目だけでも独立しても聞けますし、
そこのところのビデオもあります。
で、今日はその辺の実にシンプルな話をしたいと思うんですが、
昨日あったことなんですけどね、ガラス容器を叩き割っちゃったというか、
過失なんですが、久しぶりに猛烈にやらかした感がある行動だったんですよ。
粉々になっちゃいました。ガラスがね。
で、当然奥さんに怒られるという話なわけですけど、
その時、そうきたかはここでは結構きついなという感じがあったんですが、
いろいろとこう、やっぱりことがでかいと得るものも大きいなと思ったんですけど、
3つありまして、3つかな、分かんない。2つは少なくともあって、
1つは反省しないことはとっても大事と。
これ誤解を招く言い方なんですけど、
これがやっぱりこう言わないとどうしても伝わりにくいと思うんで、
グッドバイブスではそうは言ってないかもですが、
反省させると犯罪者になりますという本も僕は頭の中で演用中なんですけどね、
この件に関しては。とにかく反省しない。
とにかく反省しない。
特に自分の恋であった部分が全くない恋については原則反省はしない。
反省しないからこそ2つ目がですね、
反省しないからこそ怒ることっていうのは全く意味がない。
だから怒られても大丈夫って話が僕の中では成立したんですけど、昨日。
03:05
だから怒るということって無意味だなと。
特に相手に反省を強いる必要があるとしか思えないようなことほど、
怒ることの意味のなさはないって話ですね。
3つ目がですね、やっぱり怒っている人は恐れている。
本人もその恐れの原因がよく分かっていないか分かっていたとしてもずれている。
ということが3つ目ですね。3つありましたね。
この3つを昨日強烈に思ったので、これでですね、
今後もやっちゃうんでしょうけれども、人を攻撃するってことで、
少なくとも攻撃に関する有効性のなさということについては、
もう迷う心配はないなと。
例えば自分が攻撃されていたとしても、
というか自分が攻撃されているときにしか攻撃心ってはっきりされませんけれども、
そして自分が攻撃されていると思っていることの多分、
割合を言うのはやめて、大多数のケースではそれがイリュージョンで誤解だろうなと思います。
昨日のあったことはガラス瓶を、薄いガラス瓶を叩き割って粉々にして大変だったという話でしかないんですけど、
まず、なぜ奥さんは怒るのか。それは当然でしょうって思うかもしれませんが、
100%の過失でも怒られることは怒られる。なぜなのかと。
なぜかというと怖いからなんですね。
誰が怖いのか。奥さんか。私も多少あります。
粉々になったガラスがそこら中に飛び散っているから怖いですよね。
これがまず一点。これだけが現実なんだと僕は思うんですね。
これだけは絶対に対応しなきゃいけない。
ところがそれ以外のことが少なくとも2つはありますね。
片付けるのにかかる手間がどれだけあると思っているんだというこれ。
この片付ける手間がとてもかかる恐怖感っていうのがでかくてですね。
大きなイリュージョンなんだけどでかいんですよこれが。
非常に大きい。なんかもう永遠に終わらない作業なんじゃないかという恐怖感に襲われるんです。
これを私は取り除いてあげないといけない。自分の責任だから。
これが2点目ですね。
3点目はどれだけ時間がかかると思っているんだというイリュージョン。
時間はイリュージョンなんだけど、こう考えるべきかなと思いました。
時間のイリュージョンってなかなか取れないんですが、
まず未来はイリュージョン。これはもう絶対だと思うんですよ。
人が頭の中で勝手に空想している未来なので、
今年も内閣府がオリンピックに合わせて歳日を変えちゃいましたけど、
06:01
できるというイリュージョンを国ごと抱いていますね。
歳日はもう現実として変わりますけどね。
できるかどうかはまだ全然分からないと多くの人が思っているんじゃないかと思うんですよ。
何としてでもやるという意志も感じられますけど、
それができるということにイコールにはならない。
少なくとも100%じゃないですからね。
未来というものはイリュージョン。
過去は起きたことが何か実際にあったので、
過去そのものはイリュージョンかどうかは悩ましく感じると思うんですけど、
記憶がありますからね。
でも記憶があるということと現実があるということは当然イコールではないので、
というか記憶があると言っている段階ですでにその現実はないはずですから。
これがあるというふうに捉えるならばイリュージョンですね。
そうすると過去も未来もイリュージョンなのに、
時間の長さだけは現実であると主張するのは不可能なので、
どう考えても論理的ではありませんから、
当然時間の長さはイリュージョンだと。
過去か未来が実在しないのならばイリュージョンだということになるしかないと思うんですよ。
そうするとここに何分かかるかとかはイリュージョンなんですよ。
ただそうは思わないのでそこを恐れると。
つまりここを恐れるわけですね。
時間、手間、それからガラスの危険性。
真に取り除くべきものはガラスの危険性だけですね。
取り除くべきものはガラスの危険性だけですね。
だからここを見落とさないようにして、
怒られるけど頑張ると。
何を頑張るかというとひたすらガラスを取り除くのを頑張ると。
これに全力を尽くすということなんですよ。
ここから逸脱するほど多分相手の怒りというものは、
相手の恐れが消えないから収まらないんですよ。
これを聞いていて、
いや、しょうがないじゃんというふうに思ってくださった方もいると思うんです。
このしょうがないんですが、事実、しょうがないんですが、過失ですからね。
これは言う言わないの違いはあるんですよ。
ただこれはしょうがないって言ってもいいという話は別に置いといて、
私の中ではもう言わないことにしたと。
なぜなのか、それは攻撃になっちゃうからなんですね。
しょうがないと言う、しょうがないのは事実なんですが、
しょうがないと言うというのは同じじゃない気がするんですよ。
しょうがないと言うということは、お前もしょうがないと思えってことになるんですね。
ここで思想統一みたいな、めちゃくちゃ今言ってることが大げさですが、
温度差の統一みたいなものを図ろうとしちゃうんですね。
しばしば。
すっごく多いのはこれなんですよ。
しょうがないんじゃすまないでしょ、もっと気を付けてよって必ず言われるじゃないですか。
でもこの次に出てくる言葉が多分ほぼ攻撃になるんですよ。
09:03
いや、お前だって何かをやらかすことはあるでしょうって話をしだすじゃないですか。
それますよね、この瞬間。
それてはいけないんだと思うんですよね。
この言い争いを始めたら多分気の中には収まってないと思うんですよ。
ここで相手の恐怖感は肥大化していきますよね。
この人はまたやらかすんじゃないかと。
またやらかすんですけどね。
ただ同じことはしませんよね。
またやらかすんじゃないか恐怖が4つ目にあるか。
これも取り除く必要があるんですけど、
これは実は完全に取り除くというのは論理的には無理だと思うんですよ。
やらかす可能性がゼロになるとかそういう安心感を持つのは難しいんで。
ただですね、やらかす気はないということは信用させられるんですよ。
だからしょうがないという主張は引っ込めておいたほうがいいと思うんですね。
しょうがないという主張はまたやらかすぞという信号とした相手には多分伝わるんですね。
そういうメッセージとして。
このメッセージは明らかに余計ですよね。
このシチュエーションでは。
まだガラスがそこら中に飛び散っているのにまたやらかすからね私はという主張を今届ける必要は全くないですよね。
これをやらなければ多分10時間くらいは節約できると私は思うんですよ。
昨日ですね、測っておいたんですね。
ここはタスクシュートですね。
一体この怒りと恐れが何分で収まるか。
24分。
そんなもんなんですよね。
24分ですね。
これは私が想像するよりも圧倒的に短くて。
24分であるならば多分もっと遥かにつまらないいい争いになってしまったケースよりはるかに短かったわけですね。
私が注意して総力を上げたというのはあるにせよですね。
片付けるのにかかった時間はもっと短いわけですよ要するに。
何時間かかると思っているんだっていう恐怖感をお互いが抱いたんだけど少なくともしばらくの間は。
20分はかかってない。
そしてこの騒動で失う時間も30分はかかんない。
やっぱりこれがですね、私たちのイリュージョンの大きな問題だと思うんです。
イリュージョンの感じでは1日仕事になりかねないみたいな感じがあったんですよ。
それはないなと思ったんですけどね。
ただ20何分っていう数字は出ないんですよね。
12:01
全くそういう実感と乖離している。
でも測ると24分なんですよ。
だから時間の長さイリュージョンなんですけど。
こういう時に自分が反省モードに入っちゃうと作業に集中できないっていうのがあるんですね。
私はもうやらないですけど、やっぱり例えば娘とかが今中学受験のテスト勉強してますけどテストでやらかすと怒られるわけですよね。
親にも先生にもね、なぜこういうことをするんだって言われる。
なぜもかにもないんですよ。過失ですからね。
反省を強いられるわけじゃないですか。
絶対それによって無くならないんですよ、ミスって。
私は昨日それを痛感したんですね。
いろいろ言われている間に、もちろん一切逆らうことなくひたすらうなずいているんですが。
そしてガラスの破片を取ってるわけですけど。
いくら言われても、それだけでこの事態を二度と引き起こさない、何かに役に立ったろうかというと立たないんですよ。
さっきおそれ4つって言いましたけど、さらにありまして、このおそれもすごい無理なんですけど。
こういうこともない日でありたかったのにという、これは期待なんですけどね、おそれになるわけですね。
これもしょうがないんですよ、そう思うのは。
だからこそ攻撃が飛んでくるのもしょうがないんですよ。
だからしょうがないことについて腹を立てても無駄なんですよね。
だからしょうがないじゃんっていうのは意味がないんですよ。
しょうがないじゃんということになれば、相手も私が怒るのもしょうがないでしょうって話になりますよね。
怒りは過失なんですね、つまり。怒るという行為自体が過失なんだと思います。
過失というものは結局攻めても修正されないんだなと。
昨日やっぱり過失が攻めて修正されるということになれば、私はめちゃくちゃ攻められるべきじゃないですか。
あれ100%過失ですから。過失を攻めることの無意味さというのは過失だからなんですよ。
そして怒るということも昨日よくよく思ったんです。過失なんですよ。
結局私を怒ることによって事態は収拾されないし、その事態を未然に防ぐこともできてないですし、だから割れてるわけですからね。
そして何よりも時間を失う、手間暇がかかるというのはイリュージョンだし、
こういう日でなく会ってほしかったというのもイリュージョンだし、
攻めれば私が今後過失しなくなるというのもイリュージョン。
もう一つあるとすれば正しさなんですよね。
15:01
これを見逃すと悪がのさばるというやつですが、今回の件は故意ではないので、
多分これを見逃しても悪はのさばらないんですよね。
そうすると5つか6つ挙げた恐れのうち、唯一意味があるのはガラスを片付けること。
ひたすら黙々とそれをやる。
このモードにいかに早く入れるかによって、今回は本当は全部私がやればいい話なんですけれども、
でも奥さんもやってくれたわけですよ。
そしてるうちに、これが恐怖による怒りであるならば、
片付くほどに解けるはずだと私は思って見てたわけです。
見てたわけじゃないですけどね。見てるだけじゃダメなんで。
そうするとそうなんですよね。
これがやっぱり私の目撃したものとしては一番プロセスとして明快でした。
1プロセスごとに感じられるんですよ。溶けていくっていう感じがあるんですね。
その理由は簡単ですよね。
1プロセス進む。1つ破片拾えば1つ危険性が減り、1つ今後の手間が減り、
1つイリュージョンですけど、時間がかかるという恐怖感が減る。
そして1つ、この事態がない朝でありたかったのにという期待に近づくんですよ。
だから実はですね、私このソード、
グッドバイブスを知るまでなら非常に暗黒感があったと思うんですけども、
昨日はですね、これはもしかすると片付いた後はむしろいつもより機嫌が良いんじゃないかと思ったんですね。
で、その通りなんですよ。
そういうもんだったなと思いました。
つまりプロセスが進むということは自分で自分の機嫌を良くしていくことになるじゃないですか。
その作業そのものは生産性ゼロかもしれないけれども、
そのようなことについて妻はあまり興味を持っていない。
むしろ問題なのはその時の恐怖のデカさなんですね。
娘が踏むかもしれない。
ただそれは娘にスリッパをはがせて歩かせれば済む話ですし、現にそうしたしね。
こういう時は私の娘は絶対そうしろと言えば絶対そうするという、ある意味楽さがありますが、
とにかくそういう形でプロセスが一進むごとに恐怖は一つ取れるんですね。
二つ三つ取れるんですね実際には。
そうすると全てが終わった後には多分普通の朝よりも気分が良くなる。
私が余計な日に油を注がなければ多分良くなる。
18:01
現に良くなったんですよ。
非常にやっぱりちょっと感心しましたというか感動しましたね。
つまり怒りは恐怖なんだということなんですね。
そしてそれは取れるんだということですね。
問題なのは現実だけであって、イリュージョンはもうこの際問題じゃない。
それに関わりさえしなければ問題にならないということが分かってみて、
やっぱりつくづく大事だったのは反省しないという決意。
これだけは最初にしといたんですよ。
反省は絶対にしない。
反省しないぞとは主張する必要はなくて、とにかく反省を内面でしなきゃいけない。
二度とこういうことはどうせしないから同じ日にないですからね。
うち多分買うこともないでしょう。
どうせ別にいいんですよ。
二度としない誓いとかと反省は関係ないんで誓いをすぐするじゃないですか。
でも二度しますよね。
これは反省の効果のなさというやつなんですけれども、
例の反省させると犯罪者になりますにある通りなんですけど、
しょうがないという言葉も反省することも必要ないんですよね。
これが大事だったんですね。
そうすると自分を弱くしないです。
結局反省というのは防御なんですね。
これは分かりにくいかもしれませんけれども、反省するというのは防御なんですよ。
反省してるんだからいいでしょうというのがどこかに必ずある。
そういう意味ではしょうがないでしょうというのも防御なんです。
これはもう明快に防御ですよね。
わざとやったんじゃないんだから攻めないでくれってことですよね。
でもこれはやっぱり矛盾があるんですよ。
攻めるのは過失なんで。
過失がしょうがない、わざとやったんじゃないから攻めるなというのであれば、
攻めるということも攻められないんですよ。
多くの場合、攻めるのは意思だという感じを伴ってしまうんですけれども、
攻めるのは意思であるケースは多々ありますが、
昨日みたいにも条件反射的に悲鳴が鳴るようなことの場合、
攻めるのはもはや意思ではないですよね、ほぼ。
条件反射とは言い切れないかもしれないですが、ほぼ条件反射かなと。
こういう時には誰がやってもそういう反応になるだろうかという風に考えてみるといいと思いますね。
昨日の事件の場合、天皇陛下ならもしかすると悲鳴も上がらないかもしれませんが、
そういう意味では意思と言える部分はありますが、
まあ普通常識的に考えると誰がやった行為でも悲鳴は上がっただろうなと思います。
だから意思とは言い難いんですよ。
ガラスの方は過失だったね、これは100%で。
小異性は全く気のなかった。
これも昨日の事態を非常に明らかにして理解するのには大変有効でした。
21:01
ここに小異性が1%でも入ってくるとちょっと話が違ってくる。
正しさの問題がどうしても入ってきちゃうんですけど、
昨日は正しさの問題は入らない。
あくまでも正しさの問題が入ってきちゃうんですよ。
昨日は正しさの問題が入ってきちゃうんですけど、
昨日は正しさの問題は入らない。
あくまでも過失とやらかすという、どじるってやつですよね。
どじらない人っていないんですよ、これも。
いるって思っている方もなぜかいらっしゃるんですが、
いないんですよ、どじらない人って。
どじるのを責める時はどじらない人みたいに見えますけれども、
実際にはどじるんですよ、人って必ず。
私はそういうのはむしろ敏感なんで、
責められがちな人間ですから、やっぱりどじりやすいから。
どうしても他人のどじるというのに対しては、
意地悪いかもしれませんが、
注意しちゃうんですよね、注目してしまう。
で、しない人はいないんですよ。
しないと思う瞬間は人のどじを見た時なんですけど。
だから、なるってことはないんですよね。
これが大事なんだなと思いました。
まさに倉園さんがよくおっしゃっている通り、
それは表現なんです。
恐怖を怒りとして表現する。
これは非常に多いパターンで、猫だってやりますよ。
猫、犬に追っかけられると、
勝てないのは分かってて一瞬牙をむくんです。
あれで怯む犬っていっぱいいるんですよ。
自分の方が全然強いのに。
でもやっぱり威嚇ってのはそういうモードなんですよね。
役に立つんですよ、野生の世界。
ただ人間の社会ではほぼ役に立たない。
そういう時に威嚇をされることでそれを真に受けて、
しょうがないだろうと言って喧嘩になるというケースが
すごく多くなっちゃうんですけれども。
威嚇なので、威嚇を真に受ける必要ってないんですよね。
威嚇射撃というものは、撃つ気はないってことじゃないですか。
だから威嚇なわけですよね。
これをただまともに受けた時には、
その認識を見失うんですね。
これも過失なんですよ。
だから過失は責められないんですけれども、
だからこそなんですよね。
責めないということ。
自分のが過失である限り、少なくともですね。
絶対に反省しないと。
絶対に反省しないと。
つまり自分を責めないということですね、やっぱり。
そうしないと、必ず100%過失である時は特にそうですが、
裏目に思う人は結局、自分が責められれば反撃したくなる。
自分で自分に反撃するんです。
これを繰り返すうちに、大変強いイリュージョンを普通は生み出します。
もうこの家は出て行った方がいいんじゃないかとかですね。
24:02
これ脳内で考えることですからね。
ピン割って家出るっておかしいじゃないですか。
今日見てみると何事もなかったかのようなわけですよ。
つまり問題は恐ろしいと思うということがほとんど全てであって、
しょうがないじゃんと言わないとか、反省しないというのは無防備になると。
言ってみればそういうことですね。
完全に無防備になると。
いくらでも攻撃を持っている姿。
防御しない。
これも変なもんなんですけどね。
防御しないというのは大変恐ろしく感じます。
大変恐ろしく感じます。
よくよく考えると不思議なんですよ。
防御しても防御しなくても、受けるダメージは一緒なんです。
実は防御しなければダメージは受けないんですけど、
殴られるとかはベースですね。
だから殴られるんだったら防御した方がいいと思います。
これを防御しない人多分いないです。
防御しない人もいなくはないかもしれないけど、
大概の人はとっさにある程度の防御はしますが、
心の中の防御は実際には何もしていないので、
防御する時の方が多分まともに受けてしまう。
つまりまともに受けなきゃいいんです。
相手のが威嚇だと知っていれば、
まともに受けないじゃないですか。
威嚇なんだから。
実際が威嚇なんですよ。不思議なことに。
威嚇だということは、つまり的外れじゃないですか。
どうやって的外してるわけですからね。
現に的外れなわけじゃないですか。
何と言ってもどうにもならないし、
何とも言うべきではないんですけど、
一番いいのは奥さんの立場としてもですよ。
何も言わず黙々とガラスの破片を片付ける。
これがベストなんですよ。
二人で黙々とガラスの破片を片付ける。
多分それがベストなんですよ。
ところが機能のやり方だと、
それに近づいていけるんですよね。
そうすると問題なのは現実だけになる。
時間とか手間とか、
またやらかす恐れとか、
踏む恐れとか、
一切必要ない。
踏む恐れが強ければ強いほど、
本当は片付ければいいわけですよね。
こういうことが全部に適応できるんだと。
昨日の発見の中の最大なのはそれですね。
全部の出来事におそらく適応できる。
昨日ほど確信を強めたことはなくて、
100%過失であり、
かつ事件が大きくて本当に良かったなと思いました。
これで、
怖いと思うことはありますよ。
昨日も思ったぐらいですからね。
でも、
何も自分はされないんだということを
知っていたわけですよ。
あれがあったからって
ガラスの破片投げつけられるということはないんですよ。
それは知っているんですよ。
そういう家だってないわけじゃないと思うんですよ。
でも私はそうはされないということを
27:00
知っているんですよ。
そうすると実際には何を、
100回何かを言われても、
実際には何にもおそらく
起こらないんですよ。
心が傷つくのっていうのは
ものすごい大きなイリュージョンです。
脳が傷つく話とは全然違います。
この話は難しくなるので省略しますけど、
心が傷つくと私たちが思ったときの
ほとんど、
たぶん、
とりあえず、
まず仮定として100%はと思っておいていいと思います。
傷つけられない、
心が傷つくと私たちが思った時の
ほとんど、
たぶん、
とりあえず、
攻められてはならない、
攻められてはならないのに
攻められた悔しさを意味しているだけで、
心が傷ついたとか、
傷つかないということとは
一切関係がない。
というのは、
的を外しているから、
こういう時の言動というのは、
もっと気をつけるべきだったとかね、
いくらでも言えることはありますが、
全部、
事実ではありません。
ただ、
ただただ、
恐怖感がその人にはある。
本人の中では、
またやらかされる恐怖感とか、
悪がのさばる恐怖感とか、
時間を失う恐怖感とかですが、
時間は失っていない。
正味20分ですからね、
20分は全然、
全くどうでもいいことにも使っちゃいますからね。
だから、
破片を片付けられないというのは、
一番の恐怖でしょうけど、
それは無かったんですよ。
破片は片付けられたんですね。
でも、残りますよね。
何かしらの恐怖感は。
ところが、
昨日の感じでは残らなかったんですよ。
これは、
多分ですけれども、
私がその時に思ったのは、
攻撃の無効性ということと、
反省の無効性ということを、
無効というのは、
考慮が、
無効というのは、
考慮がないですね。
確信することさえできれば、
多分、
何て言えばいいんですかね、
心の中のホラーみたいなやつですね。
これを作り出すことは、
しなくて済むのではないかと。
少なくとも、
それで苦しむということは、
もう本当に、
夢を見ているときだけになるのではないかと。
逆に言うと、
その中で、
現実にそういうことが起きたとしたら、
もうその時は、
無有病なんだなという感じが、
無有症みたいな感じですけどね。
昨日はしました。
たったこれだけ、
すごいシンプルな気がします。
だってこれは、
30:00
出来事が起きて、
一家でそれを恐怖した。
それは、
集団幻想みたいなもんです。
それが壊れてしまう。
と、すごく気分が良くなる。
非常に、
これがでも、
事態をでかくしていくんだから、
それは避けたいじゃないですか。
そんな風に思いました。
30:30

コメント

スクロール