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2020-11-02 31:36

【GMV 245】甘えがあればやる気はいらない

自由とモチベーションは、たぶん幻想です
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おはようございます。グッドモーニングバイブスです。
えー、今月の28日の夕方ですね。17時15分から。
グッドバイブス東京セッション。これ実は第1回なんですが、手放すものと価値あるものというテーマで、グッドバイブスのセッションを行います。
セミナーというよりは、若干インタラクティブにですね、参加型の多分セッションになるかなと思っているので、
ぜひですね、この機会にというのもあれなんですが、いろんな機会ありますが、浅草でやりますので、
このグッドバイブスのですね、オリジナルに触れていただきたいと。 私は結構そうずっと思ってやってきております。
今日するお話も多分することになる話もですね、
僕が喋ることは大体そうだと思うんですけど、グッドバイブスに関係なくもないみたいな話、思いっきりダイレクトに関係するってケースも結構あるとは思いますが、
関係なくもない話みたいなのも多いので、やっぱりの真ん中の話をね、聞いていただくと、このグッドモーニングバイブスも結構違って聞こえてくるんじゃないかと思うんですよ。
そういう効果もあると思いますので、よろしければどうぞ。
手放すものと価値あるものって、つまりこれは決断の話になってくると思うんですね。
今日、例えばこのグッドモーニングバイブスがまさにそうだし、ブログとかもそうなんですけど、例えば今日はちょっと辛いなと、
でも毎日続けてきたから今日もやんなくちゃという時に、この話が出てくると思うんですよ。
その毎日というのは手放していいものなのか、それともグッドモーニングバイブスもそうだけど、
やれるならとことんやる価値のあるものなのか、判断つかないですよね。正解はない話なんですよ。
その基準みたいなものを枕園さんが話されるということだと思うんですけど、
なぜ正解がないかというか、その正解がないからこそ私たちはそこにいくらか基準を設けようとするわけじゃないですか。
平日は日間にして、旗日は休みにしようとか、とにかく更新頻度が大事だから、
日にちもどんな状態でも休んではいけないとか、PVのためには続けた方がいいけれども、
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PVを犠牲にしてもいいなら休んでもいいとか、あるいはこう、ある程度軌道に乗ってきてアフィリエイトが入ってきたら、
少なくともお金のためであればですね、休んでもいいかもしれない。お金があれば。
そういう話になってくるわけですよね。何だったら手放してよく、何だったらやらなければやる価値があるのかというような判断をするときの
グッドワイブス流の基準って話になると思うんですね。
そのグッドワイブスと全くイコールってわけでは全然ないんですが、
土井武夫という先生の書いた「甘えの構造」っていう本があるんですよ。
大ベストセラーで多分読んだことはなくても聞いたことぐらいは大概の人があって、
精神分析の話なんですよ、あれ。
私もそのことに気づいたのが、かつて得た衝撃で、
これは日本人が甘えてるとかなんとかいう話だと思ってたけど、実はフロイトかなんかの話だったんだなと。
まずそのことに驚いたんですね。
私、この種の本はきっとグッドワイブスを理解してからというか、実践するようになると
必ず中身が変わって読めるだろうと思ったので、最近盛んに読み返しているんですけど、想像通りですね。
全然違う風景が見えるんですよ。
甘えというのは、
これ非常に、この話だけでも長くなっちゃうんで簡単に言ってしまいますけれども、
精神分析で結局ですね、
再発見された一つの関連なんですね。関連じゃないな。コンセプトなんですね。
西洋人はなんかよくわからない理由でもあって、甘えがないわけじゃないんですよと土井先生は言うんですね。世界中にあるはずだと。
ただ日本人はこれをよく知っているし、排除もせずにきたから、
その概念も普通に残っていて、今でも日常用語ですよね、甘えは。
でも、西洋ではそうじゃなかったので、不思議なことに、
甘えがですね、学術用語になっちゃうんですよ。
バリントという人が言い出した、この前もちょっと触れたんですけど、一時愛とかって言うんですよ。一時愛なんですね、甘えは。
この一時愛が甘えとイコールだということに気づいたということに、土井先生は大変感激したようなんですけど、
またバリントも甘えを西洋に紹介したりしてるんですけど、大変不思議な話ですけどね。
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わざわざ紹介しないと、理解されないようなものとも思えないんですが、でも考えてみると、
甘えとは何だと、アメリカ人にもすぐわかるように説明しろって言われると、
英語でやろうとすると多分結構ですね、こんなのを覚える人は多いんじゃないかと思いますね。
で、その一時愛。これを別名ですね。
受け身的対象愛とかって言い出すんですよ。対象愛はこの際、お母さんだと思ってください。
つまりお母さんに対して受け身的に考え…
受け身的に持っている愛。 それは甘えだろう。
つまり、こういう言い方をするんですけど、愛されることを願っている存在、幼児というのをね。
愛されていることを願っている存在ならば甘えと言ってだいぶわかりやすいですよね。
私はこれがですね、グッドバイブスという生まれながらにして勝ちマックスというのと、
イコールじゃないですよ。イコールじゃないですけど非常に似ているなぁと思うし、
で、土井先生がですね、甘えられないという時に人は病むんだという提示なんですね。
つまり甘えというのは極めてポジティブな概念なんですよ。
甘えがこじれると、 それが表面化して
問題が起こる。うまく甘えられない時に、例えば
おかしな行動とグッドバイブス流に言えば、なぜうまく甘えられないか?
恐れと不安を抱くからですね。 幼児が恐れも不安も抱いておらず、
これはミニコットという人が言ったことなんですけど、そこに静かに息づいているという言い方をするんですね。
これはイギリスの
いわゆる日常語に、 Going on being っていう、これも訳しようのない言葉があったりするんですけど、
Going on being の上にゴーイングしている。
なんていうんですかね、こういうのはね。 そこにいるというのとか、存在しているというのとか、生きているというのとは違って
息づいているという考え方。これはそうですよね。
恐れも不安も抱いていない時に、すやすやとそこに
置かれているみたいな感じ。 これ正常ですよね、どう考えても。
と考えるならば、 異常事態というのは、つまり何らかの意味でそこに脅威が迫っているとか、あるいは
脅威が迫っているという不安に捉えられているというような時。 人はそういう時に甘えられないんですよね。
成人であればそういうことになる。
家族の中でこれが起こると、 結構面倒くさいですよね。
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えっと、結局その
当然頼んでいいことを、 あれでもこれお願いして気を悪くしないかなとかって、思わない関係が甘えの関係なんですよ。
そのよぎることすらない。一番理想的に言うと。 よぎっちゃったらもうダメなんですよね。
まあダメってことはないかもしれないけど、でも常時それがよぎるという関係は少なくとも、 甘えというものは成立しない世界。
それを、が、ごっ、なんていうのかな、そういう体験、そういう関係を全く持たない人は正気を保てない。
という考え方。そういう精神分析の考え方が有名な甘えの構造ですね。
そのバリントという人も極めて同じようなことを言っています。 一次愛という言葉を甘えの代わりに発明してですね。
で、あの、さっきのブログの話なんですが、 つまりブログを書ける時というのは甘えてるんですよ。
何に甘えてるかというと、何ってのはちょっと難しいけど、 少なくとも読者には甘えてるんですよ。
私、このグッドモーニングバイブスが喋れるのは甘えてるんですよ。 甘えているからこそ喋れるんですね。
もしこれがですね、全く甘えていないとどういうことになるかというと、 まずバリントの話はしませんね。
なんか聞いたこともない人の話してるよとか思われたくないと思ったらしないですよね。 する必要が別にないですから。
あの、土溶けよとかすごい古いよとか思われると思ったら喋んないですよね。 代わりに、じゃあ今回はアドラーの嫌われる勇気にしようとかってしますよね。
これが甘えられない時に起こるはずの現象なんですよ。
えっと
そして、甘えられないにもかかわらず、 例えば無償で仕事しないじゃないですか。
これ非常に私は大事なことだと思うんです。 ブログを書くでも
ポッドキャストでもいいですけど、無償というのはおかしな言い方なんですけど、 お金に全くならないのに平気でやれる人はおかしいと思う人は、
それは甘えの世界をかなりの程度排除しているということは言えると思うんです。 このポッドキャストを
甘えずにやるならば、 収益を生まなきゃいけないって必ず考えます。
多分甘えられないのでしたら、私は
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気ままにというか、 なんていうんですかね
高いモチベーションを持って喋るのを、 喋るっていうのが困難になると思うんですね。
例えばこれをアドラーの嫌われる、アドラーのじゃないんだけどあれは、 嫌われる勇気の話にしようと。
それも適当に引用するのはやめて、
Kindleハイライトで1500何人がハイライトしているところを引用しようとか。
でも一番引用しているところだと馬鹿にされそうだから、 782人ぐらいのやつにしておこうとかするじゃないですか。
どんどんモチベーション下がりますよね。 だって私は別にそんなことがしたいわけじゃないじゃないですか。
そうすれば多くの人が聞いてくれたり、 納得してくれるだろうと推定するからそういうことをするのであって、
別なにそれがしたいってわけじゃないですよね。 つまり同じボッドキャストをやるにしてもですね、
甘えられないということは、 下がるわけですよモチベーションは当然。
だから続けるためには、 その代わりになる理由が必要になってくるわけです。
端的に言ってPVだったり、端的に言ってお金だったり、 あるいはそうだな、私の本がそれによってより売れるようになるとか、
何かいるわけですよ。 だってモチベーション下がったんですからね。
これが甘えの構造における極めて大事なポイントで、
家族間でも同じですよね。 甘えられている間は、
そこの詩をとってとかでサッととってくれるじゃないですか。 これは甘えですよね。
これを、そうだな、
いきなりどっかの居酒屋に行って、お隣に何の関係もない人に向かって、 すいません、そこの詩をとってって言えないじゃないですか。
これを言ってやってもらったらすごく恐縮しなければなりませんよね。 ああ、すいません、みたいな。
すいませんっていう言葉はすごく甘えと関係があると土井先生言うんですけど、 今日はちょっとその話は飛ばしますが、
この恐縮したりすいませんと言ったりするということをせずに済む関係が甘えの関係。 甘えが成立している関係というわけですね。
私はその関係が、 本当は日本人に限らずですが、少なくとも日本人にとってはとても重要なものだという
土井さんの指摘は極めて正しいと思うんですね。 とてもグッドワイブ的だとも私は思うんですよ。
このベースの上でならかなりのことがやれるけど、 このベースがないと、かなりのことが難しくなる。
ホットキャストも難しくなり、 ブログを書くのも難しくなり、一歩間違うと本の原稿を書くのも難しくなる。
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このようにして私たちは、モチベーションの高くなり得ない状況で仕事を始めると、
お金なり、何なら美学なり、
あるいは気が済むみたいな話になったり。 この気が済むというのは、さっきの済まないと絡めて、
土井さんの、ここが私は一番甘えのことで面白いところだと思ったんですけど、 気が済むという独特の
自立心みたいなものでやる。 これがしかも良しとされているわけですよ。
なんとなくこう私たち西洋流の考え方っていう、 それは甘えが這いされた考え方なんでしょうけど、
取り込むことによって自主性みたいな、 それはだから気が済むって話になっちゃうんですけど、
自主性みたいなのとか、 あるいは金銭に受ける収益みたいなものを
あてにしてやるならば、 その甘えを排出することができるっていう、
そういうイリュージョンを持っちゃったんですね。 これはその先に何もないってところにポイントがあって、
だって自主性ってその先に何もないじゃないですか。 何かがあったらそれは自主じゃなくなってしまいますよね。
お金がもらえるからって言うんだって一見自主的なようですけど、 結局お金をくれる人に頼っているっていう形になってしまうので、
だからお金がもらえやすいような行動を取ろうって話になっていくわけですよね。 そうすると自分の中から
意欲が湧いているわけじゃないわけだから、 意欲を取り替えなきゃならないんですよね。金銭欲みたいなものに。
この種の精神的な操作って、そう簡単ではないですし、 決して気持ちの良いものではないですよね。
だからここでまた飛躍するようなんですけど、私はだからですね、 人々は、私たちの時代はですね、だんだんこう
何者かになりたい時代に切り替わったんだと思うんですよね。 昔から育つのかもしれませんけど、この甘えを排した中、上で
自主性を発揮するって、えらく困難なんですよ、はっきり言って。 私はこれ西洋人だってできないんじゃないかと思うんだけど、
土井さんも同じことを指摘してるんですけど、それをできるようにするために、 我々とは違う
価値観を取り入れた。端的に言うとキリスト教が入ってきたっていう考え方なんですが、 私たちはキリスト教を代用にしてないから、
この自主性をやろうとするとですね、もう美学いっぺんとかになってしまうわけですよ。 毎日更新するのが俺の美学みたいな。だってそうなるしかないじゃないですか。
PVも当てにしない、お金も当てにしない。もちろん甘えでもない。きっちりやる。 しかもきっちり他人の満足のために自分の満足は規制にしてやる。
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1個しか残んないですよね。美学みたいな。 あるいはこう、ベンズを用意してですね、他の人が望むもの、私がやりたいもの、重なる部分だけをやろうっていう話になるんですけど、
これたまたま重なるものがあればいいでしょうけれども、ないケースもあるわけですよね。 このないケースがあるってところを
ブログ学校みたいなところではですね、上手いこと言うその技術みたいになってるんですけど、ないことはありますよそれはやっぱり。
あるいはあっても偉く日知だみたいな。 私が大好きなことを聞いてくれる人いますが一人ですみたいな。
食えないですよねそれはね。 あのその一人がアラブの関王とかなら食えるかもしれないけど、その人にも引きこもりでしたみたいな。
絶対食えないですよ。しょうがないですよね。 そういうことはあり得ますよね。
そういう話ではないとするとですね、甘えしかないと僕なんか思うんですよ。 だから甘えというのはすごいコンセプトだなと思います。
要するに、
なんて言うんですかね、無意識のうちに
愛されるだろうと見込んでいるみたいな、そんな感じかな。 それもこう、
ほとんど意識の上に登るようなものではない。 登らせようとしてしまったらすでにそれはこじれてますからね。
甘えさせてくれみたいな。 鼻肌困った人になってしまいますよね。
だから自然とであるのがいいわけです。 で、グッドバイオスと同じではないですよ。
多分これは同じだとは思わないんですけど、一つ意識とも完全に同じではないです。
でも母子一体みたいなところから見えやすくなる話ではあると思います。
要はベースとしての甘えがあるところだと、モチベーションとかはほぼ問題にせずに済むわけです。
まして金銭みたいなものは買い代しない方がいいに等しいですよ。
例えばこう、 毎日庭に水を撒いといてくれたらお小遣いやるからな、そういう話ありますけど。
まあ、程度問題でしょうけれども、
なんかそれがディールみたいになるほどだったり金額がでかすぎたら、やっぱりこじれますよね。
親子感でそれをやってしまったら。 金銭が入りにくい方がいいわけですよ。
そこがだからその対外的にやる仕事でと、ここにそういうものを投入してくるので甘えだけではできないので。
甘えだけでできると実は大変良いと思うんですけれども、
世の中そうは決してなり得ないと思いますし、ましてこう、
グローバルでは通じないじゃないですか、さすがにそれは。 つまりこれ半径がでかくなりすぎればなりすぎるほど無理があるんですね。
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これを現実にこれで
ワークをするみたいな話になると。ただ、これを完全に廃すると、さっき言ったみたいにとってもきついことになると思うんです。
そこで、話が戻ってくるんですけど、何者かになるしかなくなるんですよね。
何者かになるということはですね、特にこの日本社会においては実は、
他人などに甘えていい存在になるっていうような意味になる気がするんですよ。
そういう人っているじゃないですか。 あれも最近の世の中ではどうかと思われる可能性も高くなってきたと思うんですけど、
自分は何者かであるからね。 そこの詩を取っていって、そこら辺の人に言っていいわけですよ。
このようにそこら辺の人から一段際立った存在になるということが、
甘えの世界においてはですね、本来は、
内と外が分かれていたはずなのに、全部内にできるというですね、 すごく至極便利な
ワイルドカードみたいな、そういうものが多分特別な存在とか、何者かといったものなんじゃないかなと思うんですね。
逆に、逆にですよ。この発想を僕は、もっと嫌なものがあると思うんですけど、少なくとも
感じの悪いことに、
その他大勢と特別な人、あるいは何者かとその他大勢となった時のその他大勢は、
甘えさせることが自分の存在意義になっちゃうんですね。 これが多くの人がここを脱却したいと考える最大の理由なんじゃないかという気がします。
特別な人のために気を利かせる。 そういう存在になっちゃうわけですよ。
だからこう、下積みみたいなものが嫌がられるのは当然で、なぜならば特別な人が甘え放題なわけだから、
その甘え放題の人を
に、いわばこう、
気を回させるために、
いろんなことを甘えさせてあげると。 これが非常にですね、ある意味不思議なのは、
つまり、この甘えの構造の中で特別な存在ができてしまうとですね、
特別な存在は酷く無力の存在になるんですよね。 私はこれは別の意味でですね、
すごくこう、
なんていうんだろう、警戒はいけないのかな? でも警戒するべきことなんじゃないかという気もするんです。
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つまりこれは、
本来はこの甘えの構造における甘えというのはですね、
能力を万能に、万能観点で何度かお話してますが、能力を万能に発揮できる下地みたいなものなはずなんですよ。
にもかかわらず、そういう
甘えという状態を満足させることは目的であってはいけないわけですね。 これは前提である話なんですが、ここが目的になって、
甘えたいから特別な存在になりたいになってしまうと、 自分は無能力でありたいっていうことの表明みたいになってしまうと思うんですね。
用事は万能なわけですよ。
何度かお話しているように。なぜなら甘えの世界に完全に包まれているから。 ただそれはその状態でできることが
物理的には少ないからというのを意味しているわけです。 精神が同じことをやろうとしてしまうと、
物理的にはたくさんのことが本当はやれるはずなのに、 できなくなっちゃうじゃないですか。
それが良いっていうのはですね、多分
今甘えられてなくて辛いっていうことの占い師なんだと思うんですよね。
で、それが多分イリュージョンなんですよ。
非常にこう、あれなんですけど、前々回ぐらいで話したのかな。 体制要氷流76日。あの本いいんですけどね、キャラバンの。
あれを読むとですね、私たちがいかに甘えというもののベースの上に乗っかっているかというのがよくわかる。
一言で言うと、サバイブ、生き抜き切ることがすべてになってしまって、いわゆる私たちの普通の状態でいうところの正気は保てなくなりますよね。
人間というのは完全に一人で、甘えられる対象が一切いない世界では。
彼は要氷では完全に要氷ですね、体制要氷では、八氷気味ですね、あれを読む限り。
もちろん統合主張処理器でもあるし、それはしょうがないですよね。 だって夜寝てたらサメが襲ってくるかもしれないし、
スコールが降ってきて転覆するかもしれないし、でもその水を貯めて飲み水にしないとずっと晴れていると冷やがっちゃうし、大変なわけですよ。
これが他人に一切頼ることのできない時の私たちの生き方であって、今考えているような正気を保ちながら
完全に一人で生き抜くってことはできないと思うんですよ。それは両立しない話なんだと思うんですね。
と考えると私たちは結局甘えというものの上に乗って生きているわけだけど、
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多分これが満たされきっている時に特別な存在とかになりたいと思わないんですよね。
特別な存在になりたかったとか、何者かになれなかったみたいな話が出た時ってのは、その人は
社会の中の特殊な地位に立つことによって幼児のように振る舞いたいっていう、そういう表明なんだと思うんです。
それは結構きつい精神状態なんですよね、すでに。
それは自分が、要は甘えを満足させられない状態に今あります。
いくつかは多分イリュージョンのせいですね。
甘えられないイリュージョンというもの。多分そこを取り外せば甘えることは難しいことじゃない。
いくつかは人間関係がこじれていて、当然甘えられるはずのことがやらせて本当に笑えなくなっている。
このケースの方が実は少なかったりするんですけどね。
僕らは逆に考えるんですよ。他人はきつすぎるって考えるんですけど、外視でそうではないですね。
自分のイリュージョンによって他人に甘える部分を塞ぐんですね。
人によってはそれが美学なんで、甘えて生きたくはないという、甘えてるんだけどね。
それって結局体制養生に行きたいみたいな話になるんですけど、あれをやって、あれを一度でも体験して二度体験したいと思う人はほぼいないと思います。
キャラマンさんは特殊なんであっさりまた養生に出ていくんですけど、その彼でさえ陸に上がった時はもう完全に頼りきりでしたから、当然ですけどね。
だって助けてくれるじゃないですか。そんな漂流してきた人がやってきたら。病院にも入れてくれるし。
食べさせてもくれますよね。無一本でも。 これがないと僕ら生きていけないんだと思うんですよ。
あれ76日だったからなんとかなったけど100日なら多分海の木屑ですよね。
ということなので、 このブログあるいはグッドモーニングワイブスもそういうベースの上に乗ってるということなんですよ。
だからもっとこうあるじゃないですか。いいマイクを買いましょうみたいなのとか、
アウトラインを作ってから喋りましょうとか、何度かリハーサルしましょうとか、すべてですね、甘えを廃してるんですよ。
それがいけない点ではないですよ。むしろそれがいいっていう人の方が多いと思いますよ。 私がそれをしないのは実に単純な理由だということですよ。
それをすることによって自分の、簡単に言うとモチベーションを下げたくないというよりは、モチベーションを上げなきゃならない事態を招きたくないんですよ。
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これができてこそ一人前だという意見がまさに自主独立的な意見じゃないですか。
私はもうそれは多分幻想だなと思うんですね。そうやろうとして、多分かなりの無理が出ているうちに、収益とかPVとかこじれてくる感じが僕なんかにはするわけですね。
ベースの中に甘えがあればですね、なぜ続けられるんですかと聞かれるんですけど、まさに逆なんですよね。
なぜ続けられなくなるのかというと、自主独立を目指すせいなんですよ。 それによっていっとも簡単にできていたはずのことができなくなっていく。
お父さんが足を切ってって言っても面倒くさくて辛くなるってことが起こるわけですよね。
なぜならばそれは、それが何かのためにならないからですよね。 自分のため、お金のため、そういうものを少しずつ確実に排除していくと、残らないですよ、何も。
残るのは、なぜなら毎日やらねばならないからだ、これだけになっていく。 これだけになって初めて独立なのかもしれないけれども、
それでは続かないんですよ、この種のことは多分。 そしてどんなことも多分、それでは続かないんだと思いますね。
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