2021-06-08 31:20

【GMV 393】本当に何者かになりたい?

16歳のモーツァルト
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おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
久しぶりに思い出したんですけど、私がずっとですね、だいぶ前だな、だいぶ前ではないのか。
コロナ以前にやってたんですよ、横浜ライフハックという。
ライフハックというのに加工つけて、みんなで中華街に行って、横浜ですから。
美味しいお店があるじゃないですか、あるんですけどね、に巡るという旅だったんですけど、非常に気楽なことをやっていたわけですね。
これは良い試みだったなと自分では思っておるんですけれども、コロナで休止してしまってるんですけど、
終息したらぜひ再開したいと思うんですが、この横浜ライフハックで繰り返しですね、話題になったのは何者かになりたいという問題。
久しぶりに思い出したんですよ。
僕はもう全くないんですね。できれば何者でもないものでありたいと。
それを徹底してしまうと、私のような職業の場合、かなり整形が立てにくくなるから、何者かでありたい欲求もちょっと残しておこうぐらいなノリなんですけど、
とにかく何者かであるのは避けたいというのも、もともと私はそうなんですよ。
これはこれであれなんですけど、全然グッドバイブスじゃないんですけど、結構バラバラ意識感が強い上に、体が弱いと思ってたもんだから、目立ちたくないっていうのがあったんですよね。
やっぱり男社会だったんで、昭和の最後の方ですけど、男社会で下手に目立つと結構やられるみたいな、しかも割と簡単に暴力的にやられるんで、腕伏しの良い方じゃなかった。
これも思い込みって大事だなって思うんですよね。腕伏しの良い方じゃないって思っててよかったってことなんですけど、
私は中学の時に左右の握力で、右が45で左が48とかで、普通の人の4倍ぐらいあったんですよ。
なんかよくわかんないですけど、歳の割にはね。だから殴り合いとかすれば、実は握力とかでどうにでもなっちゃったんじゃないかの時代ならと思うんだけど、思い込みって大事ですよね。
という思い込みもあって、あんまり目立ちたくないっていうのは幼少期から絶えむずあるんですよ。
目立ちたい人もいるじゃないですか。私ここに何の良し悪しもないと思うんですね。
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目立ちたい、目立ちたくないっていうのは、すっごい人それぞれだと思うんですね。
私は目立ちたくないもんだから、目立ちたくないってフリーランスではあんまりメリットとして機能しない気がするんですね。
バレエダンサーとか目立ちたくないのはダメだみたいな話、結構よく出てきますけどね。
そこまでは行かないかなとは思うんですけど、
何者かになりたいというのって、目立ちたいってことと同じなんだろうかとかよく思うんですよ。
有名になりたいってことなんだろうかみたいな。
これについて一生懸命ブログとか本とかで書いてくださっている方が横浜ライフハックのメンバーで、
勝手にメンバー呼ばわりしてるんですけど、まあまあメンバーだと思うんですね。
読んでいていつもいろんなところで自分と違うなっていうのもあるんだけれども、
こんなに何者かになりたい人はぜひ何者かにならせてあげたいと思わなくもなかったんですよ。
やっぱり説々と本人が望んでいることは実現したらいいのにとかって思うじゃないですか。
思うか思わないか人それぞれだと思うんですけど、
例えばすっげー結婚したいとか言ってる人だったら、できることがなんかあるならばそうしたいとかって思うじゃないですか。
これ他人に期待することって結構誤解があると思ってるんですけど、
リア充とかって言うじゃないですか、そういう人に頼み込めばどうにかなるように思っちゃう人って結構いらっしゃるように見えるんですけど、
僕はあれ何の意味もないんじゃないかって結構思うんですよね。
自分の結婚した経験を考えると。
そういうのも大事だと思うんですけど、結局それって本人次第以外の何者でもない、
上手く紹介してさえもらえば上手くいくような話ではないような気がするんですよ。
私前に結構本が、一応本の部数が出てた頃によくですね、いろんな方に本出す方法を聞かれたんですけど、答えられないんですよね。
何でかっていうと、本って結局売れてさえいればですね、その人から出したいというかその人の何かで出したいっていう風に
出版社さんが思ってくれて、その流れの中にずっといるというのがあって、途切れたらもうある意味それっきりなんですよね。
そうすると、途切れないということはその人だからっていうことになっちゃうし、その人が一応今売れてるからっていうのが唯一の理由だし、
途切れてしまったら途切れるわけだから他の人に紹介するとかってありえないんですよ。
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他の人紹介したところで意味全くないですから、だから結局本人次第なんですよね、ああいうのって。
っていう感じで、なかなかこう人に期待してこうなるものではないと思うんで、結局できることというのは婚活と何者かになりたいのは実は似てるなとよく思うんですよ。
頑張れっていうことになっちゃうんですよね。
お望みなら頑張りましょうみたいな、本当にそういう感じになってしまって、それ以上言えることは何もないかなと。
ある意味これはギャンブルと似てるなと思うんですよ。
僕あんまり経験ないんですけど、ギャンブルって月がある人に助けを求めるのって無意味じゃないですか、多分。
月にある人に体触るとか時々ありますけど、多分あんまり意味があるとは思えないんですよ。
ギャンブルの時でもやっぱり頑張れとかしか言うはないじゃないですか、後ろで見ているとかそういう人にできることとしてはですね。
それは負けるより勝った方がきっと友達とかがいいと思うんで、応援はすると思うんだけど応援しかないですよね。
応援に何か意味があるのかって言うとないような気もするんだけど、とりあえずできることとしてはそんなことしかないかなっていう風に思うんです。
思って今もいますけど、何者かになりたいという話を思い出したのはですね、先日娘が本買ってくれっつーから買ったんですよ。
その人がまさに何者かなんですよ、ザ何者かみたいなね。
藤沢さんとかそういう感じの人の話なんですけど、久しぶりに本を読んでこれが何者かだなみたいな感じの人で、
加藤あさひさんっていう方なんですけど、16歳のモーツァルトっていうタイトルの本で、まあすごいんですよ。
たまたまうちの子と同じ塾に行ってて、たまたまうちの子が習ったバイオリンの先生にも習ったことがあるという不思議な偶然感で、
多分何の意味もない偶然なんですけど、だから娘興味を持って本買って読んだわけですけど、
3歳で作曲をしてそれをオーケストラが弾いてみたいな、3歳ですよ。
だからこれ自分の曲がオーケストラになったの分かるって聞かれると、途切れ途切れに分かったって言ったっていう話が出てくるんですよ。
なぜこういう風に言ったかというと、お母さんが質問されて答えるときはデスマスをつけときはとりあえず丁寧に聞こえるからって言ったんだけど、
分かったにどうマスをつければいいかが分からなくて、そういう答えになっちゃったと。
まだ分かりましたっていう表現は知らないっていう話なんですね。
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でも作曲はできちゃうみたいなオーケストラ。
なんかもう、およそこの世のものとは思えないというような話が非常に多くてですね、これはまさにザ何者かだっていう感じだったんですね。
いくつか思うところがあったんですけど、一つはこの本のタイトルですよね。
16歳のモーツァルトというのは、16歳でお亡くなりになったから16歳のモーツァルトなわけですよ。
これをですね、希望するとかしないっていうのはないなっていうのがまず一つだと思うのと、
私たちはやっぱりいいとこどりしか考えようとしないんだなっていうのがもう一つなんですよね。
別に何者かになれれば、もう死んでても結構ですとは思ってないと思うんですよ、何者かになりたいっていうのは。
多分ですね、自分の健康状態は全く変化せず、自分のいろんな価値観とか意識とか、
物の考え方とか、友人関係とか、ご両親とか、一切変えることなくただ何者かというのだけをプラスしたいっていうような話ですよね。
なんかでもそれって不自然な感じがしません?
私それすごい不自然だなって思うんですよ。
一個だけでも自分の要素が変化してしまったら、もうそれは自分の他の要素と全く無関係では成立できない気がするんですね。
この件で思い出したのが、「荒野の狼」っていう本があるんですよ。
ヘルモン・ヘッセっていう人が書いたんですね。
ヘッセといえば車輪の下が超有名なんですけど、私いつも不思議だなとそう言えば脱線ですが、
一つ思うのは、なぜこの超有名な作品というものはその人の中の最高傑作のように思えることがほとんどないんだろうと。
ドステフスキーといえば罪と罰ですけど、どうしても私はあれが最高傑作、代表作だと思うんですけどね。
ロレンスといえばチャタレイ夫人の恋人と決まってるんだけど、あれはどう考えても一番いい作品ではないと思うんですよ。
僕の勝手な言い分ですけどね。
ヘミングウェイといえば老人トーミーじゃないですか。
あれだったらっていうのが思うんですよ。
ジョン・アップダイクといえば走れウサギみたいな。
それもなんか違う気がするっていう、なんか違う気がするのばっかりなんですよね。
ヘッセといえば車輪の下ですけど、荒野の狼は僕はすごく好きだったんですね。
何が面白いかというと、あの人ってすごいかわいそうなところもある。
でも彼はノーベル賞を取ったし、いっぱい生きたからいいと思うんですけど。
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ロマン派って言うんですよ。ドイツロマン主義みたいな言い方をするんですけど、
その辺の人たちってなんて言えばいいんですかね、繊細なんですよね。
繊細をどうこした繊細で、誰だっけな、リルケか。
バラの棘に指を刺して、それが元で死ぬみたいな。
正気かっていうのはおかしいんですけど、そういうことってあるかな、普通っていう感じがしちゃう話じゃないですか。
発光の美少年って色が白くて、いつも泣いていて、バラの棘に指を刺して死んじゃうみたいな。
なんか嫌じゃないですか。私これの話を聞いて、こういう生き方は絶対やめようとつくづく思ったんですけど、
いくら自分が繊細でか弱いとか言ったって、物には程度っつうものがあると思ったんですね。
そういう話なんですよ。
ヘッセは要するに今で言う統合失調症になっちゃうんですけど、その理由もなかなか悲惨というか、
第一次大戦というものがあったわけですね、その時代に。
彼はそういうものに耐えられないんですね、精神的に。
そういう多分ニュースとかを見て、だんだん精神が崩壊していくということが起きて、
繊細なんでね。だから統合失調症になっちゃうんですよ。
当時は精神分裂病って言うんですよね。
そのことを書いてるんですね。
つまり自分の内面がどういうふうに崩壊していくかということを、
いかにもロマンカっぽく、ファンタジーライクにでもきっちり書いていくっていう感じで、
いやーこれはまさにザ何者かじゃないですか、そんなことできる人はまずいませんよね。
自分の精神が崩壊していく様子を物語仕立てにして、
しかも自分好みのファンタジーっぽくして、モーツァルトとかも登場させて、ゲーテとかも登場させて、
実に上手いんですよ。
でも自分統合失調症なわけですよね。
どうしてこういうことができるかっていうと、
これが何者かっていうところを僕が感じる人たちなんですよ。
こうはなりたくないって同時に思っちゃうわけですよね。
僕だったらね、ああは絶対なりたくないですね。
統合失調症になるっていうのは、一応避けておきたいっていうのは普通にございますし、
しかもそれを自分の精神が崩壊していくと、
何者かっていうのは避けておきたいっていうのは普通にございますし、
しかもそれを描写できるレベルの能力があるがゆえにそうなってしまうっていうのがありありと見える。
っていうのはやっぱり、
良い本用で良いですよっていうふうに思っちゃうんですよね。
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それはもちろん好きでそうなったのかどうかは分からないというか、
好きでそうなっているところばかりじゃないと思うんですけど。
ヘッセはユングに直してもらうんですよ。
ユングに直してもらうっていうか、ユングに見てもらうんですね。
フロイトの弟子とは言い切れないんですけれども、
フロイトはユングを精神分析の会長にしたかったんですよね。
フロイト自身はユダヤ人だったんで、
どうしても精神分析とはユダヤ人のマニアックなものだって思われるのが嫌で嫌でしょうがなくて、
フロイトのようにガチッとして、
青い目でいかにもスイス人だっていう感じの、
強そうで押し出しの良い人を会長にしたかったんですけど、
そのユングがフロイトの結局のところを裏切るっていうのかな。
フロイトにしてみれば裏切られるっていう形になっちゃうんですけれども、
そのユングに見てもらう。
日本ではやだらユング有名なんですけど、
これはカワイハヨ先生の影響が絶大なんだと思うんですが、
ヘッセをユングに見てもらうんですけど、
ユングは直しきらないっていう言い方をするんですよね、確か。
これもう微妙だなと思ったんですけど、読んだ時に。
読んだんですけど読んだ時に、
つまり彼のクリエイティビティというものと統合心調が
深く関係してしまっているわけですよね。
それはそうだと思うんですよ。
あの繊細さと彼の精神状態というのがリンクしないはずがないので、
何しろあれなんですよね。
地と愛かな、日本では。
ナルチスとゴルトムントっていうタイトルが現代だったと思うんですけども、
の話なんかだと、雪道で遭難しているとよくわからないお金持ちの家に拾われて、
そこで美少女二人が艦隊してくれるみたいな、
そういう話を書いているような人なんで、
すげえ都合がいい話じゃないですか。
ああいう話を平気で書くような精神状態にある人が、
戦争とかに直面するとかって無理だというところがあると思うんですね。
そういう統合心調になっちゃう人に対してユングが言ったような、
直さないっていう話なんですよ。
直してしまうと、
あなたのクリエイティビティも直すことになっちゃうよみたいな、
そういう話だと思うんですね。
その話を私が読んだ時も、
いや、直そうよって思っちゃうんですよね。
私の感覚だと。
つまり、いいじゃん、そんな小説とか書けなくなったって。
これはですね、いろんなものの感覚だと思うんですけど、
私はやっぱり、病気だったっていうのもあるとは思うんですよ。
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要するに、何もできなくなってもいい。
健康にさえなれればっていうタイプで、
その辺、僕は自分は凄い凡庸だなって思うんですよ。
何か特殊な能力とか欲しいと思わないんですよね、決して。
極普通であれればいいっていう。
何て言うんですかね。
僕、自分でよく思うんですけど、
自分はプラスチックの洗面器みたいであるといいなってよく思うことがある。
凡庸な感じがするじゃないですか、もの凄く。
そういう考え方っていうのは、
一時凄いダメなものとして言われてたし、
それはダメだと言われるのもよく分かるんですけれども、
何かですね、ああいう風でありたいとは少しも思わないんですよね。
ヘッセみたいな感じではですね。
治せるんだから治そうよって。
治せないのかもしれないんですけどね、はっきり言って。
あの種の話になってくると。
とにかくその、ヒッチが凄いんですよね。
そういうところの描写を精神が分裂し、
そのヘッセはっきり書いてるんですよね。
これを医者は精神分裂病と名付けていると。
精神というものは一つであるべきものなのに、
こういう将棋のコマって彼は例えばチェスだと思うんですけど、
2のように人格が分かれていってしまうと。
でもこれは正しいあり方の一つでもあるんだというのが、
ヘッセが書いていることなんですよ。
こうやって自分の人格がばらけていくっていうのは、
実は人格というのは統一になってされていないんだということを彼は、
普通にもう字の文みたいにして説明しちゃってるんですよね。
ほぼほぼ自分自身みたいなのを登場させることによって。
そういう中で自分たちは将棋のゲームみたいなして、
自分の人格というもの、いろんな人格というものをコマのように扱って、
そのコマ組で人生を歩んでいるんですっていう話をですね、
生活描写を交えながら書いていくという。
めっちゃわかりやすいんですよ。
現代のそれこそ安倍晃吾さんって、
ああいう書き方は全然しないんですね。
村上春樹に比べてもわかりやすいと思うんですよ。
ものすごいわかりやすく書くんですよ、この辺のこと。
私すごいびっくりしたんですよね。
こんなに説明書を読んでいるような感じで書くっていう人も、
しかもそれをロマンティックに書くものだから、
私この話が車輪の下に比べて売れてないっていうのは、
趣味でしょうがないんですよね、さっき言った通り。
めちゃくちゃ美しいっていうか、小切れですしね。
モーツァルトが出てきてみたり、
氷の世界みたいな絶対汚いものは書かないんですよ。
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ロマンティックだから彼は。
そういう意味で非常に読みやすいなと僕なんかは思ったんですけれども、
すごい破綻して見えるっていうのもあるんですよね。
統合主張ですからね。
きちっと構成を作って物語化するっていう風になっているはずはないんですよ。
それができていたらもはや統合主張じゃないんで。
だから彼の初期の作品とかはすっごいきちっとプロットも作られていて、
全然分裂なんて考えられないんですけど、
相当苦しい思いをしたんだろうなということを感じさせていただいて、
相当苦しい思いをしたんだろうなということを感じさせる作品で、
この相当苦しい思いとかを別に私はしてまで
ザ何者かとかにすげえなりたくないなって思うんですよね。
ということを先日加藤あさひさんの16歳のモーツァルトを読んで、
ツクツクこれ厳しいわっていう感じで、
彼は中学受験もしているんですよ。
面白いことに彼はこの塾では受験問題を子どもに作らせるっていう試みがあったりして、
先日加藤さんの問題というのを見たんですけど、
なるほどなって思いました。
何て言うんですかね、視点が意地の悪い大人みたいなんですよ。
決して解けないというような問題で、
現に解ける子って結構いたみたいなんですけど、
うちの子は解けなかったって言って悔しがってたんですけれども、
素直な子には解きにくいよな、これはっていう問題なんですね。
すげえ長難易度高いとかではないんだけれども、
随所に子どもが非常に嫌がりそうなひっかけが随所にあってですね、
それに騙されてしまうんですよ、普通の子どもだと。
全然解けそうな気がしませんっていう印象を持っちゃうと思うんですね。
こういう視点を持つのが子どもだっていうのがすごいなとは思いました。
いかにも受験生が作りそうな難解な問題っていうのもあるんですけど、
そういうのとはだいぶ違って、いやらしいパズルみたいな感じで、
いかにも難関校の受験の先生が作り出しそうな、
そういうのって多分四、五十の数学のおじさんとかだと思うんですけど、
そういう人が作りそうなものを11歳とかの子が作っちゃうっていうのは、
やっぱりこういう人なんだなっていう感じはすごいしました。
それを見ただけでも、やっぱり自分は何者でもないなっていう感じが、
僕も中学受験はしたんですけど、僕がやりそうなことっていうのは、
当時の感じで言うと、やっぱりすっげえ難しそうにして、
ひねりにひねって、こうじゃないと解けないよみたいな問題なんですよね。
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僕が作りそうなものっていうのは、場合の数みたいなのを駆使して、
自分でもそういうのをテスト中に出されたら解けそうにないなみたいな、
そういうのを作っちゃうんですけど、そういうのではないんですよね。
からくりに気づくとすげえ簡単に解けてしまうという感じなんだけど、
たぶん受験生の7割はパッと見でお手上げになってしまいそうな、
そういう問題でした。
この子が、そして小学生でバイオリンはやるわ、チェロはやるわ、作曲はやるわで、
なんかこう、まさにザ何者かなわけですよね。
うちの娘が言ったのが、これだけやるとやっぱり体に無理がきっかかるのかなって言ってたんですけれども、
そうなのかもしれないですし、でも別にこういうので長生きする人もいないわけじゃないと思うんで、
そういうことでもないような気がするんですけれども、
なんかこうやっぱり難しいことってあるんだなっていうのは考えさせられます。
やっぱりほら、普通の人間が160キロのボールとかを大谷翔平さんみたいに投げるとですね、
肩が一発で壊れてしまうじゃないですか。
そういうことってあると思うんですよね。
だから負担ということが全てではなくて、つまり何者かっていうのは、
こういう自分みたいな、今私がこうやってただ喋っていますけれども、
こういうふうに普通にやっている何かっていうことと違うものっていう感じがあります。
お母さんは結構私から見ると常識的な人ですし、
ただし、やっぱりじゃあっていうのでパッと考えたんですよ。
うちの母と比べるとどうだろう?全然全く違うんですよ。
標識的っていうのはすごく表面的に現れるものであって、
特殊教育をしたからこうできるっていうようなものではないと思うんですが、
うちの母がこういうようなことを考えるだろうと、
考えない、絶対考えないなと、やっぱりそこら辺なんだと思うんですよね。
私の感覚が、こうはなれないし、当然こうなりたいとも感じないということとは、
こういうことなんだってすごく思います。
だから、百均の洗面器みたいでありたいと思うようになるわけですよ。
別に母がどうこう私をしたいっていうのはないと思うんですけれども、
でも、例えばですけど、私が中学受験でかなりの難関校に行ったのは、
多分に見栄なところがあるわけですよ、母の。
この発想、文様じゃないですか。
微笑ましい発想だと僕は思うんですね。
自分は地方の高校出身で、子供はたまたまちょっと頭が回ったから、
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私の見栄のためにこいつをちょっと勉強させようって、
すごい私はですね、人間的に、
この種の発想を加藤あさひさんのような方のお母さんは取らない。
この辺の特殊性っていうのかな。
何て言うんですかね。
ダメさ加減が不足しているみたいな感じがするんですね。
昔、その例のユング派の河合俳夫さんが、
親がろくでもないから子供もろくでもないっていう、
ケースは扱いやすいって書いてたんですよ。
非常に誰の目にもわかりやすい話だし、
何をどうすればいいかは別に精神科医じゃなくたって、
わからなくはないんだと。
でも親が火の打ちどころがないがゆえに、
子供が悪くなっているようなケースは難しいっていうのを書いたことがあるんですね。
この加藤さんのケースはそうはなってないですけど、
やっぱりそうなり得ることもあり得ると思うんですよね。
私も考えてみたことがあるんですよ。
例えば父親なり母親なりが、もう言うことないですと。
あれですよ、ドラマに出てくる変な理想的な親とかじゃないです。
本当の意味で非常に理想的で、
欠点というものが見当たらないみたいな、
ちゃんと理想的な親とかじゃないんですよ。
欠点というものが見当たらないみたいな、
ちゃんとした人で理解力もあってみたいな、
そういう親だったらすごい大変だなと思うんですよ。
子供だったらね。
どうしたって逃げようがないみたいなところがどうしても出てくると思うんですよね。
ダメでは荒れなくなっちゃうっていうのかな。
もうダメだとしても理解されちゃうし、
非常に困るところがあると思うんですよね。
そういう話ってかわいはよさんよく書かれるんですけれども、
親が完璧に良いが故に子供が悪くなっているようなケースは大変なんだと。
言ってみれば、彼は影って話をよく書きますけど、
影がない人みたいなもんで、
そういう人の影はものすごく濃く厳しい形で出てきて、
それを子供が一心に追うことになるっていう話を書いてよく書かれるんですよね。
それはやっぱり一番連想します。
影っていうのはあるよねっていうのはないわけにはいかないですもんね。
良いっていうことはすでに悪いってことが発生するための何かになってしまうので、
これは正しさみたいな話ですけど、
そういうことを考えて、
だから親が人間臭くてしょうもないじゃないですか。
子供を中学受験で背伸びさせてかなり無理にある学校に行かせるのは、
自分として鼻が高いからだっていうのはしょうもないんですけど、
このしょうもなさゆえに非常に子供としてはリラックスできる部分、
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しょうもない親だなっていうのはリラックスできますよね。
これがもっとちゃんとした、非常に真っ当で正しい理由、
まさに親はどこに行ってもいいんだよっていう好きなところに行きなさい。
でもあなたはすごい有能だから、
望むならこういうところに行かせてあげられるから困るんだと思うんですよね。
これでは帰って。
これを表面的に口先だけで言ってるというのはまだだいぶいいんですよ。
これを本当に言えてしまうちゃんとしたお母さんが自分の母親だったら、
私なら困りますね。
そういうことなのかなっていうのが、
何者かになりたい問題というのに現れてると思うんですよ。
だからやっぱり人間臭い理由で何者かになりたいっていうのが難しいのは、
それが極めて人間臭いからだと思うんですよね。
有名になって左内輪でブイブイ言わせたいから何者かになりたいです。
非常に普通じゃないですか。
つまりそれが何者でもないってことになるのかなっていうふうに思って、
私はそれがいいと思うんですけど。
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