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2021-02-23 32:45

【GMV 326】高階良子さんの新作の話

人が妄想分裂気味の時に考えること
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おはようございます、グッドモーニングバイブスです。 今日は休日なんですけれどもね、祝日。
一応祝日版ということで、気軽な話題でいきたいと思います。
でですね、昨日読んだ
漫画なんですけど、高階良子という人、私結構子供のところから好きで
結構濃い漫画を書く感じの人だったんですよ。エグ系、エグい系というのかな。
で、まぁ実際には私がというよりは妹が好きでしてね。妹がこれを
いろいろ買っていたのを全部読んでいたと。 あとはピアノ習ってたんで、ピアノの先生の家になぜかいっぱいあったんですよ。
いっぱいではないかな。いくつかあって、それも読んでたんですね。
こういうふうにして本に読まれるのって今思うと、いい作家ですよね。やっぱり自分の本が不意に病室とかに置いてあって、
不意に読まれるっていうことは、なかなか期待しがたいものだと思うので、
今思うとですね、ものを書くようになったから思うことですけど、いいなぁと思います。
で、高階さんが
70年目の、何だったっけな、タイトル。告白か。
まあ要するに半分辞伝みたいな、それもちょっとミステリーっぽく書いてるんですけど、辞伝なんですね。
でまぁ大変な辞伝です。多分読んでて辛くなるという人もいらっしゃると思うんで、そういった読まれない方がいいと思うんですけど、
要するにお母さんからひどい欠航扱いを受けてるんですね。
で、その行き先が延々と書かれていて、一巻終わっちゃうんですけど、
1946年だから戦後すぐから始まるんです。
でまぁ、もちろんその時代の記憶はないだろうから、
ここら辺が高階さんらしいんですけど、昔の高階さんを読んでる方は何の違和感もない設定ですが、要するに
意識だけそこに飛んでいくという、今の自分がですね、という設定なんですが、
まぁ多分そういう感覚を本当にお持ちであっても不思議はないぐらいの、
なんて言うんですかね、反省だなと思いましたけれども、そういうふうにタイムスリップを意識だけするみたいな設定なんですね。
そういう感じのお話を普通に書く方だなというのを、昔の作品を読んでいる方としては知ってるんで、
この設定は割とすんなり入れるんですよ。
で、えっと、とはいえ、絵の描き方がなかなか独特なので、
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まぁ簡単に言うと今風というのとはちょっと違うので、最初に読むという人からするとちょっとどういうふうにこの小回りしてるんだろうというのとかですね、
追っていきにくいシーンも、私も久しぶりに読んでちょっと面食らったんですよ。
今の漫画ってやっぱ、ある意味すごいんだなといろいろ思いました。
絵が上手いとか下手とかいうのではなくて、昔風なんですよね、要するに。
しかも極めて個性的でもあるので、このセリフの次に読むセリフはどれなんだというシーンが所々で、
それも結構頻繁に発生して、慣れるとですね、その感覚が非常に読みやすくなってくるんですが、
慣れないと飛ぶんですよね。あちこちに視線が飛んでしまうという現象が起きて、それも懐かしい感じでした。
最初そうだったなとそういえば思い出しました。
で、その高階さんの反省が、
あの、お母さん、お母さんなんですよ、もうほとんど言ってみれば。
主人公はお母さんみたいな。これは非常に、
なんて言うんですかね、最近の私の甘えですね。甘えというキーワードを、ものすごく戦後、間もなくの親子関係だから、
それはもうそうなんですけれども、甘えをこじらせるということが、
で、すごくそのことを、なんて言うんですかね、思い知らされる感じというのを目の当たりにする、そういう作品になってます。
あの、要はお母さんはいろんなものに甘えてるんですよ。
で、その自覚は一切ない。なぜなら戦後間もなくですごい大変な時代だから、まさか自分が甘えているなんて思わないんじゃないですか。
大変なことは大変なんですよ。甘えているというのは楽だということにはならないんです。
あの、状況次第によって甘えているというのは非常に楽なんですけど、
状況によってはですね、甘えているというのは別にそのことは楽だということにはならないんですけれども、でも間違いなく甘えてるんですね。
特にそれがひどい形で出るのが最初、夫になんですが、それがしばらく子供ができてからは、
その高階さんにと、りょうっていう名前で呼ばれてるんですけどね。
で、あの、一番象徴的だなというか、これは驚くというか、
読んでいると多分この甘えという観点を持たないと強く違和感が出るシーンがあってですね、
この高階さんは一旦、当時珍しくも何ともなかったんでしょうけど、
おば夫婦というのに引き取られるんですね。預けられるんですね。
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で、そのおば夫婦のところでは、偉く良くしてくれる。このおばさんというのも大変、
作中何度か言われてるんですけど、問題のあれはあれで問題のある人だってよくいろんなところで言われてるんですけど、
いろいろ思うところがあって、その高階さんに大変良くするんですよ。
で、幼い子なので、もう正直、おばさん賃での子になってしまいたいと、そういう風になっていくんですね。
が、結局のところそのおばさんは、
子供が欲しいというよりは、子供も欲しいんですけれども、他にもいろいろ欲しいものがあって、
それに大変高階さんを引き取るのが都合が良いんだという設定になってるんですよ。
戦後間もなくな上に、しかしなかなか資産家みたいな設定もあって複雑なんですね。
私はああいう、自分の家というのは結構、
そこら辺の非常にありきたりな、最初自分の実家というのはですね、話を聞いていても、資産家でもなんでもないし、
いろいろ複雑じゃなかったんで、こういう複雑な家庭環境っていうのの、
機微みたいなのを全部漫画から読み取るのは困難なんですけれども、
なるほどなというのは、いろいろ読んでじっくり読んでいくと、感じさせられるものがあります。
人ってまあ実にいろんなことを考えるものです。
で、この引き取るということそれ自体がですね、
高階さんのお母様にとっては、何にも都合の悪い話には読めないんですね。
高階さんもその家では甘やかされて楽しそうだし、何しろお母さん虐待してばっかりですから、
楽しそうだし、しかも高階さんのお母さんの家は非常に困窮していて厳しいわけですね。
この厳しさもですね、資産家なのに厳しいというのも非常に不思議な流れがあるんですけど、
厳しいんですね。お父さん働かないとかじゃないんですよ。お父さんはすげえ働くんですよ。
おかげで寿命縮めちゃうぐらい働くんですね。お金がないっていうのも大変独特の状況で、戦後間もなくということもあって、なんでしょうけど、
とにかく高階さんがおば夫婦に引き取られて、悪いことは客観的には何一つないんですよ。
だからこれは良い話だということで、お父さんも高階さんのお父さんも、このお父さんとの関係は極めて良好なんですよ。
しかも若くして亡くなっちゃうんですね。この辺、この後非常に難しい問題を引き起こしそうな
要素が満載ですけれども、とにかくそういう流れなんですね。このお父さんも高階さんをやるのは
悲しいんだけれども、結局問題は何もないと。ところがこれに猛烈に反対するのが
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お母さんなんですね。家にいてもひたすらお前はいらない、お前はいらないと言い続けるお母さんが、おば夫婦には預けられないと。
一体これは何なんだろうなと思うんですけれども、普通に考えちゃうとそうなっちゃうじゃないですか。
ところがですね、これ
甘えという観点を使うと全然不思議ではないんですね、これは。
預けるのはいいんですよ。甘えというのは何かというと、
これが私はアプローチが全く違うんだけれども非常に近い概念として捉えているんですが、
だからこの番組で喋ってるんですけれども、甘えというのは一体という意味なんです。
一体というのは、ここでは特に親子の一体関係を意味しているんですよ。
親子の一体関係というのはですね、特に母親であれば、母と子というのは一番最初は本当に一体だったんで、
一体であるということを認識するのに、宗教的なものやスピリチュアルは一切介在できなくてもOKですよね。
もともと一体だったのは本当じゃないですか。しかもそれを今の時代は目で見たり動画で撮影することすらできるんですよ。
私しなかったんですけど勧められたんですよ。娘さんが中にいるのをMRIで動画撮影できますと。
結構撮るんですよ、とはいえ。できるんですよ。だから今は一体であることを後々子供が目で見て確認することもできる。
そういう時代なんですね。でもそういう時代であろうとなかろうと、一体であるということはみんな普通に信じてますよね。
一体であったということ。これが甘えの原型ですよ。間違いなくそうだと思うんですね。
で、一体なんだからお互い愛し愛しましょうと。
何ら違和感はないですよね。どんなにエゴイスティックな人でも受け入れられますよね。自分なんですから。
ところがですね、問題はその自分なんだからの自分なんですよね。
甘えというものが文化を支配している世界においては、自分というのは少なくとも
物事がうまくいってる時には意識しなくていい認識なんですね。
これは甘えの構造、堂井武夫さんの甘えの構造にも出てくる話なんですけど、自分がないと言うじゃないですか。
あの人は自分がないと。あれ英訳多分できないと思うんですね。自分がないとは。英語に直すとどういう意味なのか。
ゼアリーズノーマイセルフとかなのか。 相当変ですよね。これ多分ですね、英語では表現できないんじゃないかと思うんですよね。
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近いことは言えてもとても説明的になってしまって、日本人がパッと言う自分がないのニュアンスは出てこないと思うんです。
で、自分がないというのと甘えの世界というのはワンセットで、元々なくていいものなんですよ、別に。
これを言うと、だから日本はダメって話になるじゃないですか。でもですね、じゃあいつもいつも自分でものが常に
外線のようにして、外線というのは外のシルエットみたいにしてですね、はっきりとそれを認識してないとダメなのかというと、どうなんでしょうね。
例えば眠ってる時に自分というのはこれです。例えば夢見てる時に自分というのはこれですというふうに、はっきりとその外の線を意識するとすると、多分その人は起きちゃいますよね。
眠れないと思うんですね。 西洋人というのは寝てる時に見る夢ってのはどうなっていて、夢についてどういう意識でいるんだろうと時々思うほど
愛というのにうるさいわけですよね。 でも夢の中では多分愛じゃない人が登場してますよね。
でその登場している人も含めて愛ですよね。 私この話しょっちゅうしてますけど非常に気になるところなんですよ。
つまり私たちは自分だといった時に自分の肉体の線をもってここを境界線だとみなしているんですけれども、
そんなの全く必要ない時もあるわけじゃないですか。一人でお風呂に入っている時、この肉体までが私ですってわざわざ意識しておく必要って全然ないですよね。
お湯がすげー暑いとか冷たいとかだったら意識されますよね。 ということはつまりこの自分があるとかないというのは
このテキストによって急に意識されたり、さほど意識されなくなったりという グラデーションを頻繁に描いているはずなんですよ。
なんかこうあるじゃないですか。私はあんまりないんですけど実は。 これからオリンピックとかが行われれば日本人の一体感みたいなのあるじゃないですか。
あれが嫌だっていう人もいますよね。 あれがすごい好きだからわざわざ競技場に行くって人もいますよね。
つまりそれはそういう感じって誰もが持ちますよね。 好きであろうと好きでなかろうと。
持つからこそ剣をしたりするわけだと思うんですね。
最近それほどでもなくなってきましたけど、ワールドカップとかすごいじゃないですか。 一体感とかってあるわけですよね。
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その時自分っていうのはここまでだとかって意識むしろしてないんですよね。
そうすると戦後間もなくなどという時代は多分
いちいち自分の領域はここまで、こっからは他人の領域みたいなのを強く意識しなかったと思うわけですよ。
そういう人がですね急に自分を意識する時ってどういう時かというと決まって被害に遭う時だと思うんですね。
高階良子のお母さんは多分、確実に自分が全然ないんですよ。
将来自分はこうするとか、うちはこういう方向で行くんだとかは一切別にないわけですね。
資産家だったし、旦那さんもいい人なんですけれどもおそらく自分で選んだってわけではないでしょうし結婚相手も。
だから自分というものが別に必要ないふうに生きてきたわけですね。
私たちの時代には日本人といえどもこの感覚でずっとやっていくってかなり無理があるんで分かりにくいんですが
むしろですね高階良子さんの目を通してずっと高階さんのことを虐待してばっかりいる子のお母さんを見ていると
自分がないというのはこういう感覚なんだというのが一環ずっと選んでいくと分かる感じがするんですよね。
で、この甘えというのでうまくいっている時はずっとグッドバイオスですよね。
ずっと一体感で旬風満帆でお互いがお互いを慈しむみたいな世界の中で
何しろ一つ屋根の下でベタっとくっついちゃってますからね。
妙にまたこれ面白いことに
お姉ちゃん、高階さんのお姉ちゃんの方にはやたらと甘いんですよこのお母さんが。不思議なこの差をつけるんですね。
男女じゃないんですよ。女の子女の子なのに差をやたらとつけるんですよね。
この人は多分自分というものが全くないので差をつけているという意識も全然ないです。
ただただただお姉ちゃんはいい子だから自分は別にいつも優しくするんだし、高階さんは
頻繁にこのセリフしか出てこないですけどバカでろくでなしでグズだから怒らざるを得ないんだと。
つまり自分はないんですよ。反応しているだけなんですよね。
そのことに別に不思議だともなんとも思ってないんですよ。だから
おば夫婦とかご主人とかにお前ちょっと高階さん、
まあ寮って言うんですけど寮にひどすぎないかって言われるとものすごく侵害だっていう反応になっちゃうんですね。
そんな自分はただ必要だから怒ってるんであって、
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いじめるとか憎いというふうにしているわけでは全然ないと。
世の中にはひどいお母さんもいて子供を虐待するっていうニュースもよく聞くけど本当にひどい人たちだと。
私はそういうのは全くない。普通にそういう反応なんですね。
私はこれは外で聞いていると大変違和感が当時ですらあったと思うんですが、やっぱり多分
全く不思議じゃないと思うんですね。本人の感覚の中では。本人の感覚の中では本人はほぼグッドバイブスなんですよ。
生活が極めて困窮しているから時々自分は怒りっぽくなる気がするけれども、本人の中ではですね
すべてが一体になっている。少なくとも家族はですね。あるいは自分と自分の子供については。
ただ、ただ
恐れがやってくる。 その恐れが
一つがですね、子供を奪われるという恐れなんですよね。 高階さんという子を自分の子を自分と一体ですから
おばが奪うと。しかもそのおばさんは難しいんですけど、ここが自分の家も取ったと。
これがですね、戦後間もなくの資産化の非常にややこしいところなんですよね。 これが果たして本当なのかそうでないのかが、この漫画を通しても
おそらく本当っぽいけど、本当だと確信するには高階さんの記憶と見解と解釈を全てまるまる信じる以外はなくなるんですよ。
で、まあ漫画だし、書いているのは高階さんですから、それをまるまる信じておいていけばいいんですけれども、
よーく考えてみると、この家を取った、取らない、誰のものっていうのを法的に考え出すとどうかなっていうところが様々あります。
あの書き方だとですね。どうしてもこう、まるっと信じても全然何の問題もないわけですよ。
私他人で関係ないですからね。ただの読者なんで。しかも高階さんのファンなんで、まると信じておきたいんですけど、どうかなっていう感じもしなくもない話なんですね。
でもお母さんにしてみれば、子供は取るわ、家は取るわ、とんでもない相手なわけですよ。
つまり一体じゃないわけですね。しかも家とは一体の象徴なんですよね、日本人にとっては。
同じ屋根の下の人々はみんな一体なわけですね。これが甘えの原型なんだけど、その家を取ったと、あろうことが。
しかもその家を取ったやつが、今度は高階さんも自分の娘も取っていこうとしている。
だから、そんなことは到底認められない。これがたぶんお母さんの自分がある時の感情なんですね。
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通常は自分がないんで、しかもそれでうまくいってるんで、特に例えば長男のお子さんとか、長女のお子さんとはうまくいってるんで、自分がないのをそれほど強く意識しないけど、
こういう時はそうはいかないんですよね。恐れと不安がガッと上がった時には急に自分が発生する。
これは非常にですね、
西洋人の目にはですね、統合失調症の毛があるみたいになっちゃうんですよね。あるいは分裂症の。
つまり普段は自分がないくせに、被害妄想を持った時だけ自分がいきなり発見される。
被害に遭うという時にのみ自分が発見される。これは分裂症の極めて典型的な態度なんですが、日本人にとってはたぶんそんなことはないんですよね。
ただ、さっきも言いましたけれども、おば夫婦に引き取られて、客観的に、客観的にというのはつまりかなりの部分、物質に恵まれている云々の話において、優しくされるとかもそうですけど、
客観的に見て何の不都合もないのに一人だけ反対する。これは自分がこういうふうに周りの面には映ります。
自分が娘を虐待して、ストレスが溜まった時に引っ張った相手が欲しいから手元に残しておきたいんではないのかと。
ほとんど犯罪的ですよね。いかにこれが視点に、取る視点によって違いを生むか。たぶんこれ西洋だったらそういうふうに見なされるし、
カウンセリングを受けましょうと。あなたは妄想分裂気味ですと。必ず考えられてしまう。でも
日本人の主観主観主観に合わせてよく考えてみると、決してこれは異常者の異常な言動と言い切れるかどうか。
あの虐待はたぶん当時でも行き過ぎていたんですけれども、本人の中ではそういう認識はたぶん全くないんですよ。
漫画読んでいただくとよくわかるんですけど、やっぱりあれは絶対ダメですよね。特に今の基準で言えばダメだし、
西洋的な基準で言ってもダメですが。
あれをああいう流れになってしまうということが、
日本の文化ではたぶんあり得たという話であって、しかも
親としてはですね、厳しくしすぎているとかいう気はないんですよね、あれで。
たぶんあの娘を失いたくないというところに、たぶん自分としては愛情があるとあえて言うならば、そういう言い方はしないお母さんですけど、
愛情があるのは嘘ではないんですよね、きっと。娘を取られるっていう意識がたぶんあったんですよ。
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その時はもう自分と娘は一体なので、だから叩いちゃうんですけれども、一体なので、
要するに自分で自分を叩いているような感じなんですよ、本人の感覚の中では。
自分がダメだから自分の太ももを叩くとか、やるじゃないですか。そんなことやらないですけど、今時の人は。
自分の足が遅いから足を叩くとか、その感覚からたぶん抜け出てないまま、娘さんを叩いてしまうと。
で、だから一緒にいるのはもう、
痛いとかではなくて、一緒にいなければいけないのであって、じゃなきゃ自分がもぎ取られるようなもんだわけですね。
で、家は取られたと。取られたと言えるかどうか微妙ながら、まあ本人の中ではおそらく
それに限りなく近い被害感がある。その上娘さんも取られる。
これが到底納得ができないので、手元に置きたいという、この時に自分というものがようやく現れるんですよね。
今までずっと自分なかったんだけど、自分が発生するんですよね。
このことを時々やっぱり、
都合失調症気味のとか、妄想分裂気味のという話を読んでいると出てきますよね。
あの、僕が読んだのはアメリカの本が多いですけれども、私の思考が抜き取られるとか、よくアイデアを盗まれるって言うじゃないですか。
こういう時に自分というものがすごく鮮烈に現れてくるんですよ。
だけれども非常におかしな話に周りからすると聞こえたりするわけですよ。
私が例えばそうですね、もう今ではあり得ないですけれども、新しいこう、
なんでもいいんですけどこういう甘えのような本を書いて、出版社に送ったと。
どこでもいいんですよ。どっか出版社に送ったと。
まあ、この企画を本人できないかみたいに送るわけじゃないですか。
いやダメですと、普通はそう言われますよね。
でもその約6ヶ月後に、その出版社から
なんか甘えの本が出たと。 他の著者の手によってですね。
で、この時私は私というものがふっと現れるわけですよ。
私の考えを取られたと考えるわけですね。
こういう思考回路になることってあるじゃないですか。
甘えがあるんだけれども当然、こういう思考回路になる人っていうのがいて、
驚くようなことじゃないと思うんですよ。
この人の主観を通せばそう見えますからね、ある程度は。
あいつは俺の投与したと。
だからこの出版社を訴えようってする。
そんなに僕はですね、多分そういうことは出版業界ではたびたび起こってるんじゃないかなと思います。
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投与じゃないですよ、たぶん。
完全に却下されて、たまたま似たようなタイトルの全然違う本が出ているというのが実態でしょうけれども。
そうは考えにくい。
これはやっぱりですね、いろんなところで別に自分がなく生きているという人が
不意に被害を受けた時だけ、つまり恐れと不安が発生した時だけ自分がバッと現れると。
そういう感覚になるんですよね。
そして、鼻肌一貫性に欠いた、これは他人の目から見ればなんだけど、
例えばその出版を宛てにして出版社に送っているのに、いきなり出版社を爆破しかねないほど激行すると。
あれですね、良いおっぱい、悪いおっぱいですね。
良いおっぱい、それは吸い付いた時にはいっぱい出てくると。
でも空っぽになってしまうと、悪いおっぱいだから壊すと。
そうするとおっぱいは壊れちゃうので、二度とおっぱいが来ません。
こうやって人間関係を壊してしまう人は山のようにいるわけですけれども、
そこには常に甘えというものがあってですね、
永遠に良い方が悪い方とは別々に存在してくれていないと困るということなんですね。
人間関係って長くやっていれば、自分にとって都合の良い面も悪い面も出てくるものなんですけれども、
それは認めがたいと。
この会社に入った時は良い会社だったんだけど、
上司が残業時間に退社間際になって何回も仕事を張り付けてくると悪い会社になると。
だから転職するということになると、これは良いおっぱい、悪いおっぱいと全く同じことをやることになるんですけれども、
非常にこれを頻繁に、ある程度は僕だってもちろんやります。
ただこれをあまりに頻繁にやると、とっても分裂気味に見えるということです。
これは良いと言ったりこれは悪いと言ったりが目まぐるしく変わっちゃうので。
でもそれは本人の中では、少なくとも日本人にとって本人の中では何ら驚くべきではない行動だと、そういうことなんですね。
それがこの漫画を読んでいてつくづく感じられる。
一貫してですね、あの漫画多分読んでいるとずっと逆転しているからこのお母さんよっぽど高階さんほど嫌いなんだろうなって思っちゃうんですけど、
そうでは全くないですよね。
全く逆の目から見ないといけない。
この人は高階さんのことが異常なほど好きで、異常なほど好きでって言ってもうまく説明できない。
ほぼ一体だから、憎んだり嫌ったりするというのは常にたまたま起きている事象なんですよ。
常にたまたま起きている事象なんですね。
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私なんとなく分かるんです。
虐待とは何の関係もないんですけど、私はアトピー持ちでした。
肌が痒いと描くじゃないですか。
ずっと描いたりむしったり叩いたりしている。
自分は肌がよっぽど憎いのかと他人の人が思ったら、そうじゃないって言えますよね。
自分の肌ですもん。
憎んだってしょうがないじゃないですか。
だからそういうわけじゃないんだって言う。
痒いから描いているんだって言うじゃないですか。
でもやっていることは肌虐待ですよね。
これは分裂気味に見えますよね、他人の目には。
もしこの人が自分の肌は大事だと言っているならば、
明らかに言っていることとやっていることが違うじゃないかって話になりますよね。
この肌に自分の子が相当しちゃっているんですね。
そういうことなんだと思うんですよ。
肌に相当している人もいれば、親に相当している人もいますし、
それはもう様々なんですけれども、
肌目にはどう見ても行動が一貫しているようには見えない。
だけれども、本人の中ではこれはやむを得ずこうなっているのであるし、
しかも描いたり叩いたりしているのはたまのことであって、
普段は大事にしているんですよ、保湿剤を塗っているしってことになるわけですよ。
だけど描いている時間の方が長かったりすると、
そういう意識も本人にはないんですけどね、
描いている時間の方が長かったりすると、他人にはどうしてもそうは感じられない。
描くの我慢しなさいと。できないんですよ、これが。
大変難しいんですね。
そこは大変よく描かれていました。
高階さんの70年の告白かな?
すごくよく描かれていて、この子はなんで逃げないんだ?
逃げなきゃ叩くしかないじゃないかってシーンが出てきて、
これがやっぱり描けるってすごいなと。
だって被害者ですからね、叩かれる人がこのことを心理的に、
突き詰めて描くっていうのは本当にすごいなと。
なんで逃げないんだっていう、叩きたくないわけですよね。
だけど叩いてしまうと。なぜなら逃げないから。
そしてバカだから。つまり痒いから。
こういうことなんですよねっていうのは非常に読んでいて感じます。
もう完全に分裂してしまっているわけですね。
どっちなんだそれはっていうふうに他人にはどうしても思えてしまう。
本人の中ではどっちもこっちもないんですよね。
本人の中ではベース愛しているなんですよ。
たとえそれが全く見えなかったとしてもですね。
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