2020-08-07 26:21

【GMV200】私たちが傷つく理由

アイデンティティを失う恐怖
00:05
おはようございます。グッドモーニングバイブスです。
これ回の上では第200回ということで、記念は何もありませんけれども、
私の方に記念で、今グッドバイブスな人生相談というのをですね、
倉園平蔵さんと一緒にYouTubeで配信しているんですけど、
この200回を記念して、ぜひ皆さんからご相談を寄せていただくと、
ご相談を寄せていただくためにはグッドバイブスの公式ウェブ、
グッドバイブス公式ウェブというふうに検索していただくと、
ほぼ確実に見つかると思うんです。
その中に人生相談がかなり目立つ形でバナーが、
バナーじゃないけど、そういうものがあるんで、
そこから質問を発信していただくと、今ならですね、
まずお答えすることに、きんきんお答えできると思うんですよ。
そんなに大量にご質問寄せられているわけではないので、
そんな遅くならずにですね、お答えを倉園さんとYouTubeの方から
発信できると思いますので、よろしくお願いします。
ということで、全然関係ない話をしますけれども、
公権という言葉があるじゃないですか。
みつぐにけんじる。
すごくいろんな人がいろんな形でですね、
この公権って日本語、かなりポジティブな感じがするんですよね。
アスリートであればチームの勝利に貢献したいって、
みんな言うようになったじゃないですか。
企業家の人は社会貢献がしたいって言いますよね。
他にも様々な場面で公権使われるんですけど、
この公権という言葉とアイデンティティを失う恐怖というのが
すごく結びついているなとよく思うんですよ。
この番組でもよくHSPという言葉を出すんですけどね。
繊細さんの本で有名になったのかその逆かもしれませんが、
私はHSPって結構狭い概念なんじゃないかなと思うんですよ。
みなさんが今傷つくとか不安だという話をしているのは、
その中にHSPの人ってきっと含まれると思うんですけど、
実数として傷つく不安というものが
他人が苦手という話、怒られるのがっていう話は
かなりみんなじゃないですけど、
この広範に広がっていて、
HSPという人たちが本当にHSPであることは
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その中でかなり少ないパーセンテージなのではないかと
いると思うんですよ、実際に。
光がすごく突き刺さるようだとか、音にものすごく弱い
っていう刺激過敏症みたいなのが昔からあったんで
いらっしゃると思うんですけど、
それよりもはるかに多くの人が別に光とかはともかく
ちょっと敏感かもしれないけど、
音とかもそんなにHSPの人ほどじゃないけど、
でも自分は心が傷つきやすいという人は
その100倍くらいいるんじゃないかという気がするんですよね。
わかんないですけどね、これは。
どっちにしてもイリュージョンなんで。
っていうのは僕の頭の中で勝手に100倍今言ったんで
多い感じがするっていう意味です。
この話に私は結構、
Good Morning Vibesでは集中していて、
Good Vibesの話の中でも私がここに
強く興味を持っている感じがしてるんですけど、
それは要するに私がそうだったからですね。
私は実感としてHSPではないんだけど、
対人関係はひどく苦手で、
極力ですね、もう一人でいたいというのが
やっぱりあったんですよね、強く。
今ではかなりなくなりましたけど、
これは自分の課題だなと。
これをポジティブに捉えて今の状態で
一人で生きていけばいいじゃんっていう、
一人きりずっと長くいるようにすればいいじゃないか
っていう発想もあると思うんですけど、
僕はどっちかというとそういう方向ではないんですよね。
自分はすごく孤独で強い人間だというイメージも
特にないので、
あえて頑張って一人でいるというのも
どうかなっていうのがあるんですよ。
その辺がかなり曖昧な感じなんですよね。
人といるのは苦手なくせにですね、
独立独歩で行こうみたいな感じとも
だいぶ違うんですよね、自分は。
なのでその辺はもう若い頃は
自分こういう問題で悩んだんだけど、
いつまでもこの問題をずっと考えてられないので、
適当にお茶を濁したという感じなわけです。
今改めて考えてみるとですね、
むしろ人に傷つけられる不安、
要するにですね、傷つく不安には
いっぱいあるということなんですよ。
光が刺さってくるみたいな
そういう人もいらっしゃると思うんですけど、
僕はそういう人を含めて
いろんな傷つくには使われ方があって、
人にいろいろ言われて
いろんなことを言われて
人にいろいろ言われて
傷つくとか
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それこそですね、貢献
つまりこの貢献というのは
その対義語だと自分は思うようになったんですね。
最近チームに貢献したいということを
盛んに言っているアスリートの言葉を聞いて
よく会社とか
一緒に仕事をしている人でも
私はこの仕事に貢献できていないとか
いう話をされる方がいらっしゃるんですよね。
この貢献という言葉が
一つの
独特のイリュージョンがあるなと思うんですね。
どういうイリュージョンかというと
例えば社会だとわかりやすいんですけど
社会って多分にイリュージョンだと思うんですよね。
イリュージョンがあるという感じがそこにはあって
それで貢献しなければいけないと
この考え方をとるとですね
いろんなことがうまくいかなくなるというか
うまくいかなくなった時にこの言葉がよく出てくる感じもするんですよ。
家族に
どっちが、夫婦はどっちが貢献している
ということを持ち出した時は
だいたいどっちかを責めたい時なんですよね。
うまくいっている時にそんな話が出てくるとは思えないんですよ。
何らかの組織なり
チームなり
グループなりの一員として存在するには
そのチームなりに
貢献しなければいけないというような
価値観なのかな
という言葉がよく出てきている感じがするんですね。
それは
たぶん
きっちりそういうものがあるわけじゃないような気もするんです。
会社ではそういうのをたてしたりするのかもしれないけど
チームでもするのかもしれないですけどね。スポーツのチームとかで。
あれ、本当はできないんじゃないかなと思っている人も
いっぱいいるような気がするんですよね。
査定というものがですね。
数字で割り出せるようなものになるんだろうか。
スポーツなんてすごい簡単そうに思えるんですけれども
実はそうじゃないんじゃないかと。
査定しないと
年報とか出せないので
査定は絶対するんでしょうけれども
あれ本当に
そんなに厳密に
割り出せるものなのかなと
よく思います。
野球とかはね
私は1日で
全試合見てたりするんですよね。
2チームの試合を
全部見たりもするんですよ。
それくらい見てるんですけど
絶対これ
貢献度というものを一人一人
全部を100にして
3.6%とか
8.7%とかっていうことは
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出せないなって気がしますね。
見てて。
そういうものじゃない気が非常にするんですよね。
家族で考えると
いきなりは
この話の無理がよく感じられて
妻と私はどっちに行くか
この家に貢献しているとか考えるのは
全く意味がない気がします。
ましてですね、ここに子供を入れて
この子はこの家の
何かに貢献しているから
ここにでいいことにするってだったら
もう
病んでる感じがしますね。
その発想は。
なぜこんな話になるかというと
一つは
リソースが足りないときだとは思うんですよね。
お金とかが
足りないとき。
チームでいうと
競争で競ってるから
当然その
より勝利に
貢献した人が
いいってことに
するしかないんですけれども
実際には
あれは仕事だからそういう話になるのであって
草野球とかだったら
絶対そういう話にならないと思うんですよ。
なぜなら草野球は
勝ちたいと思ってやるんじゃなかったら
やらなきゃいいわけですから。
わざわざやることですからね。
その辺から考えると
プロ野球だとか
プロのサッカーでもいいんですけど
あれがことさら問題になるのは
要するに
お金がかかっていて
仕事になっていて
できればやりたくないなと思うときも
ないわけじゃないからだと
思うんですよね。毎日毎日
試合やってればそういう気持ちにも
なり得ますよね。
あの
采配だっけ。書いた
落合監督ですら雨が降った日は
すごい嬉しいっていう風に
書いてた。どっかに書いてたと思うんですけど
要するに
雨が嬉しいってことは
仕事がなくなるから嬉しいわけじゃないですか。
なんだかの
形でですね。
だけれども一方で
ああいう人たちっていうのは
要は一軍の試合に出られないと始まらない
わけだから仕事が
したくてしたくてしょうがない人でもあるわけ
ですよね。そういう
矛盾って私たちにも常に
あると思うんですよ。私も
本書いても長くなるので
一冊目の本っていうのは
どんなに大変でも出したいっていう
気持ちがあったんだけど
これが50冊目になって
初心ってよく言うけれども
本当に一冊目と全く同じような
感じになるかというと
ならないですよね。たぶん。
雨が降って
嬉しいプロ野球選手と同じになると
それはレギュラーでいつも出てる選手の
感覚だと思うんですけれども
だから貢献という
言葉が飛び出すんだと思うんですよね。
それでも
貢献しなければならない
っていう理由付けを
必要とするから
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家族でそんなことってありえない
と思うんですよ。それでも
家族に貢献しなければならないっていう
ぐらいだったらすでに
家族は崩壊気味なんじゃないかという
気が少しするんですね。
で、アイデンティティ
っていうのは
特に過酷な
社会では大事だと思うんですよ。
そう
過酷でなくてもたぶん大事なんでしょうね。
自分が会社員としての
アイデンティティを持っているとか
会社員だと
今喋ってみて実に
ピンと来ないなと思ったんですけど
私はそういう
世の中で生きたことないですけど
例えば古代の
集落社会に
アイデンティティを失うということは
死にますよね。
その村の一員と認められないとか
その家族の一員と認められないとか
ほっぽり出されたら死ぬと思うんですよ。
つまりアイデンティティというのは
生死に関わってしまうということが
あった時代が
結構長くあって
しかもたぶん1万年とか
そうだったんじゃないかと思うんですよね。
そうすると私たちはそういう
感覚を今でも
強く持っていて不思議はないはずですよね。
日本人としてのアイデンティティとかって
最近ほとんど
言わなくなりつつある気もするんですが
結構1980、90年代は
そういう本も
売れてたような気がします。
よく
会社を行かなくなると
最近も聞いたんですけど
平日なのに
この平日なのにってすでにイリュージョンなんですけど
平日の朝なのに
家でテレビを見ている
自分にすごく呆然と
するみたいな
これ昔1980年代中盤ぐらいに
猛烈サラリーマン
って言葉が流行った頃に
あったんですよ。
急にリストラされると
そういう事態が起こるわけじゃないですか。
家でテレビを見ていて
そのことに耐えられなくて
自殺しちゃうみたいな話あったんですよ。
あれがアイデンティティの喪失
っていう問題だと思うんですけど
会社員としての
自分ってのがイコール
生きていく上で
必要不可欠な自分なわけですよね。
その会社員としての
自分という
アイデンティティを
守るためには
会社に貢献
いっぱいしているっていう感覚が
必要なんですよね。感覚だけじゃなくて
それが査定されるとか
そういう話になると
思うんです。
貢献できていないものは
つまりチームや会社にとって
必要ない存在だから
アイデンティティを失うと
そうすると
とても生きていけなくなる。
この発想って
大変ルーツは
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古いんじゃないかと思うんです。
多分古代社会みたいな
それを
今の会社とかチームとかに
適用しようとすると
こういう話になってくるんではないかと
思うんですね。
貢献しなければ
存在価値は認められないから
死ぬほかない。
偉い飛躍も
あるような気がするんですけど
このことに結構ですね
全然疑いを抱く
余地はないっていう風に思われている方が
結構いらっしゃって
自分にも他人にも平気でこれを言うっていう
人も
少なからずいる気がするんです。
この話って僕は
HSPとあんま関係ないかなと思ってるんですよね。
アイデンティティを
失う恐れがあるから
上司とか
特定の人に
厳しく言われることに傷つくのであって
会社の
関係者とか取引先からの
メールとか
全部それはですね
繊細すぎるからじゃなくて
問題はアイデンティティの方に
あるんじゃないかと
この組織の一員として
認められたければ
そういうメールの書き方をやめろとか
会社にギリギリに
来るなとか
会社にギリギリに来るって遅刻していない
わけじゃないですか
ルールは守ってないわけじゃないんですよね
ただそれが
チームへの貢献度
この貢献度には貢献したいという
気持ちみたいなものの表明を
含む感じがあるんですよ
やたらと言いません
ヒーローインタビューとかで
チームの勝利に少しでも貢献したいとかって
やたらと言いますよね
ああいう態度みたいなのが
評価されるんではないかと
思うんですよね
これを失う恐怖は
大変強いから
恐れと不安なんですが
大変強いから
これが失われたのではないかという
感覚に
恐怖は苦しむんじゃないかと思うんですよ
それが
傷つくという風に言われているのでは
ないんだろうか
あの光が
眩しいとか音がでかい音をして
怖いとか
そういうことじゃないんじゃないかと
もちろん
上司がすごい怒鳴るみたいなのは
音は大きいんですけど
音の大きさそのものに苦しんでいる人も
いると思うんですけど
僕はですね
最近のこの
後見大ブームを見ていると
むしろ問題になっているのは
刺激の強さの方では
なくて
アイデンティティを失う
あるいは失いかけたという
イリュージョン
それが私たちを苦しめるんじゃないのかな
という風に
潜在的な不安がとっても
強くなっているのではないのかな
というように思うんですね
ついでに言うとですね
タスク管理とか
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GDDとか
タスクシュートはですね
特にタスクシュートはですね
そこに手当てをするという
機能ではなかったんだけど
多分そんな理由
だいたい作った人フリーランスやってますから
そういう理由じゃないと思うんですけど
もしかするとですね
そういう理由で
一部の人にはすごく
心の平安を与えているような
印象を
さらすんじゃないかなと
最近よく思うようになりました
つまり
これだけの
貢献を私はしているし
今まさに貢献している
ということが記録として
残っていくと
GDDとかはちょっと違うと思うんですけど
それでもやっぱりですね
すごく貢献方向に
向かっているという
ニュアンスは出ると思うんですよ
仕事に関する
重要になることを書き出して
それを一つ一つ
進めていくという
そのことをですね
記録上明示していくことによって
私は会社に
こんなに貢献しているんですよ
ということを
ゆるぎなく自他に
認めさせられそうな雰囲気が
あるじゃないですか
イリュージョンだとこれも思うんですよ
会社は果たしてそんなことを望むだろうかと
結局
貢献度といったものは
最初僕が言いたかったのは
そういうことなんですけど
どこまでも恣意的で主観的で
AIがそれを
査定している
これからそういう時代も来るかもしれませんけれども
何をもって貢献というのかって
スポーツならまだしも
スポーツでも無理があるだろうと
言ったのはですね
見ているとそうなんですよね
スポーツだからといって
貢献度が果たして
貢献になるのだろうかと
将棋っていう
ゲームがありますよね
あれはコマが全部決まってるんですけど
各コマの
貢献度って測る意味ないじゃないですか
だって
腐は飛車のようには動けませんからね
という
枠組みの中で
飛車をどう使うかって話になってますよね
スポーツにも全く同じような
ところがあって
ある人が
ある貢献の仕方が
できるようにするためには
大量の前提が
複雑に絡み合っているものなので
そこのところだけ
取り出すとかってできないんですよね
だから小さな小技でも
その貢献度をちゃんと査定するって
発想があるんだけど
どうしてもそれはどこかを抽出して
抜き出すって発想になってて
ある小技が意味があるのは
後ろに大砲がいるからだったりするし
後ろの大砲が
有効なのは
前に小技をする人が
いるからだったりするので
順番を逆にしただけでも
意味は変わってくるし
しかも最近はその順番をあえて逆にする
みたいな発想も出てるんで
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貢献度って測れないんじゃないかと思うんですよね
特定の人の
特定の場面だけを取り出した
貢献度を測る意味ないような
気がするんですよ
そうやって
みんなが一生懸命貢献することで
アイデンティティを保つ
ということになったときに
記録って欠かせなくなるじゃないですか
そうは言っても
その記録をですね
せっせと取るわけですよね
タスクシュートとかGTDとか
いろいろなライフハックで
そうすると自分貢献しているわっていう
実態が見えるような
気がする
私これは
貢献度的だとは決して思わないものの中に
ひどく
タスクシュートをすることによって
会社に強気になれるっていう発想が
あるんですね
私はこれだけ貢献したということが
いつでもパッと出せるんだから
定時で変えらせてもらいます
っていう
それを可能にするのがタスクシュートですみたいな
言い回しがあるんですけど
私あれにはどうしてもですね
ちょっとこうなんだろう
ラディカルすぎるな
と思う時が多くあります
会社は
貢献度のあるものを
恣意的にですよ
恣意的に査定する権限を
持っているのは会社であって
それをどんなに
こういう風に貢献することが
会社にとって利益になっているんですよ
そういうことを
説得してかかるというのも
今でも必要な能力ってよく言われますよね
そうだと思うんですよ
プロ野球でもよく問題になっているというか
話題になっています
今では代理人とか
弁護士を立てて
選手自体は年望交渉に行かないと
大リーグとかでは
おおむねそうなっているわけですよね
それはそれで大事なことだと思うんだけれども
結局
恣意的に判断しているのは
会社の側であって
せっせと
勝手にこっちがですね
この貢献度55とかって言って
自己査定しているものが
果たしてそんなに
決定的な意味を
持ち得るかなという気は
ちょっとしますし
もともとタスクシュートというのは
何らそういう目的を持った
ものだという気はしない
もっとも
ここらへんになってくると
作者の手を離れて
独自に
独自に
全く想定されていなかった
活用法みたいなものが
出てくるのも
それはそれで面白いことだと
思うんですけれども
僕の感じからして
すごくそれは
違う路線に
走り始めたような
という感じも受ける
どっちにしても
思うのはですね
アイデンティティを失う恐怖というのは
もうそろそろいらないんじゃないか
少なくとももっと
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順位を下げるべきじゃないか
と思いますよね
重要度の順位みたいな
ストレス
正確に出てこないですね
ストレスを測る
この出来事はどれほどストレスになるかを
測るというのもあるんですけれども
アイデンティティの喪失はものすごい上位に
くるんですよね
ほとんどそれによって
鬱になって自殺するのはやむを得ないレベル
というところまで
位置づけられているんですよ
私は多くの場合それが結局
会社であり
職業欄みたいなやつなんですよ
私だったら自由業って書くやつですね
作家って書いてもいいんですけど
なんか僕は作家が
自分のアイデンティティってないので
こういう風にイリュージョンってあるんですけれども
自由業って書くんですけれども
要するに
そこがですね
一部上々の会社とか
観光庁だと
すごく安心して
自分自身の存在
価値というものに
充実感を感じられるという
そういうカラクリとともに
これを
守るためには
その組織への貢献度なるものを
高めて
これが守れなくなったら
もう死にそうになると
だから
そんなことでは社会人失格だという
なんか冗談みたいな文句が
実は
心に響いて
自分はHSPなんじゃないだろうか
という風に
感じてしまう人が
出るんじゃないかなと
そんなことで
いちいち傷ついてはいられないはずなのに
っていう考え方を持たれるんでしょう
けれども
実はそんなことで
いちいち傷つくだけの理由があるわけですよね
だってそれは
生死に関わることですからね
実はその
刺激でビクッとしているのではなくて
そんなことでは社会人
失格だと言われると
言われるということが
アフリカの奥地で
狼とかが
ウヨウヨしている夜中に
集落から
追っこりがされるんじゃないか
と思っている
子供の恐怖感のようなものを
連想させるんじゃないですかね
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