2021-03-08 32:09

【GMV 334】アイデンティティを手放していく

期待に裏切られると、自分が現れる
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おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
今週末にですね、書き上げ塾というのを、倉園圭祖さんとずっと3期までやってきているんですが、
こちらはどちらかというと本一冊書き上げるということを目的にしているんですね。
本を出すということにはまず、本一冊書き上げねばならないので、
これ、本書きたいぐらいの人は簡単だと思っていらっしゃると思うんですけど、
やってみるとですね、意外なところに難しさがあって、
最近Twitterのところでもですね、編集さんがこういうのに気をつけて書いてくれると助かりますみたいなのが
若干バズり気味なのか何なのかわかんないけどちょっと話題になって削除されてましたけど、
ああいうことも、あそこで書かれていることはとても基本的な話だったと思うんですが、
だからバズるほどの、あるいはちょっと炎上気味になるほどのことじゃないようにも思ったんですけれども、
なんとかというというのがあったら消しましょうとかそういう話だったんですけど、
で、こういうこと以外にもですね、一番あるのが実は書けるはずのことが途中でなぜか書けなくなるということで、
こういうことを消していくんですけど、喋り言葉の癖が出るんですよ、文章にはね。
だからそれを直していくっていうのも大事だし、それはそれなりに後進系使うけど、
やっぱり一番僕が感じるのは、見ていても思うのはですね、出なくなってくるみたいな感じですね。
原稿と自分の間が空いちゃうっていうような。
で、この問題っていうのは、私もちょっとこれは書き上げ塾を通じて学んだんですけど、
意外にですね、どう書けばいいかという文章の書き方そのものを深く学んでいくとですね、
この問題をもう解決できちゃうんですよ。
さっきのということとかの解消するっていうのもそういうテクニックの中にあるんですが、
こういうテクニックを通じて自分の言いたいことをですね、100は無理でも100に限りなく近づけるということはできて、
それをすることでですね、文章と自分の間の間が開かなくなっていくんですよ。
ここをそのライブで赤入れというやつなんですけど、今週末のやつ。
これを学んでいただくとですね、単文書くのに苦がなくなります。
面白いことにですね、本なら書けるけどあまり短いドキュメントはちょっと苦手意識があるっていう方も結構いらっしゃってます。
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ライターさんとかでそういう話されたことがあるんですけど、それはないだろうって思うんですよ。
だって何万字書こうと書いてるときは数百字から始まるわけじゃないですか。
だから2400は書けないが8万なら書けるっていうのは頭が抽象化しすぎているんですね。
だからまさにそういう問題を何とかするためにも役に立つので、やっぱり論文とかレポートとかですね、
と言われるとちょっとアレルギーがあるっていう方にお勧めしたいかなと思っています。
今週の日曜日ですね。
で、その名前と関係あるんですけど、ある程度まではね。
最近アイデンティティという言葉についてちょっとよく考えさせられる機会を得てるんですよ。
で、昨日ですね。娘が日曜日なので、中学受験なので模試を受けに行くんですが、
なんとですね、時間を間違えていて奥さんがすごい怒ったんですよ。
で、僕その一連の話を見ていてですね、一連のというか僕も送ったんですけど、まず朝送ったんですよ。
8時前ぐらいに。もうこの8時前に駅に行くという段階ですでにですね、すげえ厳しいわけですよ。
家庭の雰囲気が悪くなるほど厳しい事態なんですね。
にもかかわらず娘は戻ってきて、ごめん午後だったというわけですね。
で、私はクラゾノさんの教えがあるんで放送来たかと思ったんですけど、これどういう意味なんだろうということなんですね。
そう来るというのはどう来ると。まず真っ先に考えたのは、僕らは未来が読めないんですよ。
ところがこの未来が読めないというのもかなり限定的に、つまり私たちってだいぶ世の中を進めてきた生なんですけど、テクノロジーでですね。
未来が読めるものだと勘違いしてるんですよ。だからこの未来は読めないんですって話をしただけでも、ライフハックとかではですね、私の言っているこの未来が読めないって話を、
これはもう僕は別にグッドバイブス以後喋るようになった話じゃないんですよ。ずっと昔からそう言ってんだけど、信じてもらえないんですよ。
未来は読めるだろうっていうか、読めないと例えば大きなプロジェクトとかを組んで、読めないでは済まされないんですよっていう話もされるんだけど、
私はそれを組んでる人だろうと会社の経営者だろうと読めてないと思ってるんですよ。要するにここに断絶がちょっとあってですね。
未来は読めるんだという一群と、読めないんだっていうマイノリティとの攻め違いがあってしまうんですよ。
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でも僕は読めるんだったら、去年オリンピックしようとしてなかったと思いますしね、読めるんだったら東北の震災とか今よりもはるかにですね、
言い訳が聞かなくなるというか、はるかに責任を取らなきゃならない人たちの数が増えちゃって大変なことになるんじゃないかと。
読めるんなら、例えば生命保険とか火災保険とかのあり方も全く変わってくるんじゃないんだろうかと思うんで、やっぱり全く読めないんだと思うんですよね。
そういうマクロな話じゃなくてミクロなら読めるっていう発想があるんですけど、それはますます僕には信じがたくて、
ミクロだと全然読めないんだと思うんですよ。
この間地震が来た時も僕はよく思ったんですよね。読めてない。
もうまさに5分後に地震が来ますということが分かっていれば、あそこで寝てないよなと、あそこで寝ちゃってる段階でも読めてない証拠だと思うんですよね。
だから私はもちろん震度いくつが来て絶対大丈夫であるという確信を持って寝てたという人は別として、寝てた人は誰も読めてないと思うんですよ。
危ないじゃないですか、震度5とか6とかの地震の時に寝てるとかいうのは。
でも来ると思ってないから寝るわけですよね。それは仕方ないと思うんですよ。
つまり読めない。だけどこれは人為的じゃないものは読めないが、人為的なものだけなら読めるという発想の方も結構いらっしゃると思うんです。
だから計画はきちっと立てればその計画に関してはその通りに生き得ると。
ただコロナとか地震とかですね、自然的なものがそこを邪魔するから読めなくなるというご意見の方もいるんですね。
でも私は昨日の娘のを見て、もちろんこれはミスですけど、いわゆるヒューマンエラーですけど、
ヒューマンエラーって起こるじゃないですか。娘だけがヒューマンエラーを起こすわけではないんで、交通事故もありますし、
様々なものがあってヒューマンエラーというのも起きるわけですよね。
つまりやっぱり読めてないんだよなと。
ここで奥さんが劣化のごとく怒るというのを見て、やっぱり読めないというのは許せないというのがあるなと思うんです。
私は攻撃にならないように気をつけながらも、何を損したというのが一番許せないんだろうというのは大変興味深かったので、
何を損したのかを探ったんですね。
そうしたら奥さんがズバッと時間だって言うんですよ。
これはイリュージョンなんですよ。
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もしもですね、最初から昨日午後にあるということが分かっていれば、みんな寝てたんですよ。
そういう日は遅くまで寝てましょうみたいなのがうちの不分立になっておりまして、
というのも娘がもう大変なんでね。
学校は朝早いし、土日は塾あるしで、眠れないんですよ。
なので、土日のテストは常に午前中なわけじゃないので、午後の日があったら寝ようってことになってるんで、寝てるわけですよ。
その時間は間違いなく。
この起こった時間も含めて寝てるわけですよ。
ということは、寝てたいのかというと、寝てたいんだったら寝ればいいわけですよ。
駅まで送ったのは私ですし、別に娘が戻ってくる間まで起こったりしてなくてもいいわけですよ。
寝てればいい。私は別に寝ていることに不満はないので、眠ければ寝てればよかったんだけど、寝ないんですね。
なぜなら起こりたいんですよ。
なぜ起こりたいかというと、時間を損したからなんですよ。
このロジックは僕は来てれつなものだとしか思えなくて、その時間で何がしたいのかと。
これを探ると確かに攻撃的になるので、かなり気を使ったんですけど、これが面白いんですよ。
あつもりがしたいんですよ。娘もそうなんですけどね。
今もう家ではすごいホットなんで、寝てたいわけじゃないんですね。あつもりがしたいんですよ。
もう面倒くさくなってきたんで、私もさっさとその恐怖心を取ってあげてですね、穏やかにみんなであつもりをしたんですね。
つまりあれがしたかったわけですよ。だから時間が損をしたというロジックは成り立たないんですね。
なんせならば娘が間違えてくれたおかげで、というのは変ですけど、やりたかったことがやれてるわけですね。娘と楽しくあつもりと。
私はその間仕事してたんですけれども、これ面白いなと思ったんですよ。
問題なのは、時間を失ったということでも、眠いということですらなくて、
何かを失った気持ちが強いということが問題であって、後の部分は自分にわからないようにいっぱいイリュージョンを作って、
イリュージョンと意味づけをいっぱい自分の周りに置いてですね、怒りを保持すると。これが大事なんですね。
最後の最後まで抵抗されたのが、でも許せないというこの気持ちをどうしたらいいんだ、この話はいっぱい聞くんですよ。
本当にいっぱい聞きます。デートすっぽ化されたとかね。この怒りを保持しておきたい。
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許してしまったら、ここでですね、私はアイデンティティが出てくるんだと思ってるんですね。
許してしまったらもう私は私ではなくなるっていう表現を何度か耳にしたことがあるんです。
先日のトラケンのベックさんのYouTubeでもですね、アイデンティティって言葉が出てきました。
同じ意味で使ったとは言い切れないんですけど、やっぱりこうですね、攻撃したいとは言わないが許すわけにはいかないっていう心情が人にはありまして、
許してしまったら私は私ではなくなる。
で、私はここでですね、もう一段階考えるんですね。
もちろんここまで言われればもう、そこを頑張って許しましょうと外から言う筋でもないなとは思うんで、
ここはもう僕が考えればいい部分なんですが、
許したことによって自分が自分でなくなるということの何がいけないんだろうとは思うんですよ。
自分が同じ気持ちになった時、やっぱりこう、昔なんか自分をいびってきたやつとかね、考えて、
これを許すことによって自分が自分でなくなるとどうしていけないんだろうと。
で、これは逆に言うと自分が自分であり続けることによって、
一種の強い不愉快な思いを抱き続けるということになるんですけど、
うちの奥さんと娘は仲いいですからね。
娘に怒り続けていたいということは、心理的不快感を保っていたいってことじゃないですか。
それを保つことによってアイデンティティを保てるということになると、
アイデンティティには相当大きなメリットがなきゃいけません。
アイデンティティがあるというだけで、すごく自分にとっては素晴らしいっていう風に言い切れるぐらいじゃないと、
この苦痛とのトレードオフが、コストパフォーマンスが悪くなると思うんですね。
苦痛の方がでかいのに、アイデンティティを保つことのメリットが何もなかったらなりたかない話なので、
これはアイデンティティを保つということ自体が非常に大事なことだと。
自分が自分でなくなるということは、もう絶対にやってはいけないという、
なぜなのかとかの理由はないぐらいまで言っていると思ったんですよ。
この話とこの感覚は、おなじみのものだなと思ったんですよ。
親とかですね。
私、これも身近じゃない人にはとても考えることはできないので、
自分の憎しんですよね。
憎しにおりまして、親を許すわけにはいかない。
私は自分の親でもありますからね、憎しんですから。
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一体何をされたんだろうと。
どうみても何もされていない気がするんですね。
これ一体内面では何が起こったんだろうと思って、
非常に考えさせられるんですよ。
どこやって言うじゃないですか。
でも私にとってはどこやじゃないんですよ。
もちろんそういうことはあり得ますよね。
私は男だからとか、私は長男だからとか。
でも私よりも部屋は広かったし、
私の部屋にはないものもあったし、
うちの家って変わってるんですよ、その辺がね。
なんでそこまで私には良くしたが、
自分には最悪だったというのはどうして。
ないわけじゃないですよ、まったく。
でもね、そういうことはあり得ますよね。
言うほどの落差が見えてこなかったんですよね。
で、先日かなり突っ込んで話をしたんですよ。
そうするとやっぱりですね、
人格が変わったようになるんですよね。
それまで断章していても、
結局のところ私が私でなくなるんですけど、
アイデンティティの問題になってくるわけです。
で、自分にとっては、
アイデンティティの問題になってくるわけです。
で、ところがですね、
これが面白いなと思ったのは、
それが昨日の出来事とすごくマッチしたんですけど、
多分ではなく、ほぼ確実に
許した方がずっと楽になれるのは間違いないですね。
で、私の場合、見ず知らずの他人なら、
そんなことをどんなことについても
それにそこまで踏み込めませんけど、
そうではないので、
楽になったらもういいんじゃないかという感じが
一歩間違うとですね、
これ死んだ後も続くなと、親がですよ。
でも死んだ後も死んだ人について
許せない思いを抱いて自分だけが苦しむほど
損臭いことはないと僕は思っちゃうんですね。
どこか優物的なんで、
生きているのと死んでいるのは
この場合大きな違いがあるだろうと思うんですよ。
で、僕の場合は許せないというのがないから
許すというのがわざわざないんですけど、
許せないということは許さないということなんですが、
許さないということによって、
自分のその在り方、価値観が
あるいは正義感でいいんだと思うんですけど、
つまり正義ゆえに許せないものですから、最終的には。
損失をこむっていいよいいよって言っていたのでは、
何に、古剣に関わるとか、
古剣というのは古臭すぎて、
多分ほとんどの人はその意味を意識してないと思うんですけど、
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そういうことなんだろうなと思うんですね。
やっぱりすっぽ化されたときに
人の反応って大きく違いますよね。
ほぼ気にしない人と、
その人とは二度と口も聞かないという風なぐらいに分かれるんですね。
私は後者の人が損をしていると常に思っているんで、
そういうことは気にしないように、
気になりますよ、私は性格的にはね。
でも多少気になるぐらいに、
とどめておこうと。
なるべく一切気にしないようにしようという風には思っているんですよ。
両方見ていてどうしても、
前者が損しているようには見えないんですよ。
昨日もそうだったんですね。
時間といったときに、
人は違うものを言ってるんですよ。
これはすごく僕が気になる部分なんですね。
損することって現実にありますよね。
関連ですけど、所詮。
でも時間を損するということはあると思うんですが、
もっと時間を損したと言い切れるというときはあると思うんですよ。
でもこの場合ね、
時間を損したのは娘なんですよ。
明らかに。
だって小田原まで行って戻ってきたんでね。
で、時間を損しましたと。
でもそのことに娘はほとんど意識を回していないというか、
気にも止まらずに、
時間を損していない人が時間について研究するんですよ。
2つあるんですよ、私はいつも言いたくなるんですけれども。
これはまあ、これを言っても始まりませんが、
その時間で相対性理論でも発見できたのかと言いたくなるんですよ。
その時間、人間は損をした時間で何が代わりにできたと思うんだろうってのは、
非常に気になるところなんですね。
別に皮肉を痛いわけでは本当はないんですけれども、
私たちはその観念として、
やっぱりこの50分があれば、あれとこれとそれと、
50分でそんなに大したことをしたことは多分ないと思うんですよね。
私の記憶ではほとんどそんなことはないです。
ある50分が確かに決定的な意味はないですが、
かなり大事な意味を持つことはありました。
受験とかね。
でもそういう50分というのは、そんなに安々とは失ったりしないですよね。
やっぱりこの程度の寝れてたとか、ゲームができてたとか、
それがどうしてそんなに重大な意味を持つかというと、
そこには意味付けが働くはずなんですよね。
どちらかといえば、50分を確保して寝たときに、
人はこの50分は素晴らしかったとは言わないんですよ。
この50分でゲームができたに至っては、
ゲームしないで掃除しなきゃいけなかったぐらいに思ってるんですよ。
つまり、やりたいことがやれたときの50分はどうでもいいものになりがちで、
21:01
失ったときだけものすごく腹を立てて、
やっぱり非常にアイデンティティなんですね。
被害意識とともに出てくるアイデンティティというのは、
私たちの根本的なものであって、
アイデンティティというものそのものの構成の中に、
構成というのは要するにストラクチャーというものがあるんです。
ストラクチャーというのは、
アイデンティティというものそのものの構成の中に、
構成というのは要するにストラクチャーですが、
構造の中に不安というのがあるんだと思います。
不安というのが接着剤のように挟まっていて、
これがアイデンティティというものを組み立てる力として不可欠なもので、
だからこそこれは持っているときには何となく不安ぐらいな感じで、
それもどうかと思うんですよね。
決して良いものじゃないような気がするんですけど、
でも壊れるときになると、この不安という接着剤がですね、
引き離されるときに強烈な不安が発生するわけだから、
これがやっぱり苦痛を生み出すんだと思います。
つまり何のためにこれを保持しているかじゃないんだと思うんですね。
これが崩壊するときのこの苦痛に耐えるべき理由が全くないと。
そういうことなんじゃないかと。
実はこれを手放すときに不安というのはイリュージョンなので、
本当は何も起こらないんですけれども、そうはいかない。
なぜならば、そもそものパワーの源泉がそのイリュージョンにあるわけですからね。
だから本当の接着剤と違うんですよ。
これはしがみついていて初めてくっついている。
接着剤ってそういうものじゃないじゃないですか。
最初からこうくっついてますよね。
引き離すのに力がいるという意味では似ているんですけれども、
多分これは力を込めて引き離そうとしたのでは無理なんだろうなとは思います。
だから外の人間がとにかく言ってどうこうできるものではないんですけど、
しかし間違いなくない方が楽になれる何かなんですよね。
少なくともそれがガチガチになった方がメリットが高いというようなものでは。
だからこれがとっても皮肉だなとは思うんですよ。
まさに私の憎心がそうであるように。
私のように許す理由を持っていない人間は許せるんですよ。
そこに苦労はないんですね。
同時にこれも非常に皮肉だなと思うんですが、
許す理由を持っていない私はこの点についてアイデンティティを持っていないで済むんですよ。
西洋流でいるところのアイデンティティと多分この使い方は異なっていると思います。
やっぱりここは日本は甘えの文化なんでしょうね。
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つまり被害意識が出た時だけ強まるアイデンティティというのは何かやっぱり変なんですけれども、
でも自分が出てくる時と被害感がセットになりやすいというのは、
こういう文化ではある程度しょうがないことで。
私がやっぱり父と母を意識した時、
自分のアイデンティティというものを強く意識することはないんですね。
私の憎心はあるはずなんですよ。
これがすごくあるなって僕はよく思うんですよ。
アイデンティティというものはネガティブな方がその輪郭がはっきり見えてくることがよくあるしよく耳にする。
それが構造上健全であるとかそういう話とは違いますが、
確かにそういう事象ってよく目にするし耳にする。
もちろんその被害的な話がないわけじゃないから、
被害的なものを考えた時にはアイデンティティが出てきますよ。
例えば私は最初に行って、まあでも難しいところですけど、
まあでも行ってあんまりいい思いをしなかった中学時代があって、
この中学のことを考えると自分のアイデンティティというものを大事にしたくなるんですよ。
そこで呼びられてたっていう経験があるからですね。
つまり許せないことがあるわけですよ。
そして許してしまうと自分が自分でなくなる感じっていうのが思い出せる気がするんですよ。
全部今の話とマッチしてしまうんですね。
でもそれを許せずにおくことに何もないんですよ。
なぜなら今それと全く同じ中学がそもそもないから、
その中学ありますよ。
ありますが人が変わってますしね。
厳密に言うと校舎とかも変わってますしね。
もはや元のものとは言い難いんですよ。
だったらそれを許さないことによって、
私が何かを守れてるはずはないですよね。
つまりイリュージョンだけなんですよ。
そこにもはやあるものって言ったら。
私の憎しみについても同じことが言えると思うんですね。
すでにひどいことをしたのかもしれませんが、
それすら私目撃はしてませんけどね。
それと同じ人間すでにいないんですよ。
私から見てももう父母は全然変わってしまったし、
職業も今はないも同然ですし、
住んでる場所も違いますし、
母なんか人が変わったようになっちゃってますから、
同じ人はそこにもういないんですよね。
あるのはイリュージョンだけなんですよ。
そのイリュージョンを手放すということによって、
自分のアイデンティティを手放すような気がしているという、
そういう思いがそこにある。
ただそれだけなんです。
なければ非常に楽に、
なければ多分私と同じような心理状態だと思いますから、
そのことについては思い出すことの難しいレベルになっちゃっているんですよね。
これが昨日の事件というのかな、
トラブルイベントで、
そうきたかというのはこういうことだなと、
つまりそう気を売るようなどんなことであってもと、
27:00
考えてみればそんなことはいくらでもありそうなことなんですよね。
いつも午前中なんですから、このイベントは。
だけれども、まあヒューマンエラーです。
そして全然誰も予測していなかった。
私もトイレですっかりくつろいでいて、
すっかりこう油断していたわけですよね。
油断ってすごく大事だなと思います。
油断しないことが大事。
だから想定しようって話にすぐなるんだけれども、
油断しているということは既に期待がそこにあるんですよ。
すべてが順調にいってほしいという期待が。
だから地震が来たときに期待が裏切られて、
衝撃を受けて、恐怖を感じて、しばしば怒りを覚えるんですよ。
私はその期待していたということに気づくのは、
決まって期待が裏切られたときだと思うんです。
昨日も非常に驚きました。
帰ってくるということになって。
だって帰ってくるなんて全く思ってませんでしたから。
でもその可能性は決してそんなに、
今の状態でコロナにかかるよりははるかにありえそうな話ですよ。
で、期待が裏切られたということのときに初めて、
自分が何をこの世界に期待していたのかが見えてくるんですね。
これを先に想定しておくというのは、
決して僕はいいことのような気がしません。
やっぱり昔はすごくそれを従っていたんだけど、
結局裏切られるし、
不意をつかれるぐらいの方がですね、
不意をつかれてみたときに、
実はより何て言うんですかね、
よりフラットに見られる気がします。
今はすごくそういう風になりつつあるので、
びっくりするということは大事だなと思うんですね。
で、びっくりすることによって自分の心の動きの中で、
大きく裏切られた何かというのが見えてくるんですよ。
よく言うところの自分が現れるのは、
このタイミングなんだと思うんです。
少なくとも日本人だと。
このタイミングで現れた自分が、
しばしばそれこそが本体だと思ってしまうんですよ。
これが多分アイデンティティの核みたいになるんでしょうね。
ところがそうじゃないんですよ。
ここで現れている自分というのは、
期待により、勝手な期待をして、
その期待に裏切られて表面に上がってきた自分なので、
元がイリュージョンだから浮かび上がったものも
イリュージョンに決まっているんですよね。
そうやって見てみるとですね、
怒っている奥さんとかがっかりしている娘とかを見て、
これが現実を見るってことだよなと思うんですよ。
フラットな意識で見ると、
見えてくるものがいっぱいあるんですね。
非常にいいことだと思うんです。
出来事はいいことじゃなくて、
出来事がいいことのはずはないんですけど、
でもやっぱり現実に迫っていけるという感じを持てるということは、
大変いい機会を得ていると思うんですよ。
そうでなくても我々はすぐですね、
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全く自分の気づかないところで勝手な期待の中で泳いでしまう。
それは完全にイリュージョンが大きく自分を覆っているのに、
気づかずに現実の中にいるような気がしてしまう。
あれです、まさに自信が来ないと確信して根に入るときのあの感じ。
完全にイリュージョンの中にいるのに、そのことを忘れている。
でもこれに対してですね、だから油断してはいけないので、
一寸先、二寸先、百寸先を読めるようにしておく。
必要があるんだっていうロジックに至ったらダメだと思うんですよ。
逆なんだと思うんですね。
読めないんだから、ますます現在というものにいなきゃいけないと。
それがただできにくいから抱負と起きたかが発生するわけですよね。
でもこれに戦いを挑んじゃダメだと思うんですね。
どうせできないことなので。
そしてどうせやることは一切できない。
一寸先を読めるイリュージョンというものにはまっていくだけなので、
この未来を読むという方向性に期待できることはないと思うんです。
そうではなくて、裏切られたときに現実に帰ってくるということをした方が
遥かに得るものは大きいなと。
昨日そういうことを思った次第です。
つまり、一寸先を読めるイリュージョンというものにはまっていくだけなので、
昨日そういうことを思った次第です。
つまり、このロジックの先に現実というものに行ったほうがいいんだから、
現実にあったことをあっていいんだと思うしかないんだと思うんです。
あったほうがよかったんだと思うことになると思うんですね。
多分それを許すと言うんだろうと。
許せないということは結局期待をし続けるということになるんですけど、
期待をし続けることということこそまさに私のアイデンティティなんですね。
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