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おはようございます。キクセラピーを改めましてですね。先送りせずすぐやる人になるポッドキャストというタイトルにします。第738回目と、まあこれは通算の回数ですけどなります。
2月16日木曜日13時ちょうどに収録を開始していまして、これは取って出しする、つまりこれ取ってすぐ今日中にアップする予定です。
なんでタイトルを変えたのかというと、一つ入り口をこれにしようとだいたい決めたんです。
入り口というのはつまり、私の活動ってのはタスクシュートだったり、グッドバイブスを広めるだったり、カウンセリング心理、臨床心理の聞きかじってもらうというのが私の主要なライフワークみたいなものなんですけれども、
それで入り口が2個も3個もあると、それだけでももう分かりにくくなるばかりではなくて、私はずっと長らくタスク管理とライフハックでやってきたと、一番広くそう思われていると思うんですね。
その活動の中に心理学的な話を常に散りばめるというか、挿入してきているんだけれども、それはご飯の掘りかけみたいなところがあったと思うんですよ。それでもいいと思うんですけどね。
でも私は最近はどっちかというと、かなりメンタルがメインで、サブでタスク管理をするぐらいのスタンスなんです。
どうしてもこういう展開で、一人の活動が会う人だったり、自分が巻き込まれているイベントだったり、最近で言うと奥様はお家にいませんという状況だったりして、変わっていくんですよ、少しずつは。
でも既に出ている本とかは、それに合わせて都合よく書き換わってくれたりはしませんから、自分で書き換えれば別ですけれども、もちろんそんなことを編集審査者さんがさせてくれるわけもなく、
前の話と今の話で、僕の中でそんなに激しく矛盾しているものっていうのはないわけじゃないんだけど、激しく矛盾しているものがあるというだけでも問題かもしれませんが、そこは出版年月日を見てもらうことにして、そんなに多くはないんですよ。
多分そんなに多くはないと思う。激しくなく矛盾している部分はあるんですよ。
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それについてはどういうふうに言っても、さっき言った通り書き換えるわけにはいきませんから、事前のというのかな、今やれることとしては前の入り口から接続するのに、つまりタスクシュートに行く人であっても、
グッドバイオスの話に興味がある人であっても、一応入り口としてどこでも通用するものを最近私は考えていたんですね、自分自身の。先送りしかないなって思ったわけです。
先送りに悩んでいるという方であれば、タスクシュートの場合もあるでしょうし、グッドバイオスでもその話は扱えますし、臨床審理にも面白いことに出てくるんですよ。臨床審理にもこのプロクラスティネーション、先送りというのはですね。
その辺のお話をしていけばいいんじゃないかなって思ったわけです。入り口なんですよね、あくまでも。先送りで困っているというのはつまり、それをタスクシュートで扱えばだいたい行けるというのはかなりライフハック寄りで、メンタル的にはそれほど困っていない。
一方で先送りと一言で言ってもですね、例えば長らく実家の両親に会うのを先送りしてるんだけれどもどうしたもんかみたいな話になったとき、これをタスク管理分野を持ち出すのはあまり適当ではないと思うんですね。
やっぱりこういう話にはGood Vibesのお話が適切だと思いますし、たぶんそこにはですね、自分の意識しきれていない部分というのかな、最近はそういうふうな言い方をするんですけど、潜在意識とかいうわけではなくて、意識したくないということと、もう本当に忘れかけてしまっているという部分が相まってですね。
意識しきれない部分の問題というのが出てきて、ここはやっぱりかなりメンタル寄りになるんですね。
幸い私はそういう話は好きだし、今までもしてきたので、そっち方向のチャレンジが必要だという方にはやっぱりタスク管理を処方したくはないんですよ。
だから入り口としては僕の守備範囲というかね、メインは先送りにしておいて、どこを見てもですね、ポッドキャストであっても、セッションであっても、今やっているコミュニティ付きの長期にわたる3ヶ月のイベントであっても、J松崎さんとやっている100日チャレンジであっても、全部先送りというのをメインテーマにして、
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看板にかけるというふうに考えたわけです。
そうすると、そのコースそのコースというのかな、その時その時でその先送りの入り口から入ってきた人に、その人にカスタマイズされた先送り対象の何かの、なんていうんですかね、
タスク管理であったり、ライフハックであったり、行動科学的な話であったり、臨床であったり、グッドバイブスみたいな話であると。
私がグッドバイブスでどういう経験をしてきたか、これを言えば全部そうなんだけど、っていう話を織り混ぜると何か役に立つことがお伝えできるのではないかと。
つまり入り口としては先送りなんだけど、出口では何を受け取ることになるかはちょっと、私が今まで経験してきて役に立ったものの中で、その人が直面している、相談されてきた方が直面している課題ごとにカスタマイズ、私が考えられる限りのカスタマイズをして提供すればいいんじゃないかと。
こういったポッドキャストの場合は、そもそも来談者という方はいらっしゃらないから、私が勝手に作り出すわけですね。
このポッドキャストと、もしまだ余裕があれば、今全く余裕がですね、育児と家事に追われて余裕がないんですが、気持ちの余裕はあるんだけど時間の余裕がどこにもないんですよね。
パンパンになってしまっておりまして、そこに持ってきてですね、奥様は今実家の親御さんのために奮闘中なんですけど、そうすると次から次へと驚くほどですね、課題が噴出してきてですね、そっちの方のサポートも私がしなきゃならないと。
これはもう遠く、北東北まで行かなければならないので、ますます時間がないわけですよ。
いったいいつになったら時間取れるんだろうと。
こういう時に倉園さんが、あれ一体誰の歌だっつってたかな、歌を歌ってたんですよね。
なんていう、僕はこういう歌を知らなさすぎるんですけど、会えない期間が愛育てるのさ、みたいな歌を歌われていてですね。
そうか、なるほど、なんかいろんな引き出しがあるなと思って聞いてたんですけど。
要するにVlogとかになってくると、もう本当に夏、もしかすると来年、あるいは再来年になるんじゃないのって感じもどっかでしつつ、
無理やり突っ込めばVlogの時間とかは取ることはできるんですけど、もうこれはですね、やるとなると睡眠時間削る場面だなっていうぐらいですね。
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今日もこのポッドキャストは10時には撮るつもりでいたんですけど、もう1時ですからね。
ちょっと僕がまだ手慣れてないということがあって、掃除、洗濯、家事、お弁当作り等々がですね、やってるうちにどんどんどんどん午前中とかもあっという間になくなってしまうんですね。
これはいかにも文字通りの意味で、うちの奥さんが環境としての母親をね、こういう話をするんですよ、先送りの中で。
環境としての母親を文字通りやってくれていたから、うちの娘なんかはですね、今中一なんですけど、
ママがいなくなったことによって、自分がやることが増えたわけではないけど、なんか疲れるんだよねって言われていてですね。
それはなんか疲れるのは私がどこか不備だからなんだと思うんだけど、でも娘にやらせてることが増えてるとは言えないんですよ。
ちょっとお弁当包むのとかね、ごくわずかにやってることが増えてるかもしれないけど、それはもう本当に、トータルでは5分と増やしてないと思うんだけど、なんか疲れるってことは、
これはまさにね、環境としての母親っていうのはウィニコットの言った通りなんですよね。単にメンタルだけの話では済まされないんですよね。
もろんメンタルのことはあるにせよ、本当にいろんな随所随所に物理的な現実が変容していく、大体劣化していく、私がやるからね。
そんなにこう、めちゃくちゃ雑になってるとか言うことはないはずなんですけどね。
一応食事も身を見までで、テリッシュキッチンで、そんなに味が劣化してるとは思わないんだけど、栄養偏ってるとかも思わない。
別にローソンのお弁当買ってきてますっていうわけじゃないんでね、思うんですが。
しかし疲れるんでしょう、何かね。やっぱりね、奥さんがやってくれていた何かが不足している。
女の子ですしね、そこはもうちょっとしょうがないかなと私も思う。申し訳ないなと私は思うけど、やむを得ないなとも思うんですよ。
本当に目が回る忙しさっていうのは、こういう状況を言うんだろうと思います。
話が逸れてるんですけど、例によって。つまり、先送りや今言ったようなお話が関係してくると思います。
その件で言うと、やっぱりタスク管理とメンタルとグッドワイブス的な話と臨床心理みたいなのと行動科学が全部混ざってきているっていうのが実態だと思うんですよ。
私は先送りで悩んでるってことはないけど、倉園さんが先日もポッドキャストでお話しされていましたが、
あれタイトルがね、倉園さんのやつのタイトルを、私とのタイトルをよく覚えられないっていうのもあるんですけど、
特に覚えてないんだけど、倉園さんが、倉園慶三さんがと言っておけば検索してくれるだろうぐらいに思っておりますが、
これを聞いてる人はそもそもご存知の方が多いと思うんですけど、
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つまり、総力、全て力っておっしゃってるのは、私の中ではこういうのをだいたい指します。
私にとっては知識が多いけど、やっぱりこう、リアルに生活している中でこういう風にやっていくより他ないなっていうのが、
なんとなくこうやっていけばなんとか回るなみたいな、そういうものの集合体。
この中に精神分析なんですけど、メインは、カウンセリングは入ってきてしまうし、日々入ってくるし、
環境としての母親とかいう概念も、私はやっぱりよぎらざるを得ないんですよ。
よぎらせなくてもいいんでしょうけどね。他に適当な言葉が見当たらない気がする。
甘えと言ってもいいと思うんですよ。
この甘えだって私はドイタキオンさんの文脈でしか意識してませんからね。
娘が甘ったれてどうしようもないとか思ってるわけでは全くなく、
娘は母親に甘えていて、母親も娘に甘えてるんだけど、
そういう世界がですね、濃厚さが薄まるわけですよね。いないから。
そうすると、そこを自分が軟落の話をしようとすると、
疲れるって感じが持たれるんですよ。これはまさに甘えの世界の話をしているんですね。
なんでか疲れるんだよねって言ってるのは、不満を言ってるわけじゃないんですよ。
そういう変化が起きてるっていうことを報告してきてくれているわけですね。
こういうことを、こういうことが、つまりグッドワイブスとも、
僕は深く感じているんです。
深くどう関係しているかを話し始めるとですね、また1時間ぐらい経つんですよ、これで。
だからやっぱりこういうことを深くより聞きたいという方には、
その人がさらにその問題で、お悩みであれば、
セッションとかを受けていただくと、お互いとてもいいよねっていう、
こういうサービスなんですね、今私がお話ししているグッドワイブスのサービスというのは。
だから名前を揃えた方が、これはキクセラピーであっちはノートですとか言うのは分かりにくいと思うんで、
先送りせず、幸いのほうはよく売れたので、
まあいいタイトルなんだろうと、そういう私がタイトル付けがあまり得意じゃないので、
そういう人にこの辺は頼っているわけですね。
そういう人にこの辺は頼っているわけですね。
毎日毎日というか、今毎日配信できていませんが、
毎日毎日先送りの話だけするよという意味ではなくて、
これまでのポッドキャストと多分中身の変更はほとんどありません。
たまには野球の話とかになっちゃいますが、タイトルとしては先送りせずに、
先送りの話だけするよという意味ではなくて、
これまでのポッドキャストと多分中身の変更はほとんどありません。
これまでのポッドキャストと多分中身の変更はほとんどありません。
一昔前に流行ったセルフブランディングの一種みたいな感じです。
15:00
ゴリゴリ頑張りますよというつもりはないんだけど、
こうしておいた方が絶対分かりやすいだろうとは思うんですよ。
そういうことです。
今日はこの話ができるほど時間があるかなと思っているんですけど、
やっぱり面白いことに同じようなテーマについて
集中的に尋ねられるというケースがあるんですよね。
集中的に尋ねられているわけではなくて、
たまたま私が記憶に印象として残っているだけなのかもしれませんが、
とにかくそういう経験がありまして、
これは私がした話だなってこれを聞いている方は思うかもしれませんけど、
一人ではないということなんです。
一人だけに聞かれた話を取り上げることもありますが、
あんまり多くなくて、2,3人にその話最近聞かれているなっていうのを
僕はこのポッドキャストでだいたい取り上げているんですね。
それが全然この番組では目新しくも久しぶりでもない
妄想分裂ポジションの話。
これをやっぱり最近一段と考えさせられているんですね。
何度もエクスキュースしておきますが、
私は対象関係論の専門家ではないし精神分析家でもないから、
この話だけで何かを勉強したほどの代わりにはならないです。
これは私が読みかじって聞きかじった話をメインに
いろいろな私の仕事や生活のリアルな活動の中で
多分こういうことだろうと。
こういう概念はこういうふうに生きるものなんじゃないだろうかというのを
まさに生かじりですよね。
まさに生かじりのまま出すところがこのポッドキャストの
一つの聞きどころ、自分で言うのもあれですが、
だと思っていただくとありがたいですよ。
つまりアンカーでポッドキャストで日本語でそんなことやってる人は
他には多分いないだろうという気がするんですね。
第一にそれをやるメリットはどこにも普通一般には見出されない。
僕はただ喋りたくて喋ってるってところが多々あります。
ただ意外に人の役に立つことがあるんだなと、
それは危険だよっていう方もいらっしゃると思うし、
そのことも承知はしているんだけど、危険だからといって
これを扱わないっていうことは本当にできるだろうか
っていうこともあるんですよね。
藤山直樹さんのですね、よくあの先生は精神分析家で
対象関係論の方だと思うんですが、寿司屋に例えられるんです。
寿司屋っていうのは精神分析が寿司だとするならば
作らず食べずに、食べたこともなく寿司が語れるはずがない
っておっしゃっていて、それは全くそうだと思うし
いい例えだと思うんですよ。
でもですね、寿司の本とかを買ってきて
アメリカにはなぜかいっぱい売っててですね、
18:00
寿司マップセットも本にくっついてきたりするんですよ。
全然寿司にはならないけど、
じゃあアメリカ人があれを買ってはダメかっていうと
僕はそうは思わないんですよね、やっぱりね。
しかもあの寿司巻きセットで作った寿司は
日本人の我々が食べると
いや、これを寿司と呼ぶのはどうなのとは思ってしまいますけど
でもあれはじゃあ寿司じゃないと言い切れるかっていうと
そこも微妙だと思うんですよ。
巻いてるのがカリフォルニアロールチックの天ぷらだろうと
フライドエッグだろうと何だろうとですね
あれが寿司じゃないと言えるかというとですね
いや寿司では絶対ないよっていう人もいると思いますし
私だって食べた時は寿司という感触は得なかったんですけど
でもあれはやっぱり一種の寿司なんじゃないかと思うんですよね。
もちろんそれを作った方は
日本の寿司屋で寿司を食べたことはないし
寿司職人になるはずもないんだけど
でもあれが寿司でないという風に言うのは難しいと思うんですよ。
これは話が寿司だからって言われるとは思いますけれども
寿司に例えられてたからね、精神分析の方。
私もつまり精神分析の本を飲み交じって
これがこういう風な意味を持つという風に分かったところまで来ちゃったら
分かったように思ったところまで来ちゃったら
もうそれをある種の場面では
適応せずにはいられなくなる。
例えば奥さんと激しくやり合ってる時とか
実家に行って偽実家の葬式に出た時に
みんなの前でこういうことを言われてみましたって時に
もう一瞬でいろんなことがよぎる。
東映同一かとか。よぎるんですよ。絶対よぎると思う。
知ってる人ならわかる。
これがそれじゃないとすると何がそれなんだぐらいな感じがするんですよね。
これはもう目に見えるぐらいそういうオグデンの
こう言ってた、こう言ってた、こう言ってたっていう引用を
その場で3つぐらいは出せる。
その場で3つ出したところで何の意味もないんですけれども
3つぐらいは出せるぐらいになった時に
よぎるなって言われても困るっていうか
それを活用したような振る舞いをするなって言われても
しては危険だって言われてもやっぱり困るっていう感じなんですよね。
これを私はこの番組を通して
言っていきたいわけです。
じゃ、つまりそれしか言える場所がないからですね。
私のような人間。
はい。で、妄想分裂ポジションなんですね。
で、妄想分裂ポジションというのはですね
対になる概念として欲打つポジションというのがありますが
どうして欲打つっていう名前を付けるかというとですね
えーと、妄想分裂ポジションから抜け出た時
成人のおそらく正常な反応は欲打つ的だからだと
私は考えているんですね。
えーと、一つの私の例を言うとやっぱりですね
恋人と別れた時に激しく相手を罵っちゃった後みたいな感じ
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その時に欲打つ的になるのって正常だと思うんですよ。
いやー、そこまで言うことなかったよなとかね。
あのー、妄想分裂ポジションというのは
つまりそういうことだと思うんです。
なんていうのかな、取り乱しているとかっていうのかな
身分が高ければね。私の身分は高くないから
取り乱しているなどと言ってくれる人はいませんけれども
なんかちょっと頭に来ちゃったとかね、そういうやつだと思うんですよ。
で、誰もが入るポジションだと思うんですね。
だからポジションなんだと思うんですよ。
これを成人であればもうそんな状態は卒業してですね
二度とそうはならないっていうならポジションではないと思うんですよね。
やっぱりこう、発達段階って言葉を使うと思うんです。
私もアメリカに行って留学して心理学を学んだ口なんで
発達段階って言葉大好きなんですよ、アメリカ人は。
もうフェーズですよね。レベルとかクラスとか
なんと言ってもいいんですけど、要するに発達段階を言ってくるんですよ。
1、2、3ってつくやつ。
で、前の段階を卒業するっていう考え方を原則とる。
あれは多分アンナフロイトさん、フロイトのお嬢さんですね。
が創始者、そしてそのアリューがいろんなところで出てきている
超有名なところでエリック・エリクソンの発達段階説ってやつですよね。
で、その卒業するっていう考え方を私は
こういうのが好きな人は本当に普通に受け入れちゃうんだけど
私には到底耐えられないというか、理解しがたいんですね。
これをロングにまで当てはめる人っているじゃないですか。
死獣になれば不悪とかっていう。私はあれは絶対おかしいと思うんですよ。
だって魔導士40歳いっぱいいるじゃないですか。
つまり何の権利があってですね、
客観的にあなたはこの段階にいますよと認定できる人が
一人でもこの世の中にいるんだと思えるんだろうと。
私は死獣にしてノリを越えずみたいなやつなんだけれども、
寺では論語みたいな話は坊主だから頻繁に口にするんだけど
カチンと来てたわけですよ。9歳とか10歳の頃からね。
そういうのは繰り返し繰り返し聞かされるんだけど
イライラさせられるだけだったわけですよ。
だって例えば牛の父は坊主だったわけですけど
あんた不悪じゃないじゃんっていうね。
何をもって人に不悪だそうでないということが言えるのかと思うわけですね。
だから私はその脱脱談会説というのは
学校なんかではすごく適用しやすいことだと思うんですけど
中学1年になればこういうことが言えるとか、2年になればこうだとか
頭はいいけど協調性が足りないとか言うじゃないですか。
平気でそういうふうにテストでもない部分が採点できるかのような顔をする。
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これが足し算ができるようになりましたとか
でもまだ引き算ができませんならわかるんですよ。
そうじゃなくて協調性が足りないとか優しさがどうこうとかって
平気で言うあの神経がちょっとアレなんですよ。
こうイライラさせられる。
イライラさせられる。
このイライラさせられたとき私は妄想分裂ポジションに足を突っ込みかけてるとやっぱり思うんですよね。
これがすごく私は大事だと思うんですよ。
我々はつまりそうなんですよね。
例えば倉園慶三さんが言うところの平安という心の平安というのが
それがどういう境地であろうとも
平安というのは欲打つポジションにいる人が体験しているはずの心理状態なんです。
欲打つポジションが正しいんですよ。
欲打つポジションで平安な人は欲打つじゃないから
欲打つポジションにいて欲打つでなくなるっていうのがいい状態だと私は認識しているんですね。
妄想分裂ポジションに私たちは入ったり欲打つポジションに入ったりするんだけれども
多くの人はほとんどの時間を欲打つポジションで過ごしていて
しかも欲打つ的ではなく過ごせているのだろうと思うんです。
もし欲打つポジションからほとんど出ることもなく
しかも欲打つ的でないならば
その人は多分人のセッションを受けたり
お悩み相談の戸を叩いたりはしないでしょうね。
だからそうでない時というのがつまり苦しい時
妄想分裂ポジションにいるか欲打つポジションに入れてるんだけど
欲打つ的にずっとなっちゃっていますみたいな時に
なんかカウンセリングを受けたり
コーチングを受けたりを考えたりするんだろうと思うんだけど
これは誰でもすぐなるものだと思うんですよ。
さっき恋人と言い争ったという話をしましたけれども
この欲打つポジションと妄想分裂ポジションを
一番最初に言い出したのがメラニ・クラインという
もう一人のフロイトのお弟子さんですが
この女の人がつまり
良いおっぱいと悪いおっぱいという独特の表現で
赤ちゃんだから恋人と別れたり言い争ったりしませんからね。
赤ちゃんは良いおっぱいをかじると
これが恋人との言い争いに相当するわけですよね。
泣き喚いてかじると
つまり何やってるのかが分かってねえってことですよね。
妄想して分裂しちゃってるんで
あるいは妄想して相手を分裂させてしまっているんで
お母さんというものをおっぱいに分裂させて
おっぱいだけだと思っている。
思ってないんでしょうけれども
とにかくこう、わけわかんないわけですよね。
子供でそうなりますよね。わけわかんなくなる。
うちの子だって
27:01
4,5歳まではわけわかんなくなっているときはありました。
減っていくんですけどね。面白いことに。
そのわけわかんなくなっているという状態が
ずっと続きかねないのが
赤ちゃんだけれども
大人になるとわけわかんなくなった状態から
ふと我に変えるという状態があるわけですね。
これが欲打つポジションへの
なんていうんですかね。
チェンジなんですよね。
で、あの、あ、
まずいことしたかもとか
あ、言い過ぎたかもって言うじゃないですか。
子の奥さんも言ってきますよ。
あの、ちょっと言い過ぎちゃったね、さっきはみたいな。
私にも言うことはあるし
娘にも言うこともあると。
もちろん私もあるわけですよ。
このとき僕らは欲打つポジションに入る。
つまり平成を取り戻すわけですね。
で、そのときに一番よくあることが
さっきやったことに対して欲打つ的になるわけです。
まずいことをしてしまった。
言い過ぎたかもしれない。
反省してうつうつとなる。
これがつまり罪悪感なわけですね。
その赤ちゃんの場合
おっぱいをかじってしまった。
これでおっぱいを飲めなくなるかもしれないと
恐れをののくって言うんですよ。
メラニー・クライン的な表現を使うと。
そうしてこう、もしかして
私はまずいことをしたかしらって
赤ちゃんが思ったらすごい成長じゃないですか。
だから赤ちゃんの場合
欲打つポジションの獲得みたいなことを言うんだけど
これは発達段階じゃないということと
多分ですね、これは比喩だと思うんですよね。
本当に赤ちゃんがそう思うと
別に精神分析のほうで思ってるわけじゃないと思うんです。
大事なのはこういう赤ちゃんの心理状態の
いったり来たりが大人になっても起こると。
そして何らかの形で
欲打つポジションに来ることができなくなってしまうというのは
一つの精神病理として説明がつき
仮に欲打つポジションに戻ってこれたとしても
戻るという言い方を使っちゃってますけど
移行することができたとしても
その時欲打つ的になった状態から
一歩も踏み出せないみたいな
ずっと欲打つみたいになってしまうみたいな話が
つまり欲打つってあるか妄想分裂ポジションにいるかみたいなのが
精神的には厳しい状態だと。
なりますよね。なることあると思うんですよ。
僕は彼女と別れた時になりましたね。
自分で振っておきながら
その後ずっと欲打つみたいなね。
だからもうすげえ腹を立てて取り乱して
罵って二度と口も聞かないようなことを言っておきながら
その二度と口も聞かない状態に入ると
ずっと欲打つ。ひたすら反省みたいな。
そういう状態ってあります。
ありました。若い頃ではあるけれど
別に赤ちゃんだったわけじゃありません。
そういうことって起こるんですよ。
私たちの中でも。
決してあのような時は後から振り返ると
30:02
ほとんど病気だなとは思いますが
別に精神病にかかってたわけじゃないじゃないですか。
よくあることですよね、これは。
そういうことは起こることなんだと思うんですね。
一つの考え方として
倉園さんの考え方がありますよね。
この世に罪悪はないっていう考え方。
つまりこの欲打つポジションに入った時に
ずっと欲打つ的であるべき理由はどこにもないということです。
一つはそれは罪ではないから。
彼女を振るっていうのは別に罪ではないから。
もう一つはその事実。
振ったとか彼女がいなくなったというのは
過去のことだから。
現在はそれは存在していない。
罵っているとかそういう話は現在には存在していない。
これが今ここって話ですね。
もう一つ言うならば
それによって恋人を失ってるんだけど
本当に困ったことになっているのかという話。
心はものすごく取り乱したり
自分が喪失、これを喪失体験と言うんですけど
喪失あるいは対象喪失と言うんですけど
失ったということを猛烈に苦しんでるんだけど
失ったのは過去じゃないですか。
今、失いているという風に苦しんでいる
失っている対象というのは
実体のあるものではないんじゃないかという話なんですよ。
これ取り乱している最中にいくら言っても無意味です。
無意味ですが、あるんですよそういうことって。
つまり振ったとか振られたとか
いうのは過去に起きたことなのに
今まさにそれが致命的な喪失を生み出しているという
感じさせるケースというのは多々あるわけですね。
私もそういうものを感じていました。
話を言い訳するんですけど
この場合、対象喪失で
対象喪失という言い方をしているのは
心の中の対象を喪失しているからであって
恋人はもう失っていませんからね。
もう過去に失っちゃいましたから。
失うというのはある意味瞬間的な出来事ではなくて
失った時にだけ失うんですよ。
その後はいなくなってはいるけれども
失ったという表現は厳密じゃないんですよね。
心にぽっかり穴がいたみたいな言い方をするじゃないですか。
でもそれは心の中の穴だから
リアルに実態のある穴ではないわけですね。
この穴というのがつまり対象喪失の穴なんですよ。
その対象って何なのか。
いや恋人でしょって言われるかもしれない。
失ったのは恋人なんでしょうと。
恋人を失ったという怖さなんだろうし
悲しさや辛さや寂しさなんでしょうって
言われると思うんですけれども
ここ結論だけ先に言うとですね
この場合私は母親だったと思うんですね。
多分私が失ったというか獲得したと思い込んだのが
33:03
母親だったんですよ。
恋人という恋人に母親を失ったという
恋人に母親を投影させて
恋人に母親を見て
これねものすごいマザコンっぽいから
気持ちの悪い話だったりあるいはですね
そういうのは特殊な例だと思われるかもしれませんが
私は別に恋人が母親そっくりだと思ってたわけじゃないですよ。
あるいは恋人は母親とよく似た顔の人だったわけでもないです。
母親を憑依させるというのは
ちょっとややこしいというか分かりにくいんですよ。
これはつまり私が赤ちゃんだった時に
見た母親をその恋人に見ていたんです。
無意識で。この辺がすごく臨床的なんですよ。
これはですね本当にそういうことが言えるかどうか
ということに対する証拠は出せませんか。
私は心の中では確信しています。
その恋人との失恋体験を考えてみるにですね
多分うちの母はいかにもうちの母らしいんだけど
私を結構幼い頃に突き放して育てようとしたんですね。
もっと男らしくこうビシッとやれと
そういう風に突き放されたんですよ。
その時の寂しさと屈辱感が残っていたために
それを恋人を作ることで取り返そうとしたんですね。
その屈辱を晴らすということ。
だから喧嘩しちゃうんですよ。
と寂しさを埋めるということ。
両方その彼女で賄おうとして
そこで振られるということは
私のおそらく1歳か2歳の頃に母に突き放された
もう覚えてもいないし
別に恨んでるわけではないつもりなんだけど
そうしたトラウマを引き起こすんですよ。
再度。多分ね。これは多分ですよ。
でもそう考えて一番僕にはしっくりくるんで
どうせ過去のことですけどね。
しっくりくるんでこういう風に考えているわけですけど
これを対象と言うんですよね。
実態はないじゃないですか。
本当にそういうことがあったのかどうかも分からない。
ただそういう対象というものを失ったと。
あんな喧嘩をしなければよかったとか
過去に戻ってやり直したいとか思うのが
欲打つポジションの非常に欲打つ的な部分なわけです。
でも私はその彼女とは結局別れて
もうだいぶだいぶだいぶ経つわけですね。
長い期間が経っている。
今もその彼女を喪失しているかというと
別にそんな気はしない。
私は今欲打つポジションにいて
そんなに取り乱しているわけじゃないけれども
欲打つ的なわけでもない。
この状態に入れればいいわけですね。
入れれば問題は解消する。
そしてですね。
この話が一体多分もうお忘れになっているかもしれませんが
このポッドキャストはタイトルを解消したわけですね。
先送りせずすぐやる人になる。
すぐやるためにはですね。
この欲打つポジションの欲打つ機に
いては到底無理だってことがまずあります。
36:03
私は対象喪失をするっていう体験を
もちろん何度もしているし
皆さんもそうだと思うんですけれども
対象喪失をしたときはやっぱりこうですね。
その穴を塞ぐことで
いっぱいいっぱいになってしまうんですよ。
とてもじゃないけれども
仕事にはならない。
だけれどもですね。
この対象喪失というのは
今言ったように失恋とかの時は
やむを得ないとしてもですね。
気を付けていないと
頻繁にここにはまり込んでしまう気が私はするんです。
昔なんかそうでした。
ちょっとしたトラブルでメールでよこされたとか
ちょっと編集さんに厳しめな
全然厳しめなことがよく書かれてないんだけど
書かれてみるとすぐこれがこれに似た
もちろん軽度のものだけど
怒ってしまう。
つまり
言ってみれば
恋人と母親関係を持っているというのは
一つの錯覚した世界なんですよ。
錯覚ですよね。恋人母親じゃないんだから。
私の母とは別人なんだから。
この錯覚した世界
赤ちゃんのように心の中ですよ。
情緒的な
非常にこう
幼かった頃の情緒の部分が
しっかり満たされていると感じているから
彼女なりと一緒にいて
心地よいんだけど
この心地よさは
概ね誤解に基づくものなんですよ。
一時ナルシシズムという
ナルシシズムあるいはお前の世界なんですよ。
この世界にいたときに
いると思っているときに
私たちは
機能を十分になって
非常に活発に働くことができるんですけど
この世界は当然
いろいろな自分の勝手な
ナルシシズムとイリュージョンによって
満ち満ちた世界なので
失われやすいんですよね。
残念ながら。
相手を母親扱いにしても
母親役をやってくれなくなると
その瞬間にもう失われるわけですよね。
だから微妙な対象喪失みたいなのは
しょっちゅう起こるわけです。
妄想分裂ポジションというものに
すぐ踏み入れるような危険性を
恋愛中とか
だから恋愛めんどくさいとか
言うんですけど
これはそうじゃないんだと思うんですよ。
ここまでカラクリを見てくると
要はこの喪失と言っているものは
実際には何にも
喪失しているわけじゃない。
そうは恋愛中は思えないと思うんで
恋愛はやや例外だと思うんですけれども
でも例えば会社に行って
パパのようにいい上司がいましたとか
完全に間違ってるじゃないですか。
イリュージョンじゃないですか。
そのパパのような上司が
実はちょっとパワハラっぽくて
嫌な上司だった瞬間に
パパを失っちゃうって思うんですよ
私たちの心は。
こういう対象喪失の
小さいバージョンは頻繁に起きます。
この時に
喪失と言っているものは
39:00
僕らが勝手に穴を作るんですよね。
つまり
これを
存在する母親の不在とか
わけわかんない表現を
取ったりしているんですけれども
難しいですよね。
ここをお伝えするのは
もともとなかったものなのじゃないですか。
それをあると勘違いした。
でも勘違いして
あるというのは
誤解に基づくものだから
無くなった時に
でも私たちはそれが
あったはずのところにない
漫画でてんてんてんてんを書くやつですよ。
ここにあったはずのものは
どこに行ったっていう。
でもあれは心の中で起こっている出来事ですよね。
ここにあったはずだろうと
何だろうとないものはないんですよ。
よくありますよね。
僕昔
なんかの漫画でドラえもんだったかもしれないんだけど
違ったような気がするんだけど
そこにあったはずのものがないのを
てんてんてんで描くじゃないですか。
あれなんですよ。
あれは対象創出というのは
ちょっと言い過ぎかもしれませんけど
でも対象創出って
ああいうことだと思うんですよね。
そこにあるはずのものがない。
で、あるはずだという思い込みが
そもそも偉く傲慢なんですよ。
これは私に一生
母親こうやってくれる恋人が
いるはずだって言ってるのと
何も変わらないじゃないですか。
そういう思い込みを
僕らの心が作り出し
それは思い込みでに過ぎませんでしたよ
じゃあねってことになった時に
偉いショックを受けて取り乱して
激しく怒るわけですよ。
そういうのを妄想分裂ポジションという。
で、ちょっと時間が経つと
欲打つポジションに戻ってこれるんだけど
その時に辛さが残ってるから
欲打つ的になるんですけれども
それはもともとなかったものだよね
っていうことを思い出せれば
いいわけです。
だけれどもそこに思い至るためには
情緒的に納得できないとダメなので
まあ多少辛いです。
この思いが深ければ深いほど
辛いと言えば辛いです。
ただ恋愛とかで特にそうなんですけれども
この辛さが辛いほど本物だっていうのは
私は全然デタラメだと思いますね。
これは実はあまりにも辛いというのは
やっぱり病理に結びついていて
さっき言った自分の反応が
母親との関係とか
そういうものがそこに
関わってきているはずなんですよね。
そこまでいかない場合は
多分しょうがないよねって思える日が
そんな遠くないと思うんですね。
で、散々長々と色々お話ししてきたんですけど
要は妄想分裂ポジションにいたんでは
まず仕事にならない。
取り乱してるから。
そしてその後喪失したという感じを抱いたまま
仕事をしていても
多少は進むんですけど
めちゃめちゃ辛い。
この状態で仕事をして
消耗します。疲労します。
すぐ疲れてしまいますという問題は
42:00
私が今多く聞くケースでして
その場合やっぱり
まず失っていないはずの
失ったものって何でしょう?
これはややこしい問いだけど
こういうふうに考えていくより他
ないんだと思うんですよね。
例えば失っていないんだけど
失ったと思い込んでいるものの
良い例として
良い職場とかですね
雰囲気の良いオフィスとかね
そういうものですよ。
みんなが
みんなが私の時間を大切にしてくれる
同僚たちとか
そういうものです。
そういうものを見て
見てしまったわけですよ。一度。
ここはもっと
ライフハックに満ちた
合理的な職場だったはずだ。
でも何とかさんが来てから
それが失われた気がする。
そういうことじゃないですよ。
もともとなかったものですよ。
そこにあると思い込んだものがあってですね
そこに一時なるシズムの世界が
形成されたわけです。
すごく良い職場だ。
こここそ私にとって
私が一生働くのに
ふさわしい職場だということを
作っちゃったんです。
作った中でバリバリやっていた。
でもそういう作ったものは
損なわれたり失われたりする。
それも近い将来。
必ず。
その時に原因だと思われたものが
例えば新しく来た課長とかなんだけど
それは全然原因でも何でもないんですよ。
ただもともとなかったものが
ないことが明らかに
その課長の登場によって
何らかの揺さぶりがかかって
ないことが明らかになったにすぎない。
途端にですね
私たちは妄想分裂ポジションに
叩き込まれて
あの課長を追い出すしかない
とかよくわからない妄想を
考え始めて
でも失敗するので
何かやりあったりするじゃないですか。
そして反省するじゃないですか。
その時に欲打つポジションに入りますよね。
欲打つ的になります。
戻ってきた時にね。
その時に前はあったはずの
あの良いものがなくなった
って思うんだけれども
なくなったって思った時に
ポジションに入っちゃうんですよ。
このパターンになり始めると
ずっと先送りを何かしたとしても
全然不思議はないわけです。
例えば転職を先送りする
とかいう心理状態になるわけですよね。
こんな会社にいてはダメだと思うので
転職しようと思うんだけど
でもなーって思うわけですよ。
これ考えてみると
転職をでもなーと思うのは
当然じゃないですか。
だからこういった方がですね
まあその
何でもいいですよ
転職をずっとしようとしてるんだけども
先送りを繰り返してしまいます
っていうのは
本当は訴えとしては
逆のような感じもするんだけど
ここを入り口に
話長くなりましたけど
ここを入り口にしていただくと
いいんじゃないかと思うんですね。
これってまさに入り口になると思うんです。
45:00
この悩みって明らかに転職をする
転職を早く
先送りをせず
すぐ転職をする人になったとしても
解決しないんですが
そういうことではない
っていうことが
明らかになりさえすればですね
ある程度この問題というのは
取り組むことが
できるんじゃないかと思うんですね。
長々としゃべってきたけれども
要するにそういうことです。
そして
この話
どのアプローチを取っても
いいと思うんですよ。
すっごい極端に言うと
タスクシュートでもいいかな
とその話も
おいおいしていきますけれども
そういう話になっていくと
使いとかがあったほうがいいかな
ブログとか書いたほうがいいのかな
と思って一周して
戻ってきてるわけですよ。
まもなく2時になりますけれども
今日ブログ書く時間がどこかにあるとは
とても思えないわけですね。
ブログ書いてたら多分
日付変わってしまうわけですよ。
そして日付変わってしまっても
明日の朝5時半には起きなきゃならないから
睡眠時間が5時間半とかになってしまうので
ブログを書くことによって
睡眠時間が5時間半になるのどうよ
って思ったりしていて
私も今そういう先送りが起こっていると
こういう話なんですね。
こういう話もあります。
だから思うんですよ。
卒業したりはできないと思うんですね。
人間が40になればこういうふうに
50になれば立志になって
そして最後は悟れるみたいに
そういうふうにはできてないと思う。
やっぱりポジションなんだと思うんですよ。
いつでも僕らも
妄想分裂ポジションに入るし
そして欲打つポジションに戻るし
その欲打つから脱出すれば
多分平安になれると思います。
けれども
だからといって
二度と妄想分裂ポジションに入らずに
住むっていうふうには
なかなかならないと思うんですね。
なぜなら脳には
妄想分裂ポジションを作り出すような
機能が備わっていて
卒業したと思ったからといって
あるいはなんか
多起業とかをやったからといって
それが脳の中で
機能しなくなるとか
その脳がなくなっちゃうということは
起こらないからですね。
悟りを開くとかになってくると
構造それ自体が変わるのかもしれないし
二度とその機能は
使わないということが
できるようになるのかもしれないけれども
そういうところまで行かない限りは
いつだって元に戻り得るものだと思います。
そういう意味で
スキーとか水泳のスキルとは
ちょっと違うなと思うんですよね。
水泳ってのは
致命的な何かが起これば別ですけれども
一度泳げるようになった人は
泳げなくはならないんですよね。
でも妄想分裂ポジションと
浴室ポジションというのは
そういう関係にはないと思いますね。