2024-05-17 50:17

聞き手なしには話せない【GMV985】

ヒステリーとはなんなのか?
00:04
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
5月17日金曜日、21時17分ですね。
もはやね、私がこれをやっているこの時間が、
グッドモーニングであると思ってやることに、
これはしました。
相変わらず、わけわからんことを言っておりますけどもね、
まあ、そんなものでもいいだろうと。
こういう変なテンションになったのは、
おそらくですね、つい先頃に終わりました、
ケンスさんという方をね、
ネット界では割と大物なタスクシュートジャーニーの
第5回のゲストでお招きしたんですよ。
新卒で、リップサービスもあったかと思うんですけど、
私のスピードファックスをお読みいただいたということで、
大変ありがたい限りだったんですけど、
新卒時代ということは少し年齢差があるんだなと、
今さらながら、今さら認識するあたりが私なんですけどね、
別に彼の年齢とかを正確によく分かっていないまま、
いろいろとお願いしたり、今日はお話したりしました。
で、すごい、何て言うのかな、
まあ、とにかく、何て言えばいいんですかね、
まあ、フリーのサバイバルゲームを上手に生きていらっしゃる方だよなっていう、
そこはもう本当に上手いゲームプレイヤーって感じですね。
昔ね、私がやってたので言うと、
本当に星が昔の人間なんであれなんですけど、
昔の人間っていうのはちょっと極端ですけどね、
ストリートファイター2のターボとかね、
やたら上手い人っているじゃないですか。
どうやってもこの人には勝てないみたいな、
そういうものをちょっと感じましたね、今日は。
まあ別にそれが良いとか悪いはないんですけど、
やっぱ上手い人っていうのは負けると悔しいけど、
やっぱり上手いというのには一定の感心させられる部分ってありますよね。
もうここで絶対に昇竜拳出て食らって死んじゃうみたいな、
設定してるよねっていう、そういうやつですね。
例えがイマイチですね。
上手い例えないかなと。
対戦型ゲームやってるのと、
いわゆるフリーランスのサバイバルってちょっと違って、
どっちかっていうとオリエンテーリングをやってるんだけど、
これもいるじゃないですか。
やたら速い人って。
なんでそんなに早く一周できるんだっていうぐらい、
速い人達っていますよね。
自分らもずいぶん頑張ったつもりなんだけど、
終わってみると10チーム中6位とかね。
前に5チームもいるんだみたいな、
そういうものをちょっと今日感じて、
感心させられた次第ですね。
03:01
まだお若いのにっていうのも変な話なんですけどね。
それでちょっと今日はいろいろ考えるところもあって、
考えるところがあると、
さっきのような突拍子もないことをしゃべったりもするわけですけど、
お知らせを先にしよう。
こういうふうにしゃべってるとは忘れちゃいますからね。
19日にタスク集と手帳述の回というね、
タイトルが変わりまして、
お申し込みもちらほら追加されてきまして、
非常に嬉しいんですけれども、
19日の日曜日、
こちらは14時からカンダで、
実会場はカンダで、
あとはオンライン、
アーカイブもありますと、
ぜひお越しください。
タスク集とクラウドライトのゾエさんも、
開発したゾエさんもいらっしゃいますし、
いろいろと直接話をしたいといった方がいらっしゃったら、
ぜひ直接会場のほうに来ていただけるといいなと思います。
ついでに26日日曜日だ、
プラザのけいぞうさんと、
Good Vibes×タスク集とセミナーというのをやります。
これもですね、
こちら13時からオンラインオンリーですので、
こちらも併せて検討をしてみてください。
こんな感じですね。
今日はいろいろ考えるところがありまして、
考えたところで終わっちゃってる面もあるんですけれども、
なぜ私はこれを喋っているんだっていうのを最近、
さっき考えました。
けんすうさんとセミナーを喋っていていくと、
なんで俺これ喋っているんだろうなっていうのを考えたんですね。
一体誰が聞いていると思っている。これが大事です。
誰が聞いていると思っているんだろう。
聞いていただいている方が具体的にいらっしゃるのはもちろんイメージしているんだけど、
その方の顔を思い浮かべながら、
その人に向かって喋るみたいなことを僕はこのポッドキャストではしてない。
一切してない。
これはいわゆるGood Vibes流のね、
読み手をバイネームでっていうのが書き上げ塾でやっていて、
当然こういうものも聞き手をバイネームでっていうのが、
私は一つの王道だと思うんですよ。
でも僕はあえてそれをスルーしてっていうのも変なんですけど、
別にその方法がいいとか悪いとか逆らうとかいう気はもうとうないんですよ。
ただ僕はこういう時は具体的な聞き手をイメージせずに喋る人間なんですね。
これが結構私の多分パーソナリティの中のある種の歪みなんじゃないかと思いつつも、
ある種の個性であって誰にでもこれができるとはさすがに信じてないんですよ。
これがプロ技だとかいうつもりはもうとうないです。
これはただ変な人なんですよ。
変な人なんだけどつまり一人ごとをとうとうと幕を立てられるっていうのはどっかおかしいじゃないですか。
あの、統合主張かな。
06:00
必ずしも統合主張じゃないと思うんですけど、空想っていう言葉があるんですね。
空に笑う。空に笑うわけですよ。
空に笑う人ちょっと危険な感じがしちゃいますよね。
そういう言い方はいけないんだけど本当は。
あの、ふっふっふっふんと急に僕が笑いだすと、
多分やっぱりちょっとね、周りの人はね、むって噛んでちょっと惹かれると思うわけですよ。
誰かに向かって笑ってるわけじゃない。
その人は心の中の誰かとこうやりとりしている可能性があるわけですね。
まあ一つの可能性ですけど。
つまり僕は心の中の誰かに向かってこれ喋ってるんだけど、
私は昔このボットキャストで再三再始喋ったことがあるようにですね。
エマジネーションで具体的な像を結べないんですね。一切無理なんですよ。
心の中で誰かの顔を思い浮かべようとしてもほぼ不可能なんですよ。
実の父親でも無理なんですよ。
なのに誰かに向かって喋ってるつもりでいるわけですよ。
これは非常に変なんですよ。
僕の目の前には私の書斎しか今ないんですね。
そして私の心の中には具体的な像は一切ないんですよ。
でも私は誰かに向かって喋ってる感じは抱いてるんですね。
これが今日の一つのテーマ。
僕はだから空想ってよくわかる気がするんですよ。
実は私時々あるんですよ。
人が見るとちょっとギョッとすると思ってるから空想は人には見せないようにしてますけど、
僕は特に割と思春期の頃は空想ってあったんですよ。
架空の女の子といいことしてたりしましたからね。
でもここが大事ですけど、イマジネーションは一切ないんですよ。
そこには。いやイマジネーションはあるんだ。
イメージがないんですよ。そこに。何のイメージもない。
性的興奮はありますよ。
これは性的興奮がイメージと関係ないという私の一つの証拠だと思ってるんですね。
音声は一部はあります。
非常にこれは僕の中では大事なポイントなんですよ。
今日のテーマとしてはですね。
まあまあ、これだけではわけわからんので、もう少し具体的に先へ進めていこうと思うんですけど、
ちょっと一時停止しますね。
はい、すみません。
ちょっと水を飲みたくどうしてもなって、あと鼻をかみたくどうしてもなってですね。
シャミでそうだったんで停止したんですけど。
あのですね。
ちょっと僕が今日考えたことっていうのは。
考えたこと考えたこと言ってるんで、さっさと本題に入りますが。
まず少林道羅のことなんですね。
で、少林道羅よりももっと前だな。
アンナ王とか、いわゆる初期のフロイトの古典的な仕事ですね。
その中で、例えば水が飲めなくなる。
09:00
それどころか立てなくなる。
そういった非常に重篤な、当時ヒステリーと呼ばれていた重篤な症状の重篤な部分は一旦置いとくとして。
一時ですね、確か天皇陛下の奥さんなんかもこの問題ちょっとあったと思うんですけど。
冠目ってありますよね。
喋れなくなる。
で、私の今の話、なんでポッドキャストに向かってこんなに一生懸命喋ってるのか。
冠目というのは逆ですよね。
必要というか、一般的なコミュニケーションの場においてすら、たぶんあれは意図的に黙ってるとかじゃないですよ。
もう喋る気が出てこなくなってる。
と思うんですね。
たぶんお辛い症状だ。
なぜならば、私喋ってと思うんですけど、ある種のカタルシスがあるんですよ。
このただ喋ってるだけ。
ただ喋ってるだけでカタルシスがあるということは、喋れなくなるということには大変な苦しみがあるはずだって私は思うんですよ。
で、アンナ王、一番最初のフロイトの患者さんとされているアンナ王がですね。
これは本名じゃないんですけど。
非常に重篤になって、おそらく冠目にもなってるわけですね。
ものすごい重い冠目だったと思うんです。
これはつまりどういうことか。
聞き手が全く不在であるっていう一つの内的なリアリティなんだってことですね。
当時そういう概念すらまだはっきりしなかったんだけど。
サイキックリアリティってやつなんですよね。
心的現実が聞き手がいない。
つまり聞き手って心的現実なんですよ。
今の私の話はそういう意味だったつもりなんですね。
私がこれをこう喋ってるのに具体的な聞き手はいないんですよ。
私の心の中の聞き手に向かって喋ってるんだけど、そんなものは実際には、実際の像はいないわけじゃないですか。
ある意味それは不在の対象ですよね。
いもしない人を心の中に置いてるわけですよ。
それはそれでやや病的なんだけども。
でもそういう聞き手があるからこそ人は喋れるわけですよ、実は。
よく言うじゃないですか。話を聞いてくれない夫とかね。
最近では話を聞いてくれない妻みたいなのもあるわけですよ。
そういった話ってのは全て心の中の対象っていう問題が非常に重要なファクターになってるはずなんですよね。
話を聞いてくれないって言ってる人が必ずしも相手が話を聞いてくれてないかどうかっていうのを問題にしているとは限らないってことですね。
何しろ相手が聞いていようと聞いていないと、私が今はそうであるように冒頭と喋れる人間もいないわけではないわけです。
それは一言で言うと、ここで具体的に耳を傾けてリッスンしてくれている人が本当にいるかいないかとはまた別の話だっていうことなんですよ。
12:08
倉園圭三さんがですね、グッドワイブスでよく人は見たいものを見る。
あれを我々はまるで何かですね、その話が十分分かってない時は自分分かってないことの時の方が多いんだけど、十分分かってない時はあたかもそれが何かの比喩であるかのように聞くんですね。
見たいものを見る。あ、そうだよねと言うんだけど、実際は信じてないんですよ。
でも私はそれを相当信じられるようになったんですね。
自分が身体化という問題にはまったことがあった。
そしてまたまさにそうであるとしか思えないような人が身近にいたりするからわかるようになったんですよ。
人は本当に見たいものしか見ない。
それはほとんど夢と変わらないっていうのが実感としてあるんですよ。
なんていうのかな、解釈をするとかそういうレベルではないってことですね。
ある意味では本当にいもしない異性とともに、ありもしない旅行に行ったりできるのが人間なんですよ。
そういうことを比較的正気な人も普通にやってることが結構あるよっていうことを僕は言いたいわけですね。
ここでですね、いもしない人に対してしゃべったり、いもしない人が聞いてくれないからといってしゃべれなくなったりするのが人間だとするとですね。
例えば言葉に発するということが文章を書くってこととは意味が全く違うっていうのが大事なんですよ。
私は最近ブログとか一切書かないんですけど、多分対象としての読み手を十分喚起するのが難しくなってきているんですね。
こと、オンラインで無料でのメディアについて。
それは具体的にはいるじゃないですかっていうのはあまり意味をなさない。
私たちは対象に向かって書いたりしゃべったりするので、心の中の対象に向かって書いたりしゃべったりするので、
そういう意味では少し夢を見ているし、ちょっと正気をかいているんだけれども、でもそれはしょうがないことなんですよ。
人間とは多分対象関係論はこの点において正しくて、対象というものと交流して生きている面が非常に大きいので、
特に私はクリエイターっていう人たちは間違いなくこれをかなりの部分やってると思うので、
私もこれをやってるという意味ではクリエイターの端くれの端くれぐらいなところにいるわけですが、
そういう人間は対象とのやり取りが結構リアリティを持っちゃってるわけですね。
そうすると対象不在の中で、対象なんて本当は不在なんだけど、対象不在の中ではできないわけですよ。
発するとか書くといったことがそんなに簡単には。
この対象がどういうつもりでいてくれるのかっていうのに対するリアリティが、いわゆる発信というものを支えているんだろうと自分は思うわけです。
15:11
だからこの対象が不在であると、あるいは対象がそっぽ向いちゃってるということになると、その人は冠目になりかねないわけですよ。
もう喋る気がしない。
もう喋る気がしないというのがリアルに反映されてしまう。
本当に言葉が出てこなくなる。
そういうことが起こってしまうわけですね。
これが多分当時フロイトがヒステリーといったことなんですね。
で、なんでそうなるかといえばですね、やっぱりここにはですね、非常に多くのいろんな要素があるんだけれども、やっぱり最大の要素は一つはですね。
不在であることに対する怒りですよね。
そしてその不在であることに対する怒りっていうのは、ある意味ものすごく期待をしていることの裏返しでもあるじゃないですか。
話を聞いてくれないって言って怒るってことは、話をあなたは聞いてくれても当然の存在があるでしょうっていう主張ですよね。
つまり甘えの世界ですよね。
もうちょっと言ってしまえば幼児にとっての母親ですよね。
幼児にとっての母親は話を聞いてくれて当然だと思うような時期があるはずですよ。
ねえねえお母さんとかいうやつですよ。
で、それがどんなにつまらない話であろうとも、どんなに出来の悪いジョークであろうとも、耳を傾けてくれるっていう時期が必要だってことなんですよ、これは結局。
そういう時期にですね、全く聞いてもらえないとか、むしろ封じられるといったことが起こると、後々非常に厄介な事態が起こりやすくなるんだけど、当人はそれを当然覚えていないわけですね。
話をする気にもならない、物を書いて伝える気にもならない、とかいうその気になるっていう部分ですよね。
キステリーには根源的なポイントとして嫉妬っていうのがすごく重視されているんで、この嫉妬は家族関係の中における嫉妬なんですよ、第一歩として。
嫉妬って非常にしばしばそういうもんですけどね。
単純に夫が不倫してるっていうのも家族関係ですが、もうちょっと言って、お母さんがちゃんと相手にしてくれないとか、お母さんがお父さんとばっかり話をしているとか、
お母さんがよその男の人と話をしているとか、こういう時に、お母さん第一の時代には非常に屈辱感を覚えるわけですね。
つまり嫉妬なんですよ。この時の怒りというものが、よくやるじゃないですか幼児が、お母さんとはもう口聞かない、みたいなそういうね、ふてくされるってやつなんだけど、
18:05
これがですね、無意識の領域で非常に激しく働くんだろうと思うんですよ。
で、問題なのはこの時に言いたいことがないはずがないってことですね。
言いたいことはいっぱいあるんですよ。
これはね、あのちょっと、だからこういう時にやっぱり精神分析ってなるほど生々しい、なるほど具体的って思うんですけど、
まあ便秘ってあるじゃないですか。つまり便秘っていうものは空っぽって意味じゃないですよね。
出ませんっていうのは、出ないんだけれどもないっていう意味じゃないですよね。
あるんだけど出ないってことが問題なわけじゃないですか。
で、辛いですよね、これはね。だから寡黙って辛いわけですよ。
あるんですよ。言いたいことはたくさん。
それは当然ですよね。上流社会であろうと何社会であろうと、奥様がいて旦那は夜な夜などこか出かけていくと。
言いたいことはたくさんあるわけですよ。
ただ上流階級のいいとこのお嬢様なんて、この時何を言うべきなのかがよくわからないということは往々にしてあったはずなんですね。
何を使って、どんな言葉を伝えればこの言いたいことが伝わる、あるいは言いたいことがそもそも表明できるのかというのがわからない。
そしてその時にその人は夫に伝える前にまず伝えるべき相手がいるんですよ。
それは誰かというと心の中の親なんですよ、おそらくは。
この心の中の親にすら何を伝えればいいかわからないような状況に陥った時、
この人は言葉を発するということができなくなる。
しかしそれは言いたいことがないってわけじゃないんですよ。
言いたいことはいっぱいあるわけですね、むしろ。
言いたいことがありすぎて何も言えないってこともあるじゃないですか、人間には。
そういう出来事が起こるわけですよ。
このことに関連してですね、私は今日何故か盛んにTwitterでその話題が注目されていて、
私は正直ほぼ全く興味が、本音を言うとね、興味全くないのはいけないのかもしれませんが、正直あんまりないんですけれども、
とにかく日本の男には共同で親権を持つ権利はないっていう話が書いてあったんですね。
それで守護でかいなと思ったってこともあるんだけど、
この言葉は裏を返すとすごく日本の男なるものに期待しているよなっていうものを感じなくもないんですよね、やっぱり。
怒りがあるという感じがするんですよ。
つまりこの方は言いたいことは何でも言うっていう方ですけれども、どっちかというと私の印象ではね、何にせよなんですよね。
言いたいことはいっぱいある。
これを何でどう伝えるかっていうのが、その人その人にとって難しい選択と難しくない選択っていうのがあるんだなと。
21:00
難しい選択というのや難しくない選択は何が決めているかというと、その人の対象関係に違いないと。
私が言いたいのは共同親権の話じゃないんですよ。
男女の平等の話でもないんですよ。
私がすごく感じるのはですね、こういう時に多くの場合性が絡むと怒りが燃えてくる。
この時言いたいことというのは山ほどある。
なぜかというとそれは子供、結局この性というのは多分に子供の親に対する気持ちってものがそこに含まれるからですね。
このポッドキャストでこれも散々話題にしてます。
私は昔、同世代の女子たちに全部どうしても母親を見ていた。
ただしそれが無意識に進行しているので、個人としては恋愛感情だと信じていたし、相手も多分ある程度はそう信じて、そう見なしてくれたとは思うんですね。
だけどそれは結局のところ、性というよりは愛なんですよ。
子供の愛欲なんですよ。
この子供の愛欲を往々にして非常に軽んじられるんですね。
分かりませんよ。各家庭においては分かりません。
でも割と軽んじられることはあるわけですよ。
お母さんにひっつき回ってる二歳児みたいなものなんです。
というかその頃なんですよ、ちょうど。
で、意外と二歳児の頃、私は多分大人びてたんですよ。
二歳児なりぎって話ですよ。
だから非常に、何て言うのかな、ませてるっていうのとはちょっと違う気がするんですが、早熟だったと思うんです。
例えば非常に言葉が巧みだったとか、しゃべりだしたら止まらないぐらいマシンガントークだと。
二歳児でマシンガントークってことは結構頭を回ってたわけですよね。
こういう時にイラン屈辱感を感じるわけですよ。
お母さんがちゃんと相手をしてくれないとか。
子供がマシンガントークだと鬱陶しいじゃないですか。
だからお母さんはなあなあにしたり、もしかすると一括して隣の部屋に私を押し込めるとかやるわけですよ。
どうってことはない。
どうってことはないけど、すげえ腹が立つわけですよ、当時としてはね。
こういう固着っていうんですけど、気持ちが結局のところ、二十歳の頃に再燃するとそういうことになるわけですよ。
しかしもう少し先に話を進めてですね、この気持ちがさらに固着したまま結婚生活等に反映されてくると、
私が言いたいことはたくさんあるのに、そしてパートナーもいないわけではないのに、
この言葉を一切言葉にして出すことはできなくなるわけです。
ここで奥さんに手紙書いたらおかしいですよね。
今の時代の、現代の日本の夫婦間の文化において、ここで手紙書くっていうのはいかにもおかしいですよね。
私は共同親権というものを読んだときに、共同親権そのものに対する興味というよりは、
ここでやりとりが文書化するんだろうなっていうのを感じたんですよ。
24:04
親権がどうであろうと、言葉を交わすってことはおそらく難しい関係っていうものがここにはあるに違いないって思うんですよね。
それがどっちがいい悪いはとりあえず飛ばすとしてですね。
そういう時にその人は何をするだろう。
よくDVとかよくそれこそハラスメントって話出てくるんだけど、
ハラスメントってのは行為だよなと僕なんかは思ってしまうんですね。
やっぱり精神力度っていうことを考えていくと、ハラスメントって行動だよなと、
言動であるケースもありますが、やっぱり最大の問題DVっていうのもやっぱり一つの行動じゃないですか。
暴言も含めて行動だと思うんですね。
これを僕はある種の行動家だとやっぱり感じるんですよ。
その人は言いたいことがたくさんある。その内容の適不適は置いといてですよ。
言いたいことがいっぱいあるに違いない。
それが手が出るっていう形になってしまう。
それはつまり言葉に直すというのがもはや段階として通り過ぎていたり、
言葉に直したのでは伝わるとはとても思えないという非常に困った内的対処を抱えてきているんだと思うんですね。
つまり私は少なからぬパーセンテージで、その男性を今想定しておりますが、
手が出てしまう男性の少なからぬパーセンテージに、
2歳児の頃の屈辱感というものを抱えている人が全部が全部ではないですよ。
たとえそれが2、3割だとしてもいるに違いない感じがするんですね。
だから100年早いというのも言わんとすることが全然わからないわけではないんだけれども、
100年ではなくて2、30年かなみたいな感じ。
そしてそこは私の感じではやっぱり何らかの意味で治療の対象なのではない。
なぜ私が今日こんなことを喋ってるかというと、さっきの変なテンションのせいもあるんですけれども、
一つこれは私じゃないと喋りにくい内容なんじゃないだろうか。
例えば精神力道にどれほど詳しくても精神分析の人がこれを喋る気にはおそらくならないだろうなって感じがするんですよ。
なぜなら客外やって一理なしですから。
それは私が喋っても同意同じなのかもしれないけど、
幸い私はノラカウンセラー未満なので、つまり正式な意味での社会的地位がほぼ皆無なので、
こういうことを喋って人にバッシングされても大した痛手は負わないんですよね。
というか負わないと思っているんですよ私は。
だから喋れる。
これがつまり役割っていうものの一種なのかもしれないとちょっと思うようになったんですよ。
このケンスーさんと喋っててね。
立場があやふやであるという立場ってあるなっていうことを思った。
それにしても彼は匠にやって、私はあんなに匠にはできないけども、
でも立場があやふやであるという立場の一種であることに間違いはないかなって気がするんですね。
27:01
私実際このポッドキャストを喋るにあたって何者でもないですからね。
間違いなく。
分析家でもない。話しかでもない。
ラジオのパーソナリティーでもなく、ポッドキャストのインフルエンサーですらない。
そして仕事術のビジネス著作家としても非常に中途半端な位置。
でもこうだから言えることってあるなと。
こうじゃないとこの種の発言ってあまりにも難しくなっちゃうんじゃないかなって感じがするんですよ。
私は何かの擁護をしたいってわけでは全然ないですね。
私が言いたいのは、ある種の言葉が言葉に直らないとき、それは一つは行動に移される。
そしてその行動化という言葉すらちゃんとあるんだけれども、行動化っていうのはしばしばやっぱり無意識だと精神分析では見なされるんですね。
例えば精神分析の場に繰り返し遅刻をして現れる。これは行動化とよく言われるものなんですよ。
なぜ繰り返し遅刻をするのかというと、そんな時間に設定される覚えないんだけどって言ってるわけですよ。
ただしそれは無意識ですよ。
だってその時間に設定したこと頭ではわかってるわけですから。
2時に来なさい、2時に行きますっていうことを約束してしまったら、それは一方的に押し付けられたことではありませんよね。
けれども一方的に押し付けられたという気持ちになるがために、2時に恋と言われてるのに2時5分に行くわけですよ。
そしてそれには何の意味もないわけですね。
自己破壊的な行動なわけです。
でもこういう行動に打って出たくなるような、こういう奇妙な行動というものを作り出すのが、無意識の得意とするところなわけですね。
ところがこの怒りが一段高くなってくると、もはや5分遅れるぐらいでは済ませたくなくなるわけです。
そして手が出ていくとか、暴言を吐くとか、そういった流れになっていく。
2歳児だと考えると非常にその行動には切実なものがありますよね。
暴言とはつまり真顔頭部ですよ。
そして手は出ないんですよ。
手を出すと親に数倍返される可能性がありますからね。
でもだからこそ今度は行動化にすら出られなくなると。
そうすると何が起こるでしょうかね。
もはや言葉が発信することもできない。
行動に移し変えることもできない。
そうなってくると例えば、むちゃくちゃ食べるとか、これが以前しゃべっていた接触という問題に現れたり、
怒りで夜も寝つけないとか、不眠という問題ですよね。
あるいは私がものすごく患ったように体からジンマシンが吹き出してくるという形を取るわけですよ。
こっちはもう行動化ではなくて身体化というわけですね。
でもこれもさっきの便秘っていうアレゴリーで私は分かりやすいと思うんですね。
出すものはあるんですよ。
だから出てくる。
だけれどつまり空っぽじゃない。
空っぽだからしゃべることがありませんって話ではない。
30:00
それだったらもっとリラックスしていられるわけですね。
しゃべることはいっぱいある。
だからアレじゃないですか。
たとえどれほど強い立場であれ、Xであの種のことを発言するというのはやっぱり大きな波紋を呼ぶわけですよね。
これは出すべきものがあるから、その人にとって。
それがどういう形でどういう伝わり方をするにせよある。
あるからそれを出さずにいるということはなかなか困難なわけです。
というか私たちはおそらくマグマのように噴出したい思いがありながら、
それをそしらぬ顔であらゆる形で抑え込んでおくことはおそらくほぼ不可能なんですよね。
あの今の最新の、最新というべきなのか分かりませんけど、
少なくともかなりブラッシュアップされた結果としての対処関係論においては、
かなり無意識の複雑な動きというものを捉えるようないろんな解釈やものの見方が見えてきましたけれども、
このヒステリーの頃のものの見方というのはある意味非常にシンプルですよね。
だから誤解の産物も大きいんですけれども、
マグマのようなものを噴き出させるといったときに、
このマグマが一番最初の非常に古典的な理論では外傷と呼ばれたわけですね。
トラウマがあったんだと。つまり夫が浮気とかするからいけないんだと。
でもその後すぐにこれは修正されていきます。
ストロイトが結局サイキックリアリティと呼んだのは、別に事実がある必要なんかないんだと。
なんかそういうことがあるというか、心の中で信じたことが一つあるだけでももう十分で。
だってそうですよね。我々は事実だけに基づいて何かが言いたくなるわけではないです。
私は実際今日今しゃべってるようなことは何かの事実に押し出されてこういうことを言ってるわけじゃないんですよ。
心の中でいろんなやり取りをして、それによって結び出されてきたものを言動力にして今しゃべっているわけですよ。
私が今しゃべることができているのは、つまり行動化とか身体化とか無茶食いとか不眠とかそういったものではなくてですね。
そういったものではなくて、言葉に直すことができているのは内的対処に聞き手がいるからなんです。
これがいない。ないしはいるんだけど悪意を持っている。
そういう時につまり心の中の聞き手が非常に嫌なやつである。
そういう時に言葉を発するということができなくなるわけです。
代わりに文章に書くということもできなくなるわけですよ。
内的対処としての読み手がろくでもない態度をとっていると書くのも嫌になる。
しゃべるのも嫌になる。そして眠れなくなる。そういったことが起こるわけです。
だって、寝て忘れるの嫌じゃないですか。言いたいことはあるわけですからね。
食べるということによってもそうなんだけど、食べることによって言いたいことは解消できないわけですよ。
33:00
もちろんジンマシンとして出したからといってやっぱり言いたいことが解消できるわけではないわけですね。
ここにカウンセラーとしての聞き手というものの存在価値の存在意義の高さというのが、
つまりカウンセリングに通うということと、頭がおかしくなりましたということは全然違うんですよ。
これって非常に正気じゃないですか。言いたいことが言えなくて、言える人を探しているというのは極めて真っ当な道筋ですよね。
だから、どんな話でも基本的に聞いてくれる聞き手を持つということは非常に大事なことなんですね。
これがないと私たちは非常に苦しい思いをしなければならないわけです。
おそらくそれの一つの最たる例が、長らくこの国でも話題にされているうつってやつだと最近思うようになったんですよね。
いろんなうつの方のXでのポストを読んでいるとつくづく思うんですけれども、内的に抱えているものは明らかにあるんですよね。
欲うつというのは、何にもなくて困っているというわけでは全然ないんですよね。
ある方が性欲が全然なくなったというふうに書かれているんだけど、そうではないと私は思うんですよ。
もはや、ある欲求というものが別のものに変換させられずには、あるいは別のものに変換させられた挙句を抑え込まれずにはいられないような、
そういう絶望感というか、失望感というか、怒りの強さというものがあるんだと思うんですよ。
下手に性欲なんかを持ってしまったら、怒りでその性欲と結びつくと何が起きるかわかったものではないから、
もう性欲自体もないものにするというか、他と結びつけることができないように。
性欲ってそうじゃないですか。何かと結びつかないと自己表現できないんですよね。
食だってそうです。食欲というものは、手近にあるものを口の中に放り込むという行為では断じてないはずなんですよ。
食欲というのは、何か匂いがいいと思ってそっちの方に行くとか、味をこういうふうにつけるとか、
様々な転換というものが必要とするんですよね。
変換しないと私たちは行為に結びつけることが困難なんだと思うんですよね。
でも、ものすごい怒っている人がですね、食欲というもののお話にすると大変なことが起きるわけですよ。
もうお腹を満たせるものなら何でもいいから餅50個食べるとかそういうことが起きちゃうわけです。
あまりにも危険なので、体の方としては結局食欲はないものとするってことになってしまう。
怒りがそれだけでかいということは非常に危険なことなんですよね。
怒りというものはどうしても破壊的な表現に結びついてしまうので、
だからものすごい怒っている人が文章を書くとか、ものすごい怒っている人が発言をするというのは、
36:04
それなりに危険なことじゃないですか。
ものすごい怒ってて自分が何をくしばしるかわかったもんじゃないっていう時に会社に行っちゃったりして、
その人が言葉を発するという危険なことなわけですね。
だから寡黙という現象が起きる。
そしてできればその人は会社に行かないほうがいいから、
例えば体から何か良くないものが出てくる。
あるいは立ち上がることが困難になる。
一見したところこれらのことって不思議なわけですよ。
外から見ると。
その人は喋らなくなる。
ジンマシンが出た。
当てなくもなる。
何なんだろうって感じがしますけど。
いちいち非常に理にかなってるわけですよね。
美容によって。
それによって何がその人はできなくなるのか。
そしてそれがその人にできてしまったら何が起きるのか。
だってですね。
結構ひどいわけですよ。
1900年代になった頃のうい。
1800年代後半のうい。
しょうがないですけどね。
今から見れば相当昔ですか。
で、奥さんからしてみると。
夫がですね。
夜になって何とか婦人のところに行ってくる。
すっごい腹立たしいじゃないですか。
だからといって。
怒りに任せて幕立てて。
離婚になったら大変なことになりかねないわけですよ。
お金全然なくなって。
帰るところもありませんみたいな。
だったら黙っていて。
現在の生活を維持している方がよっぽどマシだと。
頭では考えられるわけですけれども。
これっていうのは全然。
ありがたくもなんともないわけですよね。
例えば喋れなく。
あるいはめちゃくちゃ食べる。
そうすることによって。
例えば背景が大きく崩れるというか。
夫に対する復讐になるっていうような形式っていうのは。
非常によく考えられていますよね。
そしてそうなればそうなったで自分としては諦めがつくとかね。
幸福な話では全然ありませんけれども。
ある種の不幸を回避できているっていう面はあるわけですよ。
そしてこの人としてはそれもものすごく自覚が乏しければ。
いやもう本当に最近は食べるのがおいしくて仕方がなくて。
夫が他のところに行っちゃうのもある程度これじゃ仕方ないかなと。
本人は折り合いがつくとかね。
非常に喋っててもあれだなと思うんですけど。
事実としてはおそらくあったわけですよね。
そんなようなことは。
この調整をかけてくれるのがやっぱり無意識ってものだと思うんですよ。
意識ではこれはとてもやってられないですよね。
だってこれは非常に残念な行為じゃないですか。
でも無意識がこれをやってくれれば必ずしもそう残念ではないわけですよ。
おいしいものいっぱい食べられるしねと。
夫に対して怒りをぶちまけたところで家から出ていくことにならなきゃなんなくなって
おいしいものも全然食べられなくなって
冬もすごい寒いようにしてウィンの冬ってすごい寒いですからね。
そういうふうに必ずしもなりたくないわけですよね。
39:02
当時は全然そういう意味では女性の立場っていうのは弱かったわけですから。
そういうことは十分承知しているはずなわけですからね。
この辺のことが私は無意識ってものの
射程を入れることによってものすごく見通しが良くなるだろうと思うわけです。
どう考えても。
なぜならば無意識の方が都合が良いことっていうのがこの世の中にはたくさんあるからです。
ある種の感情なりある種の意識なりある種の意思なりを
自分が自覚できないということがどれほど自分にとって都合が良いか。
ある種の人にとって都合が良いかということを考えてみればですね。
これは割と明らかになるんじゃないかなと。
でここでちょっとまた脇見しに曲がるんですけれども。
ここまで考えた時にこれは前からだいぶ前にも時々
ポッドキャストで行き走ってる話なんだけれども。
これを考えた時に私が思いついたのがですね。
これは次回あたりからのテーマにしたいんですけどユングなんですよね。
ユングってこういう話を全然違う方面からしてるんじゃないかなって感じがしたんですよ。
直接関係ないようにてか直接関係ないように聞こえるところがまさに大事なんだけど。
例えばカワイハヨさんなんかが永遠の少年って話をするんですね。
この話は絶対ポッドキャストでしたことあると思うんですけれども。
まああれですよ。
昔ギリシャのイカロスですよ。
ローで固めた鳥の羽で向かっていくんだけど太陽に近づくと落ちると。
あれですね。ユング派なんでカワイハヨさんは
グレートマザーと永遠の少年のテーマで考えるんですよね。
すごいぐんぐんと上昇しては墜落する。
ぐんぐんとまた上昇しては墜落する。
ありますよね。永遠の少年的なパターンをとっている
そういう英雄になり損ねる少年。
つまり例えばなんかこうですね。
今時で言うとSNSですごい大成功して
どんどんどんどんインフルエンサーになってフォロワーも増やすんだけど
なんかもうちょっとっていうところで何故か妙な失敗をして炎上して墜落して
しばらくこううーってなってまたその人が才能を発揮して
何か新しいちょっとした思い付きでうまくいって
どっかなんかでまたぐんぐん伸びていくんだけど
やっぱりちょっと太陽に行けそうになったところで
なんか羽が解け始めて墜落すると。
そういう割とシンプルな話としても理解できるんだけど
僕は最近はやっぱりフロイトで考えるって
この話って家から出ては戻ってくる
あの接触障害で馬場玲子さんが
女の子を引き合いに出しているあたりの話と
すごい似てるような気がするんですね
つまり家から出ていくときは殺送として出ていくわけですよ
42:00
東京祭行くわけですよ
ところが失敗してグレートマザーに引きずり戻されて
引きずり戻されるようにしてお母さんのところに戻って
完全に僕のところ
ある種の昔話の力を借りて力度を説明しようと
家族関係の話として力度を説明しようと
やってることも言ってることも変わってないんじゃないかな
って感じがしたわけですよ
その時にこの期待と怒りってものが
すごい鮮明に見えるような気が少ししたんですね
河合かよさんが確か一寸帽子を例に出して
一寸帽子ってのはですね
素晴らしい少年なんですよ
そうですよね
ちっちゃい少年が悪い奴を針とかでやっつけて
そして家での小口ででかくなって
お姫様と結婚するみたいな話ですよね
つまりある種の成長物語でもあり
素晴らしい少年のつまりこれは永遠の少年的なテーマを
少し何と言うのかな
暗示してる感じってあるんですよ
この素晴らしい少年に対する
人々の期待ってすっごいでかいですよね
そういうふうに少年にものすごい期待した場合
その少年が期待を裏切ると
お母さんの怒りってものすごいでかくなる気がしません
あのさっき言いましたよね
日本の男にはっていうこの主語のでかさを見ると
日本の男に対する過剰とも思えるような
ある種の期待を私は感じずにはいられないですよ
怒りというのはそういうことだと思うんです
万能空想の一種であって
これは万能だと思ったものを買い込んできて
全然使えない製品だったらめちゃくちゃ腹が立つじゃないですか
そういう怒りというものを感じるんですよね
さっきもそうでしたけど
つまり例えばよなよな旦那が出かけて
こんなに腹が立つというのは旦那に期待してるからなんですよ
小さな男の子がお母さんにねえねえって言って
話を聞いてもらおうとして
ぷいって言ってどっか行っちゃうと
それだけでものすごく不自熟感で
泣いちゃって死にたくなってしまうのは
お母さんに対する期待が極めてでかいからですよね
少なからぬ人がですね
だから期待はいけないみたいな話になってしまって
期待するのはやめようとして
心を氷のように戸出すみたいな話するんですけど
それって怒りの表現ですよね
全然クールになってないだろうって感じがするわけですよ
それはつまり便秘を押し込めているようなものであって
多分行動化になったり身体化になったり
あんまり良い結果を生まないような気がするんですよ
本当にクールになって怒ってないならいいけれど
本当は怒っているんだとすると
ここはもう自分でしかわからない部分があるって
本当は怒っているんだとすると
そこをクールに閉ざしたつもりになっても
全然自体は肯定しないと思うんですよね
45:00
でその一寸法師みたいな子供に期待をかけてしまう
その期待は極めてでかいので
おそらく一寸法師のような活躍をできない子は
たくさんいるわけですよね
墜落してしまうイカロスみたいになっちゃうのは
たくさんいるわけですよね
で戻ってきた時にめっちゃ叱る
この時にでも戻って来させておきながら
めっちゃ叱るっていうのって
ある意味ものすごい強い愛情とも言えなくはないので
だからこの永遠の少年が生まれてしまうんですね
また東京祭行くだっていうことになって
お母さん嫌になるんでね
そういうこのなんかこう振り子運動みたいなものとして
考えてみると優遇であろうと
不登校を力道的に理解するのであろうと
それこそヒステリーのように考えるのであろうと
結局同じような話を
ある意味しているに過ぎないような気もしてくるんですよ
だからこのユングの話みたいなの
今後ちょっといろいろと入れていきたいなと
まあこれ非常に無様なものになりそうな気もするんですけどね
でもいいんですよ
ここに僕の役割っていうものがあるんじゃないかなと
こういうことをユング派の人だろうと
フロイト派の人だろうと
クライン派の人だろうと
あんまりしたくないじゃないですか
というかする意味がないと思うんですよね
どう気づけも何もないと
僕みたいに興味本位でそういう話をするっていうのも
するメリットがないと思うんですけど
私は興味本位でどんな話をしても全然構わないわけだから
ここに私が何にも持っていないっていうことの
意味の大きさってのを
感じなくはないのが今日なわけです
本当にですね
つくづくこう接触と永遠の少年とって考えていくとですね
不在というかグレートマザーというのかな
グレートマザーって結局私は
不在の母親対象ってものと
すごく関係が深いような気がする
グレートマザーっていうのは
第一既に朽ち果ててしまった母親の集大成みたいなもんですよね
ある意味その引力が極めて大なわけです
そういうものに引きずり込まれてしまうという話
それはある意味では
だから引きこもりとかね
そういった話につながっていくんだろうと思うんですよ
ユング派的にはそういうふうな説明をするんだろうと思うんですね
それってのは
結局お母さんがいないっていうことの
ある意味別の言い方でしかないような気がするんです
お母さんは話を聞いてくれて当然だと
そういう期待があり
この子は東京東大に入って当然だという
そういう期待があり
そうやってすれ違っていくわけですよね
もちろんすべてがうまくいくケースもありますよ
だけれども多くの場合
少なからぬ場合すれ違っていきます
例えば東大に入ったとしても
48:00
すべてが万事が自分の期待通りであるというケースは
多くはないはずなので
だから我々はその不在
つまり本当はただいないだけなんですよね
その辺は美音なんですよ
考えればいいわけです
いないだけだぞと
もともとそういう子はいなかったんだぞと
そんなに素晴らしい子がいたわけじゃないんだぞと
でもそうは考えられないんですよね
親はいつも子供のことを
2、3歳児の頃はとても素晴らしいと
私なんかもあっさりそう思い込んでしまうので
それはしょうがないんですよ
ある意味健全なことなんですよね
いないんだよっていうのは
口で言うのは簡単なんですけれども
残念ながら我々はそうは感じない
いないということを
悪いものがいるって考えてしまうんですよね
ナッシングはノーシングってやつですよね
悪いものがいるんですよ
その悪いものが悪さをするんですよ
皮膚病にしたりですね
それは時代がでかかった分だけ
子供は一寸防止であったはずなのに
ドラムスコでしたみたいなのが
受け入れられないということの
証でもあるわけですよ
ドラムスコじゃなかったってですね
超一流じゃない大学にしか行きませんでした
っていうだけなんだけれども
それでももういない
いないってことが許せないっていう
それは2、3歳の時のやっぱり
屈辱感として考えてみると
つい切実だったよねっていう
その切実さってものが
解剖っていうものに引きずり込まれる
永遠の少年みたいにして考えるっていうのは
非常にこうなんていうのかな
ある意味では
焼き直しだよなって感じもしなくはないんですよね
だけどその力の強さというものの比喩としては
グレートマザーっていうのは
うまい言い方だなっていう風に
ふとですね
これもケンスさんとのセミナー中に
ふとそういうことが頭をよぎったんで
今日ちょっと試みに喋ってみたわけですよ
もうちょっと多分言えることが
かわいい俳優さん最近
ちょっとご無沙汰してたんで
読み直してみたらなんか見つかるんじゃないかな
という風に少し思ってみたりしたわけですよね
まぁあれですよ
茨姫みたいな
ああいう話です
50:17

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