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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
今日は大晦日なんですが、私、仕事収めというのがないんですね。
これってタスクシュートユーザーには、わりとお馴染みの感覚かと思うんですけど、
タスクシュートって、おそらくはウィークリーなルーティンに従って生きていくことに大体なるんですよ。
これ、世の中のかなり一般的な形式に近いので、それ自体は別に特にこれといったものではないですが、
祝日が入ってもですね、特に私のようなフリーランスのタスクシューターってそうなんですけど、
祝日というもので、いちいちルーティンを切り替えるのがめんどくさいんですよ。
ので、自然とですね、こういうイベンタブルな時期は、普通のルーティンに割と沿って生きるのが難しいことではないのでむしろ、
帰ってですね、起きる時間を運動遅くしてみたり、頑張ってダラダラしていると体調を崩したりするんですね。
仕事を少なめにやるっていうのは本当に楽なんでいいんですけど、
全くその日だけの特別な過ごし方をするっていうのは結構大変だったりして、
それは結構ですね、私はイリュージョンだなと。
イリュージョンというか意味付けだなと思うようになって以来、だいぶその足枷は取れてきてですね、
なるべく組んだ通りに動かない、ある意味これ非常に微妙なんですけどね、
組んだ通りに動かないというよりは、組んだ通りに動いてもいいけど無視してもいいという形をスタンスに少しずらしている感じなんですよね、今は。
これが一番融通が利いていいかなと思っていますが、だからといって仕事を収めるというのはむしろ前倒しなんですよね、あれ結局。
前倒しをするというのはタスクシュートは多分それを一番僕はやるべきでないと思うんですよ。
前倒しっていうのは無理は強いるけれども、別に良いことは起こらないんですよね、タスクシュートユーザー的には。
だから前倒しをしないっていうのは昔から僕の中に割と根付いておりまして、
これが時間術の一つのコツだなと思っています。やたらと前倒しをしない。
基本的に前倒しはしない。マニュアナの法則が一番これに近いんですけどね、この点では。
明日できることを今日やるなっていうのがあれのキャッチフレーズなんですけど、あの考え方ですよね。
時間術というのは早く終えりゃいいってもんじゃないんで、
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使える時間を一番自分のデザインで使っていくみたいな空間がそうじゃないですか。
狭く使えばいいってもんじゃないですよね。10畳くらいスペースがあるのに2畳で頑張ったから偉いです、残りの8畳空いてますっていうのはおかしいんですよ。
時間もそれと同じで、よく私たちのところに持ち掛けられた本の企画とかで5日の仕事を3日でやろうみたいなのがあるんだけど、
乗っかったことはないんですよね。タスクシュートってむしろ僕は逆だと思っております。
最大まんべんなく使えるんだったら、4日の仕事でも5日間あるなら5日に、5日をデザインすることでその方が大体うまくいきますよみたいなそういうところがあるので、
あんまりこういう時に29日までに全てを終えておくとかはしないので、普通にやるんですよ。
ところが世の中の動きはそうではないので、日に日にポッドキャストのアクセス数は下がっていくという現象には見舞われるんですけど、
これはもうしゃーないですよね。僕もそう思うんですよ。31日くらいは僕のグッドモーニングバイブスを聞いているのではなくて、お掃除とかをした方がいいところではやった方がいいですよね。
そういう気もします。後でまとめて聞いていただくと上がってくるので、この辺がちゃんと世の中の動きというものが一応このアクセス数から見えてくるっていうのはどうでもいい話ではありますが、そういうことがあります。
昨日はヒッセリーの話をした気がするんですけど、僕はライフハッカー向けにこのポッドキャストをやっているというのは、というか僕の情報発信はライフハッカー向けであると。
だからライフハックは良さそうなやつを思いついたり発見したりすれば出していくんですけど、基本はグッドバイブスをまずお伝えしていく。
特にライフハッカーに僕の勝手な推測で受け入れられやすそうなところからお伝えしていく。
それが一つと、精神分析もライフハッカーの人に届けていきたいというのが一つ。
ただこれは本当は精神分析というのは本を読むだけで理解できることではないから、私の理解というのは多分粗雑なものなんですか。
粗雑というか、解像度が大きくなってしまうんですね。
これは実際にやっているのでなければ。
なんといってもフロイトが凄かったのは、昨日も言いましたけど、臨床が全てベースに基本になっているというところから上がっているから凄いんだって。
アノロンリーが正しいから凄いわけではない。
アノロンリーは多分正しくないのがいっぱい挟まっているんだけど、臨床というものが凄く多くて、
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しかも非常に本格的にやり、かつ普通じゃ考えられないくらいインテンシブにやったから、
週5日ですからね。週5日同じ人に会いに行くのは大変ですよね。
そういうことをやったから、ああいうことが分かってきたわけですね。
臨床をインテンシブに凄くやるっていうところから出てくる考え方なんだと思うんですよ。
一番それが近いのはやっぱり私は家族関係だなとつくづく思うんですね。
家族関係が一番精神分析の状況には近いと思います。
これを100人単位とか、そんなにできるか分からないんですけどね。
全トータルで100人くらいの人に週5日も会っていれば、
ものすごく内面の話に詳しくなりますよね、いろんな人たちの。
それの集合値みたいなのが精神分析というものなんだろうと思うんです。
中でもライフハックというのは、
ライフハックというのは、
これはライフハックは全員が同じ性格をしているわけがないので、
でも傾向として見えてくるのが特に今の時代だった場合。
ライフハックは今の時代しかいないんだけど、
IT中心のライフハックは今の時代しかいないですよね。
ITがそもそも生活に浸透してきたのはここ20年くらいの話なので。
ジゾイドっていうのが一つあって、
ヒステリーはむしろ昔の方があったんですけど、
今でもそれがあるんですよ。
だけど100年前はヒステリーというのは熱気とした症状名としてあったのに、
途中からただの社会通念みたいになっちゃって、
そして最後には臨床の世界から消滅するという。
このヒステリーが消滅させられたという事実は、
精神分析学、カウンセリング心理学の世界から精神分析が
邪魔者扱いされつつあるという事をよくよく示しているわけですね。
昔はイギリスの対象関係論というグループと、
今でももちろんそれは重要なグループとしてあって、
アメリカにも精神分析の強大な組織があって、
これが多分世界をリードしていたんですけど、
それは色んな事情があるんですけど、
行動科学が現れた事が一つと、認知行動療法が非常に盛んになった事が一つと、
神経心理学、いわゆる日本で言う脳科学が進歩して、
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薬理療法が主流になった事が挙げられますよね。
そういう流れと精神分析が凄く攻撃を受けた時期があったというような事があって、
アメリカの方ですら以前に比べれば遥かに勢力を落としたわけですね。
そうすると元々勢力が薄かった日本のなんかは、
吹けば飛ぶようなものにある意味になっちゃったとか、
これは部外者の僕が言うのは、はなはだ失礼なんで、
ご容赦願いたいんですけど、そういう事が多分あって、
今は精神分析というのは何となく邪魔者扱いされているなという、
そういう空気ははっきりありますよね。
それをわざわざライハッカーの人に向かって言うならばですね、
行動主義と認知行動療法を言うのが一番フィットはするんですよ。
だから私もそういう本を受けるから書かせていただいてきたんだけど、
多分これは効果が速攻性が凄いありそうでもないという問題と、
仮にあったとしても結構大変だという問題を感じるんですね。
いくらこれを頑張っても行動は変わるんですよ、行動療法って。
ネズミはレバー倒しを学べばレバーを倒すようになる。
それまでネズミはレバーなんか倒さないわけだから行動変わるじゃないですか。
同じように例えば朝早く起きるという風にしてなかった人が
ご褒美で起きられるようにすれば行動変わるんですよ。
行動変わるんですけれども楽になれないんですよね。
それによって僕の経験ではちっとも何かが好転していく気がしないんですよ。
ただただ早く起きられる、それを繰り返せるようになるという。
ここで難しい問題が起きるわけですよね、一つ。
いやいや私は何かが起きることなんかそんなに人に気を使ってもらわなくてもいいから。
とにかく早く起きられるようになればその後あんたの知ったことじゃないからって言われると
それはいいような気もするんですね。
自分は朝早くさえ起きられれば幸せになれるんだと言われれば
なるほどということでそういう方法はなくはないっていう感じなんですよね。
あるって言い切れるかどうか。
つまり楽じゃないっていうのはですね、行動療法やってれば
反自動的ってよく言うじゃないですか。
反自動的ってわけにはいかないんですよ。
毎朝毎朝厳しいんですよ。
習慣化はしていくからできるようになるんですよ、大概の人は。
できるようにならない人もいますけどそういう人はできるようにならない方がいいと思うんですけどね。
だけれども楽に起きられるようには決してならないんですよ。
最後まで大変な思いはするんだけど起きられるようにはなると。
現に私早くなんて起きなくなっていますから。
これは大変な思いをしてたっていうことなんですよね。
ただ習慣化ってのはできるんですよ。
大体反自動的ってよく言われますが、
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例えば僕は刃とか反自動的に磨いてるわけではないですから。
やっぱり磨こうとして意識的に磨いているわけですよ。
何て言うんですかね。
無有病の人のように刃を磨けてるわけではないし、そんなことはできないわけですよね。
あんまりできてもそうするのが望ましいとも思えませんし。
だから大変なことは大変なんですよ。
でもできるようにならないわけではない。
何ならいろんな行動量法的な方法論を駆使すれば、
朝4時に起きていきなり早朝マラソンすることもできるんですよ。
でもかなりきついですよね。
体壊しうるレベルなんですよ。
そういうところをあまり勇気がしなくなったというところなわけですね。
それをすることというのに、それを人に広めるというのに、
自分が全く情熱が燃やせないものを受けるというただそれだけの理由じゃ、
人に勧める気には到底ならないので、まあそういうことです。
だから何としても自分が自分が自分が自分が自分が自分が
だから何としてでもそうすれば自分としてはいいんだという話であればですね、
行動主義というものと認知行動量法みたいなものは、
依然として効果ははっきりするでしょうね。
だからそれが何点ですかね、ある種の問題行動を、
それは私はありかなとも思うんです。
時々過剰なほどのネット依存とかから出したいという時に、
精神分析が有効なケースと認知行動量法で行動を切り替えていくことが、
まず先決なケースとあると思うんです。
ただその辺はもはやライフハックの範疇に入ってきてないなと思うんですよね。
これまでライフハックでそういうものを解決することができれば、
いわゆるカウンセリングとか診療内科みたいな話をするよりいいんじゃないかって僕も思ってたんだけど、
別にそうでもないなというふうに最近思うようになりました、むしろ。
それはある意味、日本でも診療内科みたいなものが市民権を得たっていうのも大きいですよね。
私が大学だった1995、6、7年頃は、まだまだそういう状況になかったから、
大学生がうつになったといっても部屋で悶々としていて、
辛い思いばかりしていて、でも病院なんか行きたくないっていうのが、
特にこれといった理由はないけれども、診療内科なんて言葉もありませんでしたしね。
そういう時代もありましたね。
あの時代の精神分析って一体どこにあったんでしょうね。
まだネットも出てきたばっかりで、ネット上に精神分析家でやってますなんていうのは見たことがなかったし、
そんなホームページとかも存在はしてたんだと思うんですけどね、見たことは僕はなかったです。
当時テレ放題とかでしたし、まさかオンラインで人に相談するなんていうのは
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とてもじゃないけど現実的じゃない時代でしたから、
お金かかってしょうがないっていう、それだったらリアルに行った方がずっとマシっていう状態でしたからね。
今だからそういう意味ではいろんなものが受けやすくはなっているんで、
だからそっち受ける方が話早いんじゃないかと思うケースもあります。
でも私はグッドバイブスを伝えるという方向なので、
今日は指名の日ですし、どうしてそうなるんだって言われるかもしれませんが、
ジゾイド化に気をつけようねって話で締めたいと思っているんですね。
ジゾイドっていうのは何かというと、スキゾイドとも言いますし、分裂機質っていうところですね。
平沢栄馬は私がそうです。
孤独壁がまずありますね。
この孤独壁っていうのは、もちろん他人に対する苦手意識とか警戒感といったものも多重、多分にあるんですけど、
要は悪意がお互いにないならば、過剰に踏み込まずにお互いいた方が、
それでこと足りるならば幸せじゃないですかみたいな感じ。
こういう感じが進行していく、そういう一つの精神的な傾向のことを指すんですよ、僕の考えでは。
分裂、消失、人格障害とかいったりする、これは障害って名前をつけちゃってるんだけど、障害はケースによっては言い過ぎな気がするんですよね。
もちろんこれで困ってるのに、困ってるときはますます引きこもっていくというのは問題だと思うんですよ。
この引きこもりって言葉も今では、部屋から一歩も出ないとか家から出ないっていうのを指しますけど、
あれは社会的引きこもりと正式には言って、引きこもるというのはもっと精神的、情緒的な話を指すんですね。
私はだから人前で引きこもってしまいがちだったわけです。
今でも油断をするとすぐそれが出るんですよ。
これは倉園さんがグッドバイブスでカプセルの中でっていう言い方をされるんですか、表現としてはですね。
カプセルの中で自己完結的に過ごす。
それはスタイルとしてそうだっていうケースと、情緒的にそうであるっていうケースと、
両方ある意味指していて、必ずしも私は部屋の中で自己完結的に過ごしていたわけではないんですが、
人前では非常に引きこもってたわけですね。
どこに引きこもってたのかって言われると、はなはな困るんですよ。
どことかはないんですけれども、オープンマインドじゃないと言ったらいいですかね。
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人に対して開いてないんですよね。閉じているわけです。
無視するとかじゃないんですよ。
なんかね、うまく伝えられないんですよね。
ちゃんと対応はするんです。
聞かれたことには答えるし、必要とあれば笑う。
必要とあれば笑うってのは大変おかしいですよね。
でも、情緒的に引きこもるって言えばなんとなくわかっていただけるかなと思うんですけど、
これは二人以上いるところでむしろ意味をなすんですよ。
部屋の中一人でいるときのいわゆる社会的引きこもりというのは、
何かが進行している感じで、そういうのが全くなかったとしても、
人前に出たときに引きこもってきる。
例えば、すごく上手に私はできました。
作り笑いをする引きこもりの人っているんですよ。
あまりにもその女の子はかわいく笑うので、みんなそれに騙されているんだけど、
その子は家に帰るとぐったりするとか、あるいはそんな笑いはいくらでも作り出せるとか、
そういう話なんですね。
で、これですね。
なんて言えばいいんですかね。
偽りの事故とかね。
偽りの事故っていうのは、
そんな表現は目新しいものではないんですが、
私はただ、彼が一番迫ったのは、
分裂症というものの本質に迫っているんだろうなと。
これを精神分析なので、
母子の一体感から彼は説明して、
分裂症というものの本質に迫っているんだろうなと。
これを精神分析なので、母子の一体感から彼は説明していくんですね。
ここでも誤解の、誤解はいっぱいありますが、誤解の元なのは、
それをゼロ歳児の時にこうして、一歳児ではこうしてとかいう、
いわゆる発達心理学的にやったわけではないし、
そういう話ではさらさらないんですよ。
アンナ・フロイトさんが、フロイトのお嬢さんですけど、
アンナ・フロイトさんが思いっきりそれを発達に当てはめちゃうような言い方をしちゃったんで、
まるで発達心理学とか児童心理学みたいに見えちゃうんですけど、
そういうものではさらさらなくて、
この母子の一体感とか言っているのは、記憶の中の話なんですね。
こういうふうに言うといいのかな。
母子というのは母親の記憶のことなんですよ。
ことではないんだな。やっぱりここ難しいですね。
内的対象とか言ったりするのも、うまい言い回しがないからなんですよね。
自分の中の、自分自身が母親化している部分っていうのがあるっていう考え方。
で、その自分自身なんだけどそれは、
しかし同時に自分だとはとても感じられない。
母親のように感じてしまうような、だから対象なんですよ。
自分の内的な対象なんですね。
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その母親が怖いんですよ。
怖いからその自分なんだけど、
自分に対して自分がいい顔をするんですよ。
で、亀裂が入っちゃいますよね、そういうことをやるから。
自分が自分に対して、自分だと思っていないんですよ、心の中で。
自分が自分に対して警戒しているものだから、
そういう意味で亀裂が入っちゃうんですね、自分の心の中に。
だから分裂なんですよ。
そういうものを自分が怖がっている母親、
父親の場合もありますけどね、
自分が怖がっている母親のようなものを他人に見てしまう。
というか他人と出会った時に、
その母親に対する怖さみたいなものを感じてしまう。
だから全ての他人が怖くなる。
対人恐怖症とか対人不安とか引きこもりという人は無意識なので、
みんな人が怖いんですって言ってしまうんですよ。
みんな人が怖いんですって言ってしまうんだけど、
人が怖いってどういうことだって問題なんですよ。
78億人いるあらゆる人が怖いのか。
怖いんですっていう人も割と平気でいるんだけど、
それはやっぱりちょっと奇妙ですよね。
あらゆる人が怖いんですなんていうのは。
多分そうではなくて、
その人は自分の一番最初の人間関係であったところのお母さんとの関係で、
必ずしもその母との関係が悪かったってことはないにしても、
ちょっと怖いなっていう意識を持ってしまって、
あるいはこの人よそよそしいなっていう意識、
私はそういう意識を持っちゃったんですけど、
そのよそよそしさをあらゆる人に投影するものだから、
他人との関係がよそよそしくならざるを得ない。
近づきようがないっていう感じなんですよ。
自分の心の中にそういうよそよそしさを持った母親みたいなのがいて、
しかもそれはどこにいるとかここにいるとかではなくて、
とにかくいるんですよ自分の心の中に。
で、それが他人と出会ったときは不意にその他人が
そのよそよそしいお母さんのよそ追いをして登場しちゃうんですね。
誰であっても。
そんなもんだからその他人によそよしさを感じるんで、
相手がそんなによそよそしいならば、
私もある程度距離を置こうってこうやって人と距離ができちゃうんですよ。
こういう問題から全てが派生するんですね。
この状態で人と愛情豊かに接するとか、
冗談を言い合うとかは結構困難なので、
そんなことをするくらいなら自己完結していたほうが楽だなって思うわけですよ。
ここを何とかしなくてもいいときはいいんですよ。
だけれどもここを何とかしないで生きるというのは、
つまり人とは出会いますからね。
出会うたびに一種の軽い苦痛を覚えるためにですね、
最終的には、例えば昨日大橋さんと話していて、
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面白い話を聞いたんですけど、
ファイヤーっていうんですか、
ファイナンスインディペンデント、インディペンデンスなのかな。
リタイアメント、アリア。
そういう話、つまり経済的に自立して、
早めのリタイアを達成すると。
多分そういう意味なんですね。
これは別に、今ではファイヤーっていうのかもしれませんが、
こういう話っていくらでもあったんですよ、昔からね。
早めに上がるみたいな、人生上がるとか、
そういう言い方をしていた時期もありましたし、
とにかくあったわけですよ。
この発想と結びつきやすいんですね。
人との関係がそうでなくても、
ちょっとした辛さをどんな人と、
これ相手が悪いわけではないし、
ある程度自覚があれば、相手が悪いわけじゃないのは分かってるんで、
むしろ相手に悪いなと思ってしまうんですね。
相手がよそよそしいわけではないんだろうな、本当のところと思う。
私の心の機能の働きの一つなんだと。
だけどこの働きを作ったのはどうも親らしいんだけど、
じゃあ親は悪意を持ってそういうことをやったかというと、
それも疑わしいわけですよ。
うちの母がよそよそしく私を育てようと思ったり、
過度にドライになろうと思っていたわけではないんですよ。
それはよくわかってるんですよね。
うちの母はあえて言えば、
これを世代関連さって言っちゃうんでしょうけど、
そんな面倒くさいことを言うのもどうかと思うんですけど、
うちの母の実家の父親というのは大変DVだったらしくて、
めちゃくちゃ殴ってたわけですよ、家族とかを。
だからああいうぐらいになるのは当然なんですよね。
その母の父だからつまり私の祖父ですが、
その祖父はですね、またママ母に育てられて北海道でね、
大変家族的に厳しい思いをしたらしいという、
もうこの辺になってくるとこっちからすれば神話ですよ。
見たこともないような人なんですから。
ただそれは事実そういうことがあったらしいんですよね。
しかも生まれ故郷がカラフトなんで、今ないんですよね、実家は。
非常に複雑な、複雑というか当時としてはそう珍しくもなかったんでしょうけど、
ややこしい事象があって、母のところまで来たときには、
つまり子供に対してもかなりドライになってしまうという、
そういう性格を帯びていたわけですね。
私がそこから受け継いで云劣焼失というのを持ったわけですよね。
薄まっていることは確かじゃないですか。
DV、最初ママ母でしょ、そこからDVですもんね。
そしてドライすぎると。
そして分裂症ですよ。
そんなにおかしなことじゃないんですよ。
でもこういう世代関連さみたいなのはよくよく聞く話だし、
多分ここからですね、生前療法みたいな、
完璧に怒るとかもしれないけれども、そういう話になっていくんですよ。
でも生前療法みたいな話もよく聞いていると、
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グループワークみたいな、家族ファミリーカウンセリングみたいな話と接近していきますし、
3世代って話、僕はあんまり聞いたことないですけれども、
3世代同時に精神分析の人が見れば、
ほとんどやることは世代関連さの話になっていくに決まっていますし、
それが結局、だから子育ての仕方が悪いのかって言われちゃうんですけど、
そういうことじゃないんですよね。
これは、その母親に対してどういう記憶を、イメージ、記憶、力度を持っていくかっていう話であって、
私なんかは例えば、私が母を見るイメージと妹が母を見るイメージが全然違いますし、
まるで別人ぐらい違いますし、しかも妹から見る方がはるかに母は悪人になってますから、
驚きますよね。
同じように見ていたにもかかわらず、同じようには決して見えないっていうのも、
だから自分が見ている母も友情に決まっているわけです。
で、なぜこういう話がライフハック系で私がしたいかというとですね、
自己完結しやすいと思うんですよ、ライフハッカーの人は。
結局あらゆるもの、あらゆる自分に関わるもの、買い物が一番そうですけれども、
例えば部屋をきれいにするとか、今の時期大掃除とかありますからね、
なるべく工夫をして機械化して、つまり人間の手を入れずにできるようにすることができると。
料理とかも、それこそ勝馬和夫さんが自動化していく家事みたいな話で、
特に料理を取り上げていらっしゃいましたけれども、
ほとんどボタンを押すだけでも料理ができるようにするので、
あれ、自分で作っているのは彼女の健康志向によるところで、
これを別にセブンミールとか使って外から通り寄せてもいいわけじゃないですか。
で、現に今ではこの界隈はそうですけれども、
お年寄り多いので、自分じゃもうできないよっていう人は、
そういうものに頼る方がいいですよね。
そしてそういう話を進めていけばですね、
つまり人の手を入れずにできるようにすることができる、
といけばですね、つまり人の手を煩わせないという方向と合致していくはずなんですよ。
最初に私がそうであったように、
人というものがよそよそしくみんなが見えてしまうならば、
なるべく人の手を介在させずに自分をケアしていきたいと、
自分の身体をケアしていきたいと。
だからZoomもそうですし、オンラインで人と関わり、
なるべく異色獣、異色獣といっても、
獣はオンラインというわけにはいきませんけれども、
極力可能なレベルでは全て深い関わりという、
深い関わりという言い方がおかしいんだよね。
つながりとか深い関わりという言い方をすると、
すぐ情緒の話になっちゃうんですけど、
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多分ライハックの人たちが考えているのは、
まず物理の、マテリアルな問題だと思っているはずなんですよ。
だから、まず何よりも必要なのは経済的自立だということになるわけで、
次にいいのは、少なくとも仕事をするために、
他人と絶対関わらなければいけないという状態に
陥らないことだという話になると思うんですね。
そのために、しかもですね、
例えば最近私が出している本の流れの中でも、
ポイントになっていますけれども、
なぜアイデアをノートに出すとか、
デジタルノートでアイデアを求めていくという話になるかというと、
自分の頭脳からアイデアが出てくる。
それが金になるということであれば、
一番合理的な話になるわけですよ。
一番これがいいわけで、
他人に働いてもらう必要すらないですしね。
アイデアというものが自分の頭脳から出て、
それがマネーになっていき、
それによってファイナンスが自立に直結して、
自由のケアがスムーズにいくと。
しかもそこに人間というものが出てこないで済むと。
そういう時に、つまり何を必要とせずに済むかというと、
偽りの事故が必要としないということなんですよ。
偽りの事故を稼働させるのが嫌なわけじゃないですか。
あれですよ。
心の中では、
こんな奴の書くものは大して面白くもないのにと思っていても、
私と仕事をする人の場合は、
人にもよるかもしれないけど、
佐々木さん最近書いてる本本当に素晴らしいですよね、
とか言わなきゃならないですね。
これが偽りの事故の、よくやらなきゃならない仕事の一つで、
つまり自分の気持ちと本当の気持ち、
自分の本当の態度と表に出る態度の間に、
乖離が絶対に要求されていると。
その乖離というものを上手に埋めていかなければならない。
というのが偽りの事故です。
これとさっきの母を投影しちゃうから他人がよそよそしく見えるというのは、
つまり他人というのは好意的なものでない以上、
好意的でなければ好意的でないほど、
この偽りの事故は活躍の場が大きいわけですよね。
だから、なぜなのかは分かりませんが、
ジゾイド的な人というのは生まれてくるわけです。
なぜなのかは分からないしでも、今言ったような事情で、
世代関連さなのか、
何らかの理由があって、環境としての母親なんですけど、
環境としての母親というのは、
つまり母親があまりにも上手く世話をしてくれるはずなんだけれども、
いろんな事情があって、
お母さんは子供の世話を特に情緒的にする部分において、
ダメであると言ったらダメですね。
要するにあんまり乗り気になれないわけですね。
自分の息子だからといって、
ベタベタとしているというのが気持ち悪いわけです。
なぜならば、
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特に男親が暴力的だったということがあったりするので、
あまりにも自分に依存するような子供であっては、
こういう難しい世の中で生き延びていくのに
困難を覚えるだろうという不安があるんですよ。
だからやっぱりファイヤーなんですね。
早く自立させたいと。
そのためには一番ベタベタしているはずの自分が
それなりにクールであれば、
相手はもっともっと子供の頃から
人に先んじて自立的に生きるようになるだろうと。
僕みたいになるわけですよ。
言ってしまえばね。
こういうふうに考える人間としては、
人の世話になりたくないというのが一番出てきますよね。
やっぱり。
何としてもやっぱりアマゾンの世話になるのはいいが、
他人の世話にはなりたくない。
ここには矛盾があるんですけれども、
例えば服は着ているんだけど人の世話になりたくないというのは
矛盾していると思うんですけどね。
つまり金を使って人に頼るならいいんだけれども、
金を使わずに人に頼るようにはなりたくないというふうに
考えるわけです。
つまり情緒的に人に頼ることはできないと。
これはもう観念とかじゃないので、
一番最初の情緒的関係であったところの母親との関係。
これはしょうがないですよね。
一番最初に情緒的関係を結ぶしかないじゃないですか。
肉体が接触しているわけですからね、最初から。
ここがベタベタ甘えるということに何か
違和感なり拒否感なりがあったという場合には、
情緒的に人に頼るということはできないなという実感を
物心つく遥か以前に持ちますよね。
これは僕が持っているものであり、
なかなか取り去れないものだなと思っているんです。
ある程度必要だという話をされると、
すごい気が楽になるぐらいに、
情緒的な甘えですけれども、
甘えられないなという感じを抱いちゃうわけですよ。
これを聞いている方でもなお違和感がある人は
結構いると思うんです。
コンテクスト次第では、
全くそう感じられると思います。
つまり、経済的に自立して、
情緒的に人に甘えないというのは
いいことだという考えは、
聞かされれば多分非常に受け入れやすいものです。
一方で、例えば倉園さんの話をずっと聞いていて、
カプセルに引きこもっていてはいけないという話を
聞かされれば、それはそれなりに
僕たちはそれをすぐ受け入れるわけです。
この2つは非常に両立させがたいもので、
経済的自立を目指して、
人に情緒的に甘えないという方向性を徹底すれば、
非常にカプセル的になるし、
カプセルに閉じこもるのを
良しとしないで出ていこうとすると、
やっぱり最初に引っかかってくるのは、
情緒的に頼りたいというか、
情緒的に結びついているという気持ちに
入っていくしかなくなるんですよね。
どっちか両方を閉じ込むというか、
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これは非常に困難なんだけど、
私たちの社会では、
しょっちゅうこれはね、
どっちも良いものだという風に
メッセージとしては来るはずなんですよ。
引きこもってばかりいて、
人と繋がらずに生きていてはいけないよという話は、
あらゆる方面から来ます。
これを全く受け入れないという人よりは、
やっぱりある程度これを受け入れていった方が
行きやすいだろうなとは、
みんな思っているんですよね。
一方で経済的に自立して、
人に依存しているようでは
いけないよというのも、
みんなあっさり受け入れてしまうんですよね。
これは特に競争意識というものを
親が持たせたいと思った家庭では、
ある程度以上はみんな持っているはずです。
結局、あるがままに生きていればですね、
例えば受験なんかではかなり苦労する。
受験というのはいつもそうですけれども、
受験を受け入れて、
受験を受け入れて、
受験を受け入れて、
受験というのはいつもそうですけれども、
一部最優秀の人を除けば東大にトップで合格するとかね、
このレベルの人を除けば、
当然自分が入り得る最高レベルのところで競争するから、
際抜けないわけですよ。
頭がいくらいいとしてもですね、
公立の小学校でトップだったとしても、
公立の小学校が1000個あって、
その1000個のトップの人たちがまた競争するわけですから、
同じ問題が引き起こされますよね。
こういうところで甘えていってはいけないわけですよね。
そのメッセージは私たちは小さい頃から繰り返し届いてきてますから、
そしてLINEハッカーやってる人たちは、
私は何となく耳に入ってくる話、
耳に入ってくるプロフィールを、
目にするプロフィールを見ただけでも、
名門校ばっかりですもん。
多くの人は名門校です。
たまにそうじゃない人がいると、
むしろ僕なんかは感心させられるんですよ。
こういう人のLINEハックの方が面白いような気がするとか、
思ってしまうぐらいなんですよ。
それくらいやっぱり上位校で揉まれてきていると思うんですよね。
そういう人たち、
上位校は入るときだって揉まれるし、
入った後だって揉まれるんだから、
甘えが許されないと、
冗長的に信じているのは当たり前なんですよね。
そこにAmazonがあれば、
あれはAmazonにしたいじゃないですか。
Amazonとかヨドバシとか、
何でもいいですけど、
中でも価格比較をして、
一番安いのを、
つまり人が余計なところで余計なお金を使っている間に、
自分はより少ないお金で同じ環境を構築できるということであれば、
よりファイヤーは近づきますよね。
より自立と快適な環境といったものの確率が近づくわけですよ。
そういう方向性に、
基本的な疑いの余地はないはずだと僕は思うんです。
ライハックやっているような人であればね、
スクシュートやっているような人であれば、
ここに疑いを持ちましょうというのは、
私のメッセージなんで、
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大変無理があるわけですよ。
無理があるだろうなと、
喋りながらもよく思っています。
でも、ここをやらないでいると、
困った時に人が助けてくれないとかでは全くないんですよ。
そういう話が通りやすい時もあると思うんですけれども、
やっぱり一番最初の記憶の問題だと思うんです。
母がよそよそ叱ったというのは、
結局のところ何を意味するのかということなんですよ。
母が外部の対象であれば、
それがそれであったとして別の問題はないんですよ。
未だに母が外部の対象であれば、
よそよそ叱ったとしても大した問題じゃない。
問題になるのは、
私が母のイメージでは弱いんです。
やっぱり内的対象としての私の母。
つまり、私と母が一体になっている部分。
これを言ってもですね、
全く何か変な話に聞こえる方には聞こえると思いますが、
母子一体というのは、
僕の中にあるものなんですよ。
僕が母子一体というのは、
言ってしまえばね。
その母の部分がよそよそしいということは、
やっぱり分裂が避けられない。
これが最大の問題です。
ライフスタイルをこの方向に押し進めている限り、
この分裂感から逃れようがないんですね。
進むばっかりなわけです。
一番最後に何が来るかというと、
私の心の中の母親機能というべき部分。
母親機能というのは、
例えば、私の心の中の母親機能というべき部分。
つまり、私の心の中で情緒的な問題を司っている部分が
機能を停止するわけです。
これが問題だというのが、私が言いたいことなんですね。
結果としては、カプセルに閉じこもるしかなくなるということになるんだけれども、
出るのが怖くなりますからね。
どうしてもこの母親機能という言葉で
通りにくいとするならば、
でも、嘘になっちゃうんですよね。
こういう言い方をすると。
大脳変炎系腹筋という言い方をすれば、
むしろ通りやすくなるかもしれませんね。
あの腹筋が機能しなくなるという問題を
いつか引き起こすだろうなと思うんです。
意味づけとかね。
この話はまた別にいたしますけれども、
例えば意味づけで言えばですね、
これはウッドバイブスで言う意味づけとちょっと違ってきちゃうんですけれども、
私たちはママごとをするわけです。
母親機能が動いていることによって
意味づけを私たちに代わってしてくれたわけですね。
例えばこれはお茶碗でご飯を食べるものだというのは
母がしたことです。
母が意味をつけたことですね。
子供はこれをできません。
ので、ママごとセットというものを必要とするんですよ。
いかにもその意味がつきそうなものを使わないと
意味づけ一つできないんですね。
母親機能が止まるということの恐ろしさは
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世界に対する意味を見失うということなんですよ。
そういう病理はある。
こういう病理に対する理論的な治療の仕方を構築したのが
ミニコットのすごさだと僕は思うんです。
夢見る力ですよね。
夢見る力とか機能って言ったら
今度はビヨンって人になっちゃうんですけれども。
僕たちは起きていて夢を見ているわけですよ。
これはご飯を食べるためのご飯茶碗だというのは夢ですよ、完全に。
虫には絶対そうは見えない。
たぶんゴリラでもそうは思わないでしょうね。
私たち人間だけが勝手にそういう意味を世界に
塗りまくって生きているわけですよ。
僕の考えではこの母親機能が完全に停止すると
色も見えなくなると思います。
世の中に色ってもありませんからね。
僕ら風景に色を勝手に塗っているだけなんで
誰もそうは思っていないかもしれませんけれども
でもすごいんですよね。
インド人の哲学者なんかはそういうふうに言ったわけですからね。
色源前に。
僕らは知っているんですよね、たぶんだから。
世の中に勝手に僕らの色をつけているんだということをですね。
この色づけだってたぶん私たちは
自分ではできなくて母親機能を使って
心の母親機能を使ってやっているわけですよね。
だけど子供はそれができないので
お茶碗そっくりのおもちゃを用意して
忌みづけをしやすい状態にしておくわけです。
僕らはそういうことをせずに
自力で忌みづけができるので
これはお茶碗以外の何物もないことを平気で思うわけですよ。
どう見てもお茶碗じゃない場合もあるわけですよね、それは。
でもそれは構わないわけですよ。
これは皿だってことにすればそれは皿になると。
これが私たちの生き方ですよね。
夢って全くそうじゃないですか。
夢っていうのはそこにないものを全部見て
意味だけを見ている世界ですよね。
これが起きているとできなくなるというのが
たぶん自閉っていう問題なんだと思うんですね。
起きているときは夢が全く見られません。
マテリアルなものが目に入ってくるだけですっていう状態
っていうのがたぶん自閉って問題なんだと思うんです。
ちょうど私の考えではですね
この正反対のところに
ある意味、意味が暴走していく世界ってのがあるんだろうなと思うんですよ。
それはいいんですけど
こういうことができなくなりかねないという問題なんです。
こういうことができていて初めて私たちは
安心して世界にある意味出ていけるわけじゃないですか。
他の人と同じものを見てるんだろうなって
これは甘えなんですよね。
そうは感じてませんけれども
他の人もこれは茶碗だと思ってくれてるんだろうなってのは
甘えなんですよ結局。
私たちが決めたことじゃないですからね。
こうやっていないと
安心してはいられないのが私たちなので
安心しているためには母や機能というのは
健全に動いててくれないと困るわけですね。
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だけれどもこれが動かなければ動かないほどいいんだ
っていう感じになっていくのが
たぶんグッドファイブスっていうところの
カプセルに閉じこもるっていう状態で
私たちはその状態で
生きられなくはない世の中を構築しつつ
あるんですけれども
そのために金がいるわけです。
アレクサにすぐつぶやいてすぐ物が来ても
別に困らないっていう人は相当お金持ちなはずなわけですね。
金がいるっていうのが一つと
結局それは金に頼っているっていう話になってるじゃないですか。
金に頼る、母に頼る代わりに金に頼ると
これは全然自立じゃないようなところもあるわけですよね。
ファイナンシャルに自立すると言っておきながら
つまりファイナンスに徹底的に頼るという話です。
結局それは最終的には自分が弱いってことになっていくので
母親機能がないっていうのは
最終的には自分がとても弱いっていうことに
つながっていくというか
そういう認識がその先にあって
今でも当然そうだって言われると
そうなのかもしれないんですけれども
ただ2021年ですね。
今日で終わりますが
自分が考えたのはつまり
自分が弱いと私はずっとそういうふうに思ってきたんだけど
思わなくても何も問題はないんだってことなんです。
2021年ね。
自分は強いと思っていて
そうするとそれに沿った行動を取らなければならなくなるんですけれども
自分が強いっていうふうに思った行動を取ることが
全然自分に不利益をもたらさなくて
経済的にもですね。
不利益をもたらさなくて
だから自分は弱いと思うという一つのオプションを
手放すことができたわけですね。
これがたぶん2021年の収穫だったんだろうと思います。
私の考えではね
自分が弱いというこのオプションを手放すためには
母親機能というものの駆動が必要なんですよ。
母親機能を使うということが
自分が弱くないということとイコールになるわけです。
要するに最早期の赤ちゃんが母親から離れたら弱いってことですよ。