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2020-09-30 26:19

【GMV230】ダラダラは後悔が産む

後悔しないと決意する
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おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
昨日おとといと、ダラダラというようなお話をさせていただいて、意外に反響があったというか、何か立て続けにコメントをいただいたんですよ。
直接テーマにピックさせていただいたZoeさんからのは、いただいてありがたかったけど、その他にも数名の方からいただいてですね、
Kurasono Keizoさんからもコメントらしきものをいただいたんで、それでちょっと別の部分についても考えてみようかなと思って、今日はその話をします。
ダラダラという、ダラダラ時間を過ごすというのに対する、私はそういう評価基準に対してネガティブに考えているというのは、
ネガティブに考えているというのは言い過ぎですが、そういうふうに自分の時間を評価したくないというふうに考えているのは前2回でお話しした通りなんですけど、
ダラダラすることに対する不安や恐怖感がありますよね。
そういうものがあるからこそ、ダラダラしたくないからこそ、昨日も言った通り7つの習慣の第4証言は特に無しにしたいとか、そういうのがあると思うんです。
これはそれを排除することによって未来の自分がベターになるという価値観があるんですね。
私はそれはごくシンプルに言ってもありえないことだと思うんです。
私の考えですよ。私の考えでは最終的に人は死にますからね。
どんなに第2証言だけに時間を注ぎ込んだとしても、その人が不死身になるというふうには僕には信じられないんですよ。
そうすると、第2証言に全部時間をすれば人生は必ずベターになるというのであれば、
そしてその人が死ぬということについてポジティブに捉えているのでないと、そこは矛盾してしまうと思うんですね。
第2証言に全部したのに一番最後にやってくるのは死であると、そして死はネガティブなものだ。
ところで第2証言に全部の時間を集めれば自分の未来は必ず良くなる。
これ絶対に成功しないと私は思いますね。
ついでに言うと、本当に第2証言に全部集めると死を除いたとしても必ずベターになるのか、
この人は老化というのをどう捉えているのかと思うと、
やっぱり大いに話の理屈は合っていないと思うんです。
それはしょうがないじゃないかと言われるかもしれませんが、
それがしょうがないのであれば第2証言にしてもしなくても、
結局しょうがないことはしょうがないんじゃないかというニュアンスも私の考え方の中にはあるんですよ。
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結局ここで議論になっているのはどういうことかというと、
未来が良くなるかどうかということですよね。
そもそもこれはウッドワイブス的な話になりますが、
それを思い忘れるから事態が一層混乱するんだと思うんですよ。
ところがですね、よくよく考えてみると、
そんなことが本当に問題になっているわけでもないような気がします。
未来が良くならないと困るということだけが第2証言の問題ではないような気がするんです。
未来が良くなった方がいいというそれだけならば私にも話は分かります。
けれどもダラダラしていると、むしろ未来に勘が落ちる、
未来が悪くなっていく、それが怖いという話のようにも聞こえるし、
そっちの方がですね、分かりやすいかなと思うんです。
つまり、この1章の話はよく聞くんですが、
自分の行動をレビューするということがそうなってくるといけないのかもしれませんが、
レビューしたときの判断基準がないと。
判断基準なもの、つまりより良いという行動に評価できたものを繰り返せば、
未来が良くなるというわけじゃないですか。
逆に判断基準を持って悪いというふうにみなした行為を続けると、
未来が悪くなると。
私はこのような判断基準を手に入れることは不可能だということ。
仮にそれを手に入れて第2証言だけにして良いことだけをやっていても、
人は最後は死ななければならないと私は思っているということ。
そして私が考えるに第2証言にこだわっている人は、
死をそこまで最高のものとみなしていないので、
この話はどう考えても矛盾していると私には思えるということ。
でですね、でもそれは本当の問題じゃないと思うんですよ。
本当の問題は、そもそもその種の判断基準なしに自分の行動を評価する。
そうしておかないと不安だという、そういう不安心理が一番問題なんだと思うんですね。
この不安心理につけ込まれていて騙されていて、
何か評価基準らしきものを手に入れて、
これをやっておけば安心だという錯覚によって、
私たちは自分をどう築けようとする。
それが第2証言のこの話の一番の混乱なんじゃないかなと思っています。
何が混乱かというとですね、
自分で自分の行動の評価をしていかないと
不安であるということがそもそも混乱だというのが一つと、
それをしないと私たちはお先真っ暗だと思っているのが非常におかしいと思うんですね。
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最終的な話をすれば、そのようなことをしてもしなくても私たちは死ぬんですよ。
まずこれは1点私の中ではあるんですけど、
もう一つそれはほとんどの人が本当のところ問題にしている気もしないんですよね。
だからこれも問題にしているとは思えないんです。
つまりそれについてはですね、死は除外するとかじゃなくて、
死がポジティブかネガティブかでもなくて、
死ぬのは多分だいぶ先のことだからあんまり真剣に考えるのはやめておこうくらいな感じだと思っているんです。
そうではなくて、もっともっとシンプルに言うと、
結局今やっているこれは意味があるんだろうかということなんだと思うんです。
そしてこの評価軸にそもそもの問題があると思うんですね。
私たちはこういう疑問、今やっているこれは苦労する甲斐があるんだろう。
これはフランスの実存主義作家で呼ばれていたアルベル神が非常にうまく表現しているんですよ。
苦労する価値がないと思って人は自殺するんだと。
彼も極端ですけどね。
苦労する価値があるのかないのかって話をしているんだと思うんですね。
電車に乗るなり、通勤するなり、ラッシュに揉まれるなり、
週に3回も4回も5回も会社に行くなり、そういう話出てくるじゃないですか。
だからそれを是正するためにミッションステートメントと評価軸、第二領域という大掛かりなものを持ってきて、
でも僕は思うにですね、こう言ってしまっては失礼かもしれないが、
そこで求められていることは、家にいて悠々自的に快適に過ごしていきたいということだと思うんですよ。
で、私はそれだったらね、こんな手の込んだことをする必要があるとは思わないんですよ。
そこを目指せば済む話なんじゃないかという気がするんです。
この話はもっともっと手前のところに問題があって、その大掛かりな聴観的なマップみたいなものはいらないと思うんですよ。
一番手前のところで問題になるのはですね、ある仕事、仕事でいいでしょう。
それをする気にならないということだと思うんです。
これをする気にするために、する気にならないという事態が発生した時の不安がありまして、
つまりその時に自分はダラダラしてしまった。
ダラダラして仕事がはかどらなくて、思い返すがいいことは起きなかった。
だからダラダラを解除した。
そのために大掛かりなシステムが考案されたというだけのことだと思うんです。
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ところがですね、このシステムはさっき言った通り、僕の中では矛盾がいろいろある上に、
一番問題なのはですね、このダラダラを一歩間違うと増やすと思うんですよね。
評価軸に沿ってレビューをする。
それによって罰印がつくのが怖いから、ダラダラするのを避ける。
で、ミッションに沿った自分の行動を取るということは、
私はそこまでですね、あらゆる人がそれを続けていれば未来がバラ色になるとは信じられないと思うんです。
つまりこれによる動機づけというのには、割と頭打ちする部分があるはずで、
なぜならばですね、未来を良くするための行動だからです。
第一に未来を良くするための行動をどれほど繰り返しても、
未来が良くなるという絶対的な保証はないじゃないですか。
さっき私死ぬかもしれないって言ったんですけど、
第二領域に全部したからといって交通事故に遭わないとかそういうことにはならないと思うんですよ。
第二領域に全部すれば台風が来ないとかそういうことにもならないと思うんですね。
私たちはそういうことがわかっていますから当然。
そんなに頭悪くないじゃないですか。
こんなことは幼稚園生でももしかするとわかることなので。
つまりそう思ったら、ただただミッションに沿おうという理由が、
未来を良くするというだけでは不十分だと思うんですね。
やっぱりダラダラしてしまうでしょう。
このダラダラをそもそもやめたかったのは、
仕事がはかどらないことによって良いことがなかったからだと思うんですよ。
仕事がはかどらないのにもかかわらず、
そしてそれをしていても良いことがないにもかかわらず、
ダラダラしてしまうというのは、私の考えではダラダラするべきだからなんです。
だからそれをダラダラと呼ぶべきではないんですけれども。
もう一つ、自罰っていうことが出てくると思うんです。
自分を罰するってやつですね。
つまり後悔にするってことです。
私たちはですね、これを安易に、かなり安易にやるんですよ。
後悔したくないからレビューするんですよね。
で、レビューして後悔してしまったような行動を二度と取る前にと改善する。
でも、でも後悔する。
なぜならば、後悔するということをやめようとしないから。
私たちは後悔するというのは良いことだとでも思っている節があるんですよ。
だってレビューして改善するきっかけになりますから。
昨日脂っこいものを食べ過ぎてしまったと記録に書く。
で、後悔している。
だから今後脂っこいものを食べないというふうに自分の行動を立するってこういうことですよね。
ここにミッションステードメントを持ち出してこなくてもこれはできることだと思うし、
しかしですね、私このところの中には自罰が含まれていると思うんです。
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自分を罰している。
つまり後悔している。
これが私たちをダラダラに導くんだと僕は思うんです。
だから後悔を一切やめることの方が実はですね、
第二証言よりも、レビューよりもはるかに意味があるのではないかと思っていて、
というよりも、この自罰をやめない限りですね、
レビューを1万回やってもダラダラはなくならないだろうなと思います。
自罰が、こういう言い方はあれですが最悪だと思った方が、
もしダラダラを減らしたいならばいいと思うんですね。
自罰ともう一つ仕事については多罰があります。
その仕事がうまくいかないんじゃないかと思うと、
私たちはその仕事をするモチベーションを大きく下げるのでダラダラし始めます。
どっちも同じで、つまり罰なんですよね。
さっき言ったかな、熊園慶三さんからもコメントいただいたと、
この話が入っていたので思い出したんですよ。
私たちは特にですね、私は自罰というものを私たちが軽々しく扱っている気がする。
自罰という言葉を使うとピンとこないと思うんですけど、後悔でいいです。
全部後悔をやめるべきなんですよ。
ダラダラしたくないなら、レビューしたって無駄だと思うんですよ。
後悔する癖がついていると。
後悔する癖がついていると、いろんなことを後悔するじゃないですか。
後悔というのはイリュージョンなので、なぜならば過去に起こったことに対する悔やみですからね。
過去はないので脳内にしかイリュージョンなんですよ。
後悔すれば自分の行動を修正されると思うのは大きな間違いで、
なぜならばその人は脂っこいものを食べないように自分を気をつけることはするでしょうけど、
後悔しないように気をつけることはしないんですよ。
後悔はし続けるんですね、このカラクリの中では。
後悔するということは返答タイムモードを使うんですよ。
ある行為についてネガティブに評価をするということは、
そんなことをしてしまう私というものに恐れを抱くんです。
自分に恐れを抱くんですよ。
自分に恐れを抱くということは、
この言い方はちょっときつめになっちゃうかもしれないんですけど、
ヘビとかクモが怖い人にしてみればですね、
自分の体内にそれを飼うということになりません。
私これをやるのは絶対ごめんだと思うんですね。
だから後悔は絶対しないんですよ。
後悔絶対しないということは自罰を絶対しないということです。
昨日脂っこいものを食べて、
お腹がゴロゴロして下痢をして高価にする。
じゃないと思うんですよ。
これを違う見方ができるはずなんです。
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例えば、すごくおいしいものをたくさん食べて、
なんとかお腹をゴロゴロ回しながら消化してくれているとか言ってもいいわけですよ。
今の言い方が変に聞こえるとすればですね、
それは後悔するのが浄土であると、
常識であると思っているせいなんです。
後悔しなければいけないと思っているんですよ、その人。
後悔しちゃいけないと思うんですね。
後悔するということをすると、
必ずその行動を取るときに自分はこれをして後悔するんではないだろうかという恐怖感がやってくるので、
だらだらするしかなくなると思うんですね。
危機としてやれないじゃないですか。
どんな行動についてもそうなっていく。
おいしいものを食べていても怖いわけですよね。
後で後悔することになるかも。
後悔は全部後ですることですけどね。
仕事をしていても同じです。
後悔するかもしれない。
全てそうでしょう。
この考え方を取る限り。
ミッションとか証言とかいらないわけですよ。
後悔だけで済んじゃう。
後悔して自分を忘れるということを繰り返す。
何度も何度もやるわけですよね。
ずっとその間、扁桃体活性化するんですよ。
このグッドモーニングファイブスではお馴染みの。
ずっと腹心が働き続ける。
ずっと体内ではストレスが動く。
で、自分はそうすることによってようやく何とか自分を立することができるという、
そういう自己感を持つわけですよね。
自己イメージを持つ。
私だったらこれは断じてごめんですね。
どうしてもこれをやれっていう人。
私は分離ってあると思うんで。
分離を避けなきゃいけないんで。
どうしてもこれをやれっていう人に対しては、
いろいろなことを考えなければならないだろうなとは思います。
分離をしないんで。
距離は置かないですけど。
多分その人はどこかでそういうふうな、
7つの証言の第2証言と同じインストールをしてしまってるんですね。
後悔こそが自分を救うというインストール。
でも、やめてみると分かるんですけど、
やめて悪いことは何も多分起きない。
もし仮にやめて悪いことが1%くらい起きても、
それによって得られるものが圧倒的に多いので、
いかなる計算をしても割には合わない。
だからこの種の行為っていうのは、
すっごく自罰的なんですね。
多分私の思うにですけれども、
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ダラダラしてしまうという人は、
まず時間を失うのが怖いわけ。
ダラダラしているうちに時間がなくなる。
でも仕事に没頭して時間を失うのも怖い。
これが1つですよね。
もう1つは後悔するのが怖い。
同じことなんですけどね。
時間を失うと後悔しますから。
もう1つが疲れるのを恐れてますよね。
でもこの自罰ほど、
人を疲れさせるものは滅多にないので、
疲れたくなければ自罰は即座にやめるべきなんですね。
本当に疲れたくないと思うのならば。
疲れたくないのに絶え間なく自罰をしているというのは、
すごく不思議な行動。
後悔をしているのに、
自罰をしているのに後悔していると思っていないという人もいます。
でもこれは私の中では多分同じことを意味します。
さっき何々をしなければよかったのにと、
後で思うという時に、
そこの中に必ず含まれるポジティブな部分を無視する。
例えば美味しいものを食べたとか、
時間を使いすぎてしまったといっても、
その時間を使った中で楽しんだことがあったわけですよね。
楽しんだことがなければ、時間を使いすぎるほどは時間を使わない。
本を読んでつまらなかったとか、
面白いかもしれないと思いながらずっと読んでいたところがあったわけですよね。
そういうポジティブなところを全部無視する、見ないことにする。
そしてネガティブなことがあったという部分だけを強調して、
副陣を使う。
なぜ副陣を使うのか。
清くしておくためですね。
これをやめれば、だらだらすることはぐっと減るはず。
人のために時間を使うことに対する不安や恐れも同じだと思うんですよ。
こいつのために時間を使ってしまったとまでは言わないけど、
あることを進めなければならないという思い込みが一方にあって、
その間に進められていたはずのことをここで時間を使ってしまった。
せめて本を読めばよかったとか、そういうふうに思うわけじゃないですか。
ここにはですね、時間というリソース、時間はリソースじゃないんだけど、
時間はリソースだと勝手に見出して、それを継ぎ込んだということによってですね、
自分がその間できたはずのこと、それをすることによって、
要するにドーパミンが活性化したはずのことだと思うんですよね。
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ドーパミンが活性化できたのに、それをせずにしてしまったことに対する恐怖感があるんだと。
すごく不思議な恐怖感なんです。実態がどこにもない。
でも私の父なんかこれをよく言うんですよね。
時間を無駄にしたなと。今あり余ってるんですけどね、彼の時間は。
そういう未来を彼は全く想定していませんでしたから。
それに彼はこういう未来になることに対する有効な手段を一切打たない人でした。
非常に面白いところがあるんですけどね。
未だにでもその呪縛にはちゃんととらわれて、時間を無駄にしないと。
でも周りの人は誰もそれに対して共感はしないんですね。
なぜなら彼はやらなければならないことがゼロなので。
この感覚が私たちの中にあるんですよね。
だって最終的に時間がプラスになるとかマイナスになるというのは、
もうミヘルエンデの桃の話になって、
時間銀行とかに預けておいて後で下ろせるというのであれば別としてもですね、
亡くなった時間について後悔するということって不可能なはずです。
記録をつけておいてもそんなことはできない、本当は。
記録に残ってるのは行動の記録であって、
その行動を取らなかった場合には21時間分が後ほど残って、
全ての時間を巻き戻せるとかそういうことは起こらないので、
時間を得するということができない以上、時間を損するということはありえなくて、
誰かのため、それが嫌いな上司のためであれ、
憎しみを持っている奥様のためであれ、誰のためであれ、
何かの行動を取ったということそのものがですね、
本当は後悔の種になるということはありえないと思うんです。
これは多発が返ってきているだけなんですね。
本当は奥様を苦しめたかったのに助けてしまった、そういうことですよね。
あるいはもうちょっと違う言い方をするならば、
本当は自分をもっと楽しませるべきだったのにそうしなかった。
でも私はこれは後悔の種にはならないと思うんですよ。
これから楽しめばすぐ悲しみなので。
そのことをやったために死んでしまったというのはまたちょっと違うんですけど、
その場合はやっぱり後悔はできないですからね。
もう死んでるんで。
結局、最終的に何が起こるかということを知らないので、私たちは。
代わりに何かをすることについて、代わりにでは本当はないんですが、
なぜなら同時にはそれができないことなので。
代わりに何かをすることについて、
先回りして後悔することはできないじゃないですか。
だから私たちはきっとレビューというものをして、
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まるで先回りして後悔を予防できると思っているんだと思うんですよ。
でもこのからくりをいくら考えてみても、そうはいかないと思うんですね。
やっぱり後悔は全部後になって、途中言いましたけど、後悔は後にならないとできないので。
そうすると後悔することによって自罰を加えるというシステムは、
永久に続くしかないと思うんですよ。
死ぬまでずっと後悔し続けて最後に死ぬということしかないと思うんですね。
この流れだと、たぶん誰もそんなことは望まないと思うんですよね。
つまり私たちが後悔するときは違う流れを考えているはずですよね。
一生後悔し続けて死ぬということではなくて、
どこかで後悔しないという人生がやってくるはずであると。
でもその後悔しない人生がやってくるというところに至るまでは、
ずっとあらゆる行動について後悔し得る可能性というのを
ずっと意識し続けていなければいけない。
で、結局後悔というのは自由じゃないですか。
たとえ憎い上司のために時間を使ってしまったとしても、
後悔しなくてもいいですよね。
それは自由じゃないですか。
ここで、「佐々木くん、それは絶対後悔しなければいけない。」
っていう人は誰もいないと思うんですよ。
それは自由ですよね、私の。
だったらまあ、しなくてもいいはずですよね。
たとえ時間というものがリソースであったとしても、
しなくてもいいと思うんですね。
何に時間を使ったから後悔しなければいけないという方はないと思うんですよ。
この話は結局元に戻っているんです。
後悔すれば未来がベターになると。
そういう話になってしまっている。
だから後悔しないことに決めれば。
これをいくら言っても意味が全くないように思えるとすると、
そういうふうに自由意思は使わないということにされているんだと思うんですけど、
やってみるといいと思うんですよね。
後悔しないということに決めれば、
だらだらするということは不可能になるんじゃないかと思うんですけど、いかがでしょう。
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