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おはようございます、グッドモーニングワイブスです。
昨日、一昨日かな、わかんないけど、フリンチというブログをなさっているZoeさんという方からですね、
質問ではありませんけれども、私のこのグッドモーニングワイブスに対する感想をいただいたんですね。
それは大変ありがたかったので、皆さんも聞いている方はいろいろ感想をお寄せいただくと。
ねつきゆうさんという方かな、ずっと感想をくださっていて大変ありがたいんですけれども、その方ぐらいなんですよ。
Zoeさんからたまーにね、いらっしゃいいただくということがあるけれども、そんなもんなんですよね。
あんまりね、今コンテンツに感想を出すというのは、流行ってないっちゃ流行ってないんで、別にその無理して感想を出せみたいなことはありませんが、
していただくとだいたい、
極めて通列な内容でも大歓迎ですので、私これお金にしてるわけでもビジネスにしてるわけでも、
私自身のもはやプロジェクトになりつつあるとはいえ、いつ辞めても差し支えないと本人は思っているもん。
これでビジネスが何かしらになってるっていう部分はほぼなくて、アクセスとかもノーチェックですけど、たまにチェックしても一個に増える気配がないぐらいなので、
これなくなっても僕困らないんで、ガンガン批判するとかも全然オッケーですので、でもそんな無理してね、いただかなくても構わないので、
何かあったら適当に書いといてください。
で、えっとですね、ゾヤさんの、これ僕もやっぱり喋ってるんで、つい自分の脳内にあるものをパッと出しちゃうんですよね。
キーワード良くなかったなとも今ちょっと思ってます。反省はしてないんですけどね。地獄って表現はね強かったと思いますね。
で、今日これグッドモーニングバイブスっていう、モーニング撮るとグッドバイブスになって、朝からグッドバイブスでいましょうみたいな、そういう朝からグッドバイブスでいられるといいなぐらいな感じのノリで始めたものなんですけれどもね。
えっと、あんまり今日の話はグッドバイブスと非常に関係がない、大体僕の話ってそうなんですけど、あるんだけど、
直接的にはだいぶグッドバイブスじゃないことから端を発してます。
あの、もう散々パラなんですけど、これが初回という方もいるかもしれないので毎回説明しますが、私はタスクシュートというタスク管理ツールで毎日の行動をすべて記録にとっていて、今日やることも一応リストアップしてます。
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ただ、ここでもすぐにエクスキューズ入るんですけど、今日やることのリストは一個もやらなくても別に構わないとも今では思ってます。
これはタスクシュート的にはやや異端的でね、あの、開発者は青橋哲夫さんという仕事の作った、まあ僕からすると、えー何ですかね、偉い人なんですよ。
偉いって言うと多分本人嫌がると思うんですが、なんか立派なとかリスペクトしているとかそういう感じじゃなくて、あの、いろんなことができるのは偉いなみたいなのは僕の中にあるので、そういう感じの人が作った。
その発想に僕は近いところでやっていると思いますが、同じ人間じゃないからやっぱり全く同じ考え方で運用できないわけじゃないですか。全く同じにしようとしても完全に重なるはずはないんですよね。
僕は青橋さんじゃないから。そういう意味でこのタスクシュートの運用はあくまでも佐々木翔吾がやっていることと捉えていただくといいと思うんですけど、
タンを発したというかですね、何があったかというと、ここに7つの習慣というものの考え方の、それもごく一端なんですけれども、投入されたんですね。
投入されたというか、その別に青橋さんがそれに投入したってわけではないんですけど、まあまあそういう一つの考え方が生まれてきたんです。
で、それは別に僕は全然いいと思うんですよ。ただ僕はその考え方とほぼ180の当時からですね、合い入れなかったんです。でもそれは僕の勝手なその事情ですから。
他の方がみんなタスクシュートを運用するときは、その7つの習慣の考え方を適用するというのはいいわけじゃないですか。
僕がそれをしないというだけであって。で、僕はそれをその時からずっとこう、これは僕はとてもやれないなと。まあやれないというのは能力的な問題とかそういう問題ではなく、
僕のその性質的に、これは僕にはありえないことだなと思ってたんですね。
その話とグッドバイブスが親近性があるんですよ。だからこの話をついするんですよ。
で、言葉が強くなっちゃうのはやっぱり僕の中で強い違和感があるせいであって、当時からあった、もうだいぶ昔のことなんですね。どのくらいかっていうのはちょっと説明しがたいんですけど、
2010、5、6年だった?もっと前かな?もっと前かもしれません。もしかすると2012年ぐらいかな?ちょっとね、これいつそれが始まったかっていうのははっきり定義はできないと思うんですね。
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で、それの経緯をこと細かにここで喋って、どこにどう違和感があったとかを言うつもりもあんまないんですよ。あまりそれに対して批判したいとは思わないんですよ。
えーと、どっちでもいいかなと思うんですね。自分がしないんだから。やりたい人はやればいいしっていうやつなんですね。
で、えーとね、それもざっくり、多分聞いてる人はみんなわかってると思うんですけど、でもざっくり説明させていただくと、要するに自分の行動を4種類に分けるんですよ。
で、一つの軸には緊急か緊急でないかという軸があるんですね。立てても横でもいいですよ。グラフよく中学生でやった、多分みんなあんまり気持ちの良くないAX次上位プラスBはYイコールってやつですね。Yイコール逆になった。
このグラフ書くときに十字書くじゃないですか、十字。で、真ん中ゼロにするじゃないですか。あの軸の上に緊急ってのを書いてみればいい。横に重要ってのを書いてみればいいわけです。
で、緊急、この4軸にすると緊急で重要なことが第一領域ってところに来るんですね。第一証言とも言いますよね。数学みたいですけどね。
第一証言に第一領域に緊急かつ重要が来る。もしこんな風に分けるなら私はですよ、私が考えるに人間は第一領域のことしかできないんですよ。緊急かつ重要なことしかやんないんですね。ここで僕の理屈は終わっちゃうんで4つに分ける意味がない以上なんですよ。
で、第二領域というのが大事だというのがその7つの習慣という考え方の中にはあってですね。第二領域というのは重要だが緊急ではないこと。
そうですね。例えば、例えばですけど、筋トレをするとか柔軟ストレッチをするとか緊急ではないけれども将来に備えて、投資とか保険もそうですよね。
そういうやつ重要ではあるが今すぐやらなくてもいいんだけどこれをやっておくと将来良くなるよって考え方です。
で、第三領域以下がちょっとですね、私からすると非常に困惑させられる話で重要ではないが緊急であること。
まあその、粗末なことって言うんですけれども、それはもうあまりにも主観的な話なんで、例えば電話を取るみたいな話があるわけですね。
書類整理とか、まあ書類整理は違うか、なんかとにかく緊急を要するが重要とは言えないって言うんですが、私からするとそれが重要かどうかがやる前から分かるだろうかというのがどうしても引っかかって既にもうないわけです。そういう領域が。
でもあることになっています。まあなんでもいいからしょうもないことを、でもしょうもないけど急ぎのこと、難しいな、トイレが第三領域だって話を先日聞いて、トイレが第三領域っていうのは僕には全く理解しがたいんだけれどもまあそういう意見もある。
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つまりそれは本人の捉え方ですからね。で、第四領域というのは重要でもなければ緊急でもないと。
で、そのようなことは私はもう一切しないと思うんですけどね。でもとにかくなんでもいいです。なんでもいいな、そうだな。
DMMで一人延長するのは第四領域だということにしておきましょう。僕には同意しかねますがそういうことにしておきましょうね。
重要でも緊急でもないと。やらない方がいいってことですかね。で、この4つのどれかをタスクというのかな、自分の行動を評価するわけですね。
で、2が一番多くなるようにすれば自分の未来は良くなると。この先におそらくビジョンというものがあり、ミッションステートメントというものがあり、
そのミッションステートメントというのはこういう人間に私はなりますみたいな。一時あれですよね、個人のための憲法という表現が出ました。
僕はあれもですね、あの
まあ皆さんがそれを好むのであれば、それに対して何かを私が言う権利はないので、
まあ私はそれをする気にはならないし、私の話を聞きに来る人のところではこれを進めはしませんが、そこにとどめます。
で、えっと、なんだ。
もう一つありまして、結局タスクシュートをやってると行動の記録が残るわけですよ。行動ログというものが残るわけです。
で、これを評価する、つまりレビューといってこのタスクの行動の記録を見るわけですが、読むわけですが、今日食事をしたとか、
グッドモーニングバイブスを喋ったとか、メールチェックをしたとか、それを一つ一つですね、この4領域でチェックしていって、どの領域に入った行動かというのを見ると。
当然のことながら3と4、つまり重要でもないことにしている時間を省き、1や2に回していけば時間の使い方が良くなる。
充実した人生が過ごせる。その先には、自分のミッションに、その結局重要かどうかはミッションというものが決めるので、例えば私はこうそうですね。
難しいなぁ。 何でもいいんですけど、例えばそうだなぁ。
家族のために
家族に対していつも機嫌良く接して、会社でも率先して人の役に立つ仕事をする人ですみたいなミッションがあるとするじゃないですか。
それに合致しているかどうかによって重要度を判定できるわけですよ。 例えばずっとDMMでエッチなサイトを見てました。これは果たして家族のためになっているのか。
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という点で重要かどうか重要ではないというふうに判断できる。 こういうことですね。
非常にですね、これをやることにより判断基準というものが言語化されているので、言葉で説明されているから判断しやすいということがあるわけですね。
もう一つは、これを繰り返すということによってレビューをなぜするのか、タスク管理をどうしてするのか、
なぜ時間管理をするのか、その先に何があるのかということを一つ一つはっきりさせることができるということで、非常にこのすごくだからムーブメントになったというわけじゃないんですが、
タスクシュートを使っているユーザーの間では非常に一定以上の盛り上がりがあったわけです。 私なんかがいろいろ意味不明なことを言うよりはだいぶ盛り上がるのに貢献したというわけですね。
で、なんで今の聞いててですね、いや素晴らしいじゃないかと、なぜそういうのをザザキはやろうとしないんだと言われるかもしれない。
これ聞いてる人はあんまりそう思わないかもしれませんけど、とにかくその辺の疑問があって、これを続けているとですね、つまりこの
評価軸ではあって、レビューをしてビジョンに近づいていくというこの考え方の真ん中にいると、私はこう地獄を見る気がするみたいな表現をとったと、
Zoeさんにはどうなのかな、やっぱりこういうの本人を前にしてインタビューしつつ喋っていかないと難しいんですよね。
Zoeさんはこの7つの習慣の文脈で必ずしも聞いてなかったのかもしれない。
でもあの説明をわかりやすくするために、ある程度こういうですね、上昇志向的なもの、個人主義的なもの、それから
こうというのは無株ですけど、こう社会的な話、充実した時間とか、
それこそもう一度きりの人生だから時間をくだらないことに使いたくないとか、ダラダラしないみたいな話が最大のポイントになってたんですよね。
ダラダラは当然この4領域で分ければ4番目に来るわけですよ。
で私は人がダラダラ過ごすとか、時間の有効活用できていないとか、非生産的なことをしすぎているとか、言った話は全てですね、全てこの種の価値観によって
評価付けられていると思っているんです。思っているですね。
だからそのダラダラという発想が出てくること自体が、もう非常に私の心理にとっては、なんて言うんですかね、
モヤモヤするというのが今時かな、するわけですよ。モヤモヤザワザワすると。だからこの種の評価は一切捨ててしまいたいというか、
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まあその捨てるべく自分の心の中では努力しているわけです。
で、これで話が込み入ってきてますね。これをだから整理するために7つの習慣が便利だから使ってるんですね。
つまり僕が言いたいのは単純にこういうことなんですよ。 ゾエさんはただダラダラっていう部分にだけ反応されたのかもしれないです。
そしてこのダラダラという話ね。 ダラダラしてしまうと
言うのがいけないと思うのは、まるで地獄を見ているようだと私は思うんです。
地獄は表現が強すぎます。もっとね、緩めましょう。
ダラダラというものがこの時間をダラダラしてしまったという判断をするような自分の、そういう価値観を抱いたまま生きていくと
なんて言えばいいんですかね、もっとポジティブな方から行けばいいんですよね。
当たり前にある光が見えなくなっていくっていうのでいいかな。
それを地獄と言っちゃったからいけなかったんですね。 目隠ししているようなものなんです。僕の感じとしては。
この4証言を適用するのも同じことです。 7つの習慣の考えに沿うのも僕にとっては同じことです。
まるでですね、本当は今日天気良いんですよ二宮。 海星で青空なのになんかこう灰色のサングラスをかけて
歩いているような感じがするんです。 それを地獄というのは言い過ぎだったかなと思います。
この先に地獄を見得る可能性があるっていうことを僕は喋りたかったんですけど、その話ちょっと後でしますが。
とにかくこれを外せばいいじゃないかと。 そうすれば黙ってても
いい感じで生きていけるはずだというのが僕の中にあるんですね。 その
確固とした歩みっていうのかな。 そのビジョンみたいなものがあり
ミッションステートメントによって参照しやすい評価軸を持って歩いていくということは、すごく確固とした足取りで歩いていける気がするのはよくわかるんです。
僕がさっき12分過ぎくらいにガーッと喋っていたことはわかりやすかったじゃないですか。 日頃の僕のもちゃもちゃしたこのグッドモーニングバイブスに比べて非常にこう
何のために時間を使うのか、その先に何があるのか。 言いやすいでしょ。言い淀みもなく言えるじゃないですか。
これが言語化の効果であり、同時にトラップでもある、罠でもあると思うんですね。
途中申しましたね。 例えばDMMでエッチなサイトを見ている。これは家族のためになるのか。
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で、言語で問えばNOって言えるんですよ。 4小弦で割れば4って入れるんですよ。
でも私はその判断をその言語でしているところに疑問符がつくんですね。 そうだろうかって思います。
本当にそうなんだろうかって思います。 例えばですよ。
私昔言ったときEDになったことがあるんですよ。ただのだったんですね。
で、これはもうだいぶ昔の話です。 どういうふうにしたのが経緯でなり、どういうふうにして直ったのかは思い出せません。
ただ、これで家族のためにならないのは確実じゃないですか。
で、僕はその種のサイトを見ているうちに元に戻った。 これはその種のサイトを見ることが、その治療の目的で見ていたわけではないですよ、もちろん。
ないというか、まあない、もちろんというか、僕はそうではなかった。 でも結果としてそうなった。
これは第4領域ですかね。 家族のために時間を使うのが使う人間ですというミッションステートメントに対し、これは明らかに第4領域だと言えるでしょうか。
このような話をすると、7つの習慣を書いた人とかにはきっと、いやそれは奇弁だって言われると思うんです。
非常にこう、へ理屈をこねている。 でも僕はそうは思わない。
人間の行動ってもの、どんな行動でもいいですよね。 キリンが保育園を作るんですよ。キリンは保育園を作るんです。
保育園にしたって人間のようなものは作りませんよ。 子供を見ている、そういう一定の群れのシステムがあるっていうような意味です。
つまり、原始的な生活の中にある自然な行為があるわけですよ。 その行為に言語で何かを当てていかなくても、できるできないことってあって、
また有意義そうでないことってのはあるけれど、私たちはそれをですね、
そんなに即座に理解でき、判断できるとは私には思えないんですよ。
ある行動をとって、それが ある言語的な表現に照らし合わせて良いのか悪いのかを一瞬で判断できる。
一瞬に近いですよね。 だって60項目近いものを30数分程度で最大でもね、レビューして一個一個即座に読んだ3だ2だって言える。
私はそのようなことが人にできるレベルをはるかに超えている気がするんですよ。
まるでこれはね、あれなんですよね。 太陽というのは人間に
明るさと温暖をもたらすための存在であるって言われているような感じがするんですよ。 嘘ではないでしょ、それは。
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でもそれはおかしいじゃないですか。 太陽は電気と暖房の代わりのものとして存在しているのであるという、
そういう定義を聞いている気がするんですよね。 何でも定義できる世界に入っていくっていうのは、すごくその存在そのものの価値をぐっと小さくしている感じが僕にはするわけですね。
例えばその太陽がなくなったら、重力なくなっちゃうじゃないですか。 地球がどういうサイクルをとるみたいになっちゃうわけじゃないですか。
それもこう重力なんとか装置で代替できるっていう考え方になるのかもしれませんが、 実際にはできないですよね。
私たちはその生きている世界の中で、実際にはこう相手にしてもできないことが多いじゃないですか。
台風が来ますって言った時に破壊しましょうという選択肢がないから、 あんな風に一生懸命こう推測に推測を重ねて何時に来るかその時避難する。
あれ、もし人間の生活の利便性だけを考慮して、人間が何でも自由にできるのであれば、 あれは一発で破壊するに限るに決まってると思うんですよ。
で、雨はホースで降らせればいいじゃないですか。 ホースが無理だったら何かこう装置で降らせればいいと思うんですよ。
つまり、そうはいかない部分ってあるんですよね。 で、そういう部分があるということはですね、
結局、どこか受け入れるしかないことっていうのがあって、 良いだ悪いだいう意味ってないと思うんですよ。
何か私たちの行動であれば、人間の行動であれば、それを良いだ悪いだ言えるように思ってるんだけど、
僕はそうは思わないんですよね。 自分の営みの中にも評価を遥かに超えるものがあると思うんですよ。
さっきの太陽だ台風だの話と同じ部分があると思うんですね。 だって私が私を作ったわけじゃないじゃないですか。
母が作ったと言ってもいいですが、母だって粘土細工のようにして私を作ることはできないわけですよね。
つまり、どうしてもそこには自分の力の及ばないことが問題になってるはずなのに、 それを評価するということはですね、
それを自由にできるという、完全にしかも自由にできるという、 100%自由にできるというようなニュアンスが入ってくるわけですよね。
まるでそれは第4領域の行動であれば、 やめたいとさえ思えば、完全にやめることができ、
そして第2領域の行動にそれを切り替えることができて、 しかもそれは間違いなくその言葉に照らし合わせた上で、
第2なら第2、第1なら第1と完璧に決めることができ、 しかも第2をいっぱいやっていれば、その先には素晴らしい未来が待っているということが確実であるという意味になっていくじゃないですか。
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それは非常に、やっぱり私の観点ではですね、真っ暗だなって思うんですよ。
むしろ何の自由もない気がします。
でもこんな風に言ってると批判になっちゃうので、 あんまり言いたくないんですよ。
これを今のような時代に、
学校教育をああいう風に受けて、
得点で順位があり、
会社に社会人になれば昇進というものがあり、 評価というものがあって、
昇給すればお金も増えて、多くの場合付き合える人も増えて、 しかもいわゆる付き合える人の
人間関係の中でもおそらく好ましい人と付き合うことができ、
物分かりがいい人とか、許容がある人とかと付き合うことができるという、 この社会の中にあって、
どの時間を評価して、自分のどういう行動を良しとみなして、 どういう行動を排除すると、
いったことを鮮明にする考え方が、 発明されれば、あるいは発想されれば、アイディアとしてですね。
それにみんなが社会評価を与えたくなるのは当然だと思うんです。
それに対して、私はグッドバイブスがなかった時に、 強い違和感を覚えたとしても、何かを言える資格はないと思ったんですよ。
代わりに何かを提供できるわけじゃないですし、 代わりに僕が提供できるものは、ただタスクシュートだったりするわけです。
しかもそれは僕が開発したものですらない。
だから、
なんかブツブツは言ってましたよ。でもブツブツいうに留めていたつもりなんですよ。 ブログで書いたりもしましたが、それに対して反対キャンペーンを打つには程遠いと思ってたし、
これが流行るのは自然だと思うんですよ。ただですね、
自分の時間だけがことを言っても、人にこれを適用しないとしても、 ある時間をとって、その時間にダラダラってネガティブだと思うんですよ、きっと。
ネガティブな評価を与えるということは、 自分の人生全体の中である時間の使い方をした自分に対して、
結局落としめることになるじゃないですか。 で、最初にさっきも言った通り、私はそれをする能力は私たちは持ってないと思うんですね。
それをすることができるのは、せいぜい学校の標語のようなものであり、
会社に貼ってある文章みたいな、ああいうものでしかないと思うんです。 ああいうもので自分の人生を少しでも図ることには、私はとても同意できないんですよ。
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しかも、この先を言いたくないんですけどね。 今日は言わないと、なぜ僕がああいう発言をしたかがわからないと思うんで、この先言いますけど、
例えば、相模原の事件ってあったじゃないですか。
あの、公判とか裁判を僕は記録を追っているわけですね。 ずっと追ってるんですよ。
で、その人たちにどう、その人たちじゃない、その人に、その犯人ですね、どう思うということを覗いていて、
心の中で起こったことってものをすごくこうですね、 想像を巡らしてるんですよ。気分悪い、気持ちが悪いですけど、しょうがないんで。
なんかこうやっちゃうことなんで、僕はこういうことをやっちゃう人間なんですね。
話せないかどうかが線引きになったんですよ。
で、その被害にあった方々のいる縁の施設職員に聞くんですって。聞いたんだそうですよ。
こいつは話せるのかと。 話せないと言うと殺されることがわかったので、
話せるって言うんだけど話せないじゃねえかって。 話してみてね、話せないじゃねえかって言って殺しちゃうんですよ。
で、僕がその時どうしてもこう両方を考えるんですよね。 その場であったとするじゃないですか。
自分だったとしましょう。これはですね、そう考えることに何か社会的な意義があるとかじゃないんですよ。
そうではなく、選別とは何を意味するかってことなんですね。 選別ってすごいことだと思うんですよ。
アウシュビッツとかあったじゃないですか。選別するわけですよ。 とりあえずすぐにガス室に送るか、すぐには送らないかを。
その選別する人にとっては、まあ選別するだけなんですよね。
で、選別されるっていうのはどういうことなんだろうって思うんですよ。 自分は口が聞けないとしましょう。
でも意識ははっきりしていて何が起こっているのかを理解しているとする。 ただ
たまたま喋れないとする。 で、
動くこともできないとする。 縛られたりしてたりしてですね。何にせよ既にあの
狂気を持ってますからね。 で、喋れないという理由によって
選別される。 で、喋ろうとするだろうかって思ったんですよね、自分は。
この先はもういいと思うんで、ここまでにしますけれども。 つまり
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何かをすることに価値があるというのは、どこかに区別があるはずなんですね。
人とコミュニケーションするのに価値があるということは、 コミュニケーションをしないということには、それだけの価値は失われるということを同時に意味してしまうと思うんですね。
何かダラダラせずにアウトプットすることに意味があるとか、 英語の勉強することに意味があるということになれば、英語の勉強しないことはダメなことであったり、
アウトプットできないことは良くないことであったりするということになるわけですね。 で、例えば
そうですね。
僕はよくアウトプットしているということに評価いただくこともあるわけですけど、 それはアウトプットしないということがダメだということを意味しますね。
他人にこれを適用かにしなくたって、結局そういう価値観が価値観として成立するということを意味してますよね。
まるで法律みたいになっている部分がありますよね。 アウトプットするのは価値があること。
ということはアウトプットしないのは価値がないことだっていう話になってますよね。 僕はここからすべてが始まると思うんですよ。
だからここから何も始めたくないと思うんですよ。
そうは言っても、何もしないでいるとお金が稼げないじゃないですかって話になるじゃないですか。
お金が稼げないとどうなるかというと、いっぱいあるんですけど、途中のステップは死ぬってことになるんですよね、最後はきっと。
この死ぬことが恐ろしいから、価値のない自分でいることは恐ろしいから、価値のあることをできる自分でありたい、
というのが僕はダラダラに対する拒否感とか嫌悪感とか恐怖感といったものだと思うんですね。
つまりそれはダラダラというものが死の世界に0.5か、0.1歩かもしれないけど迫ってるっていうニュアンスがあって、
それが私にとってはですね、第4領域っていう考え方にもあって、第1を作っちゃったら4ができてしまうじゃないですか。
そして4が死の世界に連結されていると考えるのは、私にとってはやっぱりとても暗いんですよね。
とても灰色だなと思う。
これを基本的にはですね、グッドワイブスでこれを僕は試食できたんだけど、
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何よりもですね、まず一つ一つの抗議について死と連結していると考える理由はないはずなんですよ。
まず何よりも、ダラダラ、さっきの私のEDの話をわざわざしたんですけども、
そのダラダラと見ていることは家族のためにもならないし、地堕落であり、そういう人間は死んでいくというニュアンスを一切持たないのであれば、
別に7つの習慣だろうと、第4領域だろうと結構だと思うんですけど、僕はそれに恐怖感のようなものを抱くのであればですね、
徹底的に疑う必要があって、決してこれは屁理屈とかじゃないと思うんですね。
それは性の営みなわけじゃない。性ってセックスではないんですよ。生きる方です。
何をしても生きていることによってやっていることではないですか。
それが必ずマイナスの評価を一つのラベルをレッテルを貼られるように貼ってしまうということは、
つまり、喋れない人は生きていても仕方がないみたいな、
それは全く聞けばですね、その後継を目にすれば異常な判定だと思うんですよ。誰でも大体の人がですね。
ところが私たちはある自分の子についてダラダラというこの時間はなくすべきだとネガティブに判定することには大した違和感を持たないという風になっちゃってるんですけど、
自分はそれはおかしいと思うんです。