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おはようございます。グッドモーニングバイブスです。
先日来からですね、TAKさんとの協調、
佐々木さん自分の時間がないんですという本の
勢いをというのかな、あの流れを追ってるんですけれども、まあまあ初速はいい感じでして、
お読みいただいた方には大変ありがとうございます。
で、
協調者のTAKさんのブログを読んでいても、そうなのかと思ったことがあったりして、
あの、
読後感想はですね、決して悪いわけではなさそうなんですけど、
うーん、なんかこう非常にわかりにくい、
わかりにくいのではないな、飲み込みにくいみたいな感じなんですね、ところがあるようで、
ちょっとその辺のところについて、まあ、
多分私がグッドバイブスの影響を受けた以後に、以前のことを知っていて、あるいは以前の
なんていうのかな、期待がありつつ、以後のものを読むとそういう違和感が強く出るんだと思うんですけど、
それはあれなんですよね。私の中ではほんの一部だと思っております。
大半はタスクシュート時代からそんなに大幅に劇的に変天したわけではないんだけど、その一部
大きく変わったところはですね、多分ものすごくこう
なんていうんですかね、やっぱりショックがあって、で、それまでの私がタスクシュートで言っていたことの中の受け入れがたい部分が一気に一緒にクローズアップされている感じがあるんだなっていう
ことに気づいたんですよ。 一番ですね、わかりやすかったツイートをいただいて、私この人に読んでいただいているっていうのは全然存じなかったんですけども、
ある漫画家なのかなという方が多分ツイートされていて、メッシ方向的なマイナスイメージ
どうしても頭を持たげるっていう感想がありまして、非常になるほどと思ったと同時にこんな方にも読んでいただいているというのは大変
ありがたいと思いましたけれども、そのメッシ方向は、そもそもメッシ方向がマイナスイメージだっていうのも
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考えてみるところもあると思うんですけどね。 その前にメッシ方向的なのは全く僕の中にないので、
メッシ方向が出てくるという、 そういうイメージが出てくるというところを
改めて考えてみたいですね。 やっぱりどうしてもこう
私というものに対する自明感が、今の時代ってものすごく強いんだということを考えさせられました。
自分の時間といった時に、自分の時間というものがあるとすればですね、自分のという言葉にはっきりとした意味があるっていうニュアンスがありますよね。
で、グッドワイブスはもちろんのこと、なぜなら一つ意識っていうのがあるので、自分というものが
確固たるもので、永続的で、自明であるというところに全く立脚していないというか、そういうポジションにないんだけど
と思うんですけど、タスクシュートもそうで、 別人問題っていうのを、私結構盛んに提起した
わけですよ。かつてですね。 別人問題というのは
要は、タスクを行っている主体は常に同じではないということを言いたかったんですよ。
常に同じではないというよりは、常に違っているということを言いたかったんですよ。 だから私たちはどんどん別人になると。
で、この話をしてもですね、すぐではどうやって本人に戻るのかって話になっちゃうんですけど、これが
私の自明性というものに対する強固な信念のような感じなんですね。 ほぼほぼ信仰みたいなものだと思うんです。
本人がいないということなんですね、これは。 常に主体は変化しているという話は、つまり本人なるものはどこにも
いないわけですね。 で、本人というのは私たちの錯覚なんですよ。
まあ大橋さんがよくですね、タスクシュートの開発者の大橋栄総さんがよく、バトンを引き継ぐっていう言い方をするんですけど、
そういう言い方をするならば、バトンが本人なんですよ。 バトンを引き継いでいる人たちは全員違うわけじゃないですか。
バトンを同じ人が持ってたら何の意味もないですよね。 バトンを引き継ぐという表現は、つまりどこにも本人はいないというわけですよね。
ということがタスクシュートでは結構自明だと私は思うんですね。 なぜならばあれは1分と間を空けずに全行動記録を取るので、
行動の主体というものは自明じゃないことは明らかになるわけですよ。 ここが非常に大事な点なんですけれども、
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こういってもイメージしにくいということであれば、例えば夜寝るぞって思った時は寝る、
眠たいから眠るに私が主体になるんだけど、いい加減起きようって言った時には眠くないから、もはや全く別の感情と欲求と
に基づいた別の人が起きようとするわけですよね。 お腹が空いたから食べようとする私と、お腹がいっぱいになったからやめようとする時の私はもう
望みが全然違うんで、 主体としての方向性が逆転しているわけですね。
これは絶え間なく起きている。 つまり同じ人間がずっとやっているというふうに
考えさせるのは記憶のなせる技であって、 だからまあバトンなのかもしれないんですけど、同じものがそこにあるとすれば、
それは記憶がそのように感じさせている何かなのであって、 そのようなものはないわけですよね。
もちろん、普通に生きていると自我感覚というやつがありまして、 自我っていう訳も非常に微妙なんですけど、私感覚っていうのがあるわけですよね。
私という記憶が浮かび上がってくるわけだ。 だけれどもこの私は言ってみれば大きなイリュージョンなので、
これはグッドファイブス以後明らかな感じがするというものだと思うんですけれども、 私の話の中ではですね、タスクシュートの段階で既に明らかな話だったと私は思っているんですよ。
だから主体というものは常に変化し続けているので、
滅死とかはないんですよね。私を滅するとかいうことは不可能なわけです。 もともとないものは滅しようがないんですよね。
だから滅死っていうことがパッと上がってくると。 ポンと滅死という感じがあるっていうことはですね、
私というのが強固で自明だっていう前提があると思うんですよ。
で、その前提はないんですね。 タスクシュート的にはないと僕は思うんですよ。
バトンもあるのかもしれないんですけれども、せいぜいそれは引き継ぎができるというような意味でしかなくて、
私の時間を取ることができないような考え方が滅しであるということになってくると、
それほどはっきりとした私というものを仮に作り出さなきゃいけないわけですね。
そういうものが成立しないので、
どこにもないわけなので、 そのことをここのところの回で何度かお話ししていたと思ってるんですよ。
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イヴの3つの顔ですね。 一体、
イヴホワイトとイヴブラックとジェーンとエブリンなんですけどね、第4人格と。 みんなでタスクシュートを使ってたら、
自分の時間というのは誰の時間なんですかね。 っていうことが起こると思うんですね。
イヴブラックなんかは絶対私の時間こそ私の時間であって、他の連中はみんな滅びろみたいな勢いだと思うんですけど、
でも全体的に見るとやっぱりイヴホワイトが私ですよね。 あえて言うなと。
そうすると私の時間は24時間ないわけですよ。 イヴブラックが途中でどっかかすめとっていくんでね。
この話は私はタスクシュートと大いに関係があると思うんだけれども、
全部の記録をもしつけることが、イヴブラックつけませんけどね、 つけることができたら穴が開くはずなんですよね。
そうした時に私の時間がありませんという話が出たら、 まず誰の時間がないのかっていうことになるわけです。
滅死っていう言い方をするならば、誰が滅されると滅死になるのかと。 ブラックっぽいんですけどね、でも一番滅死的に行動しているのはホワイトですね。
これは極端な事例でしょうって思われると思います。
これは確かに極端ですね。バトンが引き継げてませんから。 でも私たちと彼女の違いはそれだけなんですよ。
私が思うにそれだけなんですよね。 私の世界とイヴの三つの川の世界は基本同じだと僕は思うんです。
いろんな人格が交代に出てきているようなもんだと。 それすらも本当はイリュージョンですけどね。
本当は毎秒毎秒変わっているはずなんで。 とにかく同じのがずっと続いているっていう方がよっぽどおかしいと思うんですよ。
同じ私がずっといますと。 そういうことはタスク集とやっていたら多分絶対に信じられなくなると僕なら思うんですけれども。
別人問題と表現したのは別人になってはいけないってことではないんですよ。 別人にならないと大変なことになると。
この話も何回かぐらいはしましたよね。 別人にならないということはあれですよ。
死ぬまで食べ続けるとかになっちゃうわけですよ。 だって同一人物なわけですから一番最初の人格が食べたいということであればもうずーっと食べたいわけじゃないですか。
そういう病気ありますよね。 ずーっと寝てたいとかね。
時々目が覚めるんだけど寝ちゃうみたいな。そうやって極論すると眠るイブみたいなのも登場して起きられなくなるわけですよね。
後退が起きないと困るわけですよ。 大変なことになってしまう。
ずーっと遊んでるとかずーっと仕事から離れられないとかそういうケースで時々起こるじゃないですか。
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人格交代に相当するものが起きなくなってしまう。 大変なことになるわけですよね。
そこから離れられなくなってしまうという
病気があるわけです。 だけれども私たちはそうではないので、現実にはですね。
絶え間なく変転するわけですね。身体そのものが変わるし、身体の状態も変わるし。
だから引き継ぎが必要、少なくとも人間はですね。 記憶で引き継ぐわけですね。これも本当に必要なのかという問いはありますけれども
タスクシュート的にはこの引き継ぎをちゃんとやろうねという話なんですよ。 引き継ぎをやろうねってどういうことかというと変換は起きてますよっていう意味じゃないですか。
一切変換が起きてないなら何一つ忘れないはずだから絶対引き継ぎって必要なくなるはずなんですよ。
これも大変なことになります。 だって見たものは全部覚えてるんですから。
そういう病気もありますね。 ある種の自閉的な病気でですね、ずっと時計の数字を数えているというのがあるんですよ。
今で言えば9時1分、13秒、9時1分、14秒。 これを日付から全部言うんですね。なぜか
記憶が残るからですよね。 記憶から落ちないから。
だから大橋哲夫さんが引き継ぐと言っていたとしても当然引き継いでないものがそこにはあるわけですよ。
なかったら本当に絶望的ですよね。多分時計の時刻を数えるだけで一生ずっと終わっちゃうんですよ。
引き継がないものがあるということは忘れているものがあるということであって、忘れているものがあるということはつまり人格交代は起こっているよということなわけです。
あの、イヴ・ブラックがやっていることをイヴ・ホワイトは忘れているわけですよ。
あそこまで完璧に忘れると病気になりますけれども、ある程度は忘れないとやっぱり病気になるわけです。
ある程度忘れていて、ある程度覚えているっていうのが健常ということであって、決して人格交代が一切生じないとか、別人になることが絶対にないとかいうことではないんですよ。
そんなことになったら本当に困ったことにしかなり得ないので、だからといって毎病毎病の変化を私たちは認識するわけにもいかないんですよね。
これを理人症と言ったりするんだろうけれども、毎病毎病変化している自分というものを捉えてしまうというケースもあるんですよ。
今今今今今っていう感じになるんです。今ここと似てるんですけどね。
僕はいつも思うんですよね、ある種の理人症の状態に至りつつ、理人症による症状を併発しなければ、それはたぶん悟りという感じに近いんだと思う。
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私が悟ってるとかは全然ないんですよ。引き継いじゃってますからね、記憶を。
記憶を引き継いでる時点でダメだと思うんですよね。そういう観念に入りきれているとはとても思えない。
それに後で言いますけれども、愛別離婚っていう表現があるじゃないですか。
愛情に囚われるというのは、およそ悟りとは言い難いと思うんですよね。私の場合は娘の依頼を何より優先するというのは要するにそういうことなんで、娘がいなくなったら私なんか大変ですよね。
たぶん動機づけの全部を失うんじゃないかという気がするぐらいの時があります。それ以上全然悟っていることにはならないわけです。
愛別離婚というのは普通にあることですからね。つまり愛している人が死んでしまうと。
悟っているというからには基本的には一切が空になるわけですから、そのようなことで動じるはずはないんですよ。そういう境界に入ればですね。
こういう話をいくらしてもただの冷たい人みたいにしか多分聞こえないはずなので、こういう話は私も全然得意じゃないですし、まさに父の分野なんで、父がやってけばいいような話なわけです。
だから普通の生活じゃ無理なんですね。そんなところに入り込むのは。私がやってるのはただのタスクシュートと、それをグッドワイブ数で強い影響を受けてアレンジメントしているということでしかないわけです。
人格変転みたいなもので説明する必要はなくてですね、私たちは本当に忘れているわけだから、あのイヴの3つの顔で考えてみるとすぐにわかると思うんですけれども、イヴホワイトが日記を一生懸命つけ始めましたと、しかし自分がやっていることなのに全然欠けてないことがあります。
それが忘れていることですよね。だから忘れているときにやっていることっていうのは、別の人格がやっているということと大して変わらないわけです。普通の人は制御できているから、たぶんその間にやっていることが自分に異常な影響を及ぼすようなことはたぶんしないんですけど、それはただ闘魚しているだけですね。
お酒でもいっぱい飲んで闘魚が外れればですね、当然何をするかがわからなくなっていく。だからそのようなことっていうのは言うほど極端に驚くべきようなことじゃないんですよね。
めったに自分ではそういうことが起きない上に、そこら辺で見かけると言い難いから、すごく特殊なことが起きているような気がするんですけど、多重人格というのは私たちにとってはごく普通のこととも言えなくはないわけです。
あれで覚えているんだったら、もうそれはせいぜいですね、非常に気分屋であるとか、やだらと人が変わったように振る舞う人ってしかないわけですよ。そういう人はいますよね、現実には。
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それを全部その人がですね、やっぱりタスクシュートとかしなさそうなんですよ。これも大事なポイントだと思うんですね。特にブラックみたいな人格、お酒いっぱい飲んで男の人とどんどん遊びに行くみたいな、こういう人がいちいち赤いドレス買った何時から何時までとか書かなさそうじゃないですか。ここが大事な点だと思うんですよ。
ここをあえて書くようになるということは、すでに闘魚が始まってるっていうことであって、どこかの人格のコントロール下に置こうとしているわけですよ。これをしているという行為自体が私は大変社会的だと思ったんです。
今回社会性とか社会的って言ったところが非常に引っかかったみたいで、自分の時間というものは基本的にはなくて、それは社会的な欲求を満たす時間だっていう話がメッシ方向的に取られるっていう、僕は非常に意外だったという点もあるんですけど、それとメッシがどういうふうに繋がってくるのかが非常に単純にもそんなにわかりやすい話じゃない。
私がメッシしてませんからね。どこにも方向に出かけてないんで。単純に言うとですね、娘が例えば勉強するというのを見てあげるのを即座にやるとか、そのときにはそれだけに集中するもの、どこに方向性がある方向っていうのはあれですよ、ご方向みたいなやつですよね。
別に僕は娘に方向してるわけじゃないんで、これは相手が奥さんであろうとですね、編集さんであろうと同じで、私は別に出版社に方向してるつもりは、そのような多分必要はないわけですよね、方向しているみたいな。
だから死もメッシしてませんし、メッシ自体はですね、私は死というのは限りなくイリュージョンだと思うので、メッシ自体は別に抵抗はないんで、それがマイナスイメージだってこともないですけど、メッシは無理だよなというのが正直なところですね。
そういう努力をしても多分できないだろうと。だからメッシするということと自分の時間がゼロでいいということは全然違うことだと思います。
で、自分の時間がゼロというのは私が主に社会的、この社会的もどうしてもこうやっぱり受け入れられないというお話があって、多分それはですね、社会性というものと承認欲求というものが同じようなものに聞こえるからなのかな、でもこの解釈合ってんのかな、なんか自信がないんですけど。
社会性がない欲求って持ち得ないというのが私の感覚なんですよ。で、タスク管理をするっていうのはもう完全に社会的な欲求そのものだと僕なんかは思うんですね。だからピカソはタスク管理なんかいらないっていうのは、それはつまりただの仮説でしかなくて分かんないことなんだけど、
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つまりさっき言った通り、リブブラックみたいな人格が野放しになるというのはタスク管理的には無理なんですよ。彼女のような人格にもでタスクの記録をつけさせるという段階で、それこそ日記でもいいんですよね。彼女が日記をつけちゃったらもうそれは社会性に投与されてる感じが出るんですよ、僕の感じでは。
だってやっぱりなんて言えばいいんですかね。完全に無責任でいいや、どういう結果になっても構わないやっていうことであるならば、その記録を残す必要とかって感じないと思うんだよね。
この時私はこうしました、こういう風な時間をこの世に使いましたみたいなことを書くってことが社会的だと思うんですよ。イヴ・ホワイト的なんですよ。イヴ・ホワイトが日記つけたり記録つけたりするならすぐ納得できるんですよね。イメージにぴったり合うと。
彼女はなぜならば社会的な欲求しか、しかも極めて狭い意味での、言ってみれば長時間に良心的に従いますという非常に面白いくだりがあって、イヴ・ホワイトがですね、これはまるで倉園さんとのやりとりだなと思ったんですけど、
君の良心というものはどういうものなのかという問いに対して衝撃を受けるというシーンが、良心って良い心ですね。衝撃を受けるんですよね。良心というのはなんかもう自明なんですよ、彼女にとっては。彼女の良心が性格みたいな人ですからね。
親がやって良いことと悪いことを分けるようにいうようなことだと彼女が頑張って説明するんだけど、その親は絶対に間違わないのっていうふうに聞かれて、また衝撃を受けるんですよ。そんなことは考えてみたこともないっていう答えが出るんですけれども。
絶対に間違わない人なんていないと思いますと言って、でもそんなことは考えてみたこともない、考えてみようと思うって言ったあたりから彼女は消えていくんですよ。非常に示唆的だなと思うんですけれども。
要はそういうことだと思うんですよね。つまり自分の欲求が社会的な欲求とオーバーラップしているときは、わざわざそんなことについて考えもしませんけれども、私はいつもこれは思うことなんですよ。
ライフハックっていうもの、仕事術もそうだけど特にライフハックっていうものが個人的な欲求なんだと皆さんおっしゃいますが、どこにも個人性が感じられなかったりするケースは山のようにあって、例えばメモを整理するって僕には社会的な欲求だと思うんですよね。
あるいはそうだな、なんかこう、よく東京ラー研究会の会長のベックさんがおっしゃってますけれども、例えば教養を豊かな小説を読みたい、社会的な欲求だと思うんですよね。
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これもね、イヴ・ブラックとかが言い出しそうに、あれをあえて言うならばあれがですね、非常に個人的な欲求かなと。赤いドレスが着たい。まあでもこれだってね、個人的なんですかね。男と遊びたい。私にはこれも多分に社会的なところがあるような気もするんですよね。
でも彼女の言っていることの方が少なくともライフハックな人たちが言っていることよりは個人的な気はしますね。ライフハックの人たちが言う話みたいなの、自分の時間っていう話で言うところは、ものすごくこう、自分の人生の充実とか意義ある時間の使い方とか、すごくこう、それが社会じゃない基軸だとしたら、
どこにそういう基軸が出てくるのかと。意義って社会が決めてるじゃないですか。教養豊かとかも社会が決めるじゃないですか。
なんでトルストイの本が良くて、例えばですけど、ランコーセイとかの本はダメなのか。それは社会が決めてるじゃないですか。別に個人的に読むのであれば、ランコーセイの方が全然命中できるっていう人の方がいっぱいいても、すごい古臭くて申し訳ないんですけど、誰でもパッと分かる名前を出したくなかったからこれの名前出したんですけどね。
いいじゃないですか。なぜトルストイは良くてランコーセイはダメなのかってそれを決めてるのは社会ですよね。意義あるとか有意義とか、ためになるとか、すべて社会的な音声を響かせてると思うんですよね。
それは本当にそういうものが嫌いだったんで、嫌いだったから読むみたいなぐらい嫌いだったんで、アンナカレーニーナとか戦争と平和とか読んだんですけどね。つまんなかったというわけじゃないですよ。読んだんですけどね。それはそういうものが嫌いなんですよね。勝手に自分の要求を形成されるということに腹を立ててしまう自分がいるわけですよ。
このこと自体が社会的だと僕は思えて仕方がないんですよね。何ていうのかな。自動心理学とか子育てとか育児の本とかに反抗期というものがあるんですって書かれてるわけじゃないですか。
僕はそういうものを読んじゃったわけですよ。5歳とか。そうか反抗期ってものがあるのねと。反抗期ってものがあって子供が反抗するのを無理やり抑えつけてはいけませんと。これから自分が反抗するのが予言されてるわけだと。反抗したくなくなるじゃないですか。反抗がプログラムの中に組み込まれているのにそれに沿って反抗するって本当に愚かなというかバカバカしいことだなと思わせられるわけですよ。
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でもこれで反抗しないという行為を取るということは、つまり大変育てやすい人間になるということですね。これはこれで借金されるじゃないですか。これを二重拘束っていうんだと思うんですよね。ダブルバインドというんだと。反抗もできなければ反抗しないこともできなくなるという。
こういうところにすっごく進めばですけど、冠目みたいな、一言も話したくないみたいな、そういう病気が出てきたりするんだと思うんですけれどもね。この辺の話すべてですね、私は大変社会的なもんだと思うんですよ。つまり反抗するって社会的ですよね。反抗しないのもこの流れを取ってしまえばもはや社会的ですよ。
だから社会的じゃない行為を取るということはできないんだと僕はずっと思って生きてきたわけですよ、その頃から。自分の時間もそうだし、自分の時間というのは自分が命でないと出てこないものなので、自分は自明じゃないので出てこないんですけれども、そういういろんなことがありましてですね、つまり諦めるしかないんじゃないかという部分がそこにはちょっとあると思うんですね。
自分の時間を取ろうとしてもですね、取りようがないということですよね。自分がどれだかわからんから。どれを取っても自分の時間にはならないという問題と、もう一つはそこで満たそうとしている欲求が社会的なものであるので、それをですね、反社会的なものにしようとしてもやっぱり社会的になってしまうので、
社会的であるということが気に入らないから自分の時間を取るみたいなことをしてもですね、寡黙にしかならないと思うんですよね。自分を二重拘束のところに置いてしまうという。
これは今日のお話はすごくこう、自分の個人的な話だったと思うんですけれども、だから僕は諦めてトルストイとかを読んで、諦めてドストエフスキーとかしょうがないから読んだわけですよ。
どっちにしても同じなんだから、諦めようと思ったわけですね。どっちにしても社会的になっちゃうんだから、社会的な欲求を満たしていこうとそういうふうに思ったわけですよ。
それはもうだいぶ昔のことですよ。スクシュートよりもっと前です。多分中学か高校の頃の話だと思いますね。
まあまあ面白かったんで良かったということなんですよね、これはね。
わかんないんですよね。それと承認欲求の関係があるといえばあるのかもしれないんだけど、少なくとも社会的な欲求であるというのは大半が当然避けようがないというか、
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だってあれロシア語僕読めないわけですから、訳してあるものを読んでいる段階ですでに社会的ですよね。
どういう行為だったら純個人的な欲求と言えるのか、そんなものはやっぱりないと思うんですよね。
この点についてはあってもなくても僕の中では実はどっちでも本当は良いことで、
多分自分の時間にやりたいと思っていることの多くの方の、かなり多くの方の自分の時間にやりたいと思っていること自体が社会的欲求不満から来ているという文脈は僕はそう間違ってはいないと思っています。
これはまた別の話なんですよ。定義ががっちりと自分の時間というものが本当に何かあるかという話とはまたちょっと違う話で、
なぜならそういう欲求不満になるのはこの現状では当たり前ですからね。
一見簡単に満たせるように見えますよ、社会的欲求なんて。でもそれは全くそうではないです。
私がすでにNTTドコモサービスに勤めた時からそうでした。
もう昔のとは違うんですよね。会社で社会的欲求を満たすのは難しくなりつつすでにありました。
1990年代ですよそれは。今はもっとずっと難しくなっていると思います。
でも日本では教会コミュニティみたいなものもなければそもそも地域コミュニティみたいなものがこんなに何度も何度も盛んに言われるほど
なかなかそこで若い人が一般的にですね、社会的欲求を満たすようなところまで育っているようには感じられないですね。
だから私たちは自分の時間というものを別途用意してブログなりYouTubeなりするとか本を読むとか
それは僕からすると全部社会的な欲求を満たそうとするんですけれども
ここに引っかかりが出てくるわけですよ。
多分ブログで満たすとかYouTubeで満たすとか言ってもそこでは非常にわきあいあいとしたというのかな。
いろんな人がそこに来てくれるパーソナリティがあるという言い方をするんですけどね。
パーソナリティの有無というものが、これは完全に相対翼なんですけどGood Vibesというところの
パーソナリティがある人になるということと社会的欲求を満たすということがオーバーラップしちゃっているので
パーソナリティになれずにやっているとむしろ孤独感が募るんだと思うんですよ。
誰も見に来ないブログを毎日のように更新するとかって修行みたいになっちゃうじゃないですか。
全然社会的欲求を満たせないですよね。
そこでより人が集まり得るテーマ、より人が集まり得るブログをデザインもきっちりしてて考えていくと
自分の時間になるものがどんどん多く必要になるということがあるんだと思うんですね。
これをこの路線から攻めていくのはとても無理があると自分は思うんですよ。
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なぜならば、これはタスクシューターならみんな知っていることなんですけど
自分の時間の中から睡眠時間を取り除き、食事時間を取り除き、仕事している時間を取り除いたら
言ってみればすぐ分かることなんですね。
そして生活環境全域にまつわるケアを少しでもすると
つい最近来ましたけどインフルエンザの予防接種も最近は時間かかるんですけどするとかやってればですね
時間なんかないですよね。
自分が十分満足ができ、いろんな人が寄ってきて
自分がパーソナリティだと感じられる
つまり佐々木翔吾っていう人間の看板で
いろんな人が話しかけてきてくれるようなユーチューバーになろうと
そんなに即座にできるはずはないので
だからコンマツセントみたいな話になっていくんですよ。
この人は社会的な欲求を満たすために会社辞めようみたいな
話が逆転してるじゃないですか。
稼ぐがてもないのにただ社会的欲求を満たすためのみに
パーソナリティになるというただその欲求を満たすためだけに
YouTubeになるために1日10時間突き込むって普通の人には無理ですよね。
しかもそれでそういう結果に至れるかどうか分からないわけですから。
ここにこの場で会社の代わりに稼ぎになる可能性までついてきてるんですって話にしてあるから
いっそう話が混沌としてきて怖いことになってきてるわけですよ。
だから最初は別にただ単に普通に自分の社会的な欲求が満たせればよかったはずなのに
それこそ昭和の時代で言えばですね、なんだろうなぁ
でもそれが響かないのは分かります。私になって響きませんからね。
会社でハロウィンとか忘年会やれば満たせるような欲求をでも満たせばよかったはずなんですよ。
だって私が通ってた会社で中高年以上のおじいちゃん達はそういう風に満たしてましたもん。
ただそれで満たすのではダメだという話になり
それで満たすのは飯方向だみたいな、それはすごい不思議なんですけどね。
やっぱり今しゃべってみてもということになったので
youtubeの方がいいことになったんでしょうけれども
代わりにyoutubeでそれをやるのは結構果てしない道のりなわけに
もともとは自己表現の媒体なので
別に自己表現がしたいのと社会的欲求を満たしたいのはイコールじゃないと思うんですよね。
忘年会で楽しそうにやっていたあれと自己表現は完全に一致するとはとても思えないんですよ。
みんながみんな奇抜な事、奇抜な事故というものを多くの人に見て欲しいと思っているかどうかは疑わしいと思うんですね。
そこで炎上すれすれのことをやらないとつらいみたいなことになると本当につらいじゃないですか。
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ようやく1000pv以上にならないとパーソナリティとしては自分を満たせないという話になってくると
社会的欲求を満たすよりずっとハードルが高いと思うんですよ。
この辺が今、もともと自分の時間で満足させようとしていた欲求は実にささやかなものだったはずなのに
それがひどくややこしい話になっているのではないかということを
多分自分はあの本の中で言いたかったんだと思うんです。
これは、読まれた方が全員こういうことを考えていただきたいと思っていたわけではなくて
たまたま昨日見てみて、そうかこういう風にイメージされるんだなと。
だから滅死とかじゃないんですよね。
死は滅するほど何かに捧げ込まないと満たせないとかでは全くないと私は思います。
だいたいあれですよ、これもよくあるウッドワイブス的に言うイリュージョンなんだけど
依頼に応える対応するからといって
その依頼者が延々その人を小突き回すみたいなことにはならないので
その心配が何だろうな、これもやっぱり膨れ上がる理由があるんでしょうね。
例えば娘の勉強を見ているからって
娘の勉強5時間も6時間も見てていいと僕が思っているわけじゃないし
第一そんなに娘は勉強し続けたがりませんからね、やっぱり。
計測するとすぐ分かるんですけど、7、8分ですよ本当に。
だから心配されすぎてる感じってあるんですよね。
この話もそうやって奥さんとか娘とかの欲求ばかり聞き入れていては
仕事の締め切りに差し障るのではないか。
どんどんどんどん依頼が続いたらどうするのかって話になるんですけど
まさにザ・イリュージョンって感じなんですけど
そうはならないですよね。
なったらどうするのかって議論に展開していきがちなんですよね、議論というものはですね。
でも常識的にありえない、そんなことは。
原稿書く暇もないほど家事手伝いをやらされるみたいな
家事を手伝いと言っちゃいけないとかですね。
話が複雑というか深刻になりすぎてる嫌いはありますね。
窓閉めるとか、洗濯物干すとか、娘のつるかめさんやるとか
原稿とはっきり関係ないですよ。
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なぜそこまで長期予定というものが滞りなく
100日後まで終わるということが先読みできないと心配なのかということの方がむしろ心配ですね。