2021-02-16 38:00

【GMV 321】「すまない」気持ちと「気が済まない」気持ち

甘えと自由がテーマです。
00:03
おはようございます。グッドモーニングバイブスです。
テイク2です。久しぶりに。
分かってきたんですけど、テイク2になりやすいのはですね、ネタがあるときなんですね。
ネタが全くないときは昨日のように、それで済ませるより他はしょうがないんで、それでいけるんだけど、
生字というのはおかしいんだけど、言いたいことがあるときはうまく言えるかどうかが問題になっちゃうんで、テイク2になるんだなということを今思い出しました。
それはそれとして、3月14日にライブの構成というのか、そういうですね、文章スキルアップのための講座ですね、オンライン講座を裏園圭造さんと主催してやりますので、現在すでに募集中で3名応募されている方がいます。
多分割とすぐいっぱいになるんじゃないかと私なんか思っているんで、よろしかったらホワイトデーの日。
2部に分かれていて、なぜかというとですね、一度にたくさんの人のこれをやってしまうとですね、人の赤入れをライブで見てることになるんですね。
それは私はずっと見てる側なんで、見てるというか、私のに構成は入らないわけだから、見てても大変興味深くてためになるんですけれども、でも人のをずっと見てると自分の番が最後だったりする方はつらいかもしれないので、ある程度の人数で絞ってあります。
よろしければですね、本書き上げるとかそういうところまでは行かなくてもあるじゃないですか。ライターさんの業務で三千字とか、あいの書くのはこのスキルがあると非常に楽になります。
一見構成スキルだと思ってしまうかもしれませんが、そうじゃないんですよ。
私が考えるには、文章を書いていくときに書きたいことが、あれは書かねばならんことがあるとして、どういうところで行き詰まりやすくて、どういう運びにするから手が止まっちゃうのかというのを、あれずっとやってると分かるようになります。
私本当に手が止まらなくなってきたんですよね。もちろん言いたいことの有無とか、何を選ぶかという問題は出てくるんですけど、そこまで含めてでもですね、どう書けばいいのかがある程度分かっていると全然違うので、これは多分受けといて損には絶対ならないかなと思っています。
というところでテイク2なんですが、すみませんという表現がありますよね。日本人の感謝の気持ちを表すときにまでこれを使います。
日本人はやっぱりアメリカ行くと自分でそれによく気づくんですが、サンキューよりアイムソーリーの方がしっくりくるシーンってたくさんありまして、それをゆっくり連発しているといかにも日本人らしいって思われちゃうんですが、思われようと何しようと言っちゃうんですね。
03:15
このすみませんって言うことができるという段階で、既に私たちって多分ですね、甘えの文化というものにすっぽりはまっていますね。多分日本人はここでありがとうというのは変だって思っているし、そうなんですよね、事実。
ここでありがとうというのはおかしいだろうというのがあるんですよ。感謝の音を述べるべきなんだけど、ここはもうすみませんじゃなきゃダメで、場合によっては恐れ入りますとか言わなきゃならないと。なんないというか、そう言いたくなるはずなんですよ。
これはですね、別に教育を受けたりしなくても、ごく自然に口をつくってところに文化ってものがあるんだろうなという気がします。今気がしますと言いましたけど、この気というのと今日の話は深く絡むんですけど、
あれなんですね。やっぱり甘えの構造の話になるんですけど、この話も延々続けてますが、すまないという言葉と気がすまないという言葉とあると、2語しか違わないんだけど全く違うというふうに書いてあったんですね。甘えの構造に。
これは読んで初めてあって思ったんですよ。気がすまないとすまないは全く違いますよね。どう違うんだろうというときに、要するにすまないって言ったときは他人に対して言ってるんですが、気がすまないのは自分に対してなんですね。
この気がすまないというのは病理のスタートだというような感じのことが書いてあるんですよ。取竹夫さんという方は流れるように書いていって話が進んじゃうんで、どこから何が始まっているのかが分かりにくいんですよね、文章で。
お話はすごく分かりやすいんだけど、何についてのテーマでこのようにはっきり書かれているかみたいなのを思い出すと、ふとぼやっとしてくるという独特の書かれ方をする人なんですよ。気がすまないというのは、例えばじゃなくて、まず脅迫証明できてるんですね。
手を洗わないと気が済まないというふうに最近私たちにさせられてきたじゃないですか。主にメディアのパワーによって。これはいわゆる脅迫証明のかなり典型的なもので、さっき手を洗ったのにまた手を洗う。問題になっていることは汚れが落ちてないということではないんですよね。気が済んでないんですよ。
06:07
ドイタケオさんが非常に面白い指摘をして、私も前からずっとそれはそうだなと思っていたんですけど、だいたい脅迫証という言葉は説明を要すると。
さっきライブで赤入れのCMをしましたけど、3月14日の。専門用語は避けられるならば避けるというのが文章を書くときの一つの絶対的な原則ではないですが、一つの基本姿勢ぐらいに思っておいていいことですよね。
私なんかもつい入れたくなるんですけど、入れたくなる真理というのが一方にあるんだけど、脅迫証、分かりにくいですよね結局。
ドイツさんも同じことを書かれていて、脅迫証なんて言っても分かんないし、一方間違うと人を脅すときの脅迫だという言葉の音が同じだから思われかねない。
脅えている病気みたいになっちゃうけど、そっちは恐怖症というので、脅迫証というのはですね、マグベス夫人が血が取れないとか言って手を一生懸命洗ってる、強く迫る症状なわけですね。
で、このオブセッションですね。 OCDとかって言ったりもしますけれども。
で、これ気が済まないで説明すれば一発じゃないですか。日本語が嫁さんにすれば、手を洗わなくては気が済まないんだって言えばこれで通るわけですよね。
この方がいいっていうふうにドイさんは言ってるわけです。
こういう説明をすれば、これがいちいち説明せずとも一種の心の病であって、しかも心が必ずしも病んでいない人にも時々起こりうるっていうことまで一気に一言で分かると。確かにそうなんですよ。
で、進行すると厄介なことになるのは明らかじゃないですか。ガスコンロの線を何度も確認しないと気が済まない。これでも説明つきますよね。どういう症状なのか。あるいは肌をかきむしっていないと気が済むまで書いてしまう。
これでもう心身症、アトピーっぽい心身症というものがスパッと説明できるわけですよね。そういう日本語があるのにそれを使わずにわざわざわかりにくい言葉で説明することによって混乱が生じているって言うんですよ。それは全くそうだと思いますね。
で、この気が済まないなんですけど、今のいくつかの気が済むまでかきむしるとか、気が済まないから手を洗ってしまうとか、ガスコンロの線を確認するとか、すべてですね、非常に不吉な雰囲気がありますよね、なんとなく。
09:05
この不吉な雰囲気っていうのは他人に済まないと思っている段階では生理ないんですよ。他人に済まないからひたすら謝りまくる脅迫神経症ってあんまり見たことがないんですよ。やっぱり脅迫神経症の一つの大きな特徴として気が済まない、つまり自分の中だけでそれが起こっている感じってあるんですよね。
自分に対して済まないというのと気が済まないというのは大きな違いがあって、それは結局後者は自主的なんですよね。自主的というか自発的なんですね。
自主的というのは他者が絡んでいることなので、これが要するに土井さんの本なので、甘えということと関係が非常に深くあって気が済まないと言っている人はですね、要するに甘えられていないということになるわけですよね。
甘えるのが嫌だということに多分なっている。甘えるのが嫌だという心理と気が済まない、つまり脅迫症というのが関係していると多分彼は言っているんだと思うんです。
そしてそれは非常に西洋の最新式のに近い心理学の本を読んでいても全然出てこないが、非常に分かりやすい考え方で素晴らしいなと思ったんです。
なぜ西洋の、つまりアメリカの心理学の本とかにそういうのが出てこないかというと甘えという言葉がないからですね。甘えという言葉がないということは、そういう概念はないということで甘えられないことが脅迫症につながるという説明の仕様がないんですよ。
そういう発想もなければ概念もないので、でも私たちは甘えられないから気が済まないという心理状態を生み出すというのが説明できるんですよね。それはもう甘えという文化がこんなに熱力染み込んでいるからこそとも言えるんだけれども。
ピンと来ないという方も多いと思うので、最近の流行っている事例で言うと引きこもりという問題があるじゃないですか。200万世帯とかって言うようになりましたよね。しかも今ピークの人たちが40代、ご両親の年代が70代、これが間もなく80代と50代になるから50、80問題と言ったりするわけです。
問題なんでしょうけれども、ここで私がこの引きこもっている人たちは親御さんに対してすまないと思うだろうかって思ったんです。
12:01
自分でよく考えて置き換えてみると、全部が全部ではきっとないと思うんですよね。200万世帯もあるから。でも少なからぬ人たちがすまないなどとは思いたくないってきっと思うだろうなと。私だったら絶対そう思うんですよ。思うと思ったんです。
親にすまないと思って、それで済ませてしまえるのは甘えが十分成立しているケースだけだと思うんですね。
例えばですけれども、お母さん…お母さんじゃなくてお父さんでもなんでもいいんですけど、親に金を1000万円くらい借りて家を建てましたと。すまないことをしたよなーって言っているのは、つまり甘えていられるわけじゃないですか。それで済ませられると思ってますよね。
これがですね、20年間ずっと何もしないでこの部屋にいてひたすら食事を運ばせて済まないよなーでは済まないですよね。これはつまり、外側から見ると甘えているんだけれども、あるいは甘えを通り越して依存しているんだけれども、本人は甘えているという風に、それでそれこそ済ませるわけには。
いかないという心理状態になった時、ものすごくこじれるだろうと思うんです。で、このこじれた時に何が起こるかというと、たぶん怒りになるだろうと。そういう風に思うんですよ。
あのー、私の近所さんに、明らかにこの親に依存しきっているんだけど、全然大丈夫そうなご家族があるんですね。人が口出しするところではないので、これで何の問題もないんだけど、こういうケースは私の知る限りひどくレアなんですよ。
だいたいお金があっても少々乏しくても、そういうことと関係なくすごく緊張感の高い状態っていうものを感じさせられるんですね。一般的にその引きこもりっていうような話になると。
前にNHKでもやってましたけど、緊張感がそこに感じられるんですよね。親子の。例えば面と向かっては話もできないから筆談するとか、そこにはすごい緊張感がありますよね。そういう感じがまるでないっていうお家を私は一つ知ってるんだけど、なぜこれでは済まないんだろう、それこそ済まないんだろうって思うんですよ。
で、そこは多分甘えられないという意識がもう鮮明に働きすぎていて、その客観的な状態と自分の心の中でこれをどう位置づけるかということが絶対に折り合わないっていうことなんだろうなと。
15:00
だから済まないではやっぱりそれこそ済まないので。済まないって言ってそれで済ませられるときに甘えというものが成立してるんだけど、成立しないんだと思うんですね。そうすると、そうするときに何が起こるかというと、気が済まないっていうことが起こるんだろうなっていう気がするんですよ。気がですね。自分の気が済まない。
先週あたりに何度か登場させていただいた東京ライハ研究会の北さん。私、コロナ直前まで横浜ライハ研究会というのを小規模にやってて、結構楽しくやってたんですけどね。
そのときにやっぱり北さんが、北さんは横浜の方なんで、話してくださってですね、気が済まないっていう表現も使われたし、そういうニュアンスのことを何度かおっしゃっていて、これは私たちの時代の一つの特徴づける難しさなんだろうなと思ったんです。
家にいて休んでいると気が休まらないとか言っている方もいらっしゃるじゃないですか。同じだと思うんですけど、この気ってのはスピリチュアルでよく出てくる、この中に米をかくと本当にオーラ感が出てくる気なんですけど、気ってのは、これも土居さんの甘えの子像に出てくるんですけどね。
瞬間瞬間の精神の働きって言うんですよね。これは確かに多分にそうだと思うんですよ。今ここなんですね、気というのは。
例えば気持ちが悪いと言ったら、今ここにおける心理状態を指すことになりますよね。
だいたい心と同じ言葉なんだけど、心と気は完全には同じじゃないですよね。気が利くというのに対して心が利くはおかしいですよね。
気持ちがいいを心持ちがいいにすることはできるんだけど、意味が少し変わっちゃいますよね。
ただ気と心がほぼ同じ意味で使われるシーンもあるんですけど、やっぱり心というよりは気というのは現在進行形的な感じがあって、しかも快楽思考なんですよね。
ポジティブな方へ向かおうとする。向かおうとする。いつでも向かえるわけじゃないんですね。だから気持ちが悪いってこともありますよね。
なんか子供がこれを言うと吐きそうだって話になってるんだけど、これすごい言葉だと思うんですよ。やっぱりこういう語って大変有効性度が高いというのは変ですが、そういう感じがするんですよね。
本当に3歳児でも気持ち悪いって言うようなこと言うんですよ。慣れに習うってでもないじゃないですか。
ところがこの言葉一つだけでその子は自分の精神状態と身体状態を統一して、しかも評価して次に起こりそうなことまで予測できてますよね。一気にそこまで言えちゃうんですよ。
18:09
これって大変なことだと思うんです。多分この統合失調みたいな状態になったらこれができなくなるんじゃないかという気が非常にします。
自分の気というものが自分の身体とちゃんと連動していて、しかもその状態を意識的に測ることができているということになるので、しかもこれを気という言葉一つでまとめ上げられるんですよね。
気が現在進行形の上にポジティブな方に向かうという傾向があるので、例えばやる気がないとかあるじゃないですか。これも気の問題に焦点を当てているわけですよね。
モチベーションというのとはだいぶ違うような気がするんですよ、そういう意味では。やる気がないというのは現在進行形の一瞬の話をしているわけです。
現在やる気がないわけです。やるための気が自分の中に発生していない。現在の自分の精神状態がポジティブな方に向かうものがこの仕事に取り組もうとすると見えないという、そういう表現ですよね。
だからやる気のあるなしというのは瞬間的な話をしているのであって、この仕事についてのとかこの会社にいることにおけるモチベーションみたいな話とは少し違うような気がするんです。気がですね。
気が向いたらだから出かけるとかそういう言い方を私たちはするじゃないですか。その瞬間的な話をしていますよね。衝動ともまた違う気がするんですよ。衝動が発生したら行くとかっていうのと気が向いたら出かけるっていうのはすごく違うじゃないですか。
この気っていうのは多分私たちの甘えという文化と深く関係があるんだと思うんですが、甘えというのは言ってみれば関係性というものなので、私はこれをポジティブに捉えられるっていうことがこのグッドモーニングバイブスでも大事だと思ってしゃべっているんですけれども、今すごくこれがネガティブに捉えられていて甘えというものがですね。
それは依存というものがすごくダメなことだとされているからなんですけど、変わって打ち出されているのが自由ですよね。この自由って時に私たち日本人はしかし、西洋人と違うので甘えの文化の中でこの自由を考えたがるので気にうるさくなるんだと思うんですよ。気って結局自分の気なので。
そうですよね。自分の気持ちですよね。自分のやる気だし。気が向いたらというのは自分の気が向いたらということですよね。これと多分甘えを対峙させているんだと思うんですよ。甘えの文化の中なんだけども自分の気というものはあって、この気と周りの人たちのそれこそ気持ちを調節して頑張っているというか、調節して自分のこう、
21:15
領域みたいなものをある程度守るみたいな感じだと思うんですよね。だからすまないといった時には、他人に対してすまない場合は甘えているわけですよ。どうもすみません、お金を借りしますとか、どうもすみません、ごちそうになりますとか要するに他人に甘えているわけですよ。それで済まそうとしているわけだから。
だけれども気が済まないと言い出すとなるとですね、いやここはお金払わせてください。私の気が済みませんからでしょう。それは相手に対してすまないからではおもはやなくなりましたよね。
これが多分日本人の自由なんだと思うんですけど、非常に難しいことを言うところに差し掛かりますよね。これを繰り返しやっている人って多分付き合いにくいなという印象を持たれると思うんですよ。気が済みませんからって言い出すということは、
すまないからごちそうになるんじゃなくて、私の気が済まないからごちそうにならない。つまりあなたに甘えるのはダメだっていうことですよね。表現こそ丁寧ですけど。この種のやりとりがあれなんですよ。日本人って必ず1年ぐらいアメリカにいたりすると悩むんですよ。この種の表現は英語にはないと僕は思うんですね。
なぜならこういう発想がないから、気が済まないから俺に表せてくれって、さらっとアメリカ人に言うってことは不可能だと思うか思うんですね。これに相当する概念が全くないとは思わないんですけど、現実にこれを言おうとすると不可能な感じってありました。だから諦めてましたけど、本当に難しいんですよ、この辺のことって。
でも日本人だとこれはこういうやりとりって別に普通ですよね。問題なのは横浜アラヒャック研究会の時に北さんがおっしゃってたんですけど、仕事をしていないと気が済まないっていう時があるんだと。あるいは何か生産的なことをしていないと気が済まないということがある。気がということは、つまり私の気がですよね。
会社に求められているからとか会社に申し訳ないからやるんじゃなくて、気が済まないからやる。つまりそれは自由意志だっていうことなんですよね。日本人的には。
だけれども気が済まないという話って、じゃあ気はどうやったら済むんだという問題を生むんですよ。対人関係における済みませんは、そこでも済んでる。むしろあれは事後に言う言葉なんですよね。
ところが気が済まない系はそうじゃなくて、事前に言ってます。気が済まないからガスコンロの日をもう一回確かめに行くわけですよね。気が済むまで肌をかいちゃうというのは、この種のことで悩んでいる人はみんなご存知なんですけど、いつかまた気が済まなくなるんですよ。
24:16
だから気が済むまで書くと肌がだんだん荒れてくるんだけど、また気が済むまで書くと日がやってくるんですよね。あれと全く同じことが鍵をかけ忘れるとか、ガスコンロの日を止めるとか、あるいは仕事もそうなんですよね、結局。
仕事というのはキリがないので、このキリがないってところが脅迫症の大きなポイントなので、一体全体この気が済まないというのは、いつしかですね、誰の気が一体済まないんだろうって感じが本人はしてくるんですよ。周りで見ている人にしてみれば自分の気が済まないのは分かっていることなんだけど、でも5回も6回も鍵を閉めているのを確認するのはおかしいじゃないですか。気が済まないんですよね、そうしないと。
だから私たちはこの引きこもりとかの時、一番それを鮮明に打ち出してくるんだと思うんですけど、要するに甘えるということが奴隷になるとか支配されるとか、そういった心理状態に入るということになってくると気が済まなくなってくるんだと思うんです。
これだと思うんですよね。他人に、何らかの形でそこには本当は他人が介在していたはずなんだけど、その他人に甘えていたと。多分それは最初は無自覚に甘えてたんですけど、いきなり、いきなりではなく徐々に不愉快な思いと自覚をするようになり、親に私は依存していると自覚するようになり、これを断ち切らなければ親の支配下にあっていいようにされてしまうと。
だいたいそういうところの親御さんを見ていると、単なる人の良さそうな老夫婦だったりするんですけど、なんかですね、やっぱりそれは他人が見るものであって、当事者が見るとですね、それは非常に腹黒かったり、いろいろあるんだと思うんですね。支配欲の強い親だったりするとか。
その時に私はこんなことでは私の気が済まないから、親には甘えられないと。でも現実には生活費その他で甘える以外の選択肢はないと。こういう風になった時の葛藤がですね、強烈になって、決して甘えられないのに甘えまくっていて、
その存在がこの世で最も悪いものになっていくっていう現象が起こるんだろうと。この辺のことをですね、非常に面白いことにこれも、
鳥居さんは夏目漱石のぼっちゃんで表現されてるんですね。甘えと自由っていうシーンで。してみるとですね、あれを書かれたのは当然明治時代なので、この問題は明治からあることになるんですよね。
27:10
私はこの問題って戦後になってすごくこうややこしくなってきたなーって感じをしてるんだけれども、そうじゃ全然なくて、明治からもうそうなんですよね。ぼっちゃんの葛藤っていうのはあれすごく引きこもりの原点みたいなところあるじゃないですか。
職場である学校でうまくいかなくて、結局そこで力を持っている人をぶん殴って、実家っていうのか元のところに戻ってしまうと。そこで下女と一緒に生活すると。非常に何か考えさせられるのがあるんですけど、彼は要するに
学校という職場、そこでの甘えに屈することができないっていう風に考えるんですよ。それで殴ると。つまり気が済まないわけですよ。気が済まない話の中に非常に大事なのがあって、なんか山嵐とかいうあだ名をつけられている人になんかジュースを奢ってもらうんですよね。
その金を叩き返さなければならないって、私あれを最初に読んだのはたぶん小学校6年だったと思うんですけど、すごい変な発想だなと思ったのをよく覚えてるんですよ。何をこの人はこんな一生懸命になって、よくわからない大演説を頭の中でやってんだろうと思ったんですけど、それがつまり気が済まないということなんですよね。
心持ちが悪いみたいな表現が出ましたか。あれ気持ちが悪いっていうことと同じだと思うんですけど、要するに自分が甘えるということには断然納得できないような相手にお金を、ジュースを奢ってもらうってことが気持ちが悪いということで、奢ってもらってすみませんとは言えないわけですよね。だから叩き返さなきゃいけないと。
こういう発想っていうのはつまり甘えから自立するっていうことでもあるんですけど、同時に偉く気難しい人っていう印象も与えますよね。で、そういう発想を持つ人ってつまりぼっちゃんだっていうことですよね、夏目漱石の表現を使うならば。
大人っていうのはそういうことをしないものだから、彼はぼっちゃんなんですよね。そしてそういうふうに考えてみると、すごくこれは今の時代を先取りしているというか、今の時代そのまんまなんじゃないかって感じがとってもするんですよ。
私の父母を見ているとですね、よーく考えるまでもなく母は父に完全に甘えていたわけですよ。自分じゃ一円も稼ぐことなく、ほぼやりたい放題やっていて、専業主婦ですよね。
今は非常に難しく捉えられるようになった専業主婦ですよね。100%依存していたと。そして言いたいことも言っていて。つまり甘え切ってるわけですよね。そこにすみませんもないわけですよ。
30:15
だから父も結局のところ母に完全に甘え切ってるわけですよね。食事の支度から何から。完全に甘えているわけです。しかも自分の方が常に偉いかのような態度をとっていられると。これも甘えですよね。甘えがいの何ものでもないと思うんですよ。
これが気持ち悪いというふうに現代は考えられるようになってきたと思うんですね。もちろん経済事情という問題があって、私の子供だった時代のように父が母の分まで完全に稼ぎきれるのであれば、今でもこの形式でこのスタイルでやっていくという家はいっぱいあると思うんですけど。
稼げなくなったから共働きになり、共働きになったからお母さんが稼ぐみたいなんじゃダメだという理論が、意見が出てくるんだと思うんですけど、同時にですね、たぶん仮にこれができたとしてもダメだという発想が今はあると思うんですね。
つまり心持ちが悪いわけじゃないですか。夫に依存、甘えているのは気持ちが悪い。つまり自分の気が済まないという話。そういうふうになってくるとお互いが甘えを成立させるのに一つ差し込まれるものが出てきますよね。
お互いが依存しあってべったりというのが許せないということになってくると、お互いがお互いに好意を持っているのはいいんだけど、稼ぐお金等、役割とかも対等でないと気持ちが悪いと。問題なのは気なんですよね、相手にではなくて。自分の気がたぶん済まないんだと思うんですよ。相手に済まないんではなくて。むしろ相手に対しては逆なんだと思うんですよ。
私の分まで稼いででかい顔すんなと。そういう話になってくると思うんですね。
そうすると気が済まないというのはあくまでも自分の世界のワールドの話なんだけれども、実際にはそこに対人関係が深く根差してきているので、ここでものすごくさっきの家にいて親の世話になっていてしかし親には怒りを感じるというこのパターンと同じようなことがきっと起こると思うんですね。
起こるんじゃないかという気がします。気がですね。
結局これって本人がそれでいいと思えば済んじゃう話じゃないですか。
人がとにかく言う話じゃないと思うんですよ。どの人の資産で誰が食べていいよと。
33:00
ところが本人がそこに依存していると支配されるというふうに思うと、もっと自由でなきゃいけないと思うとですね。
ぼっちゃんは1,005人でしたっけ?
1,005人のジュース代を返すわけですよね。今で言えば150円くらいですかね。
これが問題になってくるというのって、つまり甘えというものが納得のいくようなものではないと。
ただ、つまりその甘えというものに支配されたままでいると、自分というものの気が済まなくなってくるので、脅迫証明でくるんだと思う。
その辺をはっきりさせておこうじゃないかという話になってくると思うんですね。
でもぼっちゃんの時代はまだ明治なんで、彼は下所のところに戻って生活している分には全然気持ちが悪くはないんですよね。
清っていうんでしたっけ?清さんと一緒に住んでいる限りはそこで住んでいるんですよね。平気で済ませていられるわけです。
この違いが今あるんだなと。今これ実家に戻って平気な顔して済ませることすらできないということが起こっているんだろうなと。
そうするとどうやって自分の気を済ませるかと。
この甘えているというのは必ずどこ行ってもそれは現実としてはあり得ると思うんですよ。
アメリカ人やイギリス人が自分でどう思っていようと他人に依存している部分がゼロって人っていないわけじゃないですか。
あとはこれをどのように捉えるかですよね。
で、結局大人だと甘えているのは事実なんで、
一線五輪とかも相手の人格の良し悪しとは関わらずそこら辺をはっきりさせなくてもいいと思えるようになってくるんだけど、
ぼっちゃんじゃ無理なわけですよね。ここはすごく大事なところで、
でも一方でそれは自由っていう問題に関係あると思うんですよ、当然。
誰に何を奢ってもらう奢ってもらないかってのは自分で決めていいはずのことですから、
ぼっちゃんであろうと大人であろうと。
ただどっちを優先させるかということによって、つまり甘え優先で生きるのか自由優先で生きるのかによって、
こういうところの葛藤が発生するっていうことが多分一番問題になってくるところで、
私たちの狭い生活の範囲内では、狭いですよね。十数代の話をしてるわけだから。
でも狭いわけじゃないですか、結局。子持って親の世話になるとかだって壮大な話じゃないですよね。
何世代も何世代もそれがあるから社会の大きな問題みたいに見えるけど、
36:01
一つ一つ取り出してみると、一つ一つはこう、各々のスタイルで自由に、自由にっていうか、
その家その家での裁量で、判断と裁量でやっていいはずの話だと思うんですよ。
それが難しくなっているように見えると、そこにはきっとですね、
この程よく人に依存し、程よく自由を確立するみたいな考え方があったと思うんですね。
というか、今でもずっとあると思うんです。
それが坊ちゃんの時からあるんだと思うんですよ。あるからああいう話があるわけだから。
多分今は面々と続いていて、そこのところで私たちがバランスとか役割とか分担という話が
すごく必死になっているところ、そういう感じを今読み直していてですね、思うんですね。
私、ライフハック界隈で、界隈というのはあれなんですけど、やってきているんで、
ライフハックというのもそうじゃないですか。他人の目から見れば脅迫証明だところがあると思うんですよ。
気が済まない人たちの集まりみたいな、お金の管理とか、ライフログとか、記録を残していかないと、
気が済まないところがあると思うんですね。
他人に対して済まないからこんなことをやっているわけじゃないと思うんですよ。
奥さんに対して申し訳ないから家計をつけているってわけじゃないと思うんです。
気が済まない部分が大きいと思うんです。
それはやっぱり自由意志っていうことなんだと、埋没して気がつかないうちに使っているお金で
他人に支配されたくないっていう気持ちと関係が深いんだろうと。
38:00

コメント

スクロール