1. グッドモーニングボイス
  2. 【GMV 335】うっせぇのはだれ?
2021-03-09 37:40

【GMV 335】うっせぇのはだれ?

なぜ私は私に怒りを感じてきたのか?
00:04
おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
ここのところ、あの、なんていうのかな、
グッドバイブスな話に全くなってないなというのがちょっと気にはなっているんだけれども、
結局これは関係があるんですよ。
私がグッドバイブスをやるにあたって時々言うんですけれども、
その簡単に、割と受け入れやすい話と、ひどく受け入れがたい話とかあるわけですね。
で、ひどく受け入れがたい話の方をやっぱりチャレンジしていかないといけないじゃないですか。
いけなくはないですが、僕の考え方はそうで、
効力を発揮していくためには、効力を自分のものにしていきたいわけだから、
やっぱり一番じゃないにしても無理のあるところへ向かう必要を感じるんですよね。
そうすると、無理のあるところへと向かっていく結果、
今私がグッドモーニングバイブスで話をしているような、
ある種カミングアウトっぽい話とか、
ドロドロしているところとか、ネチネチしたところばっかりになっていっちゃうんですね。
もともとの性格も確かにあるんですけれども、
そういうところに触れないんだったら、あんまりやる意味ないと思うんですよ。
普段の生活においてね、毎日仕事を放り出して、
娘と奥さんを殴りまくりですみたいな、そういうのだと問題はもういっぱいあるので、
あれなんですけれども、一応表面は少なくとも取り繕えてますということになってくると、
奥の方へ入っていくしかないですよね、自分の内奥みたいな方へ。
その時にグッドバイブスを参照するわけじゃないですか。
表面的にやれていること通りでいいならば、別に今から改めて何かをしなくてもいいわけですから、
そういうことで、このグッドモーニングバイブスは喋っているよという、
だから私のグッドバイブス実践におけるジグザグ道なんですよね、これは。
というところで、その一環ではないんだけれども、
今週末に何度も申しますけれども、ライブで赤入れというのをやりますと。
あれもそうなんですけれども、今日のお話に少し絡んでくるんですけど、
要するにああいうのって、ちょっとツイッターでも話題になりましたけれども、
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文章を修正するということを目的にするわけではないんですよ。
表面的には少なくとも第一次的には文章の修正がメインになりますが、
文章で自分が言わんとすることを言えるようになるための、あれは私はですね、
技法だと思っているんですね。
で、そうでなければ、今日話題にするんですけど、
うるさいことって意味がなくなっちゃうと思うんですよ。
うるさいことを言うのは、自分がしたいことをするためなんですよ。
うるさいというのは被害的なところがあるので、どうしても表を、
この言い方は妥当じゃないと思うんですけれども、要するに細かな話ですよね、一見したところ。
ことを減らすとか、文字の、言葉のかぶりを減らすとか、よくやっちゃうんですけど、
私もなんかね、気がつくと1ページの中に、という問題があって、という問題があって、という問題があるみたいになっちゃうんですけど、
問題ばっかりだなと。
でもこの問題を言い換えるっていうのは、簡単なことではないんですよ。
問題というのを課題に直すと変だったりするわけじゃないですか。
あるいは問題というのを、そうですね、
チャレンジみたいな、あるいはハードル、難問とかありますが、
やっぱりそうじゃないなっていう風になってくると、
被っててもいいからこれを使いたいというのとですね、被るのは絶対にやめておきたいというのが、
責めにあう。責めにあうというのはどういうことかというと、
自分の言いたいことがこの表現では言い尽くせてないということなんですね。
こういうことみたいなのがあるわけです。
それは出だしの使っている主語の選択で既に間違えてるからそういうことが起こったりもするんで、
本当に直すというのはですね、ケーススタディみたいにしていっては本当はいけなくて、
要するに言い尽くせるかどうかという問題なんですね。
で、このまた問題ですね。
で、言い尽くせるかどうかということは自己実現じゃないですか。
マスローの言い方を借りるならば。
言いつけたせたらそこで達成感が得られます。
つまりこれは今ここなんですよ。
本一冊書いて、飛ぶように売れて、何者かになるという遠くの未来の報酬を当てにすると本書けなくなっちゃいますけど、
一文一文で自己実現がなされていくならば書き続けていけるじゃないですか。
私のこのグッドモーニングワイブスもまさにそういうことであって、
そのための一つのなぜか編集技術なんですね。
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なぜかじゃないんですよ。
つまり編集技術を使って言い尽くせてないところを言い尽くしていくとですね、
何かが剥がれ落ちるように自分の内面の奥にあるようなものが引っ張り出せてくる。
この達成感を得るということと文章を書くということを一致させるためにライブで赤い絵とかをやっているんだなと、
今は思っているわけです。
最初からそういうことにフォーカスを私が分かってやってたわけではないんだけど、
今はそう思っているので、日曜日によろしければそういう体験をしてみてくださいと。
で、うるさいことを言う話なんですけど、今流行っているやつですよ。
あのYouTubeで私も数回聞きました。
あのうっせーわってやつですね。
で、あれについていろいろ喋るという年ではないので、
20代だったらよかったんですけども、やっぱり40代後半になると完全にああいう感覚をもう持ってないんですよね。
でも非常に興味深い言葉としてうるさいというのがそういえばあったということを思い出したんですよ。
あれで。
だから非常によかったなと思っているんですが、うるさいって日本語だななと思うんですね。
しばしばうるさいという言葉を使って私たちは命令形の代用にするじゃないですか。
これ日本語の一つの大きな特徴で、命令形というのはですね、英語であれば基本動詞形なんですよ。
これは正しいと思うんですよね。
乱で走れなんですよ。
しかし私たちはめったに動詞の命令形というのを使わずに、何かそれを変な形で代用したがるんですよね。
シャラッとじゃないですか、あのうるせえは。
シャラッとなら完璧ですよね。シャッとですもん。
ところがうるさいでは、それは一体誰に向かってどんな命令を発しているのかさっぱりわからないわけですよ。
例えば工事現場の音がうるさいだったら、これはもう非常にわかりやすいし適切ですが、
あのうるせえはは少しもそういう意味ではないですね。
まず第一につまり、デシベルがでかいという話ではないんですよ、あれば。
そういう使い方もするじゃないですか。
音量がでかいと、音うるさいよっていうやつですよね。
これ、音うるさいよもすでにそうですよね。命令形ですよね。
ボリュームを下げようってことですよね、たぶん。
ところがそうは言わないんですよね。音うるさいよって言っちゃうんですよね。
つまり日本語ってそうなんですよ。
あるフランス人がですね、話が脱線しましたが、
あるフランス人が、あの助けてというのは何なんだと。
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なぜ助けろではないのかっていうことを書いてたんですけど、全くそうだと思うんですよね。
ヘルプミーは命令形ですよね。
助けてでは命令になってもいなければ、依頼にすらなんてないじゃないですか。
あれ中止法ってやつで、助けててんなんですよね。
それじゃ助けてくれそうにないじゃないですか。
なぜあんな表現を使うのかと、そのフランス人がコンコンとこう書いてたんですけど、
そうだよなぁと思うんですよね。
それを使っている日本人としても、でも助けろっておかしいじゃないですか。
なんか変なんですよね。
命令形は、あの場合は助けろしかありえないと、習っている通り。
でも助けろって言葉は僕は聞いたことがない。
で、うっせーもそうなんですよね。
誰に向かってまずそれを言ってるのかと言うと、ここが曖昧なところが、あの言葉の良いところなんですよ。
うるさいという言葉は、この番組で繰り返し言ってる言葉を使うならば、甘えの一種であって、
で、ここにはふわっとしたものがありますよね。
私はそう感じるんですけど、ふわっと言うわけですね。
うるせーと。
この空間に向かって、中空に浮くような感じ。
これが日本語の大きな特徴だなと思います。
あの、いろんな意味があるじゃないですか、うるさいには。
今言った音がでかいという意味。
で、おそらくこの歌では出てきているであろう、その、なんて言いますかね。
口うるさいとか、面倒くさいとか、煩わしいというような意味。
その他に、なぜかですね、ポジティブな意味もあるじゃないですか。
このポジティブな意味が非常に興味深いと思うんですけど、
マジにうるさいとかっていうのは悪い意味じゃないですよね。
これは、センサーがよく働いているっていう意味です。
多分、音にうるさいとか言いますよね。
これも音がうるさいのとは全く違いますよね、意味として。
音にうるさいというのは、音の聞き分ける能力が高いっていうことだと思うんですよ。
ところがこれ、音にうるさいとか味にうるさいというのはですね、
素人臭さをどこかに残しもするんですよね。
この辺、実に精明な言葉だと思うんですが、
例えば、彼は超一流の寿司職人だけあって、味にうるさいってちょっとダメな感じがしません。
私、これは違和感が残るんですよ。
味にうるさいというのは、客の言う言葉であって、
少なくとも素人っぽい人の言うことであって、
超一流のプロは味にうるさいレベルは超えてなきゃいけないと思うんですね。
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だけれども味にうるさいというのは、とはいえ味を見分ける能力が極めて高いという意味でもあると思うんですね。
この小元がうるさい人もある意味同じだと思うんですよ。
うるさく言うのは、そのように理想が高いということになりますよね。
この空間をもっときれいにできるとか、
立ち振る舞いをもっとよくできるとか、
だから私、途中でさっき言ったんですよ。
ライブで赤入れもそうですが、編集、構成、その他全てそうです。
ある意味、うるさいことを言うんですよね。
文章をブラッシュアップするためっていうわけです。
私はさっき言った通り、それ以上の意義があると思うんですけれども、
実はこれ全部同じことだと思うんですよ。
うるさいというのは、うるさくするということは音の方じゃなくてね、
うるさいことを言うということは、
実は自己実現のためでないと意味をなさないなと思うんです。
そう考えてみるとですね、あのうっせえはどう解釈されるかというと、
私はあの絵が結構そうなんですけれども、
なんかどっかホラーっぽいじゃないですか。
あれ非常に僕は大事なポイントだとよく感じるんですよ。
主張していることは、僕らの世代で言えばですけど、
盗んだバイクで走り出すやつだったり、
もうちょっとだいぶ上の世代で言うと、
泳げたい焼くんと変わらないと思うんですね。
実は泳げたい焼くんの方が過酷なんじゃないかとすら思うんだけれども、
泳げたい焼くんは一方でちっともホラーっぽくないじゃないですか。
私は、まあこの話は細かいことに立ち入りすぎている感はありますけど、
こういう勝手なことをグッチャフェル番組ということで、
許容してほしいんですが、
要は分裂気味だなっていうふうに思うんですよ、あのうっせえは。
絵を見てもそういう印象を受けたんですけれども、
その声は誰が発してるんだろうってことですね。
盗んだバイクで走り出すのは、
妄想感はあるんだけれども、
現実感もあるじゃないですか。
やっぱりバイクで走ってますから。
で、毎日毎日鉄板の上で焼かれてしまうのは、
もうかなり過酷ですよね。
それはですね、
空いたグラスについで回らされるというレベルのだるさでは済まないと思うんですね。
毎日毎日鉄板の上で焼かれるというのは、
かなり厳しいと思うんですよ。
で、それは逆になっちゃってるということは、
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やっぱり中年なんですよね、あの歌は。
あっちの方が僕はやっぱり悲惨だと思うんですよね。
上で焼かれてれば誰だって嫌になっちゃいますよね。
で、店のおじさんと喧嘩をするんだけれども、
結局彼はそうやって放浪している間にどんどんお腹が空いて、
餌にたどり着いたと思ったら食べられちゃうわけですよね。
この方がやっぱりリアリティを感じるというか、
もうなんかこうどうしようもないよねというふうに。
でもそれをギャグにしてしまうんですよね。
ホラーになってないんですよ。
つまりホラーとギャグというのの差って、
やっぱり現実がそこにあるのかないのかだろうと思うんですね。
ホラーというのは非常に非現実的なんですよ。
なんだけれどもとっても怖い。
それってどういうことかというと、
やっぱり心の中の出来事だろうなという気がします。
ホラーで描き出されている恐怖というのは基本的には死の恐怖ですよね。
なぜ虫があんなに悪意を持っているのかというと、
やっぱりそれは死の恐怖がつきまとっているからだと思うんです。
で、死の恐怖ということは、
それはどう考えても内面の問題であって、
現実にあるものとかではないと思うんですよ。
心の中でなければですね、
さらおられたとか言って幽霊が井戸から出てきたりはしないんですよね。
それは心の中から見える風景であって、
ホラーって基本はそういうものだろうと思います。
今手が込んでいるので何とも言えないものもいっぱいありますけど、
でもやっぱり基本は心の中に訴えるものであって、
毎日毎日鉄板の上で焼かれている話ではないと思うんですよね。
そっちの方が本当はよっぽどホラーなんだけど、
そうはならないんですよ不思議なことに。
うるさいんですよ。
いろいろとうるさい声が聞こえてくるんですが、
うるさい声なのか単なるルールなのか、
うるさいルールっていう言い方ってあんまりしないと思うんですけれども、
最近野球の解説で、
このカーブが邪魔でうるさいんですよねっていう表現を取る人がいて、
すごい面白いなと思うんですよね。
バッター目線から見るとこのカーブが変化球として入ってくるから、
ストレートに絞りにくくなるんだっていう、
この邪魔でうるさいっていうのはそういうこと。
つまりこれ褒めているわけですよ。
ピッチャーは邪魔でうるさいボールをどれだけ投げられるかの戦いじゃないですか。
要するにジャンケンでパーとグーしか出せない人がいたら、
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その人絶対勝てないですよね。
チョキが邪魔なんですよ、この場合は。
だいたい変化球とかストレートとか言ってるのはそういうことなんで、
次に何来るかっていうものを勝手に連想させて、そうじゃないのが来るっていう状態をいつも作っておいて、
混乱させていればだいたい打たれることはないわけですよね、プロのレベルって。
ああいうものを見ていると、うるさいという表現とか邪魔っていう表現っていうのは、
すごく日本的な感じがするんですよね。
どっちの目線で見るかによって同じものが大きく違って見えるっていうのは、
私たちにとってはごく普通のことですけど、我々は意味付けをしますから。
このカーブが生命線とも言えれば、このカーブが邪魔だとも言えるのは、
視点が変わるからですけれども、その中間に浮いている感じがしますよね。
うるさいというやつは。
誰がうるさいのかっていう話なんですよ、やっぱり。
誰でもない感じがあの歌を聴いているとするんですよね。
うるさいのは内面の声なんじゃないかという感じがするんです。
内面の声だということになってくると、うるさいのは超違ってやすいですよね。
フロイトで言えばですよ。
正しいことをやりなさいという、うるさいんですよ、非常に。
フロイトは親殺しっていう表現を取ったんですけど、私もつくづくそう思うんですね。
みんなやるんじゃないのかな。
これをですね、メラニー・クラインという人は幼児もやるって言って、論争を最終的に巻き起こすんですが、
幼児がやるかな、難しいところだと思いますが、でも私はとんがった小学生ならやると思っています。
とにかく私たちは親殺しっていうのを一度はやるんじゃないかと思うんです。
ただ今は本当に老時期を迎えますという、ある意味非常に幸せというべきなのか何なのかわからないですけど、
私たちは個性がみんな違うんで、いろんな人がいますが、
大半の人は二十歳を迎える前に一度や二度は親殺しというのをする。
もちろんこれはメタファーですね、完全に。
つまり超自我を壊すんじゃないかと思うんです。
少なくとも中途半端な超自我というのは壊していくという。
バイクで走り出すのも同じですよ、結局。
壊すところがどこかにないと、ひどく中途半端なものに縛られる羽目になると思うんですね。
いろんなものがあるんだと思うんですけれども、やっぱりうるさいわけですよ、言ってしまえばね。
うるさいに決まっていると思うんですよ、そんなものは。
正しいルールとかいうやつがですね、
すべてがすべて非常に万人にとって完璧に役に立つ正しいルールというのはないはずなので、
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そういう意味では自分の心の中で絶えずですね、こうしろああしろというのが聞こえてくるというのが
うるさくないはずはないんですね。
これが聞こえてきた時に私ってものが生まれるという、
昨日そういうような話をしましたけれども、結局これはアイデンティティなんですけど、
この形が一番私たちに馴染み深いという、
つまり何をしたいのかはよく分かってないんだけど、
何々しろと言われると嫌になるというやつですね。
文章でも同じです。文章書くじゃないですか。
ただ書けというのはとても難しいんですよ。
別に何も書きたいことなんかありゃしないんですよ。
ところが、例えば女をわきまえてなさいとかいう人が出てくると、
書きたいことが急にグッと湧いてくる。
つまり何かしら自分の権利なり自由なりが侵害された時には言いたいことが出てくる。
うるさいと言いたいことが出てくると。
こういう構図っていくらでもあるんじゃないかと思うんですね。
だから私は自分で何か主体的にやりたいと思うことがあるならば、
一旦やっぱりこのうるさい声はですね、
完璧に壊してしまう必要が一旦はあるんじゃないかなと何となく思うんですね。
ロイトが親殺しとわざわざ言っているのはそういうことだし、
死ない人はいないみたいな言い方が彼の文章を読んでいると思うので、
ここは死ない人もいるという気がするんですよね。
最後の最後まで親に非常に忠実だという人。
ある意味その人はすっごく個性的だし、
見ていて非常に何か怖いものを感じますけれども、
でもあり得ないことではないと思う。
ただし普通の人はみんな一度は親殺しをすると思うんです。
というか二度や三度、十度くらいはするんじゃないかと。
だから中途半端なことが多いですよね。
中途半端な親殺しをすると。徹底的にやらない。
徹底的にやったほうがいいと思うことは多いんですよ。
私は親殺しという意味で一番徹底したのはやっぱり留学時で、
あまりにも社会常識がアメリカと日本って違うから、
自動的に親は死んじゃうわけですね。
こうしろああしろっていうのが全然違う声になってしまう。
それくらい正しさというものが実はいい加減だということに
思い知らされるんですよ。
ああいうところにいると。
自分の正しさなんてどこにもないっていう、
正しくもなんともない扱いを受けちゃうので、
もうぶっ壊れちゃうんですね。
ここから全てが始まるんではないかなというふうに思うんです。
24:01
だって一旦これをやった以上、ある意味正しいことがなくなるわけですから、
こうするべきだとか、こうしなければならないとかがないわけじゃないですか。
そうするとモチベーションがにじりるしく低下しますよね。
なぜそうしなきゃならないのかさっぱりわからないということになるじゃないですか。
正しいわけでもなんでもないならば。
ここまでいかないと、なんとなくいつもいつもうるさい頼みになっちゃうと思うんですね。
自分のモチベーションが。
なんかうるさいこと言われると葛藤なってモチベーションが高まるけれども、
それがないと別にやりたいことも言いたいこともないですっていう状態が続いちゃうと思うので、
徹底的に一旦壊れるというのがあるといいんじゃないかなというか、
結局そういうことが親殺しになって必要なことになるんじゃないかなと。
ちなみにこれ、具体的な話では一切ないですよ。
全部内面だけの話です。
内面だけに留めておかないと大変なことになるというか、
親は別にそんなこと言ってなかったりしますからね。
すごい大事なことだと思うんですよ。
僕の長時間の親が僕に言ってくるうるさいことを全部殺していくというのは、
僕は必要だと思うんですけど、
僕の実際の親とは大して何の関係もなかったり、
私の親が言ったと勝手に僕が思っている言ってもいないことがいっぱいそこに含まれているものなんですよ。
だからいちいち壊していくことが必要だったりすると思うんですね。
実はラ王が言ってたことだったりするんですよ、本当に。
ギャグなんですよ、こんなものはね、本当のところ。
親が言ったと思っているんだけど、おじさんが言ったとか、あるんですよね、いくらも。
ここまでは、しかし言ってみれば青年期の話であって、
ここからなんだと思うんですよね。
だからおよげたやきくんの方がやっぱり僕は大事だと思っているんですけど、
グッダワイブスで、そうはいっても正しさを手放すという話があるわけじゃないですか。
私は本当にこの問題に気づいたのは40代後半だと思っているんですよ。
もう最近ですよね、中盤から後半。
ようやくですね、実は親は殺せていないということに気づくんですよ。
うっせえ間はいいんですよ、本当に。
自分でもわからないもの、しっかりと親の正しさをインストールしてしまっていることに触れられるというか、
そこをつつかれるというのは、本当に40代の後半になって、
自分の価値観なんて何も持ってなかったんだなということに気づくのもこの辺だったんですね。
親のコピーでしかないみたいな。
カミングアウトみたいな話になる上に、関係性が見えてこないと思うんですけれども、
27:03
あんまり私がフロイトって本当にすごいなと思ったのも、
やっぱり40代の、僕の場合遅いとは思うんですけどね、杉で。
性的な、なんていうんですかね、なんていうんですか、
性的なヘチシズムですよね、言ってみればね。
私癖っていうのかな、があるわけですよ。
これがまさに長寿がと関係があるんですね。
この性的な死癖というようなもの、これ全ての人がこうだというわけじゃないですよ。
でも僕はフロイトの説明ってすごかったんだなと思ったのは本当のところこれなんですよ。
思春期の親殺しなどというのは、別にフロイトにいちいち説明してもらうまでもないと思うんですが、
このナルシシズムというもの。
ナルシシズムって僕は性的な刺激だと今では思ってるんですけれども、
これがやっぱり、なんていうんですかね、深く食い込んでいる。
これを取るのが僕にとってのグッドバイブスだっていう風に、
最近ようやく、最近ではないんですが、
この問題と格闘している時にグッドバイブスが現れたって感じ。
そうですね、これが一番近いです。
あったんですよ、性的な刺激が。
誰にでもあるとは思いますが、
僕のはすごい単純です。
清楚っぽい女の子が襲われてしまう系。
それも出来うればですね、
闇の組織みたいなものに襲われてしまう系。
これが私を一番性的に持っていくんですね。
なぜなんだろうと思ってたんですよ、ずっと。
どうしてもよく分からなかったんですよね。
昔からフロイトは読んでたんですけど、
なぜかですね、グッドバイブスを読んで、
特に倉園系のブログをずっと読んで、
フロイトを読み直して、はたと分かったんですよ。
私の場合ですよ、これは。
そうか、なるほど。
あの清楚系の女性は母なんだと思ったんです。
というか思ったのではなくて、気づいたんですね。
しかも母なんだけれども、美化された母なんですよ。
私にとっての美化された母は若いんで、
当然私は子供なんですね、このシチュエーションにおいては。
この美化された母が長寿がなんですよ、間違いなく。
この母に気に入られることを私はしようとしちゃうんですね。
で、この母はなんだかおしとやかで、
私の母とは全然かけないんで、だから気づかなかったんですけど、
でも間違いなく母なんですよ。
いろいろな分析を繰り返していくとね。
30:00
この母が静かで大人しくて、
この母のためにあらゆることをしようと。
実際の母とは関係ないですよ、はっきり言って。
私が幼児だった時の美化された母の理想像みたいなもんです。
母のイデアですね。
これがいるわけですよ、心の中で。
で、この母がなんて言うんですかね、
褒めてくれるとかではないんですよ。
この母が喜ぶようなことをしたい。
それが私のモチベーションにあったわけですよ。
が、母が喜ぶようなことをしたいと、
ずっとやらされ続けて40年も経つとなるとですね、
ものすごく恨みが溜まってくる。
実際は40年なんじゃないですよ。
多分10年ぐらいですね。
非常に強い恨みがあるんですよ。
これをルサンチマンと言うんだと。
この母を壊したい。
これが私の性的な欲求なんですね。
ということに至るのに、
えらい手間がかかったわけですよ。
これを手放さなきゃダメだと思ったんですね。
このために本を書いたりしていられない。
こんなことのために本を書いていたのでは、
ろくなものが書けない。
だからカミングアウトっぽいんですよ。
この話は私自身じゃないと、
いくらでもツッコミで掘られるじゃないですか。
いやいや、そんなのお母さんじゃないしって言われれば
その通りなんですけど、
これは私の内心の中でのフィットであって、
あれは母なんだというのが気持ち悪いんですよすごく。
でもぴったりくるんですね。
たぶん父も入ってるんだろうなと思いますね。
全く外形には入ってませんけどね。
これが座長寺画なんですよ。
すっごくいいものですね。
これに対して私は深い恨みを抱いているんですよ。
こいつの言いなりに慣らされてきた。
5歳、6歳、7歳、8歳の頃に深い恨みがあるんですよ。
あの、あれですよ。
うるさいなんてもんでは全然ないです。
例えば私がこの母の気に入らないことをするじゃないですか。
ちょっと顔を曇らせるんですよ。
すごい美人なんですよ。
ちょっと顔を曇らせるんですよ。
で、私すっごく悲しくなって、
それをできなくなるんですよ。
ものすごい深い恨みが同時に残ります。
だって私がやりたいのはテレビゲームとかですよ。
勉強で成績がいい成績取れないとかするじゃないですか。
中間試験とかで。
本物の母はうるさいですよ。
あれは牧歌的なんですよ。
僕の内面の母はちょっと顔を曇らせるんですよ。
だから勉強しなきゃなんなくなるんですよ。
こうして僕は恨むんですね。
だから、闇の組織とかに、
あの闇の組織は僕の死の、
フロイトが言ったところの死の衝動ってやつなんでしょうけれども、
闇の組織とかに連れて行かれて、
いろいろされちゃえばいいのにと思ってるわけですよ。
33:01
すごく炎ぐらいっていうのがねちねちしてるわけですね。
実にねちねちしてるなと思います。
で、これを手放さなきゃいけないなと思ったんですよ。
気づいた以上はね。
このよくわからん女に喜んでもらうために
物描いてちゃダメだと思うんですよね。
それじゃあ多分絶対僕が一番いい物って描けやしない。
やっぱりこれ以上目指さないと意味ないなと。
仕事をする以上はですね。
やっぱり他人に向かわないと。
これ自分ですからね、どう考えたって。
自分の中にあるもので。
実際のうちの母はもうほんとただのおばあさんなわけですから。
ただのって言っちゃいけないんでしょうけど。
ほんとおばあちゃんなわけですから。
似ても似つかないですよ。
僕の心の中だけに勝手にいる、
僕の幼児期の理想像なんですよね、これは。
これが結局、うっせいわけですよ。
僕にとってはですね。
なるほどなと思ったのは、つまり
うるさいというのは自分に向かって言う言葉なんですね。
だから非常に分裂気味だし、
だって自分が自分に攻撃してるんだから分裂気味だし、
被害妄想的、迫害妄想的かな。
そういうニュアンスが入ってくるんですね。
これを、このからくりでモチベーションをキープしようとしないと。
長いことこれでやってきたなと。
一方間違うと、留学したことさえこれかもしれない。
留学をうちの母が喜びませんでしたからね。
本物の方は別に。
それくらいやっぱりですね、
こういうのに囚われちゃってるんだなと。
みんながみんなってわけじゃないですよ。
ただ私は長寿がっていうアイディアは非常に大事だったという気はします。
親イコール親じゃないんですけどね、結局。
内的なイメージでしかありませんけれども、
とにかくこの長寿がというものは
人の心には住みつきまして、
その評価によって生きようとしてしまう。
多くの場合、自覚なくこの長寿がを他人に投影して、
あの人は素晴らしいとか、
あいつは口うるさいとかいうことを言い出すわけですよ。
で、それの評価を気にして、
その評価どおりに生きているかどうかを気にすると。
あまりにもこう、何て言うんですかね、
自己完結感が強すぎて、
完全に一人相撲になっちゃう。
立法は違うとね。
必要なものだと思うんですよ。
特に幼少期にある程度現実的をして生きていくには。
よく考えると意味も分かんないのに、
1割5分の3かける169分の23みたいに、
やりたくないじゃないですか、子供は。
11歳とか10歳とかで。
36:00
やることになるわけでしょ。
そういう時にこの長寿がっていうのは、
すごく大活躍しちゃってるんですけれども、
しちゃってるんですけれども、
やっぱりこう、同時に深い恨みを残しているんですよね。
これは先生に、先生とか親とかが、
とても思いやりがあるとか良心的であるとか、
そういうことは関係ないと思うんですね。
良心的であった方がいいとは思いますよ。
これだけのことをさせるんですからね。
でも、結局それはどうしたってですね、
そこにルサンチマンは残りますよね、多少とも。
やりたくないことさせられてるわけですからね、結局。
将来のためになるであろうと、なんであろうと、
今の子ってのは、頭のいい子は本当に織り込み済みなんで、
将来のためになるということを信用してるし、
なんていうんですかね、
アドバンテージを持って生きていくためにも、
必要なことなんていうのを織り込んでいっちゃいますけど、
だから恨まないということにはならないと思うんですよ。
私は現に特別親に虐待されてたとか、
あまりに厳しく言われたということはないですけれども、
ルサンチマンがあることは確実でした。
なぜそんなことが言えるかというと、
このウッドバイブスで一切手放してみたわけですね。
手放すべく最大限の努力を払ってるわけですよ。
特にさっきの清楚な女の人像みたいなのを手放すと。
これを喜ばせるためには今後何もしないということに決めてみると、
何が起こるのか。
サディスティックな性的な興奮が消えるんですよ。
消えたんですよ。びっくりしました。
37:40

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