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おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
いい気になって休日編とかやっているとですね、ネタがなくなるんですよ、これすぐ。
私、ネタ調というものをつけてなくはないっていうレベルになってるんですね。
このことそのうち、もはやですね、そういうことを書く気運みたいなものが自分の中で高まってこないんですけど、
私、最近増えてきたじゃないですか、デジタルノート系って増えてきてるんですよ。
これ聞いてる方はご存知の方が多いと思うんですけど、スクラップボックスとか、ロームリサーチとか、オブシディアとかね、あとノーションとか、ダイナリストとか、いろいろ出てきているんですけど、
一番ですね、グッドバイブス的というのか分かりませんが、これらを使う上で、私がここに僕の中ではポイントができたというのは、
自分のためのメモというものを投入しないことなんですよね。そうするとうまくいくんです。
人のために役に立つ情報以外は原則的に入れないってことにすると、
人によって違うでしょうけど、僕の場合だと9割減、1割になるんです。
そうするとすっごい簡単になります、整理自体は。ほぼ整理しなくても何のツールを使ってもOK。
しかも必ず他の人との関係性は若干にせよ改善されますから。
自分自身のための情報というのがノイズになるので、若干にせよ改善されるので、すごいこれが楽なんですよ。
今まで一体何をしてたんだろうというぐらい楽なんですよね。いっぱいツールを使っても全然大丈夫なんです。
他の人との関係する情報以外の情報はそもそも入れない。
そうするとネタってものが一番微妙で、例えばこのグッドモーニングワイブスのネタというのは、
私のためだけのものではないから一応使うんですけど、私のためだけのものと言えなくもないですよね。
その時何か思い出せば、考えつけばいいわけなので、ネタ取っておくというのは結局自分の身を助けるためじゃないですか。
これがいらないんですよ。自分の身を助けるということは、自分が頼りない存在だということとの兼ね合いがあるので、
頼りになるならいらないんですよね。
これってちょっと気弁がましく聞こえるというのか、何と言ったらいいのかわからないんですけど、
因果が逆になっているように聞こえるかもしれないんですけど、
現実に私たちって自分を守っちゃうと、自分ってあんまり強くなくていいんだって思うところってあるって、
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守るところもあると思うんですけれども、服とか着てますしね。
これを減らせば減らすほど、何とかしてくれる自分というのが自然と上がってくるんですね。
だから僕はこの逆をやる時は慎重にやろうなというのはあるんです、自分に対してですね。
自分はそうでなくても今まで守りに守ってきたので、守りに守ってくるところが自分を弱らせていってしまうので、
思いっきり晒すってことはないんですけれども、別にそんなことする必要はないんで、
自分のためだけの情報っていうのはいらないなと。
そうするとメモってほとんどいらなくなるんですね。
だから今は楽なもんなんですよ。
ネタは際どいんですね。
ネタというのは今日もそうだったんですけど、眺めていてどれも喋る気が全く起こらない。
これがですね、私はすごく今ここってことと関係が自分の場合はあるなと思うんですよ。
文章を書くときも同じで、今までもずっとそうだったんですね。
グッドバイブスとか何にも関係ない頃から、タスク集とすら知らなかった頃からそうだったんですね。
文章というのは書くときに思い浮かぶことを書くしかなくて、
ネタについて書いているときはつまらないことが多いんですよね。
たまにものすごくいいネタの場合は別なんで、そこがちょっと難しくなるんですけれども、
だいたいにおいて95%は意味のないネタなんですよ。
これを使い切ろうっていう発想もあるんですけど、
私には到底そういう気持ちになることすらなかなかなくて、
使い切るなんてとんでもないなって感じなんですね。
昔なんですけど、私の大学時代の先生が教えてくれたことがあって、
すさきくん文章を書くときは具体例を面白いの持ってくるけど、
面白い具体例を生かそうと思って書いたらダメですよって言われたことがあったんですよ。
それが大きなヒントになっていて、
面白いネタだからと言って使おうと思うのはやめようと。
そうすると取っておく意味ってすでに7割限ぐらいになっちゃうわけですね。
もったいないから取っておくっていうことはするんだけど、
見返すってことはほぼしないなっていうのが現実で、
そうするとネタ帳って何のためにあるんだろうというふうに今はなっていて、
今日もそういう感じでよく5分喋れているようなところなんですね。
ネタ帳はさっき見てたんですけど、どれも喋る気しないですよね。
これがやっぱり今ここってことなんだろうなと。
いわく説明しがないんですよ。
昨日の段階では使う機能あったものなので、
昨日と今日って何が違うのかっていうと天気が違うという程度なんだけど、
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天気はこのネタとは何の関係もないんですね。
喋れば喋ったね、それは多分聞いている人によっては良かったということになるんですよ。
そこもあれなんですけれども、
喋る方の気運っていうのが私にとっては非常に重要なんですね。
はっきり言ってこのグッドモーニングバイブスなんて気運だけで喋ってるんで、
グッドバイブスにちゃんと沿っていないことなんていっぱいあります。
そういうことを多くの方、多分非常に恐怖するんだと思うんですけど、
これはですね、それこそ現実ならなんとかなるものなんですよ。
ダメであればクラザの計算さんが何か言ってくるはずであって、
そしたら何なら決して取り消せばいいわけですね。
だからそう思ってやっている限り、
気運さえ成立していれば後はどうでもなるという風にして喋っているわけです。
そういうところからですね、いろんなことを考えるんですが、
今一番私が気にしていてというか気になるのがですね、
やっぱり1日だけでも負の意味付けって言うべきなんでしょうね。
私はパラレルワールドってよく言いたくなるんですが、
これが前の誰かとお話ししていたときに、
通らなかったというか、なんとなくしっくりこられなかったので、
違う言い回しを探しているんですけど、
要するに負の意味付けと同じだな、
一切やめるっていうことを1日だけでもやってみるといいと思うんですね。
私は分岐点って考え方がほんとないと思うんですよ。
なぜ何かを持って分岐点と考えるのかっていうのが本当に理解に苦しいんですね。
パラレルワールドのお話がありますよね。
私も好きなんですよ、三部慶さん。
今売れている漫画家さんですけど、パラレルワールドのものなんですよね。
分岐点って絶対事件について分岐するじゃないですか。
あそこでこうしておけば母は殺されなかったみたいなやつですよね。
そりゃそういう考え方を記憶を持っている人間は、
記憶は物語ですけれども、作れますが、
現実にそんなことが起こり得るわけがないですよね。
私、シュレディンガの猫をこの辺で持ち出す人がいるんですけど、
あれは両尻秘学についての少なくとも一種の物語であって、
両尻秘学というのはああいうものではないと思うんですね。
両尻秘学というのはそもそも物質以前の大きさについてに近いレベルの話だと思うので、
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物質世界について相対論をすっ飛ばしてしゃべるというのは無理があるとはなはな思うんですよ。
だからあれは考慮しないことに今はしているんですけれども、
仮にああいう話があるにしても、私たちはパラレルワールドに行けるわけではないので、
本当のところ同じことだと思うんですよね。
パラレルワールドと私が思うのは、
コンマ5秒でもダメだと思うんですよ。
コンマ5秒でも後悔は成立するはずがないと思うんですね。
ましてすれば1年とか1週とかは成立するはずがないと思います。
だから僕はレビューというのは改善のためにはほぼ役に立たないと思うんです。
解像度を上げてしまったら何の役にも立たなくなるので、
やむを得ず解像度を下げるしかないんですよね。
そうするとできる手当てというのはあくまでも粗雑なものについての話であって、
質が高くなれば高くなるほど、改善では通らないだろうというふうに思います。
一番そのことを考えさせられるのは、私のケースで言えばですけど、
私はネバダに行っちゃったんですね。
リノという町。ネバダの州都はリノというところなんですよ。
ラスベガスが有名ですが、ラスベガスは州都ではない。
リノという割と小さな町が、日本人の標準からすればはなはな小さな町が州都なんです。
そのリノ港というネバダ州立大のリノ港に行ってしまったのは私の留学の最大のミスで、
ここに行かなければって思わないではないんですけど、
これを言われるんですよね。
これが私のパラレルワールドってものだと思うんですよ。
例えば、家の奥さんにまで言われるんですよ。
ちゃんと州立大に行って取っとけばよかったのに。
私はあのセリフが全く意味をなさないというか、
夫婦間での対応もないやりとりと考えておけばいいんですが、
ということは奥さんはそこにいないはずなんですよ。
私がネバダ州立大でドクターコースを取っていれば、
ドクターコースを取っていれば、大橋さんと会ってはいないはずですし、
倉園さんとも会ってないでしょうし、もちろんうちの夫さんとも会っておらず、
うちの子もいないんですよ。
こういうことを全部すっ飛ばして、
ドクターを持っているので私だけがここにいるって考えるのは、
ナンセンスの極みなんですね。
私は帰ってくる気がなかったんですから、アメリカにいた時は。
ドクターを取っていれば、あれから多分10年は間違いなくかかっているので、
今もアメリカにいるはずなんですよね。間違いなく。
今日本にいるなどということはあり得ない。
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もしこの家を買っているとかとんでもないですよ。
お金も全部留学に過ぎ込んでいるはずですから。
来学とかやっている数もないので、
したがってこういうふうになっていないんですよね。
この条件は全て取っている上で、備えている上で、
ドクターだけ持っているということはあり得ないんですよね。
見えないんですよね。
という話をするとみんな不機嫌になるんですよ。
私はこれが分からないんですよね。
私はこの感覚ってエリプスと似ていると思うんですね。
お母さんとしちゃうと。
なんでいけないか。
それは自己否定だからだと思うんですよ。
お母さんから生まれてきたわけじゃないですか。
つまりお母さんは別の男のものなんですよね。
ここを取ってしまうということは、
自分が生まれてくること自体を否定するということになっちゃう。
こういうふうに、
家にあるリソースを奪い合う格好を取ったらまずいということが、
人類にとってはエリプスになったと思うんですよ。
結局、食べ物を取りに行きたければ外へ行きなさい。
異性が欲しければ外へ行きなさい。
リソースが必要なら外に探しに行きなさい。
外に探しに行きなさいと。
内側で取り合っているとみんな死んじゃいますからっていう。
自分が生まれてきたことを否定することになるよっていう。
そういうことなんだと思うんですね。
近親相関に対するタブーっていうのは。
フロイトに言わせればタブーがあるところには欲望があって、
それも個々人ではなくて集団の欲望がタブーのあるところには必ずある。
そういうことになるんですよね。
この橋渡るべからずって書いてあったらみんなそこを渡りたいという訳があるわけですよ。
何が渡っていったかは忘れましたけれども、あるんですよ。
我が国の割と近くには北朝鮮から中国へ渡る川ですよね。
ここを3回渡り損ねるところを見つかったら公開処刑になるわけです。
公開処刑になるらしいんですよ。
ということはみんな渡りたいということじゃないですか。
タブーっていうのはそういう風になっているものであって、
今タブーの話をしているわけではないんですけど、
結局自分らが考えるときに、タブーについて考えるときって必ずタブーだけじゃないんですけれども、
現実を貶める感じってあるじゃないですか。
そっちに向かうということは、つまりこの現実を打ち消したいと。
私で言えばですね、ドクターを持っていない自分を打ち消したいわけですよね。
私がじゃないんですけれどもね。
母がとかなんですよ。
私、母とこの話をすると、今はそうならないですけど喧嘩になっていたんですよね。
結局あんなに金かけたのに州立大に行ってドクターを持って行って、
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ドクターを取っていたらここにいないからっていう話が通らないんですよね。
絶対これは間違いないことだと思うんですよ。
ドクターを取っていたら。
だって現に私が先日にお話ししましたけれども、
アメリカにいるマリコさん。
未だにアメリカにいるわけですよ。
これはドクターを取ったからなんですよね。
帰る予定があって、
ドクターを取ったからなんですよね。
帰る予定だったんですよ。
彼女によれば帰る予定だったと。
全て計画通りに行けば日本に戻って何かやってるはずだったけど、一切やってないわけですよね。
そうなるしかないはずなんですよ。
これをやってしまったら。
この僕は一つのタブーがあって、
ここにはやり直せないというタブー。
やり直せないということがタブーだということは、
やり直したいということなんだと思うんですけど。
やり直すというのはあれです。
何かのミスを修正するとかそういう話ではないです。
あくまでも時間を巻き戻せないという話であって、
このことがですね、
起きたことは全部正しいことにするべきだし、
起きたことは全部カジマックスだと思うべきだと思っているわけです。
なぜなら起きているから。
非常にうまく説明できないんですけど、
この大掛かりな今の寝放し売り台みたいな話になれば、
巻き戻すのがタブーである話もそうだし、
パラレルワールドというものになってくるんだけど、
1秒間とか1分間とか昨日の話だと、
そうは誰も思わないじゃないですか。
でも私にはそう見えるんですよ。
多分タスクシュートの影響もあると思うんですね。
一直線に進むわけじゃないんですけど、時間というのは決して。
でもタスクシュート的に自分が取った行動を
記録して記録して記録していくと一直線に進んでいるように見える。
絶対に元には戻らないわけですよね。
これをどこかで誤魔化し得るとみんな信じてるんだろうかって思うんですよ。
どこかでこれをこうしておけばああなったっていうのが
本当に起こり得るってどこかで思えないと思うんですよね。
どうやっても絶対に。
そうするとどういう親に育てられたのか、
今日雨が降ったからとか、
ああいう上司のいる会社だというのとかですね。
全部全肯定するしかなくないですかね。
全肯定するしかないと思うんですよね。
これについてケチをつけるということは
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現実よりいい何かが自分の脳内にあるって話になってしまって
その瞬間にそっちに報酬を感じた瞬間に
現実の価値を自分の目線の中だけでは下げるっていうことになって
こうして私たちは嫌な人生というものを選択する羽目になるんじゃないんだろうかと。
私は修正することが可能だとすると
この目線以外はありえないと思います。
この視線だけは修正が効く。
修正が効く、つまり現実を全肯定する視点に切り替えるということが
しかもそれは一瞬で実はできるんじゃないかと思うんですね。
パラレルワールドを一切認めなければいいだけのことだと思うんですよ。
こうしておけば自分は英語がベラベラな自分になっていたはずだとか
つまり今いる自分とは違う自分が今作り出されていた可能性があったと
数兆分の1ミリ程度も感じないようにするっていうことが
私が時々聞かれることに最近なってきた
価値マックスと感じる方法だと思うんですね。
そんな方法はないというか、価値マックスだと感じればそれでいいんですが
つまりこういう自分じゃない自分になる可能性は
本当に1ミクロン以下もないっていうことだと思うんですよね。
ドクターをとっている自分っていないんですよ。
いれば娘がいないんです。両立はしないんですよね、絶対に。
こういう話が徹底したリアリストだとか脱缶だと言われるのは
正直信頼だと思うんですよね。
なぜ一瞬たりとも違う自分になれた瞬間ってないはずなのに
なんでこれはそんなに出回ってるんだろうって思うんです。
あの時ちゃんと勉強していれば今頃こうなったってやつですけど
そういうことってなかったじゃないですか。
1秒たりともなかったはずなんですよ。
1秒前こうしていればすらダメだと思うんですよ。1秒前に戻れない。
そうすると1日前とか論外で、だから私は記録を見ることはありますけど
その記録を見ることによって何か改善案を出すということは
ここ10年間したことはないんですよ。
これを私がしていると信じられているというのもとても不思議なんですよね。
私これをしていますって言ったことは多分少なくともここ5年はないと思うんですし
そもそも5年も私が書いているものを毎日毎日すぐさに見てくださっている方なんていらっしゃらないじゃないですか。
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よっぽど好きだって方の中にはいるかもしれませんが、まあまあ普通いないじゃないですか。
だからなぜこれを記録を取っているという、ただそれだけの理由で改善しようとしているという風にも
身なし得るのかなと思わなくはないんですよね。
記録を取っていることと改善したいと思っていることは関係ないと思うんですよ。
関係づけることはできている。
関係づけることが難しくないというのもその通りですけど、でも関係ないと思うんですよね。
私は家計の記録も取っていますけど、それは何かの改善に生かそうと思ったことはないですね。
あくまでも何にいくら使ったかを後で見る必要がある時のために取っているのであって
改善しなければいけないと思っていませんから
お金がなくなったらわかりません、考えますけれども
現段階で改善しなければ、改善によって何かの事態を肯定させ得ると思っていないので
思っていないというか、そのような余地は別にないので
そういう意味なんですよね。お金がもっと欲しいという話は別ですよ。
そういうことは思います。本当はこれも何の意味もないんですけれども
なんで私はこのことにいちいちこだわるかというと
平行異世界がないということは、つまりこの世は絶対にベターにはならないということなんですよ。
ただ大きく問題になるのは意味付けですよね。意味付けだけはあるの?
意味付けはないんですけど、意味付けをしちゃってますよね。
つまり平行異世界があるというのと意味付けをするというのは多分同じ意味なんです。
ここだけが私は改善の余地があると思うんです。
さっきも目線だけは変えられると言ったんですけれども
つまり今日どんよりした天気だから頭が痛いとかって言うじゃないですか
どんよりに意味がついているはずなんですよね。悪いという。
何らかの意味でネガティブだと、負の意味付けなんですが
これを一切やめるということと、多分平行異世界を見ないということが全く同じだと思うんですよ。
つまり今日が晴れていたらと思うのが平行異世界を見ているということなんですよ。
この雨の中にいる自分と晴れている自分というものが両立しえるという雰囲気があるじゃないですか。
そこにはないですよね、絶対に。
雨の天気の下にいる以上、雨の天気の下にいるんですよ。
晴れの天気の下にいるということが同時に起こったらおかしいですよね。
ドクターを取った私と娘がいる私は両立絶対しないんですよ。
この絶対がすごく大事だと思うんですよね。
どこかでシュールとでも思っているような言動を平気で取っちゃうということは
何か違うものっていうものがあるんですよね。
平気で取っちゃうということは何か違うものっていうところに自分が言う。
しかも今の状況は一切失うことなしっていう、そういうことが感じられる。
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私はこのことをタスクシュートで本当に嫌になるぐらいしゃべってきては
夢のないリアリストって話になってるんですけど、
夢と言うんでしょうね、平行異世界については。
でもそれはやっぱり私からするとエリプスなんですよね。
お母さんと寝ちゃうみたいな話なんですよ。
これが気持ちが悪いと思うならば、
私は平行異世界も気持ちが悪いと思うべきだと思うんですね。
つまり自己否定につながっちゃうから。
問題なのは自己否定だけだと思うんです、はっきり言って。
自分を自分で否定しちゃう。
だってそうでない限り雨降っているところにいる自分全肯定したら
晴れているところにいる自分って
空想する必要すらなくなるんではないですか。
こういう両親のもとから生まれてこなければ
もっといい人生が送れたのにって考えることによって
自己否定してしまうではないですか。
こういう言い方は酷だという話になるんですよ、どうしても。
お前はどこ親に育てられればそうじゃない発想していたはずだと。
きっとそうだと思います。
でも私は違う親に育てられた可能性はゼロなんですよ。
そういうことについて仮定する意味すら僕は
あまりというか全くないと実際には思うんですね。
現実ってのはそんなに簡単に変更の効くものじゃなくて
もっと猛烈なものだという印象を持っています。
昨日の地震もそうだったじゃないですか、一昨日から。
猛烈でしたよね。現実って猛烈ですよね、圧倒的で。
空想とかも立ち打ちできる相手じゃないと思うんですよ。
太陽とかもそうですけど知れば知るほど凄まじいものじゃないですか。
太陽がもしもうちょっと違うものだったらとか
空想する価値も貝も意味も一切ないような気がするほど
圧倒的だと思うんですよね。
せいぜい私にできることは記録を残すことだって感じがあるんですよ。
あの太陽がもっと穏やかだったらなとかって思うことに
何の意味もないと思うんですね。
これはすっごい素朴なことですよね。
素朴な現実ですよね、そこに太陽があると。
あれはすごい光ってるみたいな。
ただそれだけのことでしかない。
そんな素朴なことですら私たちが何か別のものを空想する意味っていうのは
受け付けてくれないので、まして私の人生とか
天気とかそういう複雑なものについて
題外の何かを考える意味ってないと思うんですよ。
だからなんですよ。
だからこそ書いているということがすでに意味付けではあるんだけれども
書いたこと、私がタスクシュートとかに書いていることは絶対なんですよ。
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変更は効かないんですね。
この時何々をしていたらとかはあり得ないし
変わっちゃダメだし
あるべきでもないし
ほんのわずかの隙間もないみたいなところがあるんですね。
だからこそ、例えば休む話もそうですけど
ダラダラするとか、僕はあんまり好かないんですよ。
ダラダラは意味付けなので
もっと現実だけを描写しておいて
それは変更の余地はありませんよっていう風に書いておかないと
いけないんじゃないのかなというか
いけないってことはないけれど
なんとなくその効果が下がるんじゃないかなという感じを抱くんですね。
私だったら、例えばそのままなるべく書きますよ。
そういうことを、何を言わんとしているのかを
理解していただくためにえぐいことしか言いたくないんですけど
例えばですけど、西野翔さんという方がいるんですよ。
西野翔さんのなんとかという作品を
76分かけてこういう風に見たって書きます。
そういうのを表に出したことは確かにないです。
みんないい気持ちにならないだろうなと思ってますから。
でもそういう風に書きます。
だってそれが事実ですからね。
これをこうするべきだったとか
聞こえが悪いとか思うんですよ。
私だって思うんだけど
見せられないとか思うんですけど
本当はそれじゃいけないと思ってるんですよ。
本当はそのまんまの方がいいと思ってはいるんです。
価値の低い現実ってないと思うから。
価値の低い現実ってないはずなんですよね。
それこそさっきのもっと穏やかな太陽だったら
うんうんっていうのと全く変わらないと思うんですよね。
不毛な想像ですよね、それはきっと。
この時英語の勉強していたらとかって
空想をそこに当て込むのは
しょうがないとかじゃないんですよね。
多分なぜなのかは分かりませんけれども
自分がやったことの方が価値が高いんですよ。
圧倒的にしかも。
1万対0ぐらい。
0ですからね、空想というのも。
存在しなかったわけですから。
そういう空想をしたというふうに
記録してもいいと思うんですけれども
それだとそっくりにややこしくなって
わけわかんなくなってしまうので
ダスクシュートにはある程度物理的な現実と
伴った事実以外のことは書かないというルールに
私はしています。
何々を考えただけではダメってことですね。
こうしないとイリュージョンと現実を一切分ける
糸口を失ってしまうからって言えばいいんですかね。
ここでずっとやってきたけど
これにあと一押ししたのが
私の中ではウッドワイルスだったということですね。
空想の圭祖さんの本を読んで
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ここの一押しができたと。
以来もう本当にパラレルワールドから
離れられるようになった感じ。
これ以外の現実があり得たかもしれないのにと
かけらほども思わなくなることによって
疲れないんですよ。何よりも。
これもまた疲れないよりも
もう少しマシな形で消耗しないということですね。
最近もツイッターにMPっていうことを
書いていらっしゃる方がいたんですけど
MPは常にMAXなんですよ。
少しも減る可能性はない。
なぜなら、なんでだろう。
MPが減る。MPっていうのもないけど
MPが減るっていうのが一つの意味付けだから
だと思うんですよ。
今日もツイッターを見ていると
ちょっとしたことなんですよ。
ちょっとしたことでしかないんです。本当に。
低気圧が来ると頭痛がするみたいなね。
それがどうってことだとは思わないんですよ。
そこにネガティブな結末が
落ちがついちゃってるじゃないですか。
これが一日に一回だけやるとかなら
なんてことはないと思うんですよ。
でもこの思考を持つっていうことは
ずっと大体それをやるって感じなんですよね。
今日もこういう中で電車に乗らなきゃいけないし
マスクが気になるしみたいな話が
全てネガティブに落ちていくんですよ。
だと疲れると思うんですよね。
それはつまり晴れていれば頭痛はしなかったはずだし
上司がいなければもっと気分いいはずだし
そもそも仕事に行かなければもっと自由だし
このいちいち比較している平行異世界と
比較した上で今の現実はダメです。
今の現実はダメですっていう
そのダメな現実にずっと
それを自分の生活圏内にしなければならないじゃないですか。
僕はこれが消耗ってことなんだと思うんですよね。
これって一つ一つは何の関係もないですよね。
低気圧が来てるから上司が怒るわけじゃないし
上司が怒るからコロナが流行ってるわけじゃないし
つまり自分の身に降りかかってくるネガティブなことというのは
そのネガティブなことそれぞれは
何の因果関係も持ってないんですよね。
何で繋いでるかって自分で繋いでるわけですよ。
自分がこれをネガティブだと解釈し
自分がこれをネガティブと解釈し
自分の人生はいつもひどいことが起きるという
一連のストーリーが出来上がる
これをやりさえしなければ
多分雨が降っている、低気圧が来ている
低気圧も知らないと思うんですけどね私たちは。
上司が怒っている、コロナが流行ってる
全部別物として捉える限りですね
それがそんなにネガティブな意味ばかり持つはずないと思うんですよ。
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雨が全く降んなかったら非常に困ることになるし
コロナはちょっと一旦置いておくにしても
会社に行くということだって
仕事がなくて困っている人がこれほどいる中で仕事があるわけですから
ものすごく嫌な会社ということはあるかもしれませんけれども
ネガティブな意味以外は何もありえないということも多分ないと思うんですよ。
今のようにあえてポジティブに解釈する余地もあるって話もできるんですけど
やっぱり自分はですね、しないのが一番いいと思うんですよね。
意味をつけるということは絶対そこに平行異世界を見ている気がするんです。
これより良い世界ではこれより丸い世界に
他の条件を一切変えることなく自分はそっちにも入れたはずだっていう
入れないんですよね。入れなかったはずなんです。
もう別人になっているはずですよね。別の人は別の世界にいますよね、すでに。
だからそこに一緒に重なることもできないし
自分がここにいるということ以外の場所にいることもできないし
未来について何か空想するってことはもちろん
過去について空想するということは同様できるんですが
それをやってそっちに完美さだよな、やっぱり。
報酬系を感じるということは
やっぱり強烈に自己否定するということになる。
これが一つのタブーであるって感じが私はします。