00:05
おはようございます。 グッドモーニングボイスです。
1月の18日木曜日、午前7時35分朝ですね。 昨日とほぼ同じ。
で、いよいよ明後日ですね。 ここ1週間ぐらいはずっとこれしか言ってなかった気がしますが、
東京来発研休会が明後日ありますので、16時からですね。
新宿でやりますが、オンラインでもご参加いただけて、動画を購入いただいてご視聴いただくことも可能です。
同じくですね、ほぼ同じなんだけどリアルの方がないという設定で、
1月28日日曜日のこちら15時から、ラゾの圭蔵さんとオッドワイブス×タスクシュートの第3弾、負のループから抜け出すと。
この場合の負のループっていうのはあくまでも例えばなんですけど、
例えば朝起きるのがものすごく大変だと。 昨日も似たような話しましたけど、朝起きるのが大変なのに、
夜になるとサッサッとは寝られずにグズグズしてしまって、しかも寝つきも良くなくて、
つまり眠いのにこれは寝つきが良くないって話になってるわけですよ。
だから睡眠時間が短くなって朝起きるのが辛いというこのループがですね、
その中で頭がぼーっとしてるから途中で仕事に集中できないとか、
休日になってもどこかに遊びにも行ったりできないとか、そういった話がここに組み込まれてくるというループ。
この話という課題をメインテーマにして、1月28日、倉園圭三さんとお伝えするというものがありますので、
ちらほらと仕込みいただいてますけれども、こちらも合わせてチェックしていただくとありがたいです。
しゃべってて思ったんですけど、この種のものをタスクシュートで何とかしようという話はよく出てきます。
それは私はですね、結局これも同じような話になってしまうんですけどね、
多分イメージしやすくていいと思うんですよ。朝から夜に記録を残していくと。
そしてその記録を残していくとこういうループ化の原因と結果が見えてくるから、
その原因を取り除こうと、つまりもっと仕事に集中して、夜はさっと寝ればいいと。
確かにその通りなんですが、僕の場合やっぱりここにですね、当然一つ自然の疑問が湧くわけです。
03:09
僕にとっての自然のって、湧かない人は湧かないんでしょうけどね。
そもそも眠いのに寝られないのはどうしてかっていう話もあるし、
夜、いろんなことをしたくなるのは何故なのかっていう話。
これがですね、簡単に片付けてもいいし、ここに集中的に検討事項を用意してもいいんじゃないかと思うんですね。
僕はここに集中的にかなり検討事項を持ってきがちな人なんですね。
つまりそもそも夜、何でそんなにいろんなことをしたくなるのかという話を詰めていきたい。
これは全然自明ではないですからね。
そして誰にでもそうだというのも当てはまらない。
僕全く違いますからね。
夜に何かをしたいと思うことはほとんど全く何もなくて、即寝てしまいますね。
で、この即寝るというのは選択肢として無理はないと思うんですよ。
寝るだけですからね。
これができないという人は、眠れないのは別ですよ。
布団に入って何もしないってことはできますよ。
ところがこれができないわけじゃないですか。
これができないのは、つまり能力の問題では断じてないと思うんですよ。
布団に入って眠ると。
眠れなくてもとにかく目は閉じて、暗くして布団にいると。
これができないというのは、僕は能力の問題では断じてないと思うんですよ。
やる気の問題とも全く違うと思うんですよ。
これをやる気の問題だって考える人はいないと思うんですね。
でもこれができない。
眠れないかもしれないが、とにかく布団にじっとしている。
これができないというのはですね、何かあるんだと思うんですよね。
そこには僕は心理的な理由以外はちょっと考えにくいなと。
まれに身体的理由というのがそこにあるかもしれないけど、
この2つですら境界線はこうなってくると曖昧だろうなという感じがするんですね。
眠れないというのはそこに入ってきますけれども、
明らかにそれは少なくとも全く心理的な理由をそこに見ないってことは、
むしろ難しいんじゃないかと思うわけです。
これはタスクシュートをつけてみるだけでも、
もう1つ解決しにくい問題だと思うんですよ。
というのはタスクシュートを見れば朝早く起きていて、
今眠いはずだぐらいのことしかわかんないと思うんですよね。
それを見たところで、今眠くないとか寝たくない理由というのは出てこないし、
06:00
もっとなんなら、昼寝を途中でしてて眠れないとかは別なんですけどね。
この話はそういう話ではないんですよ。
眠れなくても構わないわけだから。
ここでですね、非常に簡単なようで全然簡単じゃない、
簡単なはずなんだけど簡単じゃない話が出てくる。
これは私は物思いというふうに最近考えるように、
考えるというかこれもビオンの用語なんですけど出てきてるなぁと思うんですよね。
この話も昨日のミニコットで説明してもいい気もするんですけどね。
ミニコットだったらきっとこう、
なぜ赤ちゃんはお母さんと一緒にいるときはじっとしていられるのに、
そうでないときは無理なのかみたいなのをきっと持ち出してくる。
これはそういう話でもあるというか、こういうそういう話なんだと思いますけど。
僕は逆の側のことを考えたいんですよね。
お母さんはどうなのかと。
お母さんがですね、昨日近くの、我が家からほど近くの平塚と、
平塚だったか地名はいいんですけれども、ほど近くのところでですね、
小学生の男の子を育児放棄したという過度で事件になっていたわけですよ。
小学生なんだけどもお母さん帰ってこないから、
その間に電気も止められてしまって、
そのお母さんは男の人のところに行っちゃってたんだけど、
やっぱこれをですね、考えずにはいられないなって思うんですよ。
この人ってじっとしていられないことと何の関係があるのかと思うんですけど、
そのお母さんは育児に向き合うのが辛くなったみたいな話をされていて、
大概の人はそれとは納得はしませんわね。
それでお前男のところ行ってるのかってことになるんだけど、
僕はいやいや、それはもう行きたくもなるだろうなとも思うんだけど、
そこで3つ、少なくとも3つ考えるべきことがあると思うんですよね。
1つはなんでお父さんがいないのか。
これがよくジェンダー等でも指摘されるポイントですよね。
どうしてここでお母さんだけ逮捕されなきゃならないのっていう話ね。
この人は2人で暮らしてたんですけども、
明らかにそこにはちょっと理不尽な、いやかなり理不尽なものはありますよね。
でも必然的にこうなっちゃうんですよね。
普通に考えれば、日本の現在の刑法で考えても、
おそらく世論的に考えてもそういうことになるでしょう。
ここでお父さんを見つけ出してきて、引っ張り出してきて、
刑事裁判するっていうふうにはなかなかなりにくいだろうなっていうのがありますよね。
それはそういう方面の方向で考える必要があるとして、
この番組ではこの話をメインでは私は考えない。
2つ目が問題で、その女の人は男の人のところに行ったわけですが、
09:02
当然セックスもしてると思うんですけれども、
それって男なのかなっていうこれですね。
今回は男だったんでしょうね。
でもそれは、その女性にとっては、
私はそれはストレートなんだから、
当然男のところだっていうふうに感じるかもしれないけど、
僕はそこはですね、ほぼそうは思わない。
これはお母さんのところに行きたかったんじゃないかなっていうのは、
どうしても頭をよぎりますね。
男などというのは、その場に父親がいなかったのを見てわかる通り、
この場合男などというのはですね、何かの役には立たないと。
立たないからこそ結局このお母さんは、
その男の人に何とかしてもらうことはできなかったわけじゃないですか。
ここであれですよ、僕の中では。
頭ではわかってるという、
今回トラ県東京ライフ研究会でもキーワードにしたい言葉が出てくるわけですよ。
頭ではわかっていても、
頭では育児に向き合わなきゃなんなくて、
どんなに大変だろうと自分で育てなければならなくてってことがわかっていても、
もうできないっていうふうになる。
で、向き合うのが辛くて男のところに行くっていうのはですね、
これは情緒的な動きですよ。間違いなく。
何をしたいのかというと、僕はこれは性欲では断じてないと思うんですよね。
性欲ゆえに育児放棄してどっか行っちゃったっていうふうには信じられない。
それだったら他の方法で満足させることができ、
おそらくそんなに時間を空けることなく帰ってくることができると思うんですよ。
これは情緒的な不充足感がそこにあったはずだ。
絶対そうだと思うんですね、僕は。
これはつまり小さな子供がお母さんとあんまり離れているのが寂しくて、
そこのところに行っちゃうっていう話に感じられて仕方がないんですよ。
この番組でも先日お伝えした、中年の女の人が施設でですね、玄関の前で待ってる。
どうしてるんですかって聞くと、お母さんを待ってるのと答える。
これはそういう施設の話で実によく聞くんですよ。
読むケースもあれば、アメリカでもこういう話は私は現実に見たことも実はあるんですよ。
これは情緒的なものですよね。
これを性欲だっていう人は多分今時いないと思うんですよね。
僕これとそう違わないんじゃないのかっていうふうに考えたくなるんですよ。
今回震災が正月からありましたけれども、これ実は前例があったんですけれども、
12:00
今中学生のお子さんたちが2ヶ月ほど合宿するというので、
これは大変だっていう話になって話題になってますけれども、
こういうのの大変さっていうのがね、やっぱり私たちは中学生ともなれば幼稚園児ではないわけですよ。
大人ではないわけですね。
この辺に昨日お話しした移行対象というか移行空間というか、移行ですよね。
結局のところ子宮じゃないですよね、中学生なんだから。
しかし親元にいるとこういう時に聞き離されるっていうのは、
いやこれは大変だよなということでテレビで盛んに報道するっていうのを見てもわかるようにですね、
私たちはああいう時に環境としての母親っていうものを切実に必要としているっていうのに気づくんですよ。
この中学生のお子さんたちは切実に必要としていると、環境としての母親をね。
だからその環境としての母親はいなくはならないんですよ。
行った先には合宿所があり、面倒を見る面倒つまりケアする親大人たちもいて、
家で建物もあるんですよ。
いきなり寒風ひすさぶですね。
ところに子供だけで置き去りにされるわけではないわけじゃないですか。
環境としての母親というのはちゃんといるんだけど、移行されてしまうんですよね。
同じものではない、同じ空間ではない、同じ大人でもない、親じゃないからね。
かなり過酷ですよね。
私が思うにですね、一方でこうなってくれば当然ですけれども、
社会はなかなか手厚い、もっと手厚くできないかって考える。
中学生のお子さんたちがもっと心が止まないようにできないかと考える。
これに至って健全だと思うんですよね。
どうして子供を置き去りにした、そして男のところに行っちゃったっていうお母さんには
そういう観点が見られないのかなっていうのが気になるんですね。
彼女も同じなんではないんだろうかって思うんですよ。
要するに環境としての母親が機能不全なんですよ、そのお母さんにとってね。
そのお母さんが環境としての母親として子供に向き合わなきゃならない。
向き合い続けているうちに、自分のお母さんはどこにいるんだっていう心理になっちゃうわけですよね。
なっちゃうから、自分のお母さんを探しに肌が合わせられる人のところに行くわけじゃないですか。
その人は情緒的には何かしらのものを与えてくれるんでしょう。
けれども、情緒的にしか与えてくれないから、結局子育てのプラスにはならないわけですよ。
なんで今こういう話になってるかというと、つまりですね、これを表現する言葉はなかなかないんですよね。
環境としての母親が機能不全になると言いましたね。
15:01
ウィニコットは、親衆が生じる。
親衆が生じるというのは要するに、現実が過酷すぎてトラウマになるってことなんですよ。
中学生が親元を離れて2ヶ月もですね、学校の先生が親代わりになって怪しい集団生活を唐突に始めるというのは、
やっぱり環境としての母親の、それでも機能するっていう子が少なからずいるところがすごい偉いところなんですけど、
それでは機能しなくなって、例えば昨日あるそういう経験を持っている校長先生が、
物を食べられなくなる子が幾人か出たみたいな話をしているんだけど、そういうことが起こるわけですね。
ただこれは前例があって、さっき前例って言いながら言いませんでしたけど、
大島、伊豆大島でですね、確か噴火があった時に避難する、この時に同じようなことをやったんですね。
ただあの時は、子供が選別きっちりされてなくて、結構幼い子も同じようにやっちゃって、
だから多分やや問題を招いたんだと思う。急にそんなことできないですよね。
これと僕は同じようなことが、うちの近くの子供を置き去りにして、
置き去りにされた子は電気も通らなくなったから大変なことになったんで、
お隣さんのピンポンをガンガン鳴らして、何とか助けを求めた。
それができる子供で良かったですよね、年齢的に考えてもね。
これがもうちょっと、もしいってないと、はるかに難しい、はるかに大変なことになりかねないので、
そうすると置いてった人にとっての事態の衝撃もでかくなっちゃうわけですよ。
で、これって結局、私はやっぱりね、能力の問題ではないと思うんですよね。
そのお母さんだって小学校3年まで育ててるわけですからね。
なんだかんだ言っても、能力の問題、スキルの問題にこれはできない気がするんですよ。
やっぱり情緒の問題っていうふうに、心の問題っていうふうに捉えるよりもないと思うんですよね。
ここでぜひ欲しいのが相談相手じゃないですか。
これが、なんで私たちのこれだけ進歩した社会で、なんでここが空白になっちゃうのかなと。
多分このお母さんはですね、確実に相談相手がいなかったというふうには考えにくいと思うんですよね。
多分、だって小学校3年までとなりますと予防接種も何回も打ってますし、お子さん病気になるでしょう。
全部スルーするっていうケースはほんのないと思うんですよね。
学校にも行かせてるわけだから。つまり、相談してきたわけですよ。
学校の先生なり、病院の先生なり、先生と呼ばれている人たちにおよそ相当数交渉してきたわけですね。
なのに、自分の心のケアの相談となった瞬間に、男になっちゃうわけですよ。
18:05
名前がないよ。これは何なんだ。この人は多分絶対先生役としては十分だったと思うんですよね。
どういう人かわかりませんけどね。
だから、このことを考えてみるとですね、この人にとっての相談役というものがいてしかるべきだって私は思うんですよ。
ここにお金を投入するという観点が当然あって当たり前だっていう感じもするんですよね。
現在の震災になったときに中学生だけ親元から離れて面倒を見るというのは今回がかなり新しい試みだからまだわかりませんけど、でも予算はつくわけじゃないですか。
そしてそこにおそらくそれができるであろう人材も集められているわけですよ。
つまりそういうことは必要だということは我々は知ってるわけですよ。
同じだと僕は思うんですけどね、完全に。
そういうふうになって考えてみると、つまり何がいけないかというか、必要かというとですね、
自分で環境としての母親というものが機能を果たして離さなくなったならば、つまり我々が家にじっとしていられる、
いるのは辛いような、いるのが辛くなくなるためには、環境としての母親というものを自分の心の中で認識できるように持っていかなきゃならないんですよ。
持っていかなきゃならないと僕は思うんですよ。
だからそれがいなくなるとその人の行動は奇妙なものになってしまうと思うんですね。
例えばひたすら女の人を追っかけて付け回す人みたいになっちゃうわけですよ。
これは僕、男女ともあり得ることだと思うんですね。
で、それを寂しいとか物足りないという表現をするんだけど、つまり一番最初の話にところに戻るんですね。
夜、布団の中でじっとしていられないんですよ。
いるのが辛い。
いるのは辛いというのはそういう本だと私は思う。
で、いるのが辛い。
いるのは辛くないですよね。
いるのに技術はいらない。
能力もいらないですよ。
なんならば幼児、幼児でもやれます。
乳児だってできる。
ただし条件が母親が一緒だと信じてないとダメってことです。
これは私は一生変わらない。
ウィニコットに習えば一生変わらないと思うんですよね。
で、その時に母親、特に母親役に登場するのが物思いにふけるやつなんですよ。
だから物思いにふけることができる人は、
環境としての母親の機能を果たすことができると私は思うんですね。
そして物思いにふけることができる人は、
21:00
夜、暗い中で、布団の中でじっとしていられるんですよ。
その時、やってることがつまり物思いにふけているわけですよ。
この時間をですね、なくしちゃダメだと思うんですよね。
こういう話をちょっと昨日したんですけどね、ある人とね。
なくしちゃダメだと思うんですよ。
この時間をタスクシュートを見てなくそうって考えることほど、
リスキーなことはないと思うんですよね。
わざわざ自分で自分の環境としての母親を破壊するというか、
消失させにかかっているようなもんだと思うんですよ。
せっかく自分の心の中で母親が機能しようとしているところを、
一切一切ダメにする。
そうすることで起こるのは、何であるかは知りませんけれども、
まあいいことは一つも起きないだろうなと。
例えば不眠になるとか、いろんなことが起きると思うんですね。
その時私たちは、今みたいな言葉の使い方は決してしないと思うんです。
物思いという言葉は出てこないでしょうし、
環境としての母親という言葉も出てこないでしょう。
おそらくは、例えば時間がもったいないとかいう言葉が出てくるでしょう。
昔私はこの種の物思いに相当する言葉をアイドリングと称していたんですけど、
これをある意味では、取り消してごめんねっていうために、
この番組で喋っていると。
書くってことになってくると、また一つあるんでね。
本に書いてあることなんで。
アイドリングというのは、これを聞いている人は読み解いてほしいんですよね。
物思いに受けている。
この時間を極力大事にしましょうね。
なぜなら、母親は物思いにふけるからなんですよ。
これができなかったからこそ、
うちの近くで起きた事件のような事件が、
これはたまたまうちの近くだったけど、
こういう事件は必ず一定程度起きちゃうんですよ。
なぜなら物思いにふけるのは辛いからなんですよ。
物思いにふけていられなくなるから、
代わりに物思いにふけてくれる人を探しに行くんですよ。
それが異性であるケースが非常に多い。
私たちの人間という生き物のある程度傾向として、
この物思いに代わりにふけている人を探しに行ってしまうわけです。
私はそれは、物思いに代わりにふけてくれる人は絶対必要だと思うんですね。
それが相談する相手なんですよ。
それが相人であっちゃダメだってことなんです。
なぜなら事件になってしまう可能性がおそらく相当高いのと、
おそらく相人は多くの場合、物思いに代わりにふけてはくれないから。
物思いに代わりにふけてくれる能力がある相人だったら、
それは相当ラッキーだと思いますね。
非常にその可能性は低いと私は思います。
24:00
大概の人は、そんな時間はもったいないってみんな思ってます。
そういう意味では、相人はライフハッカーであってしまって、
ライフハッカーだって言いたいわけじゃないですよ。
発想がライフハック的な人がおそらく多いだろうと。
時間は暇なんだと思うんですけれども、そんな時間はないって思っちゃうんですよ。
物思いにふけるというのは難しいんです。
そして、ここが僕はおかしいと思ってるんですけど、
物思いにふける時間を、僕らの社会は大事にしないという方向性を持ってるんですよ。
でも、これが大事だってことは分かってるんですよ、おそらく。
世の中の多くの人は。
ただ、なんとなく社会全体としては、この種の時間はいらないっていう風に考えてしまっているんですね。
このリスクを、僕らはですね、おそらく相当数抱えていると思います。
精神分析というのは、物思いにふけてくれる人のことです。
精神分析家というのは、それができるはずの人たちなんですよ。
フィオンは極めて孔明な精神分析家ですけど、
彼は物思いにやるっていうことを、はっきりと言葉に直した、
多分最初の人なんじゃないかと思うんですよね。
みんなやってたと思うんですね。
これ私はですね、書き上げ塾で村田の圭三さんがやってるのを見て、
これはもう本当にこういう人でないとできないからなっていう、
でもそうであってはいけないんですよ。
書き上げ塾の時はいいんですよ。
しかし、文章を書くときに物思いにふけることができるという人は、
ごく限られています。
それはしょうがない。
これはプロフェッショナルのスキルの一種です。
だから私は、ある方がですね、これも三ヶ月チャレンジにも参加された方で、
倉園さんの書き上げ塾は違ったかな、文書教室みたいなのには参加された方で、
倉園さんが文書構成で赤入れするときに、
結構スイスイはやってないのを見てほっとして、
それでこういうことをしなきゃいけないんだというのがよくわかるようになりました。
これは私はすごい大事な話だと毎回思い出してるんですよ、書き上げ塾が。
最近はライブで赤入れしている様子を我々も目の当たりにするっていう時間が追加されてるんですね。
いろんなことを試してるわけですよ。
倉園さんが腕を組んで思い悩むっていうのかな、一般的に。
だから物思いにふけるってなかなか言わないんですよね。
思い悩む、つまり構成はできるんですよ、当然。
できるんだけど、こう構成していいのかっていう、そういう風になる。
で、これが物思いにふけるに近い、同じじゃないと思うんだけど、
でも同じだと言ってしまってもいいかなって気もしますね。
とにかくこれができる人が、でも少ない。
多分直接向き合うことは意外無理なんで、非常に重荷になるんでやめちゃうでしょうね。
27:08
そして語字があるかないかだけをチェックして、
よっぽど文章が意味の通りが悪ければそこを修正するんでしょうけど、
それ以上のことはできないと思うんですよ。
つまりそこで放棄しちゃうんですね。
この放棄が、私は事件にされちゃたまったもんじゃないと思うんですね。
つらいですよ、物思いにふけるっていうのはね。
ただ我々はこの能力を持ってます。
これは暗闇で目を閉じてじっとしている能力です。
この能力さえあればいいんですよ。
だって考えてみても惜しいわけですね。
うちの近くであった事件、子供のそばにいてあげればいいわけじゃないですか。
黙ってじっとしているのがつらいからいなくなっちゃうわけじゃないですか。
でもそうしたら事件じゃないですか。
この物思いにふけるということはできるんですよ、誰でも。
誰でもできると思われているからこそ、そこを放棄してしまうことは罪だって言われてしまうわけですよ。
そしてそれは、いわゆるグッドワイブスでクラザの刑事さんがこの世に罪はないですっていう話では済まされなくなってしまって、
世の中の人が罪だ罪だ言うもんだから、罪だということにされてしまうわけですよ。
こういうのを含めてですね、この世に罪はないって言い切ることが、言ってあげることがそういう人には必要なことなんだけれども、
なかなかそういう話が聞く耳持ってくれる人はそんなに数多くはないですよね。
でも我々は実はそれを聞く耳持てるんですよ。
なぜならばこの話と中学生が引き離されるのは構造は全く違うし、起きている状況も事件もまるで違いますけど、
心の中で起きていることは同じですからね。
心の中では同じことが起きている。
つまり見捨てちゃダメですよっていうことですよ。
で、見捨てちゃダメなのは別に子供に限った話なんですよ。大人もだし文章もなんですよ。
だから文章を書いた人はあそこで適当に直されると見捨てられたことになるじゃないですか。
そうしないためにはそこでとことん責任を持ちますよっていう人がそこに一人現れるってすごいことなんですよ。
この文章をなんとかするよっていう話じゃないですか。
なんとかできなくなっちゃうからいなくなっちゃうじゃないですか。
なんとかするってのはどうすればいいのかの答えは出てないんです。
ここが非常に大事です。
僕らはこの答えを先に持とうとしたがるし、そういう答えが先にあるもんだと思ってるわけですがないんですよ。
ないからこそ、倉園さんぐらい編集長でずっと編集していて、
その能力も抜群だけど、やっぱり答えはないんですよ。
30:01
答えがあるんだったらその答えに沿って赤を入れればいいわけじゃないですか。
答えがないからこそ、そこで思い留まるというのか、そこで考える。
でもそれは放棄はしない、答えもない。
この構造は僕らの人生ではずっとつきまとうというか、常に人生ってそういうもんだと思うんですよね。
次にやることの正解はなく、放棄することもできない。
だからそれについて物思いに吹けるよりほか仕方がない。
これが育児には炙り出されてくるわけですね。
赤ちゃんが何を求めているのかはわからない。わからないんですよ。ぐずる。
だからそれに向き合わなければいけない。そしてそれは重苦しさがある。
だって答えがわかんないわけだから。
何個あげればいいのかと。最初は当たりをつけますが、泣く。
おむつを取り替えてあげても泣く。
寝かしつけようとすれば泣く。
で、お母さんはうーんとなるしかない。
あやすんは当然やりますよね。最初にやりますね。僕でもやります。あやされない。
で、うーんってなるわけですよ。
で、一緒にいるしかないですね。
一緒にいるしかないんだけど一緒にいたからといって、何か言っても言いなくても自分はいいような存在に思われてくるくらい
心が通じ合ってる感じはしないわけですね。コミュニケートは取れないと。
私もよく感じたんですよね。すごい孤独だなって感じがするんですよ。すごい不思議なもんです。
育児をやってて一番心理的に困るのはこの独特の孤独感なんですよ。
世の中から見捨てられてるんじゃないかって感じがするんですよ。
こんな全く無意なことをやってて。赤ちゃんは無意なことしかしませんし、自分もそれにつけてると完全に無意になっていくんですね。
そして優位ってものがこれほどもてはやされている世の中で、ここに無意な2匹。
私と彼女と2個が無意にポンとあって、自動とあるんですよね。
で、そのまま時間がだらーっと過ぎて、ダリは上手い表現をしたなと思います。
全然時間が動かない感じがするんですよ。
で、あれが非常に大事だと僕は思ったんですよ。感じだって言うんでしょうね。感じだとしか言いようがない。
これこそやっぱり必要なんですよ。
大体僕はそう思うんですけどね。
この番組でも皆さん聞き飽きてるとは思うんですけど、彼女というものが欲しかったって言ってたじゃないですか。
言ってるじゃないですか。
僕は結局何がしたかったんだろうなと思うと、一番関係性が良くなってくると、女の人といて何もしないんですよね。
33:03
2人で黙っているみたいな。あれが僕は一番良いと思うんですよね。
映画を見に行くだろう。何でもいいんですけど、何かをするってでもいいんですけど。
てか何かするに決まってるんですが、その分何かが不十分なものを埋めてる感じがしちゃうんですよね。
例えば不十分だから映画で埋めるとか、映画中会話しなくて済みますしね。
つまりこれって移行対象なんですよね。映画が移行対象になる。
この2人の関係は環境としての母親に2人で揃って包まれているのがベストだと思うんですよ。
だからやっぱり赤ちゃんとの自分の関係、これは親子関係ですからね。
自分が演出するんだけど、環境としての母親とは自分のことではないんですよね。
環境としての母親というのはその空間のことであって、家のことであったり、社会もそうなんですけれども、
この2人の責任を取れるような何かなんです。
もちろん親が温度取りをしているというか、プロデュースしている部分の大半は親に間違いはないんですけど、
親子揃ってあるべき環境、その背景には例えば病院とかもあるわけですよね。
当然インフラとかもあるわけですよ。
だけれどもそれらはインフラと病院だけでは成り立たないんですよ。
成り立つんだったらお母さんいなくなりませんよね。
やっぱりそこには情緒的な支援というものが欠かせない。
だから時々具体的に口頭で相談する相手も必要なんです。
でもその相手は多分話を聞いてあげるというのが機能の多くを占める。
だからここで傾聴というのが出てくる。
でもそれはただ話を聞いときゃいいって話ではないんですよ。
適切な解釈なり介入なりアドバイスなりがいるんですよ。
その適切なアドバイスなりが役に立つとは限らない。
じゃあね、かしつけつらいでしょうけど頑張ってくださいとか、
全然役に立たないじゃないですか。
でもこれがいるんですよ。
これがないからいなくなっちゃうわけですよ。
持ちこたえられなくなって。
つまり持ちこたえる人がどこかに必要だってことなんですよ。
そしてその持ちこたえる人というのは、
それは人格的にできてる人が多いんだけれども、
持ちこたえる人というのは絶対最終的には当人なんですよね。
相談や意見が本当の意味で持ちこたえてくれるわけではないわけです。
ただ持ちこたえるという能力をそこで、
みんな持ってますよというのを、
つまり大丈夫なんだよってことなんですよね、持ちこたえるってことは。
36:00
大丈夫だから持ちこたえられるわけじゃないですか。
もうそれは耐えられないことだったら、
たとえそれが罪だろうと何だろうと逃げ出しますよね、結局人は。
本当に絶対に耐えられないことであれば。
でもそうではないんですよ。持ちこたえられるんですよね。
持ちこたえ方さえ思い出させてもらえれば。
だから持ちこたえ方を思い出させてくれる人を必要とするんですよ、私たちは。
その持ちこたえさせてくれる人の、
誰かがその人の持ちこたえるっていうのをサポートしなきゃならないじゃないですか。
だからこれはピラミッドであっちゃダメなんです。
最終的に最もできた偉いブッダみたいな人がみんなの分を持ちこたえる。
今までずっと人類が持ってた宗教の形態なんだけど、
これだと一つにはレシ対シショウの数が1対数千みたいになってしまって、
いまいち末端の方では機能しなくなってくる気がするんですよね。
だからあれなんですよ、きっとイエス様はパンを5000人分分けるっていうような偶和が出てくるわけです。
これはそういう意味だと思うんですよ。
でもこれじゃダメだという気がする。
だってお亡くなりになりますからね。
結局持ちこたえるのは遠間系を持ってた方がいいと思うんです。
だからフロイトはそういうシステムを考案するにあたって、
訓練分析というものを考えたんだと思うんですよね。
持ち回りをするってことが意味があると思うんですよ。
もちろん先輩のほうが後輩のケアをするってことになるんだけど、
結局世代間的に言うと持ち回るんですよね。
そうしないと創始者がお亡くなりになった瞬間、
それ全部崩壊しちゃうんで困りますよね。
最近私そのことよく思うんですよね。
なんだかんだ言って今現在タスクシュートの認定トレーナー制度を持っているタスクシュート協会っていうのは、
最終的にはJ松崎さんのところに行く。
彼のケアをする人っていうのが本来いるだろう。
どっかでそれはなされていると僕は信じたいんですけど、
ドイツでって話ですよ。
奥さんかお父さんか知りませんが、とにかくそういうものがあるはずだ。
そうじゃないとみんなが彼によっかかっていくっていう構造になって、
多分彼の情緒が持ちこたえられなくなってしまう。
持ちこたえられない情緒が持ち回りされていくんですよ。
あるいは外に投げ出されるわけですよ。
だから最終的につらいっていうことになった時に、
どこかでその責任は放棄されることになるんだけど、
その放棄されるところにつかさず、
代わりに持ってくれる人っていうのが出てくるはずなんです。
そういうふうにできていると自分は思うんですよね。
だからこれを心の弱い人だけが相談役を必要とし、
心が自立している人はそんなものは必要なくて、
人の聞き役にだけなっていられるっていう構造ほど、
おかしな考え方はないと思うんですよね。
39:01
それはすっごいずれてると思うんですよ。
それだとやっぱりみんながイエス様の後ろを歩いていく世界になってしまうと思うんですね。
僕らの時代はそれよりはだいぶ先へ行ってるし、
その図じゃ無理だと思う。
だからやっぱり心理カウンセリングみたいなものがあるわけですよね。
これはある種の最終手段に近いんだけれども、
でもお寺に行くよりははるかに手前にあるものだとは思うんですよ。
これで物思いっていうものを僕は一応考えているんですけれども、
やっぱりその物思いの時間をどうやっていっぱい持てるようになるかというのが、
とりあえずの僕らの置かれている状況から割り出される一つのアレかなって思いますね。
で、自分一人で物思いにふけるっていうのではもう限界を迎えるっていうんであれば、
というか迎えるんでそういうことをやっちゃうと、
必ず人に物思いにふけてもらうっていう必要が出てくるはずだし、
やってもらっているはずなんですよね。
その辺りに私は環境としての母親っていうものが機能する、起動する何かかな。
すぐ起動できるんですけどね。
自分が物思いにふけて誰かのケアをしてあげればもうそれでこと足りるんですよ、本当はね。
人にやってもらうっていうのと自分がやるっていうのはこの場合同じ意味なので。
お母さんは赤ちゃんの前で物思いにふけているときに、
赤ちゃんの心理的な情緒的な満足を満たしてあげているんですけれども、
同時に赤ちゃんもお母さんの前で物思いにふけているはずなんですよ。
これを共有するっていうのが一番自然だし質なんだと思うんですよ。