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  2. 【668GMV】心の弱さと言われる..
2022-09-09 43:29

【668GMV】心の弱さと言われるものについて

自我心理学はわかりやすいけど
00:07
もはや、下で喋って取手出しというのも、基本形になりつつあるんです。
実は、下のパソコンがないわけではないので、これにマイクをつなげばいいだろうという話になるんだけど、
そこは寝室に1階でも近く、声が今寝ている人に悪影響を起こすだろう。
これが1つ。もう1つは、そこにマイクを設置しなおすというのは、相当手間で。
終わったら、2階にそのマイクを持っていって、また設置しなおさなければならなくて、それはなんてことはないんですけどね。
でも、そのマイクを常時使っているので、やたら動かしたくないというのがあります。
本当に高いものなので、いろいろな理由でやたら動かしたくないわけですね。
これが2つ目で。
もう1つ理由があって、そこでやるとなると、座るんですよ。
でも、僕はこれを立って録っているんですね。
何かね、立っていないと上手く喋れていないなというのが、ええと思われるかもしれないんですよね。
最初からずっと立って喋っちゃっているので、多分その癖なんですよね。
これはイリュージョンが大いにあるので、何とか頑張ればなんとかなると思うんですけど、
今ちょっと頑張るにはあまり体調も良くなくて、
体調が良くないときほど座りたそうなものですが、
体調が良くないときほどいつもと違った姿勢で同じことでいなくなる気がしますね。
これが3つ目ですね。
で、今はそういう状態です。
このすっごいいい気候じゃないですか。
ちょうどいいですよね。
クーラーになってもなんとかなるし、厚着しなくてもなんとかなるし、
この良い気候のときに私は決まって何か体調を崩しているような気がするんですよね。
多分これ夏が終わるからなんでしょうね。
いろいろと出てきます。
面倒くさいなという感じがちょっとあります。
こういう調子が悪くなってくると、
つくづく自分は理想と今はグッドワイブスと精神分析に頼っているなという感じがします。
ここをもうタスクシュートとライフハックで乗り切るなんてよく昔そんな風に考えていられたものだなと。
調子がいいときはですね、
割とフル稼働でどこも割とバリバリやっているんです。
調子が悪くなってくるとやっぱり活動はミニマムにしたくなるし、
甘えっていうのが大事なんだなっていうのを思い知るんですよ。
今日はその話をしたいと思うんですけど、
自力でやるっていうのは本当にダメで、
だけど世の中は本当にあまりにも自力フォーカスだなと。
03:03
しかも自力フォーカスっていうのは一つにアメリカ文化なんですよね。
今日はその話をしたいんだけど、
アメリカ文化だからアメリカ人であればまだ何かあるんだと思うんですよ。
自力でやっていく何かが。
だけどこれは日本人が言うと、
これはやっぱり甘えの文化です。
甘えの文化って言い方はめちゃくちゃ語弊がある。
世界中が甘えの文化なんて。
ただ、そうだよ。
世界中が甘えをベースにしてるんですよ。
つまりタイ人関係がベースにあるんだけど、
リターンセルとか、
表面的にちゃんと現れてきている。
頼ってるんだから表面的に現れてもいいわけなんだけど、
そこを隠す文化と表す文化とはある。
今ほぼ私は全部こうです。
自分の資格もなくやるっていうのが、
今後私のライフワークになっていくだろうと思っています。
資格がないから最強みたいな。
ちょっとあの、ずるいんですけどね。
こういうの全然、ゼルの世界で、
ゼル集のゼルの世界で、
宗教のゼルですけど、
夜行禅って言うんですよ。
私、禅宗の専門家では何でも何でもないので、
これすらも同じなんですけども、
多分これ夜行禅っていうのは、
こういうことを言うんですね。
野狐コンコンですよ。
野狐なんですよ。
勝手に自分で禅を学んでいる、
ダメな坊さんのことを言うんですよ。
この生き方で私、行こうって決めたんですよ。
この生き方で私、行こうって決めているんですよ。
夜行禅すげえいいじゃん、みたいな。
野の学者とかって言うじゃないですか。
あれも同じです。
戸畑海人さんが野の医者って書きまして、
あれがまさに夜行禅って言うのかと思いますね。
脱禅しているとキリがないので、
つまり、
しかもこの自律とか自立っていうので、
依存していないという誤解を自分にさせるという意味で、
極めてまずいところがあると思うんですね。
怖いんですよ、結局。
他人というものが。
だから、他人というものが怖いから、
自立したことにしちゃうんですね。
面白いなと思うんですけどね。
今日話しているのは、
つまりこれは自我心理学と言ってアメリカなんですよ。
創始者はフロイトの娘、アナフロイトさん。
彼女についてもそのうち、
徹底的に読んでいこうと思っているんですよ。
すごい変わった人だと思います。
アメリカは1900年、
精神分析ブームが、
今でもその要因ははっきりと残っていると思うんです。
日本よりは全然精神分析の発展度も、
06:02
機能しているレベルでも、
高く評価されているレベルでも、
その他の比較にならないレベルで、
精神分析最強に近いと思いますね。
だからそれへのアンチテーゼとして、
好きな行動科学から来る、
行動主義的なカウンセリングと、
あと認知療法、
ベック、アバベック、
エリスって人がいますね。
アバドエリスって言ったかな。
とにかくエリスって人が始めた認知療法。
認知療法は全然精神分析の一種じゃん、
みたいに僕なんか思っちゃうところも多々あるんですよ。
精神分析をわざと悪意にとって、
しかも精神分析はそういうダメなものだから、
認知療法は素晴らしいみたいに言ったり、
今すごい悪く言いましたけど、
すごい良い発想だと思うんだけど、
これはどこが一体全体精神分析に対する
アンチテーゼになっているのかと。
行動科学はまだあるんですけど、
いや、アンチテーゼになっているんですよ。
なってるんですけどね。
今これを長々と説明している。
気になれないので、
時間がないってことじゃないですよね。
そういうことをしたいと少しも思っていないので、
飛ばしますが、この二つが合体して、
認知行動療法というようなものになっていて、
これが精神分析に対する重要なアメリカの
カウンターアタックみたいなやつだと、
私は一応そんな風にも認識しています。
これが全部じゃないですけどね。
エリスとかジニスだったと思いますね。
エビ資料本の本とかではっきりと精神分析を
かなりケチョンケチョンに書いている部分があるので、
ある程度そういう文化的な流れにあるのは間違いない。
ただ、エリスが言っている精神分析というのは、
アンナフロイトの自我心理学の中心。
大好きでむやみに言っている、
メラニー・クラインを立派とする
ウィニコットのイギリス学科のほうでは
対照関係論というやつですけど、
そっちのほうはほとんど意識されている感じが
僕にはしません。
今、自我心理学が対照関係論を取り込みつつあるので、
だんだんこれが合流して
精神分析の重要なメインストリームは
そこになるんだろうなという感じが
なんとなくします。
わからないですね。
本当この世界は、
クラドーナーさんじゃないですけど
一寸先は止める。
何が起こるかわかったもんじゃないというのは
精神分析の世界のある意味すごい面白いところだと思う。
まあまあ、それはいいんですけど
最近自我心理学の本を読んでいるんですけど
そこ分かりやすい。
一つはやっぱり僕が
アメリカ文化というものの影響を多大に受けているから
分かりやすい。
もう一つは、やっぱり
アメリカですっごいガチッとやったから
ウィニコットとかは独立学派とか言っていて
独立学派というグループがあるんじゃなくて
メラニー・クラインに加盟されていく人たちを
09:01
加盟されたり
メラニー・クラインのグループに入っていない人たちが
イギリスにいて
それらの人たちは独立に動いている。
独立学派と呼ばれて
歴史の話になっちゃってますけど
非常にこう
体系が分かりやすく翻訳されている方が
バンバンあるかというと
そういうのがなくて
しかもウィニコットってすごい独特の人なので
分かりにくいんですよ。
それに比べると
自我心理学の方の話って
僕にはすごい取っ付きやすいなと思うんですね。
だったらそれでいいじゃんと思われると思うんですが
これがですね
意外に僕にとって分かりやすいんだけど
救いになっていないなって感じを抱かせるんです。
それにそういうのが最近とてもよく分かってきて
私もやっぱりアメリカ留学した人間だし
行った先のカンザスシティの
ごくごくありふれた
カトリックの
なんていうのかな
カトリックを養成する
クリスチャン系の大学だったんですよ。
こういうところでも割と正当派に
精神分析とかも
フロイトとかアメリカ万歳みたいな
そういう世界に乗って
今のはめちゃくちゃ端折って
超適当に喋りましたが
そういう世界だったかな
そっちから入ったんですね。
だいぶ分かりやすくて
すごいよく分かると思う。
僕はそれを何らかの意味で
セルフカウンセリングというのは
決していい意味じゃないと僕は思うんだけど
どういう意味で使えたかというと
全く使えなかったんですよ。
当時はなぜそうなったのかというと
私は認知行動療法とか
生理心理系のほうに
のめり込んでいくんですけど
しかもライフハックのところで
喋るとめちゃウケがいいという
そういう幸せな時代があったわけですよ。
でもある程度機能はするんだけど
それこそ全く
自我心理学的な機能なんですね。
どういうことかというと
自我心理学の考え方って
つまり自我っていうのは
私ですけど
ハック的じゃないですか。
現実に適応しなきゃいけないわけですよ。
でも現実とは過酷である。
こういうふうに解釈しているんですね。
私はこれを一つ
これは解釈だと思うんだけど
快楽原則と現実原則っていった時に
現実は過酷であると。
この過酷っていうニュアンスが
ミニコットという
心臭っていうのがあると
全然違うものを感じるんですよね。
過酷とか書いているかわからないですけど
どう考えるかそういう感じなんですよね。
現実は厳しいと。
だから現実に適応するために
私たちは防衛規制というのを使うんだと。
防衛規制っていうのは
倉園さんの言うところ
防御ですよ。防御。
恐れや不安があるわけです。
過酷だからね。
12:01
わかりやすいじゃないですか。この話。
朝会社に行く。
自転車に乗る。過酷だ。
つらい。
だから防衛規制を使って適応しましょう。
なんて言えばいいんですかね。
希望がないんですよ。
一見したところ以上に。
ひどく自立にこだわっているなという感じがするんです。
あんなポイントの性格なのか
やっぱりアメリカだからかもしれませんが
変にこう。
でもなんかこう
自我というものは
なんていう感じが
すっごくよく見えるときはいいんですよ。
自分元気だと。
でもこれ病気相手にしているわけじゃないですか。
何か辛くなりましたと。
何がいけないのかというと
防衛規制の偏りなんです。
防衛規制はいろんな防衛規制があることになっています。
私から見るとあれは
全部ミニコット的な世界観を見ると
っていう言い方をしているんですけど
この辺めちゃくちゃ適当ですからね。
お前に言うべきじゃダメですからね。
大学の論文とかで書いても
通ると絶対思えませんから。
ヤホーゼルですからね。
ノギツネなんで。
話としては面白いなと思って聞いてください。
ちゃんと学びたければ本読んでください。
最近いい本出てますからね。結構ね。
面白く分かりやすく書かれてる内容の本も
出てるとこも
昔みたいにもアナロギがどうとこ
怖い気がどうとこ
全然わからないみたいな
そういう本に運悪く打ち当たることもあるんだけどね。
で、そんなだけ。
だからミニコットのような視点からすると
防衛規制を用いて
遠垂敵をするというのは
ほら、環境としての川谷みたいな話が
出てこないとは言わないんですけど
すっごく後ろに下がって
なんかこう自力で何とかするぞ
みたいなのが
前面に出すぎてるんですよ。
私の感じがすると。
私の話って多分聞く人にしてみると
ある種の人から見ると
特に自分の健全さというものに
それなりに頼んでる人にしてみると
私の話はそんなに
私は母親べったりじゃないな
みたいに思われるかもしれないんですけど
私が言いたいのは
母親にすごく頼ってるとか
マザコンとかいう話を
したいわけでは全然ないんですよ。
私はマザコンですけどね。
でも私のマザコンって
お母さんが大好きっていう話じゃ
ないんですよ。
母親とかは全然しばらく
数年来母親不通とかでも
多分マザコンなんですよ。
っていう話がミニコット的には
出てくるんだけど
自我心理学でこれが出てくると
分析の場面では出てくるはずなんだけど
15:02
そういう感じじゃないんですよね。
自我が現実に適応できない
上司が怖いとか会社が辛いとか
残業多いとか何でもいいんですけど
あるいは思と違って
奥さんが怖いとか
家庭内でうまくいってないとか
お酒飲みすぎちゃうとか
そういう感じなんですよ。
だから適応するために我々は
例えば反復という行動を取るとか
否認という行動じゃないんでね
防衛規制をすると
これって依然として
自力でやってる感じなんですよね。
私はこれは
言ってみれば
環境としての母親の解釈と
否定的じゃない
肯定的じゃないですよ完全には。
赤ちゃんが持っている万能関係は
それで現実が渡っていけない
というのが事実なんです。
そこのところの
少なくとも本音とか
自我心理学の説明は
雑だなって正直思うんですよ。
自我が弱いから
防衛規制を使うんだけど
適応できないと
どうしようもないじゃないですか。
どうしようもない人が来るんだと
言われればそれまでなんですけど
果たしてその方法をずっと使うことで
みんな適応できるのかと
そこのところで
自我が弱いという表現を取るのは
どういう意味かと思うんですよね。
万能関というのは
すっごく否定的に
少なくともウィニーゴッドに言う
万能関という言葉よりは
万能関の意味が否定的だな
って思うんですね。
つまり万能関なんて言ってみれば
俺最強という夢を見ている
愚かな赤ちゃんぐらいのニュアンスなんですよ。
僕はそういうことじゃない。
幻想の一種かもしれないけど
なんて言うんですかね。
僕もよくわかる気がするんですよ。
私立中学なんて受験したから
能力を遥かに上回るような学校に
入ろうとして
しかも入っちゃいましたから
上げられに上回っていたんですよ。
今から思えば
今うちの娘を見ていると
娘のほうが素材としてできるなんて
それはしょうがないんですよ。
両親とも私と妻とも
大学でですからね。
しかもそれなりに難しいところを
出ていますから
うちの母は高卒ですから
しかも商業高校ですから
別にそれらを
当時の現実から考えて
四女が商業高校で出ている
というのはそれだけ
でも大したものだったわけです。
戦後まもなく生まれた
しかも生まれる場所は
坂張ってきていますからね。
カラフトですけどね。
だから時代が全然違うんで
しょうがないんだけれども
当時の娘よりも
18:02
レベルの高い学校に行っちゃって
無理があったわけですね。
そうすると
この無理を
何だか難しい事態に
招くわけじゃないですか。
ここで自我が弱い
と言われても
当時の11、12歳の
私の自我としては
十分強かったと言わざるを得ないんですよ。
それが頼ったのは
もちろん防衛規制には頼ったんだけど
いろんな合理化とか
いっぱい使った
もちろんいわゆるバイパラ
文極、文理、アイソレーションで
使いまして
自我主義という
言い方は別にいいと思います。
私はこれを
解説しなきゃならないな
という必要はあんまあんのです。
とにかくこの防衛規制を使って
現実は怖いわけじゃないですか。
周りが怒るかどうかも不安だし
そういう現実の厳しさに直面した時代に
人は防衛規制を使い
自我の弱さを
それを使って補うことに
割り切る。
すごく一人きりで
やってる感じがするんですよね。
こういうストーリーを
聞かされていると。
でもここで大事なことがあるんですよ。
私立受験を私にさせた
最大の動員は
多分否定するんですけど
このうちの母なんですよ。
ここが抜けてると思うんですよね。
ああいう話で
一人きりでいる幼児などいないっていうのは
幼児を指してはいるんだけど
私はやっぱり一人きりでいる人間なんて
いないっていう意味があるのに
だからこそ
母親というものが
必要だからこそ
精神分析家っていうのが
母親役としてそこに座ってるんですよ。
この点、アメリカだろうと
アンドロイドだろうと
自我侵入だろうと
違いはないと思うんですよね。
万能感というものが
ある時とない時というのは
全然いらないんですよ。
なんだかんだ言って
私が有名視率に向かったからっていう
この万能感って
いけるときはいけるんですよね。
自我という
しょうもない幻想に自分を
古代妄想みたいな言い方を好きなんだけど
という考え方で
自我の弱さを
充分にやっていけるんだけど
それが幻想によって
侵襲される
インピンジメントされて
壊れそうになった時に
外傷を得る
その時に母親というものが
解釈をしてあげるっていうのが
再解釈をしてあげて
再び万能感というものを
取り戻すっていうのが
21:01
多分私は
人の生き方なんじゃないかなって思う。
ここのところで
今の説明って分かりにくいじゃないですか。
これに対して弱い自我が
充分発揮していない自我が
例えば否認する。
例えば
例えばこういうゴリラがあるんでしょう。
汗だらけ。
大学に汗だらけが
軽く開けるみたいな
今少々辛くても頑張ろう
って言ったら
機械と言ってもいいかもしれないけど
そういう防疫性を使うわけですよ。
こうすることで
自我が無理なんじゃないのかな
って思うんですけど
こういう感じの方は
取れますよ。多少は。
でも毎日毎日毎日
そればっかりじゃ
やってられなくなりますよね。
毎日毎日ひたすらただつらければ
そんなことはなかったんですよ。
そんなことは決してなかった。
めちゃくちゃ嫌だなっていう日は
いつだして休むんですよ。
これも自我の弱さみたいな話に
されてしまうのも
解釈でもできるべきところだと。
自我心理学でも使って
グッドバイブスなんですよ。
ここで。
私クラガマさんの話を伺っていて
グッドバイブスっていうのは
少なくとも自我心理学的ではない
って感じなんです。
つまり
一番簡単なやつで言うと
分割ってことがあります。
いいよ、悪いよ、悪いよ。
例えば学校に行くのがつらいときは
いい学校、悪い学校なんですよ。
結局これなんですね。
一番最後に人が頼る
自我がうわもうこれは無理だ
ってなったときに頼るのが
分割なんですよ。
いい学校に行こう、俺は。
悪い学校はごめんだと。
これをやるんですよね。
私もやりました。
やりますよね、みんな。
ここは母が行けと言っていた
いい学校とされている。
だからいいと思えているときは
気持ちよく言っている。
でも当然そこには
しないもった変な先生とかが
いたりするわけですよ。
悪い学校なんですよ。
そこのところは距離を置くわけですよね。
しないもった先生に目をつけるたり
しないように手を持つ。
これがバイパルなんですよ。
分極化をする。
ここで自我心理学では
そういう分極化をしても
相場に行きずも
悪い人たちは
いっぱい怒ってくる。
いずれその学校が
悪の倉窟みたいに見えてきかねば
24:00
私にはそれに近いのが見えました。
二度とあそこに近寄るものかと
思ったので
全然違う大学を受けることになったんです。
こういうことって起こるんですよね。
つまり分極化したんですよね。
いい学校、悪い学校で
最初私は行ってみれば
惚れ込んでその学校に行く。
同一化していくわけですよ。
その学校と私は
いい人間みたいな。
これは非常に分かりやすい世界ですよね。
いいおっぱい、悪いおっぱいにつながるから
何も変わってないんですよ。
こういう時の自我は
かなり弱いわけです。
だけど自我発達心理学なんですよ。
つまり
その頃から
発達していない自我を
発達させましょうみたいな。
私はその考え方って
すごい変だと思うんですよ。
発達していない時もあるでしょ
みたいな感じですよ。
そういう時もあるじゃないですかと。
その辺やっぱり
クラインによった
妄想分裂ポジションと
欲打つポジション
つまり正気になったり
狂気になったりを
ポジションピポッと
みたいな感じですよね。
こういうポジションを取る時には
自分は正気でいられるんだけど
こっちのポジションになっちゃった時は
正気ではいられなくなるという
自我がただただ発達していく
みたいなイメージで
自分ももちろん
中学の頃の自我だから
それは未熟であやふやに
決まってるんだけど
それでもかなり現実に
適応できていたか
適応できていないか
という時もあれば
全然ダメだったか
という時もあるわけですよ。
その中のクラスの中に
どんな奴がいるかって
結構変わってくるじゃないですか。
そういうことがあったら
やっぱり
良い学校ですよね。
ところがそれは
行けば行くほど
良い学校であるというのが
遠のいていく。
それはそうですよね。
評判が良いとかそういう話なんで
評判が良い学校になっている
という気持ちだけで
ずっとやってくるものではない。
どんどんどんどん学校は
悪い学校になっていく。
やがてもうここにいたら
死んじゃうぐらいな
そういう時もあるわけですよ。
ここでですね
自我が弱いからとか言われて
困るよなと。
さっき言いましたけど
グッドバイブスでどう考えるかというと
その文曲が意味づけじゃないですか
って言うんですよ。
ここ大事なポイントです。
本当にそれ良い学校
悪い学校なんですかと
あなたが悪い学校だと言っているのは
あなたの意味づけが
別にその悪い学校である
ということは
27:00
自我を強くしなくても
いけるじゃないですか。
ここが大事なんですよ。
何となく自我心理学の考え方に沿って
自我を強くしないと駄目なんですよ。
どうにもならなくなってしまう。
だから精神分析に
神奈川を助けてくれて
自我を強くして
またできるようになっていきましょう
なんですよ。大変ありがたいです。
これはこれでいい
という時もあると思うんです。
私今にしたって
意味づけじゃないだろうか
手放そうみたいに
全部やっているかというと
そこまでしなくてもいい時に
時間を
結局異流者なんだけど
時間を節約するという意味もあって
ここはちょっと我慢して乗り切っちゃおう
つまり自我の強さに頼る
ということはありますが
そんなにわりと深刻な事態に
陥っていくと
自我を強くすればどうなの
という感じなんですよね。
最近これを言葉を変えて
アサーティブですね
レジリエンスという言葉に
変えているんですけど
やっていることは変わらないで
僕は思うんですよね。
それって結局防衛規制を使って
自我に我慢させて
この我慢の強さみたいなもの
忍耐力みたいなもの
結局なくなっちゃうんじゃないですか
そういう言い方しませんよ。
あくまでも自我の強さみたいな
言い方をしますけど
しかも
引き続き
比較的実際の治療を始めると
自我を強くしている
と言えますか
という感じはするんですよ。
環境としてのお母さんも
やっているだけではないでしょうが
やっぱりミニコット的に解釈するか
アンナフライト的に行くか
という違いなんですよね。
実際の治療でやることは
そんなに違わないのかもしれない。
僕は結局本で理論を読んだから
どうしてもそこの違いが
気になるんですよ。
自我発達論的なものというのは
その悪いというのは
何もそこまでおぞましくて
ひどいものではないと思えば
自我を強くしなくても
学校に行けますよね。
ここのところで自我の強化に
全然問題にならないじゃないですか。
と思うんですよね。
ある意味でその時に起こることって
万能化を動きさせていることになるんですよ。
それで学校に行けるようになるんですよ。
それで多分会社に行けるようになるんですよ。
それってそこまで
絶対なことでしょうか。
みたいな
30:00
そういう感じで
それってそこまで大変にしているのは
あなたの心がやっていることじゃないでしょうか。
あなたの心がやっていることじゃないから
私の心がやっているのは
ほぼ確実です。
悪いものをより悪く
良いものをより良くしちゃった
良いものが100%悪いんですよ。
100%悪い学校に
行かれないと思うんですよ。
死んじゃいますよ。
毎日行ってたりしない。
だけどこれを
我々は
自分たちとして
そういう意味付けができちゃうので
だからそういう意味付けをしてしまう
ということが
すごい束縛をもたらすんですね。
並んで
非常によく見られる
防衛規制として
例えばUndoと呼ばれる文字が
するんですよ。
例えば小さな言葉で
何度も手を洗う理由はないじゃないですか。
何がしたいのかというと
自我心理学的な説明をすると
これは正しい言葉が正しいと思うんだけど
そういう意味ですね。
コンピューターでもUndo言いますけど
コントロールゼロというやつで
やってないことにしたんですよ。
やってないことにするから
やってしまったことの反対のことを
何度も何度もやり直すという
やり直しと訳されることもあります。
これもものすごく
防衛規制として使われて
未熟な自我が
厳遂に適応できないと
死に去るというとんでもないことだと
いうのに対して
手を何度も何度も洗うというのが
コンピューターっぽく見えますね。
やってないことにするわけです。
やったことをやってないことにするときに
面白いことにしとくというのは
それを何度も繰り返さないと
どうやってできないみたいな
気が済まないってやつですよ。
で、例えば何か
これは結婚と離婚をきれいにしようと
何ならソファーとか
石にしようと
特的に出てくることが非常に多いです。
結婚を離婚という形で
Undoするという
基本的に何と言うか
この形って本当に多くて
例えば
計算に苦手だとか
数字苦手だとか
そういう人いらっしゃるじゃないですか。
33:02
で、Excelに入力したんだと
何度も何度も数字を確認しているうちに
常識をごらん
ある種のものが出てこないように
したいわけですよ。
計算ミスってやつね。
だから出てこないようにするために
何度も何度もやり直す必要が出てくる。
全部すごく
オブセッションを感じますよね。
何かに取り憑かれている感じがします。
で、でですね。
これも
そう言われればそうなんですよ。
自我が弱いと言えばね。
だけどそれを自力で克服しようとするから
悲しみに無理が出てくる感じがします。
自力で個性を何度も確認するという方法によって
現実を乗り越えていこうとするのか
というふうに思うんですよね。
あるいはここでライトアップが出てくるじゃないですか。
これを使えばバッチリ。
結局自力なんですよね。
自力にこだわりすぎだと思うんですよ。
この種の考え方。
自力にそこまでこだわるという意識づけが
むしろ脅迫的に人をしていくんじゃないかと思う。
離婚っていうのはさっき持ち出しましたけど
非常に長調的じゃないですか。
一人で生きていくんだ。
よくそういう漫画ありますよね。
私はもうあんな夫には頼らない。
それは悪いことだとは思わないんですけれども
文化的なものは変わります。
アメリカは離婚文化だし
そして一人でっていうのは
ほとんどオカルトよりはベターだみたいな考え方が
そこにはあるような気がする。
誰か頼ればいいじゃないですかって
グッドマイムス的にはあると思うんですよ。
例えば計算が苦手なんで
エクセルじゃない仕事回してくれませんかっていうところで
こういう時必ず出てきますよね。
そんなことは言えないみたいな。
ここにイリュージョンがあるんですね。
僕はそう思うんですよね。
だって虫に触って手を何度も洗う時
お母さんの近くにいるイメージがあるじゃないですか。
手洗いなさいとかって
言うお母さんがいる感じがしますよね。
一人でいる用事はいないんですよ。
なんか手を何度も何度も洗うって話をしてる時
その子一人でやってるような感じになるんだけど
そんなはずないと私は思うんですよね。
多分子供が一人であれば
虫に触ったぐらいで
うわ汚いから手洗わなきゃって
あんま思わないと思うんですよ。
そういうことはお母さんが言う。
つまり解釈を与えてる。
しかも解釈でミスリードしてる。
こういう話が大事なんだと思います。
何で計算が苦手になったのかと。
多分私はやっぱりそこに
環境としての効果をやってるのか
改在している気がするんですよ。
どこかでその人が
すでに29点とか取っちゃって
36:00
先生、これがお母さんです。
あなたそれじゃもうやってけないみたいなことを
言われたと。
言われてないかもしれないけど
言われた気がしたと。
そういうようなことが
その時の、つまり
心臓が起きてるわけですよね。
トラウマがある。
そのトラウマを思い出したくないから
Excelを使いたくないんですよ。
こう解釈していったほうが
結局それは
それが未熟な自我なんだけれども
だから全く違うことを
言ってるわけじゃないんですよね。
そこがすっごいややこしいんですけど
私は自我強化をするっていうのだとすると
どうやって強くしたらいいんだって
思うんですよ。
どうやって強くしたらいいのかってことを
ウィニフォットとかビオンは
伝えてくれてる気がするんだけれども
自我心理学でもきっと
受ければそういうものが
受けられるんだと思うんですけれども
本を読む限り
それに対する論理的な答えが
見えたらないかなと思うんですね。
発達して強くなるものだぐらいな
勢いを感じるんですよ。
そしてですね
実は私は自我心理学を批判して
全然いいんですよ。
私はこの背後には
アメリカ文化という感じが
仕方がないんですよね。
ライフハックとか
自立とか
依存、飲み込みすぎている感じが
するんですね。
だから
どうしても甘えというものは
受け入れられないっていう感じが
するんですよ。
そして甘えが受け入れられないと
結局気が済むまでという話になって
強迫神経症の方へ行くんですよね。
自我の弱さなのかって思うんですよ。
むしろ
本来甘えというものが
上に成り立っているのを
無理やり排除しようとするから
そういう事態を招くんじゃないんだろうかと
いうような読み方を
私はしちゃうと思う。
オドバイオスの方
はるかにこの甘えというものに
近い世界の意味付けなんで
結局その意味付けを
取っていくということ
意味付けを手放すということは
都合の悪い意味付けですね。
都合の悪い意味付けを手放す時は
都合のいい意味付けも
手放すことになるはずなんですが
いずれにしても手放すということは
一番手放したいのが
いい会社は悪い会社ですよ。
このいい会社は悪い会社をやるから
悪い会社に行かねばならぬ
という話になっちゃうわけですよ。
そこで自我の強さが問われて
エジリエンスがまだ不足している
という話になっちゃうんですよね。
それ全部幻想なんじゃないのか
と思いますね。
強くならなくても
いけちゃうわけですよね。
僕この発想は万能感を保持したまま
お母さんの体内から出てきて
出てきた後も万能感を保持したまま
お母さんから
こっちの方が
39:07
僕は大変会社に行けていた頃は
会社というものに非常に寄っていた
寄っていた感じになっているんですよ。
依存のいいね。
結局は家具協同士の
母親と
それに近い存在の人たちと
私によくしてくれた
福祉店長とかがいるんですよ。
不思議なんですよ。
全然関係ないのに
料金センターに勤めていたとき
福祉店長はすごいよくしてくれたんですよ。
こういう人が現れるんですよね。
そういう人が現れることによって
そこでうまくいける
ということができるようになって
あんたは全然万能じゃないんだから
スキル磨けみたいなのが
自立的なんだけれども
そこによって
非常に無理があるんですよ。
ちなみにスキル磨くために
スキル磨くということは
現在こういう部分が
自分に欠けていると
非常に辛い状況ではあるが
人より1時間早く起きて
自我の強さが問われるじゃないですか。
そして勉強して
欠けている部分を
満たすだけのスキルを身につけて
その上で自分が
その環境に適応できる。
それまで
ここを乗り越えるのが
自我の強さだって話なんですよ。
途中で辞めてしまうのが
心の弱さだって話になるじゃないですか。
心の弱さと自我の弱さは
この場合完全に同じ意味です。
非常に私はこの発想を
というものに
馴染めないんですよね。
分かりやすいですよ。
この発想は確かに。
いいことなんだけど
全然分かりやすいと思います。
分かりやすいんだけれども
自分が乗り切ろうとした時に
だいたいもう
私の場合なんかが起きたことですが
全身ジンマシンだらけになって
ミューグを着とれなくなっちゃうみたいな
本当にヤバいんですよ。
見た目なんですけどね。
熱出るって言っても
微熱だったり
あんなんじゃとてもやっていかない。
それは自我の弱さです。
イステリー的な
コンバージョンですみたいな話をするわけで
心の限界というのが
体に変換されるから
コンバージョンという
ポイントもここからスタートしています。
無意識の力
多分これを聞けば
いや、それ無意識じゃなくて
体が悪いんじゃないのって言われると思うんですよ。
だから私は
胃腸器とか内視鏡とかで
全部調べたんだけど
えらい綺麗なんですよね。
コンバージョンだったんですよ。
無意識の力ってすげえなって思います。
42:01
あの力が
心の弱さだというのが
強いんじゃないですか。
ただ現実不適応なだけであって
しかもその現実不適応の後に
私は
ウッドファイブスを
倉園さんから教えてもらって
この言い方も変ですけどね
適応できるようになったわけですよ。
僕はその分強くなったのか
なんとなく理解したような気がするんですよ。
気がついたら自分たちに
全部聞いてました。
非常に不思議な話だと
自分の中では
思うところがあったわけです。
無意識ってのが
そこまでパワフルなものだと
フック・フロイト読んでたけど
信じられてなかったなと思う。
それだけ私は自我中心で生きてるんですよ。
自我って何かっていうと
心の意識できる部分なんですよ。
私という人間が
意識している部分。
それはジンマシン出そうとか消そうとか
全然思わないから
思ったところで消えはしませんからね。
だからその自意識っていうことになるんだけど
無意識ってのがはっきり
相当自分をコントロールしてるというか
動かしてるっていうのは
その時に知ったんですよ。
私それをミドルクライシスと呼んだんです。
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