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2021-08-16 09:05

一戸信哉の新潟のへラジオ LIVE Vol.46 近代日本料理の祖 渋谷利喜太郎


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みなさんこんにちは、新潟のへラジオ一戸信哉です。
今日見たら、2ヶ月近く間が空いてしまいました。
だいぶ話題も、すぐ出せるネタも減ってきて、
とはいえ、いろいろこの間も新しい話題というか、
新しく勉強したこともいろいろ出てきてたんですが、
なかなかまとめてお話しする時間がなかったというようなところかと思いますね。
今日はですね、こちらの河豊島屋さん、
柴田の料亭の画像なんですけど、
近代日本料理の祖といわれる渋谷力太郎という人の話をしたいと思います。
これは実は先週新しく聞いてきた話で全然知らなかったんですが、
柴田出身の料理人の方のお話です。
渋谷力太郎さんという人はですね、
30代で東京の板前の人たちの組合、料理職組合理事長になった。
大正時代の人ですよね。
生まれが1864年という人なんですが、
それだけ東京の料理人界のトップに上り詰めた人なんですが、
実は柴田の出身の人だったという話で、
これ先週のですね、授業の中で行った取材先でですね、聞いたお話なんですけど、
今回行ったのはこの柴屋さんという柴田市内の料亭の老舗の一つに行ってお話を聞いてきました。
柴谷力太郎さんという人は、もともと出身柴田なんだけども、
いわゆる法行というのかな、
修行したところは、最初に修行したところは、
こっちじゃなくて、柴谷さんじゃなくて、
北神館というもう一つの神社があるんですが、
北神館の方で小さい時に修行し始めて、
柴田の北神館で修行、修行というか、
絶知暴行か、した後で才能を認められて東京に出て行って、
都内の料亭で腕を磨いて、
長く築地の新喜楽という料亭でお勤めだった、料理長だったということかな、
をしていたという人なんですよね。
近代日本料理の祖と言われる理由はよくわからないんですけど、
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多分その時代に、日本料理に新たな革新を加えていったということなんでしょうかね。
天皇家の料理番としても知られている、
天皇家にも料理を出していたんですよね。
養殖の方は区内省の厨房を取り仕切っていた秋山特造さんという人がいたのに対して、
和食にくっついては渋谷であると言われていて、
当時は養の秋山、和の渋谷、二巨頭と言われていたという話が出てきます。
渋谷幸太郎さんはそのまま東京で料理人として活躍されていくんですが、
渋谷の出身ということで、渋谷を中心に新潟の人もそうだったと聞いていますが、
渋谷さんを頼って都内の新開くということになるのかな、
修行した新潟の料理人も多かったという話も聞きました。
今回言ったこの画像の渋谷さんの先代、今の会長さんの先代が渋谷さんの下で修行したという話を聞きましたし、
その他にも新潟市内とか柴田とかでよく知られたお店の方で渋谷さんの下で修行された方、
あるいはその方自体ももう亡くなっていたりするんですけど、
その系譜に属するお店、料亭というのは多数あるという話を聞いてきたところです。
実はこの話、この間まで全く知りませんでしたが、
渋谷の中でもそんなに知られている話ではないんだと思います。
知られざる話、知る一つ知るぐらいの話なんじゃないかなと思います。
調べていくと、少し渋谷さんの業績を称えるというか、それを忍ぶような本を柴田の料理人の人たちがまとめたものが残っていたりしますし、
それをベースにしたんだと思いますが、2014年には新潟日報でも一度特集記事が書かれています。
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ここを見ると、いろいろまとめてあるんですが、渋谷さんは実はその時期的には昭和の初めにはあたりですかね、
満州の料理というのも始動した時期があり、
地域の食材をふんだんに使うというのが渋谷さんのモットーということで、それは多分柴田でも活かされているんだと思いますが、
満州の料理というのも始動して、
満州の場合は白菜をメニューに据えるということを提案したという記録が残っていて、
資料を探してみると、満州国特産物を応用するこんだてというのを作ったものが本になっているみたいですね。
この内容をちょっと食べてみたいなと、
満州国特産物を応用したこんだてというのがどんなものなのか、
食べてみたいといったら誰が再現してくれるのかという話ですけど、
それも一度食べてみたいなというふうに思っています。
柴田に渋谷力太郎さんの足跡がどこかに残っているかというと、
実は寺町というお寺が固まっているエリアがあるんですが、
そこの福生寺というお寺は、
ここは柴田重家の銅像があるところだったと思いますが、
福生寺の中に検証碑、渋谷力太郎の検証碑というのが建っているんだそうです。
こないだ実はその話を聞いてチラッと行ってみたんですけど、
実は見つけられなかったんで、今度ちょっとゆっくり探してみるとか、
あるいはお寺の方にご連絡した上で行ってみようかなと思ってますが、
そこに少し痕跡が残っているのと、本が何冊かあるということぐらいだそうですよね。
というので、この柴田さんの足跡というのを探すのは難しい。
今確認したら、亡くなったのは1940年ですからね。
だいぶ世代が遡りますよね。
ですので、なかなか難しいところがあるとは思うんですが、
こういう人たちのことも少し、こういう人、渋谷さんのことも少し辿ってみようかなという、
ちょっと夏の集中講義で勉強したお話をしました。
お久しぶりにお話しいたしました。またお会いしたいと思います。
はい、どうもありがとうございました。
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