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2021-05-04 09:36

一戸信哉の新潟のへラジオ LIVE Vol.29 赤谷鉱山


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みなさん、おはようございます。一戸です。新潟のへラジオ、一戸です。
今日はですね、連休も終盤ということですけれども、少し私は連休中、部屋の中を片付けて、いろんなものを発掘したりしているんですけど、
その中で、赤谷鉱山の話を、また関係の方を発掘してきて、ちらちら見ていたので、その話をしたいと思います。
またあまり明るい話じゃないですけどね。
数年前にですね、花岡っていう、秋田県の花岡っていうところ、大立市ですね。
現在大立市になっている花岡というところの花岡事件ということについて、ちょっと知ることがあり、調べていたんですよね。
花岡でそれを調べていくうちに、この赤谷の話になっていくんですけど、
花岡事件というのは、戦時中の中国人労働者の暴動というかな、反乱ですよね。
その後の彼らに対する処罰みたいなので、たくさんの中国人の人たちが亡くなっているんですが、
この花岡事件というのは非常に中国では有名な、いわゆる中国人の炭鉱労働者の、鉱山労働者の虐待とか強制労働みたいな話でよく出てくる話ですよね。
強制的に連れてこられた人たちが劣悪な環境で働かされてということが、どれだけ広い範囲で行われていたのかという話と、そこは強制的というところをもっていろんな争いがあるんでしょうけど、
かたや連れてこられた人たちというのは必ずしも単純に労働者ということではなくて、多分に政治犯の人が含まれていたのではないかと。
政治犯の中には731部隊のところに送られて、丸太と言って人体実験に使われてしまうということになってしまった人もいる一方で、この花岡の話を見ていくと思想改造して、
思想改造するために、とにかく中国の一定のところに収容されていた後で日本に連れてこられていたというような話が中国でのまとめの中で出てくるわけですね。
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花岡に行くとそういう非常に辛い時代の話がいろいろ出てくるわけですけど、それと同じかどうかわからないんだけど、新潟でもいろいろぽつぽつ拠点に同じような中国の人や朝鮮の人が来て働いていた場所というのはぽつぽつあるんですけど、その中に赤谷っては出てくるということですね。
赤谷という場所は芝田市の一番郊外にあって旧藍津藩ですよね。旧藍津藩の領地だったので、ここでは母親戦争の時の激戦というのも戦われているんですが、母親戦争の時の記憶というか記録というかですね、そのモニュメントも残っていますし、
さらにあんまりより近い時代の話で、その辺の外国人労働の話はあまり語られませんけど、もうすでに消えてしまった記憶とほぼほぼ消えてしまった記憶として、炭鉱の鉱山の記憶、記録というのも残っているというところですね。
1984年に赤谷戦というのが廃止されています。
これはつまりは鉄鉱石の輸送のために作られた鉄路ですので、その歴史的な役割ももうすでに終わっていたということでしょうし、今言っても鉱山のあたりを見つけるのも難しいですね。
まあ一度探しに行きましたけど、ちょっとはっきりよくわからないですね。ちょっと記念碑みたいなのが残っているというのですが、その時は見つけられませんでした。
ちょっと前にネットで話題になった、幻想的な風景で話題になった柴田の風景というので、この赤谷の方に行くトンネル、スノーシェットだと思うんですけど、雪除けのトンネルみたいなところがちょっと話題になっていましたけど、あれを越えていった先にあるんですよね。
ここでもですね、少なくとも労働者として、朝鮮人の人や中国人の人が行ったのは、今背景に入れたのはこの本ですよね。
新潟県内における中国・韓国・朝鮮人の足跡をたどるという冊子があって、県の高等学校教職域名の人たちが作ったものなんですけど、その中には当時の概略図として、中国系の人の合宿所と、朝鮮系の人の合宿所と両方あったという図があり、
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それからここの中の記述では、逃亡事件があったり、死亡した人もいたりというような記録が残されて、ことが書かれています。
中国人の労働者が200人いて、この人たちは、下北政務委員会の行政命令による割当に応じての行政教室と書いてあるから、それを何と言うかわからないけど、
花岡のところで出てきたような割当に応じて送り出された人たちということは確かなんじゃないかなと思いますね。
というようなことが、実は赤谷というところでも行われていて、前に柴田の方にそういう人たちが、柴田の方にというのは赤谷も今柴田市ですけど、赤谷から柴田は結構距離がありますので、
歩いて逃げてきた人がいたことがありますよとか、そんな話も柴田で聞いたことがあります。それは聞いた話なのでわかりませんが。
という、戦争時代の昔のいろんな記録が残っている場所なんだと思いますが、なかなか行くのは大変で、今冬は行けないと、今はもう行けるかな、ゴールデンウィーク辺りも行けると思いますし、
その例のトンネルも通って行って、行くことができると思いますけど、でも、鉱山の跡みたいなのとか、見つけるのは難しい、少なくとも私はまだ見つけられていません。
というので、まだそこはたどり着けていないのですが、ここにも赤谷の記録というのは、先ほども言ったように暴進戦争とか、鉱山のこととか、いろんなものが残っていて、今はもう本当に赤谷という集落は小さな静かな街ですけれども、様々な記録が残っている場所だと思います。
いわゆる合図街道ですね、途中に柴田を抜けて、新潟県で言うとさらに今の阿賀町を通って行くような感じになるかと思います。
企画総さん、おはようございます。どうもありがとうございます。
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というわけで、なんでこんな話をしているかというと、連休中の断捨離活動の成果として、鉱山の話も少し資料が出てきたので、この話をしようかなということでお話をしました。
というわけで、今日はこれで終わりたいと思います。ご視聴ありがとうございました。
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