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おはようございます。新潟のへラジオ、一戸信哉です。今日は4月27日、水曜日、9時ですね。
もうちょっと今日は9時になってしまいました。
いろいろ、朝いろいろ今日何喋ろうかなと思って考えている間に、少し時間が経ってしまいました。
連休前なんですけど、4月新学期になって、毎年ですね、私のゼミではいろんなドキュメンタリーを作るという取り組みをしていまして、
学生の方からいろいろ、学生の皆さんが思いついたテーマがあがってくるんだけど、ちょっと物足りないみたいなところで、
みんなが前向きに取り組んでもらえないといけないので、その辺はすり合わせなんですけど、すり合わせの過程でこれどうだろうなーっていうのを毎年いろいろ出していって、
ボツになったり残ったりと。一般的に言うとちょっと歴史ものとかを私が提案して、学生の皆さんとしては何だろうっていうふうに思うケースが多いんだと思うんだけども、
皆さんの実力というか、どこまで自分で調べ込んでそのテーマに向かっていけるかっていうのも見極めながらテーマを設定しているというわけで、実は経年でずっと蓄積しているテーマもいろいろあって、まだ形になってないよなっていうのもあるわけですけど、
その一つが今日今挙げました原爆疎開っていうテーマですね。これももう何年も前からちょっと原爆疎開どっかでやりたいなと私自身は思ってたんですけど、どんどん時間が経って、もともとその記録が少ない上に、証言できる方も少ない上に時間が経ってしまって、どんどん難しくなってきてるなというふうに感じています。
とはいえいろいろ調べていくと、今日ちょっと見つけたのは、2013年に新潟日報で森沢麻里さんという論説編集員、新潟日報の中では歴史文化、歴史ものですよね。
私が割と取り扱うような近現代史に関わるようなことをいろいろ書いていらっしゃる論説編集員の森沢麻里さんが原爆疎開のことを書いている記事を読みました。どういうことかというと、原爆疎開というのはもう一回振り返りますと、8月の15日ですよね。
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8月15日のその玉音放送のときに新潟市内というのは全然人がいなかったって言うんですね。どういうことかというと、新型爆弾が広島と長崎に投下されたという情報を受けて、新潟県知事が知事布告というのを出しまして、緊急措置要項。
知事布告を出して、要するに皆さん疎開してくださいと。一般新潟市民の急速なる徹底的人員疎開。重要工場の有効かつ能力的なる疎開。公共施設の疎開。新潟市における建物疎開の一時中止と。
要するにみんな疎開してくださいということで、有名な話ですが、8月14日あたりはみんなリアカーに火災道具を積んで、農村の方へ疎開していたという話なんですね。
今回見つけた記事は、これをどうやって実現していったかというので、畠田正富さんという県知事がどういう判断をしたのかというのを少し推測も含めて書いている記事です。
県知事というのは今とは違って、民選知事ではありませんので、内務官僚ですよね。内務省の官僚が人事のローテーションで配置されると。
絶大な権限があるんでしょうけど、県のトップに来たのが畠田さんという方で、ここでプロフィールを見ると兵庫県出身で東京帝国大学を卒業して内務省に入省し、神奈川県警察部長愛媛県知事を経て新潟県知事になるという方ですね。
この知事が決断したとこの記事では書かれています。一人で決められるのかどうかってちょっとわからないんですけど、とにかく新潟県独自の判断として、みんな疎開しましょうというのを出したということです。
新潟は空襲を受けていない都市の一つで、その都市の中から広島、長崎と爆弾が落とされて、これは次、新潟の可能性が高いというふうに判断したということですよね。
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この記事の中で書かれているのは、市民疎開というのをするかどうかというところでも、やっぱり県庁内でも意見が分かれたみたいですよね。
でも新潟県側の決断としては、人命尊重のために戦争遂行という従来の国の方針にある意味逆らいつつ、人命尊重のために疎開というのを決断したんだというような、この記事のときの県政記念館長上村さんの証言というのが書かれています。
今の状況の中では、そりゃそうだろうと。客観的状況から見て、そうしたほうが良かった状況だし、そのような判断をしたんだなというふうに受け止めるんですが、多分当時はすごく大変なことですよね。
要するに戦わずして、一応念のためにみんな逃げたほうがいいという話ですからね。なので、ここは内務省向けにいろいろ手を使ったんじゃないかということで、これを知事布告じゃないかな。文言ですよね。
布告の内容から推測している。これは森沢さんの推測なのかな。なんだと思うんですけど、この疎開というのは、戦力の汚染を起きするためであり、無効の市民に対する殲滅的殺傷機とに片透かしを食らわせんとするものである。
単純にやばいから逃げようみたいな話ではなくて、これも戦いの一部であるということで、そういう理屈を立てて決定したんだろうということですよね。
東京ではもうすでにこの辺で8月10日、ソ連の進行も明らかになり、どうやってやめるかという方向に行っているわけで、後から振り返れば当然そうすべきだという状況ではあったんだけど、
当然これ新潟までそんなことは伝わってきていないわけで、表向きの徹底抗戦の構えっていうのは崩してなかったわけだから、そういう中で決断した畠田さんなのか、新潟県のこの映像というのはやはりもう少し注目されてもいいのかなと思います。
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逆に何というか、こうか不こうか、こうですよね、こうだけど、新潟市はそういう意味で原爆投下のターゲットには最終的にはならなかったということなので、
そういう意味でそれは良かったんだけど、そのせいで原爆疎開をしていたということ自体も知られていないし、それを決めていくときの苦悩みたいなのも忘れ去られようとしている。
忘れ去られていますけど、改めて新潟県が決断した決断の重みっていうかね、そういうことも思い出したらいいかなと思います。
ほとんど記録ないんですよね。調べていくと、知事布告のコピーみたいなものは残っていて、いろんなところ、それこそミナトピアとかね、ああいうところ行くと展示が出てて、それはあるんですけど、それ以外はほとんど何もないんでしょうね。
最後の8月10日以降のことですので、ほとんど何も記録が残っていなくて、分からないんですけど、そういうことを考えていく必要。そういうことも取り扱ってみたいなと思ってはいます。
ちょっとね、なかなか難しいんですけども。はい、というわけで今日はちょっといろいろ資料調べの中で出てきました。本当はね、これ8月の話題ですよね。8月の話題なんですけど、ちょっとまだ4月です。新潟市の原爆疎開について知事というか県庁というかですね、どんな決断を下していたのかっていうことをめぐる話を少ししてみました。はい、どうもありがとうございました。