江別の越後会と越後村の関係
はい、おはようございます。新潟のへラジオの平信哉です。
今日は9月5日、火曜日になります。
ちょっと9時、8時台にお話ししようと思ったんですけど、ちょっと遅れてしまいました。
9時台に入りましたけども、少しお話ししてみましょう。
昨日、北海道に行ってた間の話を一つ目ということで、東北ですね、豊臣町の話をしましたけども、
のっぽろの方がコメントをくださったんで、ちょっと頭出ししましたけど、前半、北海道、和歌内拠点に豊臣町での取材をしたんですけど、
その後、札幌に移動してきまして、札幌から今度は江別というですね、札幌の隣町で取材をしました。
学生が2人、新潟から来まして、一緒に取材をしたということです。
結構頑張りましたね。和歌内は結構ね、ストイックにやらざるを得ないというか、そんなに和歌内で、島とか行かなかったですけど、そんなに商業施設がいっぱいあって遊ぶとかっていうのはないですけどね。
札幌に行くといっぱいね、誘惑がいっぱいある中、頑張って連日江別にも通いまして、いろいろ見てきたと。そんなところです。
で、今回取材したですね、越後村っていうところは何度か私も取り上げていて、この番組の中でもだいぶ初期の頃に一度お話ししていると思いますが、
今回初めて学生たちがですね、越後会っていうですね、越後村のことを調べて、そのことを勉強している人たち、あるいは越後村の出身者の人たちなのかなということで、ちょっとわからなかったんですけど、
学生たちが連絡を取ってくれて、江別の越後会という会の人たちと初めてお会いしました。で、いろいろ事情がわかってきたということです。
で、先に結論から言うと、前回お話しした豊臣の庄内集落のような、要するに当時入職した家庭の子孫というのが、非常に強い結束を持って会を運営しているとかっていう、
そういう性質のものではなかったですね。それはちょっと予想はしていたんですよね。江別市というのと豊臣町あたりって、だいぶ北海道といってもね、だいぶ事情が異なっていて、江別はもちろん割と自然豊かな地域ではあるんですけど、
新潟で言うと、そうですね。新潟で言うと、例えば難しいけど、新潟市の隣みたいなところですよね。だから、江別市も札幌からすぐですんで、確かに農村地帯は広がってはいるんですが、都市部に非常に近い地域であり、
町の機能としても農村という部分はもちろんあるけれど、基本的にはベッドタウンでみんな札幌に通勤している人たちが家を建てて住んでいるっていうような性質の今そういう場所になっています。
ですので、そういう意味での入職した時期の越後村の歴史と伝統がこんなふうに残っていてみたいなのは、豊臣町だって薄まってはいるんですけど、江別について言えば、もっと薄まってるだろうと思ったんですが、その通りでした。
今回お話を聞かせてくださった方々は、
何らか新潟にルーツのある方でしたが、でも越後村の入職者の末裔でっていう方は、
お一人いたかなと思いますけど、ほとんどでもだいぶ時代も遡りますので、そういうこともあって非常にそのアイデンティティとこの越後界っていうのは必ずしも結びついてないんだなっていうことは分かりました。
もちろんただ私が興味を持ったのと同じような意味で、自分の地元のところで自分のルーツである越後っていうのとの関わりっていうのははっきり出ているこの場所について、興味を持って活動しているっていうことかなと思いましたが、
その辺のことを聞きつつ、今回写真に入れたこの越後村入職の地っていうね、ここも何回も言ってるんですけど、越後村っていう場所が越後神社とともにありまして、
越後村の入職者の移動
ここにまず行ってですね、いろいろ話を伺うんですが、このですね、越後神社っていうのは八彦神社から神様を連れて行ったっていうことになってるんですけど、
何もないんですよね。その周辺がほとんど何もなくて、この越後会館と越後神社としかなくて、あとこの記念碑があるんだけど、周りは越後沼っていう沼があって、
そこに集落が形成されているっていう感じはなくてですね。どういうことなんですかっていう話を聞いたんですけど、
結論から言うと、越後村で最初に入職した人たちは、あるタイミングでこの地域から野ポロっていうところに移動しているということなんですね。
あとでちょっと調べたら、いや確かにこれ私この同じエリアのものだと思って、両方見に行ってたんですけど、これとはまた別にですね、もう一つ越後村に関わる場所っていうのがあるんですよ。
それが野ポロって皆さんが言っている場所で、そっちも後から行くんですけど。
要するにそこ、越後府都っていうところの集落は、あんまり土地としては良い場所ではなかったということなんですよね。
あとで説明を受けましたけど、越後村は石狩川沿いに人々は住むわけですけど、越後村の最初に入職した地域っていうのは、石狩川の支流がいくつかあって、
一つは夕張川って言ってましたけど、夕張川と2つぐらい支流があってですね、それがぶつかる場所で、
そういう意味では非常にこう、指示的には結構洪水とかも起きやすい、あまり地乗りは良くない場所だと、そういうご説明でした。
千歳川、石狩川、夕張川ですね。夕張川と石狩川がぶつかるあたりに別川があるんですね。
なのでこの辺は洪水が起きやすいと、支水が難しいということで、そういう事情もあってうまくいかなかった、そういう説明でした。
越後村の関連施設と周辺の地域
ノッポロ牛谷信ちゃん、おはようございます。今ちょっとエベツーフとの話をしていました。そういう事情もあって、この越後集落の人たちはノッポロの方に移転したんだと。
なるほどねと。なんでこんな風にちょっと離れたところに二つ越後村みたいなのがあるんだろうと思っていたんですが、実際離れていて移転したんだという風な話を聞いて、どっかで読んだのかもしれないんですけど完全に新たな話として聞いたところです。
そうは言うけども、エベツーフとのこのエリアの通りの越後神社の反対側のあたりには、おそらくは越後村の末裔の人たちが一部残って住んでいるかもしれないということなんですが、
これも越後界の方はそこまではちょっとわかんないというお話でした。
今度はもう一個の方に行きましょうということで、ノッポロの方に行って、ああそういうことかということになるんですが、もう一個ノッポロの方に行くと、植民社という名前のバス停があって、そこに移ったんだということがわかりました。
そこに、地乗りのいいところに移っていくと、たぶん地乗りのいいところに移っていくタイミングはちょっと後でもう一回確認しますけど、おそらく最初に北越植民社というので募集して入っていった時のリーダーの大橋一蔵さんという人が亡くなりまして、
その後を拾うというかその後のリーダーとして、宇和沼の方から宇和沼の出身のか、新潟からもう一回やってくるのが関山御左衛門という人で、この人がある種忠孝の祖となって、
苺村の人々をまとめていったという話なんですが、その方が作った邸宅の跡地なんですよね。仙公園というのがあって、それが植民社という場所の側の象徴となっているということで、ここももう一度学生たちと訪ねて、
そして苺界の方々に紹介をしていただきました。中はあまりゆっくり見なかったんですけど、仙公園の中にいっぱい地蔵があって、これは何だろうとか、いろいろ学生たちは調べてました。
中を見ていくと、いろいろここの中も石碑が置いてあるんですけど、何か見ていくとですね、独立移民会っていうのがあって、これはもうちょっとよくわかんないんでね。
いろんな石碑のところにお金出した人の名前が書いてあるんだけど、その中にこっちののっぽろ川の仙公園の中にある国立植民社関係の石碑のところを見ると、
出てくるんですよ。独立移民会っていうのがあって、独立移民会は何なんだろうってまだちょっと調べてないんですが、そういうのが出てきて、ちょっとやっぱりこっちに来てここに入ってくる人たちの性質っていうのは変わるのかなと思いますが、
やっぱり国立植民社に入った新潟の人たちの多くはこっちに移ってきたんだと考えられます。
その仙公園から車で5分ぐらい行ったところに、のっぽろ神社っていうのがあってですね。
のっぽろ神社も、要は新潟の人たちが作った神社っていう理解でいいのかな。
そのようです。
神社の中に入ると、本殿がもちろんあるんですが、横の方に
三島奥二郎の
祠、祠だよな。祠ってのがあってですね。
これも漢文で書いてたってよくわかんないんですけど、三島奥二郎という人を検証しているものだということでした。
三島奥二郎といえば誰かって言うとうまく説明できませんが、
長岡藩のリーダーの一人ですよね。
奥越保新戦争で河合次之介という人が活躍して、しかし最後亡くなるんですが、
三島奥二郎さんの方は生き残る。三島さんは元々名前違うんだよな。
川島でしたね。川島奥二郎だったんですが、後に三島奥二郎という風に名前を変えるんですけど、三島奥二郎は要するに負け組となった長岡藩の生き残りですよね。
なので負け組になった長岡藩の人々の暮らしには非常に大きな責任と関心を寄せていて、
三島奥二郎と愛別の支援
いろいろな形でその子族のその後の生活とか、そういうことに心を砕いたという話がいろいろ残っているのですが、
そういう話の中で三島奥二郎がこの奥越植民社の実施、開設にあたっても大きな役割を果たしたというふうにされているんですね。
なのでそれだけ多くの支援をこの奥越植民社の愛別に移住していった人に対して行ったということなんだと思うんですが、
三島奥二郎さんが亡くなった後にこの懸賞碑というのが後に乙頃神社に建てられています。
今Wikipediaに出たけど、やっぱり懸賞碑のことは書いてないですよね、愛別とはね。
だからやっぱり長岡では知られているけど、乙頃では、乙頃というか愛別の人たちにはあまり知られていないのではないかなと思います。
ここでこの三島奥二郎の像のところで一号会の方に話を聞いたのは、
かわい粒之助の妻子が愛別に来ていたのかどうかみたいな話で、なんでその話になるかというと、三島奥二郎のこの懸賞碑もありますけれども、
かわい粒之助のいろんな電気とかを読んでいくと、電気懸賞など関連の本を読んでいくと、
四号やっぱり妻子が長岡にいられなくなっていって、その後の妻子たちを仲間たちが支えていくんだけど、
そういう中で、愛別あるいは北海道に身を寄せていた時代があるのではないかと、あったというふうに見られていて、なので、
もう一人ね、北海道開拓で活躍する長岡藩士で、森玄造っていう人のことを一度ご紹介したと思いますが、
森玄造さんが札幌にいたときに、札幌にいたんじゃないかということをおっしゃっていました。
だから北海道に一度身を寄せていたことはあるだろうと、なんですけど、愛別は本当にまだその当時非常に厳しい生活環境の中にあったので、
可愛いの家族がそこにいたっていうのはないんじゃないかと、そんな話をね、そこでしていました。
あとですね、ちょっと話が変わりますけど、この札幌神社にはですね、
札幌神楽と新潟の影響
札幌代々神楽っていうですね、神楽があってですね、この神楽は、
継承していくべき、愛別の伝統芸能だという話になってるんですが、この源流はどうやら、
長岡があるらしい、っていうことになっています。この神楽自体はもともと中で、別に銀型のものっていうわけじゃなくて、
どこだって、島根県とか西の方から伝わったものなんだけど、中越地方でも各地で行われていたものなんですけど、
長岡のどこかあたりからのものを持ってきたんじゃないかという説も伺いましたし、
この代々神楽を指導した井原氏さんっていう人が、井原氏じゃなくて井原氏さんなんですけど、
井原氏さんという人が三条にルーツのある人だったから、だから三条のものなんじゃないかとか、井原氏金作さんですね。
井原氏金作さんが持ってきたもので、三条の道のコーナーみたいなのがあってですね、
どうもやっぱり新潟の方から来たものは確かなんですけど、なんかいろんなこの表記を見ても必ずしも、
その表記だけからはどこからやってきたものなのかはわからなかったということです。
ちょうどなんかね、これの上演も見たかったなと思うんですけど、なんかタイミングが悪くて、
来る前の日かなんかにお祭りがあってやったんですよみたいな話も聞きまして、残念ながらここは見れなかったんですけど、
というのもありました。
はい、というのはだいたい絵別で見たもので、あと共同資料館とかね、その辺も行ったりしていろいろ調べてきましたけれども、
なかなか難しかった、なかなか難しかったです。
大西さんに伺いますと、新潟への思いみたいなやつがすごく熱い思いを持った集落の人にお話を聞くみたいなそういうパターンにはならなかったので、
どういうふうにまとめとったらいいのか。ここに新潟の人々が入っていった痕跡がありましたみたいなね。やっぱりそうなるかなと思う。
なと思っていますまあ学生たちがこれから頑張ってまとめてくれると思う 私もいろいろ勉強しながら
いきたいと はいえっと北海道シリーズはですねまぁこれ以外もまあその
a 別の取材の後で開拓の村に久しぶりに行ったりとか
というのもありましたし あとは彼もだいたい88まで見てもらったんでいろいろしゃべれるんですけど
まあだんだんこうね新潟の話に戻していくかっていうことで言うと まあ北海道まあ10日間を回っていろいろ見てきたものの話もしながら
またその後戻ってきてすぐ佐渡に行ってきましたのでその辺にちょっともお話し しようかなと思いますはい今日はここまでにしましょうはいありがとうございました