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こんばんは、新潟のへラジオ、一戸信哉です。今日は9月12日火曜日です。
この番組、いつも朝ですね、皆さんが、多くの方々が出勤する前の時間、9時前ぐらいに配信していることが多いですが、
今日は少し遅めの時間、遅めというか遅い時間ですね、夜のこんばんはの時間に配信したいと思います。
先週後半からですね、今大学は休みなんですけど、いろいろ公演とか、学生を連れてワークショップに行ったりとか、
いろんなイベントが続きまして、なかなか参加、配信ができなかったんですけど、ようやく今日ですね、連日土日も含めて続いていたのが終わったので、
ちょっと溜まってたやつをお話ししようと思っていました。
先週の木曜日と金曜日は定例というか毎年恒例で、新潟高校でネット利用ワークショップって言うんですけど、
ネット利用のトラブルみたいなやつをね、みんなで考えてみようっていうのを毎年やってるんですが、
今年も木曜金曜と前8クラスの予定だったんですが、7クラスになりまして、7クラスでワークショップをやってきたので、
その時にちょっと見てきたやつの話をしようかなと思っていたんです。
で、それが今日になっちゃったということです。
今配信の方、ドラムスコさんからコメントいただきました。
こんばんは、よろしくお願いします。
鉄工丸事件の慰霊碑
今日はですね、鉄格丸事件という話をします。
これも今年初めて見たわけじゃなくて、毎年新潟工業高校行くたびにこういうのがあるんだよねっていうのを大学生に話をしながら、
ちょっと1枚2枚写真を撮って帰ってくるっていうことを繰り返していますが、
ちょっと過去のやつをたどってみたら、なんか喋ってないっぽかったので、1回喋ってみましょうということです。
工業高校の敷地内にですね、正面玄関、生徒たちの玄関の方じゃなくて、
職員の皆さんが入っていく、先生方が入っていくような玄関の脇のところに今アップした写真のような、
写真にあるような慰霊碑が、割と新しいものだと思うんですが、立っています。
見ますと平成27年と書いてますから、そんなに古いものではないですが、
読んでみますと、勤労動員でですね、工業高校の生徒ですね。
当時は工業学校と言ったのかな。工業学校の生徒たちが勤労動員に行っていて、犠牲になったという話が書いてあります。
20年7月2日というふうに書いています。こういう勤労動員は多分もっと前から行われていたようで、この石碑の内容を見ますと、昭和19年の1月から学徒選挙動員例が発布されて、
当時、今の高校生、中等学校生ですね、の勤労行事勤労動員というのが行われたというふうなことが書いてあり、
多分新潟市内だけじゃなくて、他の地域に動員されるというケースも結構あったということですよね。
その年の8月、19年の8月に名古屋日清航空に動員されていた2人が病死したということが書いてあります。
そして20年の7月2日に鉄鋼丸事件が起きたという話が、もう一つ次の段落で書いてある。そういう行動性になっています。
鉄鋼丸と勤労動員
鉄鋼丸という船は、鉄鋼って書いてある通り新潟鉄鋼所の船だということなんですが、この辺ちょっと今日口で新潟の地理を説明するの難しいんですが、
いわゆる新潟市の下古町っていうかな、カタカナで下というふうに言ったりしますけど、新潟島の徒端の方の町名でいうと入船町とかですね、そのあたりに鉄鋼所があるんですが、この鉄鋼所が使っている連絡船ということだったようです。
新潟の港というのは川なので、品野川の河口の部分にこの入船町川と、それから反対側に今の新潟市東区、山の下というエリアと両サイドあるわけですね。
川の両岸があって、川の両岸がそのまま海に注いでいますので、その徒端の部分も両サイドがあるんですが、当時その両サイド、品野川河口の右岸、左岸にこの鉄鋼所の施設が両方あったんだそうで、この両方の間を行ったり来たりする船がこの鉄鋼丸という船だったということです。
なので勤労動員に行った生徒たちがその船で行ったり来たりしながら働いていたということなんでしょうね。
この生徒たちが新潟工業の工業当時の工業学校の生徒のほか、第二工業学校って書いてあるような気がしますけど、現在の新潟商業の生徒が3人、それから新潟工業の生徒が7人。
他に新潟中学校の生徒が3人というような記述がありまして、そのほか鉄鋼所の職員の人も含めて13人が死亡したという事件です。
どういうことかというと、この鉄鋼丸という船に乗ってたんじゃなくて、鉄鋼丸ははしけって言いますよね。
その船に引っ張られていく浮遊物、浮いているやつありますよね。
それに乗っていたこれが、嫌いに触れて爆発したということですね。
こちらの石碑の記述では、電気化3年生7名が即死、3名が重傷だという記述になっていて、
新潟工業の生徒の被害や犠牲について触れているという内容です。
この時、嫌いに触れたというのは、米軍の嫌いがあちこち新潟側の新潟工業の河口付近にばら撒かれていたというのは、
これもまだ開いていくと出てきていて、新潟市というのはそんなに激しい空襲の被害というのはないんですけど、
この嫌いを落としに来た米軍機が日本軍の降射砲と交戦して、そして墜落したりしつつもたくさん嫌いを落としていったみたいな話は読んだことがありますが、
つまりはこの抗安そのものを使えない状態にするために嫌いを落としていったわけですよね。この嫌いに接触して、確か宇品丸という船は動けなくなっちゃうんですけど、
そういう非常に危険な状態になっていたけども、鉄の生産というのは非常に重要なので、人手が足りない中、中等学校の生徒も勤労奉仕に動員されて、その危険な業務に従事していたと。
結果的に若い命がそのような形で失われたという、人的な被害が比較的少なかった新潟市の中では割と大きな事件として記録に残されているものなのですが、
私も新潟工業高校にこうやって伺うようになるまで実は知りませんでしたし、新潟市民の方でも知らない方が多いと思います。
事件の被害と記念碑の意義
そういうことで、平成の27年に新潟工業高校の新工会って書いてますけど、講演会なのか同窓会なのか、そういう組織が1570年を記念してこの石碑を建てたということのようです。
実際のところですね、今もう78年前の出来事ですので、どれぐらい工業高校の生徒たちがこの話を認識しているのか、学校の先生方がこの話をどれぐらい折に触れてお話しされているのかというようなところはちょっとよくわからないです。
学校の片隅にこのような形で残されていることによって、私のような人が見に行って、ああ、そういうことあったんだなというふうに眺めているというのがおそらく実態で、この話もまた少しずつ忘れ去られていくということなのかもしれないですね。
というので、新潟工業高校の敷地内にあるので、なかなか皆さんもホイホイと訪れていくのは難しいかもしれないですけど、機会がありましたらぜひ見てみてください。
新潟工業高校は新潟市西区、住所でいうとどこかな。古心か小張かだと思いますけど、ちょっとわかりにくいところであるんですけどね、ちょっと引っ込んだところに立っています。
今コメントには就職率100%ってすごいですね、コメントをいただいて。どっかに書いてあったんですかね。工業高校のページに書いてあったんでしょうかね。
今でもそうですね、電気科とかですね、建築科とか土木科とか、科ごとに一クラスまたは二クラスで科が分かれていて、勉強しているという学校で、
高校を卒業した後の就職も校長のようで、そんなに大学にガツガツみんな行こうという感じでも、確かにそんな感じでもないかもしれないですね。
大学に関係しているものとしてはね、今コメントで鉄工の町つばめ山城あたりに就職するのでしょうかって書いてましたけど、必ずしもそうではないと思いますよね。
学科としては機械科、電気科、工業科学科、土木科、建築科といった感じですよね。だから結構いろんな業種に就職していっていると思います。
なんか一生懸命やってますね。工業高校生徒会インスタグラムとかね、YouTubeとかね。ちょっとそういうふうに、ちょっと前とは変わってきたような感じもいたします。
コーページ見ると進行会って書いてあるので、やっぱりあれを作ったのは同窓会の記念事業みたいなものだったのかなと思います。
だからやっぱり、新潟工業高校の長い歴史の中では重要な出来事であり、それを記録に残そうというのは、同窓会としては非常に関心の強いところなんでしょうね。
ちなみに学校に行くと職員現場のところにでっかく出ているのは稲垣選手に寄贈したユニフォームがいっぱい展示してあって、ラグビーのね。
ラグビー日本代表の稲垣選手が新潟工業高校のラグビー部出身ということで、それは大きく扱われているのと、
あと去年見せていただいたんですけど、ラグビー場の芝生もね、芝生も稲垣選手が寄贈したと。
芝生に名前書いてあるわけじゃないんですけど、そういう立派な芝生もあると聞いております。
というところで今日はちょっと遅い時間でしたけれども、新潟工業高校の高丸伊礼比のお話をいたしました。
どうもありがとうございました。