1. 寝落ちの本ポッドキャスト
  2. 041小山清「落穂拾い」
2024-06-27 36:29

041小山清「落穂拾い」

041小山清「落穂拾い」

タイトルの意味が最後にわかりました。僕も友人に「女に生まれたら嫁にもらいたい」と言われたことがありますが、まっぴらご免です。今回も寝落ちしてくれたら幸いです。


ご意見・ご感想は公式X(旧Twitter)まで。寝落ちの本で検索してください。

00:04
寝落ちの本ポッドキャスト。
こんばんは、Naotaroです。
このポッドキャストは、あなたの寝落ちのお手伝いをする番組です。
タイトルを聞いたことがあったり、実際に読んだこともあるような本、
それから興味深そうな本などを淡々と読んでいきます。
エッセイには面白すぎないツッコミを入れることもあるかもしれません。
作品はすべて青空文庫から選んでおります。
ご意見ご感想は、公式Xマでどうぞ。
さて、今日はですね、小山清さんの落穂拾いというテキストを読もうと思います。
小山さんは、小説家で太宰治のお弟子さんにあたる人。
代表作に、小さな町、落穂拾いなど清純な小説があり、
作家としてその地位を確立。
他に、安い頭、おじさんの話などが有名だそうです。
うーん、初めて聞きますね。文章が優しい感じなんで、
ふんわりやんわりしたテキストにまとまりそうな気がします。
それでは参ります。落穂拾い。
即文するところによると、
ある老死人が長い歳月をかけて執筆している日記は嘘の日記だそうである。
僕はその話を聞いて、その人の孤独に触れる思いがした。
きっと寂しい人に違いない。
それでなくて、そんな長い間にわたって嘘の日記を書き続けられるわけがない。
僕の書くものなどは、もとより取るに足らないものではあるが、
それでもそれが、僕にとって嘘の日記に相当すると言えないこともないであろう。
僕はできれば早く歳をとってしまいたい。
少しくらい腰が曲がったって仕方がない。
僕はその時、あるいは鳥のひなを打って成形を立てているかもしれない。
けれども年寄りというものは、
必ずしも世の中に不如意を囲っているとは限らないものである。
僕は、自分の越し方を変えりみて、好きだった人のことを言葉少なに語ろうと思う。
そして僕の書いたものが、
少しでも僕というものを代弁してくれるならば、それでいいとしなければなるまい。
03:03
僕の書いたものが、僕というものをどのように人に伝えるかは、それは僕にもわからない。
僕にはどんな生活心情もない。
ただ愚図な貧しい心から、自分の生まれつきをそんなに悲しんではいないだけである。
イプセンのノガモという劇に、気の弱い主人公が自分の家庭でフルートを吹奏する場面があるが、
僕なんかも笛でも吹けたらなぁと思うことがある。
例えばこんな曲はどうかしら。
一人で森へ行きましょう、とか、
私の心はあの人に、とか、
ママ母に叱られて、または恋人からすげなくされて、
泣いているような娘のご機嫌をとってやり、その涙を優しくぬぐってやれたなら、
誰かに贈り物をするような心で書けたらなぁ。
もはや二十年の昔になるが、
神楽坂の夜店商人の間に一人の似顔絵描きがいた。
まだ若い人で粗末な服装をしていて、
武将ひげを生やした顔を寒風にさらしていた。
美訓を帯びていることもあった。
見本に並べてある絵の中にはその人の自画像もあって、
それにはひょっとこの命と傍所してあった。
僕はその頃温かいマントに身を包み、
懐には身分不詳な小遣いさえ持っていた。
その人も今はあるいは偉い大貨になられたかもしれんのだが、
僕は今自身にひょっとこの命を感じている。
僕は今武蔵野市の片隅に住んでいる。
僕の一日なんておよそ所在ないものである。
本を読んだり散歩をしたりしているうちに日が暮れてしまう。
それでも散歩の途中で野菊の咲いているのを見かけたりすると、
ほっとして重荷の降りたような気持ちになる。
その可憐な風情が僕に、
お前も生きていけと囁いてくれるのである。
僕は外出から帰ってくると、門口の郵便箱を開けてみる。
留守の間に何かいい便りが届いてしまいかと思うのである。
06:04
箱の中はいつも虚しい。
それでも僕は開けてみずにはいられないのだ。
こないだ、Fくんから葉書が来た。
移転の通知である。
Fくんは北海道の夕張炭港にいる。
僕は終戦後、夕張炭港へ行った。
職業紹介所を通じて炭鉱婦の募集に応じたのである。
Fくんはその時の道連れの一人である。
僕たちは寒いさなかに上野を立った。
僕たちはみんな炭鉱ローム車の記号のついた腕章を巻いていたが、
誰もが気恥ずかしそうにしていた。
汽車の中は窓ガラスがなくて、代わりに板が打ち付けてあるところもあって寒かった。
僕は寒さに震えながら、
向かいに腰掛けているFくんの防寒用にかぶっている防空頭巾の内に覗いているその素直な眼差しに、
時々思い出したように見入った。
僕たちはその日初めて見知った仲なのだが、Fくんは僕に言ったのである。
稼いだらまた東京に帰ってきましょうね。
Fくんのその何気ない言葉が、
その時の僕の結ぼれていた気持ちをどんなに解き放してくれたことか。
夕張は山の中の炭鉱町である。
一年の半分は雪に埋もれている。
人口に言って寂しいところである。
僕はそこで心細い困難な月日を送ったという以外、
格別なことは何もなかったのだが、
僕は恐縮を感じている。
刑務所にいた者は出所してから、
いにしえのフルスのことをふと懐かしく思うことがあるそうである。
ほとさらにシャバの風が冷たかったりすると、
僕の夕張に対する気持ちはそれに似たものがあるかもしれない。
土地の寄付は害して他国者に親切である。
内地から出かけた人の中には、
国から最初を呼び寄せたり、
または土地の女と一緒になって住みつく人も少なくない。
僕は思ったより早く東京へ帰るようになったが、
Fくんは夕張に残った。
09:01
Fくんはあらわには言わなかったが、
そこで書体を持つ心づもりらしかった。
Fくんは言った。
どこにふるさとがあるかわかりませんね。
僕たちは早い話が内地を食い詰めて出かけていったのだが、
僕はFくんのようなおとなしい人が、
あんな壁地でどうやら異中の人を見出したらしい様子なので、
そのために一層Fくんを好ましく思った。
Fくんには人と争う心が少しもなかった。
Fくんはまた、
およその真実は語るに適せぬこと、
言わぬがよいことを承知している人であった。
僕はFくんとなら一つ家に共に暮らしても、
気まずくなる心配はないと思っている。
こんなことを言ったらおかしいだろうが、
もしもFくんが女だったら、
僕はお嫁にもらったかもしれない。
Fくんからの葉書には、
Fくんが僕たちのいた寮を出て、
新しく新築された長屋に入ったことを知らせてあった。
私たちも元気です。
と、それだけしか書いてない。
Fくんらしい控えめな新生活の放置であった。
夕張の駅は山外にある。
両側の山の名沿えには、
炭鉱夫の長屋が雛壇を見るようにいく列も並んでいる。
夜、雪の中にこの長屋の火のついている光景を眺めることは、
僕たちに旅の思いを模様させたものである。
僕は今、追翼の山の上に、
Fくんたちの火を一つくわえた。
秋深き、隣は何をする人ぞ。
僕の家の便所の窓からは、
塀越しに林家の庭と座敷が見える。
座敷の中には大抵いつも一人の青年が、
机に向かって椅子に腰をかけ、本を読んでいる。
この家は母親と息子であろうその青年との二人暮らしのようである。
母親は五十くらいの年配で、青年は二十二三くらい。
ひっそり住みなしている感じで、話し声が聞こえることもない。
二人が共にいるところを見かけることもほとんどない。
僕は元来、物見高い方ではないし、
物付けに他人の柿の内を覗くわけではないのだが、
12:03
便所に入るとつい窓越しに目に入ってくるのである。
縁側のガラス戸が閉まっていて、
家にカーテンがひかれていることもあるが、
大抵いつも一人青年が机に向かっている姿が眺められる。
そしてその様が僕の目を引くのである。
青年は書物の上にうつむいていることが多く、
僕に見られていることには気がつかない。
僕は便所に入ったとき、青年の姿を見かければ、
いつもちょっと視線をその顔の上に止める。
僕はなぜその青年の顔が僕の目を引くのか、心に問うてみた。
一言にして言えば、擦れていないからである。
僕はかつて、鴎外の青年という小説を読んだとき、
よくわからなかった。
なぜ鴎外はこんな若き蕾善とした乳尺児を描いて、
しかもそれに青年という題名を付けたのだろうと不審に耐えなかった。
最近読み返して目の開く思いをした。
この作品の冒頭の部分に次のような一行がある。
増田、おちゃっぴーな少女の目に映じたのは、
色の白い卵からかえったばかりのひなのような目をしている青年である。
鴎外はこういう青年の像を描こうとしたのである。
それはまさしく青年であって若き蕾などというものではなかった。
西洋の名画に笛を吹く少年とか縄跳びをする少女とかいうのがある。
林家の青年は僕にとっては差し詰め本を読む青年でしかない。
決してその平面図から抜け出て僕の生活図形に入ってくることはないであろう。
けれどもその静かな生活の佇まいの中にいる青年の無心なさまを眺めると、
例えば光を浴び風にそよぐポプラの梢を仰いだときに、
僕の心の中で何かが揺れるように僕の心に伝わってくるものがある。
時たま道で行き合うこともある。
お互いに隣同士なことは知っているが、僕たちは挨拶などはしない。
知らん顔をしている。
無言ですれ違うだけである。
名前も知らない。
15:00
表札などには目を向けて見ないのである。
牛乳一合、うどん一斤、卵二つ、味噌二百文目、ほうれん草。
僕は今自炊の生活をしている。
それでも七輪や鍋、夜間、包丁、まな板、茶碗などがそろったのはつい最近のことである。
そしてどうやら今のところはこの生活を維持している。
けれども僕の不安定な生活も久しいものである。
いつこの生活が突き崩されるか、それは計り知れたものではない。
降参なければ行進なしと言うではないか。
いつどんなヘマをしでかすか、僕にはとても信用できないのである。
書体道具が増えたじゃないかと笑った人があるが、
例えば僕が一羽のツバメであるとすれば、
僕にとって七輪や鍋はツバメがその巣を作るために口に含んでいる泥やわらしべの類に相当するであろう。
そして僕に養う小ツバメがないにしても、
僕としてはやはり自分の巣は営まなければならない。
僕は人が思うほどには、また自分から人に話すほどには浸水の牢を臆くうにはしていない。
そんなに嫌でもない。
僕の一日などは大抵無意のうちに暮れてしまうのだが、
無意ではないのは睡眠という営みを別にすればその時間だけである。
そして僕にはそれに費やされる時間の長さがありがたいのだ。
僕はそれをひどくスローモーションにやるわけなのだから。
例えば母親から慰められずに置き去りにされた子供が
一人で玩具を持て遊んでいるうちにいつか涙が乾いてくるように
米を研いだり縄を刻んだりしていると僕の気持ちもようやく紛れてくる。
僕はうどんが煮える間を、米が炊ける間を大抵いつも刺繍を紐解く。
小説なんかよりはこのほうが勝手だから。
こんな詩を見つけたりする。
夕日が傾き、村から日差しが消える時、村から村へ暗がりを訴える。
優しい鐘の響きが伝わっていく。
18:02
まだ一つ、あの丘の上の鐘だけがいつまでも黙っている。
だが今それは揺れ始める。
ああ、私のキルヒベルクの鐘が鳴っている。
マイヤ・チンコンカヨリ
この詩はまた僕の心を鎮めることにも役立つ。
そして僕の心を遠く志したものに遥かな希望に繋いでくれる。
僕は一日中誰とも言葉を交わさずにしまうことがある。
日が暮れると何もしないくせに僕は疲れている。
一日だけのエネルギーがやはり使い果たされるのだろう。
額に鷹を絞められたような気分で、そしてふと気がつく。
ああ、今日も誰とも口を聞かなかったと。
これは良くない。
きっと僕はむくんだような顔をしているに違いない。
誰とでもいい。そして二言三言でいいのだ。
例えばお天気の話などでも。
それはほんのちょっとした精神の排泄作用に属することなのだから。
僕は自分では酒はたしなまないが、それでも酒を飲む人の気持ちがわかるような気がする。
人恋しい気持ちに誘われて野宮ののれんをくぐって、
そこに知った顔を見つけたときの楽しさは格別なものがあろう。
僕にはつい遊びに出かけるようなところもない。
それにスズメの巣にツバメが顔を出したとしたら、
それは侵入者ということになりはしないだろうか。
スズメの家庭にはスズメの家風というものがあるのだろうから。
そしてそれはやはり尊重しなければならないのだろうから。
それでもおとぎ話なんかによくあるではないか。
スズメがツバメの訪問を歓迎する話が、
その人のために何かの役に立つということを抜きにして、
僕たちがお互いに必要とし合う間柄になれたなら、どんなにいいことだろう。
僕の家から最寄りの駅へ行く途中に芋屋がある。
芋屋と言っても専門の芋屋ではない。
じいさんが買い出しに出かけて担いできたやつを、
ばあさんが釜で焼いて売っているのだ。
僕は人に会いたくなると時々そこへ出かけて行く。
21:03
小さいバラック建ての店の中に、
一人腰掛けられるくらいのところに御座が敷いてあって、
客が休めるようになっている。
お茶の接待もある。
気がおけなくて僕などには行きやすい。
僕は行くといつも芋を百問目がとこ食べて、
ほうじ茶の熱いやつを大きな湯のみにおかわりをする。
僕のほかに客があることはほとんどなく。
その小さな店の中にはおばあさんと僕だけで、
僕はとてもアットホームな気がしてくつろいでしまう。
そのおばあさんがとてもいいのだ。
年頃はまだ七十にはなるまい。
もしかすると六十をいくつも越していないのかもしれない。
髪はそれほど白くはない。
それでも腰が少し曲がっているし顔もしなびかけている。
年よりも早くふけこんでしまうような生活を送ってきたのだろう。
おばあさんの顔を見ると、その声を聞くと、
おばあさんが優しい善良な心根の人だということがすぐわかる。
その人の生まれつきの性質というものは年をとっても損なわれずに残っていて、
やはりその人を一番に伝えるものではないだろうか。
ことさらに単純で素朴な人たちの間では。
僕にはおばあさんの顔が正直という徳で縁飾りをされているように見える。
おばあさんははかりで芋をはかってくれてから、
ほうじ茶の入ったやかんを僕のそばに置いて、
田舎なまりのある口調で、
「勝手に注いであがってくださいよ。」と言う。
おばあさんと迎え合っていると、僕はとても安気で、
お茶を何杯もおかわりして飲む。
お金を贈ると、「どうもありがとうございました。」と言う。
人柄というものはおかしなもので、
こんな何でもない挨拶にも実意がこもっている。
ついぞ愛客のあった試しはないが、結構飽きないはあるのだろう。
おばあさんが僕に世間話をしかけることもない。
僕もまた黙っている。
ただ芋を食ってお茶を飲んでくるだけである。
それでも僕の気持ちは慰められている。
いつか夜風呂の帰りにおばあさんに会った。
24:04
やはり風呂に行くところらしく、手拭いを下げていた。
僕にはもう一軒行くところがある。
僕は最近一人の少女と知り合いになった。
彼女は駅の近くで緑印書房という古本屋を経営している。
マーケットの一隅にある小さい店で、
彼女は毎日その店、隣町にある自宅から自転車に乗って出張してくるのだ。
彼女は新生高校を卒業してから、上級の学校へも行かず、また勤めにもつかず、
自ら選んでこの商売を始めた。
府県への勧めに寄ったのではなく、
彼女一人の見識に基づいてしたわけで、
二十歳前の少女の身としてはまずけなげと言っていいだろう。
よく一人で始める気になったね、と僕が言ったら。
彼女は別に意気込んだ様子も見せず、
私は若ままだからお勤めには向かないわ、と言った。
紫色の細いバンドで髪を押さえているのが、
化粧をしない気真面目な顔によく映って、
それが彼女の場合は素朴な髪飾りのようにも見える。
おそらく快楽好きな若者の目には器量良しには映るまい。
自転車にまたがっている彼女の姿は、
あたかも働き者の娘さんを一枚の絵にしたようだ。
昨年没したDという小説家は、
自分にはビジットの能力がないとこぼしていたが、
僕などもそのお仲間らしい。
第一に、他人の家の門口の扉を我が手で開けるということが既に億劫だ。
彼女の店は商売柄客に対していつも門口が開放してあるので、
つい入りやすいから、
僕は時々立ち寄って店の営業妨害にならない程度に話をしてくる。
僕はまた彼女の店のお得意でもある。
主として金逸本の
僕はまだ彼女の店で一度に50円以上の買い物をしたことはない。
僕が初めて彼女と近づきになったのも、
金逸本の中に
聖フランシスの小さき花とキリストの真似日を見つけたときだ。
彼女は小さき花の奥づけが取れているのを見て、
27:00
10円値引きをしてくれて、
2冊で50円にしてくれた。
僕は今の人が忘れて帰り見ないような本を繰り返し読むのが好きだ。
僕は時々彼女の店に金逸本を漁りに行くようになり、
そのうち彼女と話を交わすようにもなった。
彼女の気質が素直でこだわらないので、
僕としても珍しく悪びれずに話すことができるのだ。
そしてそれが僕には自分でも嬉しい。
大げさに言えば、僕は彼女の眼差しのうちに
未知の自分を確認するような気さえしている。
こうして、僕に思いがけなく新しい交友の領域が開けた。
彼女と僕が話しているのをよそ目に見たら、
だいぶ了解の届いた中に見えるかもしれない。
僕としても付き合いの短い割には、
お互いに気心がわかったような気がしている。
彼女は僕のことをこだわりなくおじさんと呼んでいる。
彼女から見れば、僕などはおじさんに違いない。
また、おじさん以外の何者でもあるわけがない。
彼女から、「おじさんのご商売は?」と聞かれて、
僕は小説を書いていると答えた。
靴屋ならば靴をこしらえていると答えるだろうし、
時計職ならば時計を組み立てていると答えるだろう。
ただ僕の場合は、まだ文芸年間にも登録されていないし、
一冊の著書さえなく。
また、2、3書いたものを発表したこともあるが、
その雑誌も今は廃刊している。
けれどももしそんなことで僕が悪びれたりしたなら、
その小さな店で関東している彼女に対しても
男子の子犬に関わることだろう。
自分で小説書きを評謗する以上、
上手下手は別として、
僕としては仕事に励む気になっている。
それに応じて仕事そのものが性を出してくれたのなら、
申し分ないのだが。
彼女は商売柄、「日々のパン」という
僕の旧作が載っている雑誌を見つけ出してきて読んだようだが、
言うことがいい。
私、おじさんを声援するわ。
僕としては思いがけない知己を得たわけであるが、
彼女はどうやら僕を少し買いかぶっている気味がある。
僕のことを大変苦労をしたもののように
思い込んでいる節が見える。
30:02
僕の書いたつまらないものが、
彼女にそんな思い違いをさせたのならば、
僕としては後ろめたい気がする。
ひとつは、僕の服装の貧しさが
何か曰くありげに見えるのかもしれないが、
これはただ僕に稼ぎがないだけの話である。
彼女はなかなかの勉強家で、
店番をしながら
ロシア語4週間などという本を読んでいるが、
その本の中に
貧乏は傷ではないという言葉座を見出して言うことには、
私ね、それを読んで
おじさんのことを連想したわ。
ひどい買いかぶりである。
それは僕になって、
肉体の上を精神の上に変えてほしい本を手に入れて、
それに読みふけった思い出がないことはない。
僕はかつて
ハムスンの上という小説を読んだとき、
主人公が苦境にあって、
よく狡猾の精神を失わないことに感心した。
僕にはとてもあの真似はできない。
仕事わざはそのままのしをつけて、
彼女に返上したほうがいい。
午前中は自転車に乗って建場回りをし、
店を開けてからは夜9時過ぎまで頑張り。
店番の隙には語学を勉強したり、
幼い弟の道義を編んでやったりしている
彼女の賢明な生活の姿にこそ、
この言葉はふさわしいであろう。
彼女は自分のことを
私は本の番人だと思っているの。
と言ったことがある。
彼女は商品の本や雑誌をとても丁寧に取り扱う。
仕入れた品は店に出す前に一冊一冊調べて、
ヤスリ紙や消しゴムで汚れを拭き取ったり、
コテでシワを伸ばしたり、
破損している箇所をのりづけしたりしている。
見ていると入念に愛護しているような感じを受ける。
彼女の店の商品の値段はがいして安い。
私、あまり儲けられないの。
本屋って泥棒みたいですわ。
と言っている。
たまに掘り出し物なんかすると、
帰って後で気持ちが落ち着かないという、
塵も積もれば山となる式の細かい商法が好みらしい。
彼女の店は月にして約2万円の売上があり、
儲けは7、8千円くらいだそうである。
開店以来6ヶ月にして、
ようやくそれまでにこぎつけたという。
彼女はそのことを、
リンゴの頬を輝かせて澄んだ眼差しで僕に告げた。
33:02
僕はその時彼女から、
事故の記録を保持するために懸命の努力を続けている選手のような印象を受けた。
彼女はそのために定期の位置の他に、
毎日自転車に乗って、
立場や精子減量屋までを駆けずり回っているのである。
僕は一体に男の大まかよりは、
女のつま下の方に心を惹かれる。
こないだ彼女から贈り物をもらった。
10月4日は僕の誕生日である。
僕はそのことを何かの話のついでに彼女に告げたらしいのだが、
彼女は覚えていて、
その日ぶらりと彼女の店に立ち寄った僕に贈り物をくれるというのである。
均一本のお客様に対してかねえ。
いいえ、一読者から敬愛する作家に対してよ。
えー何をくれるの?
当ててごらんなさい。
私これから薬屋へ行って買ってきますから。
おじさんちょっと見せ番しててね。
彼女はゼニ箱から50円紙幣を一枚つかみ出して店を出て行った。
何をくれるつもりだろう。
甲虫清涼剤だろうか。
まさか水蒸しの薬ではあるまい。
待つ間ほどなく、
彼女はもろってきて小さい紙包みを僕にくれた。
開けていいかい?
どうぞ。
開けると中から耳かきと爪切りが出てきた。
なるほど。僕にはそれがとても気の利いた贈り物に思えた。
金目のものではないだけに一層。
これはどうもありがとう。愛用するよ。
彼女は笑いながら僕に新聞次第の紙を広げてよこした。
見るとその月の少女雑誌のフロックで
彼女の指示した箇所には
10月生まれの画家、詩人、科学者などの名が列記してあって
その始めには
10月4日生まれ、未齢、晩生や落ちぼひろい
またお母さんの心遣いを描いたフランスの農民画家としてあった。
以上が僕の最近の日録であり、またこういう録でもある。
実録かどうかそれは言うまでもない。
2013年発行。
ちくま書房。ちくま文庫。
落ちぼひろい。犬の生活。
より読み終わりです。
36:00
なんかほっこりするテキストでしたね。
なんか文章運びが僕の脳内にない運びが多くて
すごい噛みました。
すごい取り直しが多かったな。
なんか聞き取れないぐらい噛む感じだったんで
読み間違いが多くて苦労しました。
あんまり長くなかったのにな。
それでは今日はこの辺でまた次回お会いしましょう。
おやすみなさい。
36:29

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