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寝落ちの本ポッドキャスト。
こんばんは、Naotaroです。
このポッドキャストは、あなたの寝落ちのお手伝いをする番組です。
タイトルを聞いたことがあったり、実際に読んだこともあるような本、
それから興味深そうな本などを淡々と読んでいきます。
エッセイには、面白すぎないツッコミを入れることもあるかもしれません。
作品はすべて青空文庫から選んでおります。
ご意見ご感想は、公式Xマでどうぞ。
さて今日は、
島崎藤村の芭蕉というのを読もうと思います。
島崎藤村。
名前も苗字みたいなお名前ですよね。
島崎藤村は初めて読みますが、
代表作、夜明け前。
父をモデルにして描いた長編歴史小説。
基礎街道を主な舞台とする作中には、豊かな自然の描写があふれ、
島村の故郷の皆子や同系の思いが伺える。
ということですが、今回は、
芭蕉という作品を読もうと思います。
エッセイだと思うんですけどね。
松尾芭蕉のここがいいぜみたいなお話になっているんだと思います。
ちょっと文章が難しいな。
特徴的な芭蕉の作品の名前が出てくるので、
なんか聞き慣れない言葉だなと思った時は、
芭蕉の作品の名前だと思っていただければと思います。
いきましょう。
芭蕉。
フランスの旅に行くとき、
私はカバンの中に芭蕉全集を入れて持って行った。
異郷の客舎にある間もよく取り出して読んでみた。
冬の日、春の日から、
荒野、猿見野を経て、
隅田原にまで到達した芭蕉の死の境地を想像するのも楽しいことに思った。
昔の人の書いたもので、
それを読んだ時は酷く感心したようなものでも、
歳月を減る間には自然と忘れてしまうものが多い。
その中で折に触れては思い出し、
いつ取り出して読んでみても飽きないのは芭蕉の書いたものだ。
朝を思い、また夕を思うべし。
眼畜の多い芭蕉の詩や三文が、
折に触れては自分の胸に浮かんでくるのは、
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あの朝を思い、また夕を思うべしというような心持ちから生まれてきているからだとは思うが、
またその他に自分の心を惹く原因がある。
近頃私は少年期から青年期へ移る頃にかけて受けた感動が、
深い影響を人の一生に及ぼすということをよく思い至る。
ちょうどそうした心の柔い、感じやすい年頃に、
私は芭蕉の書いたものを愛読した。
その時に受けた感化が、いまだに私に続いている。
どうかすると私は、少年時代に芭蕉を愛読したと少しも変わりのないような、
それほど固定した印象を今日の自分に見つけることもある。
今から25、6年ばかりも前に、
私は大海から大和寺の方へかけて旅したことがある。
私はまだ極めて若い盛りの年頃であった。
私は篤田から船で四日市へ渡り、
亀山というところに一晩泊って、伊賀と大海の国境を歩いて越した。
あれから琵琶湖のほとりへで、
大津、瀬田、瀬々などの町々を通って、
西京から奈良へと通り、吉野寺を旅した。
私はもう一度琵琶湖のほとりへ引き返して、
石山の茶竹の一室に旅の足を休め、
そこに一夏を送ったこともあった。
私は自分の距離の基礎字の変遷を考えてみても、
これほど若い時の自分の目に映った寂しい伊賀の山中や、
吉野寺の日当りや、それから琵琶湖のほとりが、
その昔正門の詩人塔に歩いた場所と
違った感じのものであるやを言うことはできない。
しかしあの度も私にとっては、
場所に対する感銘を深くさせた。
少年時代から私の胸に描いていた場所は、
一口に言えば尊い老年であった。
私はつい近頃まで場所という人のことを想像するたびに、
非常に年取った人のように思っていた。
その晩年は、人として到達し得る最後の
尊い境地の一つだというふうに考えていた。
ここにも潜入主となった印象が、
未だに私の上に働いていることを感じる。
あの古住の返産した場所の一葉集を手にしたのは、
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まだ白金の明治学位に通っていたほどの学生時代であった。
私が年少である場合だけ、
あの老成な気候文などを書いた場所が、
非常に年取った人であるという想像を浮かべずにはいられなかった。
けれどもこれは、
自分が若かった年頃に場所を知ったというばかりではなく、
こうした潜入主となった印象を強める数々のものが、
他にもあったと思う。
実際31歳で既に髪をないでしまって、
自ら風浦坊と称したほどの人から、
品種畜生に似ていていると言って、
自ら教区まで作ったほどの人から、
大抵のものの受ける感じは、
あの立王という人の描いた場所の肖像に見るような、
陰邪らしい生き物に頭巾をかぶった、
年寄りくさい人物であらねばならない。
沖縄という言葉の持つ意味が、
一番よく当てはめられるのも馬匠であるような気がする。
馬匠は51歳で死んだ。
それについて、近頃私の心を驚かしたことがある。
友人のババ君は、
その昔、白金の学僧を一緒に卒業した仲間であるが、
私より3つほど年かさにあたる同君が、
来年はもう51歳だ。
ババ君のことを古長王と呼んでみたところで、
誰も承知するものはあるまいと思われるほど、
同君はまだ若々しいが、
来年のババ君の年に馬匠は死んでいる。
これには私は驚かされた。
老人だ老人だと、
少年時代から思い込んでいた馬匠に対する自分の考え方を、
変えなければならなくなってきた。
思いのほか、馬匠という人は、
若くて死んだのだと考えるようになってきた。
なるほど、元禄の昔と大正の今日とでは、
社会の空気からして違うだろう。
あの元禄時代の馬匠王に、
自分の友達仲間でも、
格別希少の若々しいババ君を比較することは、
ちと無理かもしれない。
それにしても私は、
馬匠という人が大阪の花屋の座敷で、
この世を去ったという時でも、
実際においてそれほど老年ではなかったということを考える。
ついこの頃も、
ババ君が見えた時に、
私はこのことを同君に話して、
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それからあの馬匠の芸術の底にこもる、
高貴の高い情熱について語り合ったこともあった。
40ぐらいの時に、馬匠はもう大きなという気分でいたんだね、
とババ君も言っていた。
もっとあの人が長く生きていたら、
どんな種の境地が開けていったろうというような話も、
私たちの間に出た。
とにかく、私の心の驚きは、
今日まで自分の胸に描いてきた馬匠の心臓を、
10年も20年も若くした。
そう思ってもう一度、馬匠の前周を開けてみると、
冬の日のできたのは、馬匠が40歳になったばかりの頃だとあるし、
荒野のできたのが45歳の頃だとある。
猿見野の選ばれた頃ですら、馬匠は48、49歳の人だ。
馬匠の芸術は、それほど年老いた人の手になったものではなくて、
実は中年の人から生まれてきた、
抑えに抑えた芸術であると言わねばならない。
馬匠が変換の説に曰く、
色は君子の憎むところにして、
わしも誤解の始めに置くといえども、
さすがに捨てがたき情の綾肉に、
悲しなる方々も多かるべし。
人知れぬ倶楽部の山の上の下節に、
思いの他の匂いにしみて、
忍ぶの丘の一目の感も、
もるひと泣くば、いかなる過ちをかしいで出てん。
天の子の波の枕に袖しよれて、
家を売り身を失うためしも多かれど、
老の身の行く末を貪り、
米税にの中に魂を苦しめて、
物の情をわきまえざるには、
はるかにまして罪許しぬべし。
人生七十を稀なりとして、
身の逆なることはわずかに二十四年なり。
始めの老いの来たれること一夜の夢の如し。
五十年六十年の弱い傾くより浅ましゅう、
崩おれて、
酔い寝がちに朝起したる寝起きの分別、
何事をかむさぼる。
愚かなる者は思うこと多し、
反問増長して一芸の優るる者は是非の勝る者なり。
これをもて世の営みにあて、
貪欲の魔戒に心を怒らし、
高潔に溺れて生かすことあたわずと、
南下浪泉の有意利害を破却し、
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老若を忘れて暇にならんこそ、
老いの楽しみとは言うべけれ。
人来たれば無用な敵あり、
出ては他の家業を妨ぐるも無し、
尊敬が戸を閉じて、
所が門を閉ざさんには、
友なきを友とし、
貧しきを止めりとして、
五十年の願仏自ら書き、
自ら金塊となす。
これを読むと、
中年の人の心持ちがさすがに隠されずにある。
この文章の中には、
襲い来たる追いも書いてある。
義芸の是非ということも書いてある。
沈黙ということも書いてある。
貧しさの中に見つけた心の富ということも書いてある。
恋愛に対する孤独な人の心も書きつけてある。
朝顔や昼場上卸す門の書き、
この孤独と沈黙と、
主導者のような苦しみとは、
何を馬匠の生涯にもたらしたろう。
蘇格がサルミノの序文に書いたような
徘徊に魂を入れるという言術は、
あるいはそこから生まれてきたのかもしれない。
馬匠の芸術が、
印象派風な武尊の芸術と違って、
ソウルの芸術とも呼んでみたいのは、
やはりそこから来ているのかもしれない。
しかし馬匠が五十一歳ぐらいでこの世を去ったということを、
この閉館の説にも出ているような、
独身独居で境界を苦しめたということと、
その間には深い関係のないものだろうか。
飾らぬ御とな思いそ玉祭り。
私はあの君の心を憐れむ。
馬匠の三文には、
何といって御用のない美しいリズムが流れている。
かつて私は長谷川二羽亭氏が、
文品の最も高いものとして、
馬匠の三文を挙げたのをある雑誌で読んだ時に、
嬉しく思ったことを覚えている。
全く思いがけなかったのは、
私がパリにいる頃、
エルレールに馬匠を比較した一説を、
カミーユモークレールの著述の中に見つけたことであった。
それを見つけた時に、
一部のフランス人の中には、
馬匠の名が伝えられていることを知った。
あたかもあのカミーユモークレールというような人が、
どうして馬匠を知ったかということは、
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ちょっと私には想像がつかない。
追いの小文、
奥の細道、
などの旅行記が、
何度繰り返し読んでも飽きないことは、
今さらここに言うまでもないが、
馬匠が巨大の落子写で書いたという佐賀日記に、
私は特別の興味を覚える。
馬匠の日常生活の消息が、
あの寒少な日記の中によく伺われるような気がする。
あの中に、
一人住むほど面白気はなし、
などと言いながら、
乙女夫婦を泊めて五人で一張りのかやに寝るほど、
ひと夏っこい馬匠がいる。
一つのかやに五人では眠られなくて、
みんな夜半過ぎから起きて菓子を食いながら、
暁近くまで話したということなどが書いてある。
その前の年に、
馬匠が班長の家で泊まったときは、
二畳のかやに四家国の人が寝て、
思うことが四つで、
夢もまた四種と書いたと言い出して、
みんなを笑わせたということなども出ている。
それからまた、
あの日記の中には、
百日ほど安儀屋を共にした都国の主を夢に言い出して、
すすり泣きして目が覚めたという、
パッショネートな馬匠の性質も現れている。
さみだれや色髪へぎたる壁の跡、
こういう句となって形をとるまでに、
馬匠の情熱をどれほど抑えに抑えたものであるやも知れぬ。
馬匠には全く宗教に行こうとしたときもあったらしい。
がくいえばとて、
ひたぶるに寒若を好み、
三夜に跡を隠さんとにはあらず。
やや病心人に生みて、
要いといし人ににたり。
つらつら年月の移り越しつたなき身のかを思うに、
あるときは士官賢明の父をうらやみ、
ひとたびは、
物理室の扉に入らんとせしも、
頼りなき風雲に身をせめ。
家長に上楼して、
しばらく生涯の計り事さえなければ、
姉妹には無能の無才にしてこの一筋につながる。
楽天は御蔵の神を破り、
老者は痩せたり。
堅具文室の人しからざるも、
いずれか幻の隅かならずや、
と思いて捨てて不死ぬ。
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ここに弾いたのは、
サルミノの漢の録にある
玄珠湾の記の次の部分だ。
祖国が、
この道の表起すべき時なれや、
といったサルミノの苦衷のエピローグとも言うべきものの一節だ。
玄珠湾は、
菅沼曲水の王子にあたる玄珠老人という曹の住んだ曹庵で、
そこに馬掌はしばらく住んだということが
あの記文の中に書いてある。
そういう歴史はとにかく、
あたしはあの玄珠湾を
馬掌の生活の奥の方に光って見える
一つの象徴として想像したい。
あの曹庵を
馬掌の生命の宮殿とも想像したい。
無常人促の境地に身を置きながら、
永遠というものに対しているような詩人を
あの曹庵の中に置いて想像したい。
まず頼む、
詩の木もあり夏こだち。
あの玄珠湾の後は石山から一時ばかりも奥にあると聞いた。
馬掌の筆は、
あの曹庵が継承の良い位置にあったことを示している。
さすがに春の名残も遠からず、
筒字先残り山淵松にかかりて
ほととぎすしばしばすぐるほど。
やどかし鳥の頼りさえあるを、
きつつきのつづくとも意と恥なぞ、
そぞろに協じて、
魂は御祖東南に走り、
身は正宗童貞に立つ。
山は羊に猿に蕎麦立ちし、
人火よきほどに隔たり、
南君峰より下ろし、
北風海を侵して涼し、
比叡の山、平の高嶺より、
唐崎の松は霞み込めて、
城あり橋あり、
吊りたるる船あり、
笠取りに通う木こりの声、
麓の織田に早苗とる歌、
蛍飛び交う夕闇の空に、
杭なの叩く音、
美景物とて足らずということなし、
こんな風に序していった気分の一番終わりのところへ持って行って、
自己の感想が、
過世明らかに語ってある。
いずれか幻の住み必ずや。
芭蕉はあの一句を書くために、
一遍の厳重案の木を作ったと言ってもいいような気がする。
こうした幻想が、
見たところ、写実的な芭蕉の芸術の奥にあるもので、
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印象派風な武装や、
現実的で、そしてプリミティブな味のこもった一作の芸術などに感じられないものだと思う。
北村東国くんにも、
松島へ行って、
芭蕉を追想した文章があった。
徘徊の草生たる身で苦をなさずに松島から引き返したということは、
おそらく、
芭蕉の当時にあって非常に不名誉であると思わねばならないが、
無言のままであの自然に対して来た芭蕉の姿が、
かえって懐かしいというのが、
松島に遊んだ時の北村くんの話であった。
北村くんは芭蕉に寄せて、
サイレンスということについて書いたが、
あれは特色の深い文章であった。
多くの人の生涯を見るに、
その人の出発したところと、
到着したところとは、
よほど違って見える場合が多い。
僧帽といった時代もある芭蕉が、
涙の多い五十年の生涯を送って、
墨田原の死の境地まで屈せず、
頼まず歩き続けていったということは、
よほどの精神力に富んだ人と思わざるを得ない。
芭蕉の弟子たちによって書かれた花屋の日記は、
芭蕉が隣住の記録として、
古国の文学の中でも、
稀に見るほどパセチックなものだ。
私はカレオバナにある蘇格の追悼の文章よりも、
遥かに花屋の日記を愛する。
あの日記の中には、
弟子たちの性格が躍動しているばかりでなく、
それらの人たちに取り巻かれながら、
厳粛な死を死んでいった芭蕉の姿が、
目に見えるようによく現れている。
あの中には、
簡素な生活に甘んじてきた芭蕉が、
弟子たちの志とあって、
みんなの作って進めた柔らか者の袖に、
手を通すところがある。
あの中にはまた、
病んだ芭蕉が、
弟子たちに助けられて、
日当たりのいい縁側に滑り出て、
精進に飛び交う蠅を眺める寂しい光景が書いてある。
いずれにしても、
私は今まで、
あまりに芭蕉という人を、
年寄り扱いにしすぎていたような気がする。
あまりに専任扱いにしすぎていたような気もする。
もっと血の気の通った人を見つけねばならない。
そこからあの抑制した芸術を、
味わい直してみねばならない。
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この考え方からいくと、
私は芭蕉王統制という人の肖像を、
そんな孤単なものでなくて、
もっと別のものに描かれたのを見たい。
大概同服に似たようなものを着け、
印者のような頭巾をかぶっていても、
その人の頬は若々しく、
その人の目には青年のような輝きのある肖像として見たい。
荒物草の大きな矢、
日頃は人の問いくるもうるさく、
人にもまみえじ、
人をもまねかじと、
あまたたび心に誓うなれど、
月の夜行きの明日のみ、
友の舌はるるも終りなしや、
物思いはず、
一人酒飲みて、
心に問い、心に語る。
いおりの戸、
押し開けて雪を眺め、
または、
杯をとりて筆を染め、
筆を筒。
荒物来るお酒の大きな矢、
酒飲めば、
いどど寝られぬ夜の雪、
と馬匠は自白している。
1943年発行。
いわなみ書店。
いわなみ文庫。
いいくらだより。
より読み終わりです。
馬匠については、僕も一つあるんですけど、
ラジオで井住さんが言ってたのかな。
旅の途中に、
お弟子さんと二人、宿に泊まって、
同じ宿に泊まってた美女が、
今夜一杯付き合ってくださらない?
みたいなのを、
誘ってくれたのを、
いやいや、自分たちは貧乏旅行なんで。
みたいな感じで、
製品であるという、
なんていうんですか。
質素、質素こそがいいのだ。
女にうつつくのか知る場合ではないのだ。
みたいな感じというか、
こんな感じで、よく朝旅立ってたんだよね。
みたいなのを馬匠が書いてたんですが、
弟子の日記にはそんな美女はいなかったって書いてあるっていう、
面白話があって、
馬匠もお話を持っているっていうね。
演出とはサービスなんだなぁと思った次第であります。
それでは今日はこの辺で、
また次回お会いしましょう。
おやすみなさい。