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2024-11-07 20:37

076田山花袋「『田舎教師』について」

076田山花袋「『田舎教師』について」

自身の代表作『田舎教師』の構想を練っていた期間や、取材した様子などを書いています。今回も寝落ちしてくれたら幸いです。



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寝落ちの本ポッドキャスト。 こんばんは、Naotaroです。
このポッドキャストは、あなたの寝落ちのお手伝いをする番組です。 タイトルを聞いたことがあったり、実際に読んだこともあるような本、
それから興味深そうな本などを淡々と読んでいきます。 エッセイには面白すぎないツッコミを入れることもあるかもしれません。
作品は青空文庫から選んでおります。 ご意見、ご感想、ご依頼は公式Xマでどうぞ。
寝落ちの本で検索してください。 さて、今日は
田山花袋さんの「田舎教師について」というテキストを読もうと思います。 田山花袋さん。日本の小説家。本名は六夜。群馬県生まれ。
尾崎紅葉の下で修行したが、後に国気だどっぽ、柳田邦夫と交わる。 布団。
田舎教師などの自然主義派の作品を発表し、その代表的な作家の一人。 気候分にも優れたものがあるということで、その
まさに田舎教師についてというテキストですね。
私ごとですが、今洗濯機が壊れてて、新しいのが買ってそれが届くのを待ってるんですけど、届く合間で収録してるんですが、
収録中に届いたらそちらを対応して、対応終わったらまた収録すると思うので、もしそういうことがあると、どこかのタイミングで
テンションが違う声になってるかも。 お楽しみください。お楽しみくださいじゃないか。
それでは参ります。田舎教師について。 私は戦場から帰って、まもなく王くんを田舎の町の寺に訪ねた。
その時、墓場を通り抜けようとしてふと見ると、新しい墓標に小林周蔵の墓という字の書いてあるのが目についた。
神物らしく花などがいっぱいにそこに備えてあった。 寺に行って王くんに会って、
しゅしゅ、戦場の話などしたが、 ふと思い出して、
小林周蔵っていう墓があったが、聞いたような名だが、あれは去年、一昨年あたり君の寺に下宿していた青年じゃないかね。
そうだよ。 いつ死んだんだい?
ついこの間だ。寮用の落ちた日の翌日かなんかだったよ。 かわいそうなことをしたねー。
なんだい?病気は。 肺病だよ。
それは気の毒なことをしたね。 私はその前に一、二度会ったことがあるので、
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かすかながらもその姿を思い浮かべることができた。 私は一番先に思った。
寮用陥落の日に。 日本の世界的発展の最も光栄ある日に、万人の凶器している日に、
そうして寂しく死んでいく青年もあるのだ。 事業もせずに、戦場へ兵士となってさえ行かれずに。
こう思うとその青年、 田舎に埋もれた青年の志ということについて、
脈々とした哀愁が私の胸を打った。 続いて、親親と子供の中の墓場のシーンが目に浮かんできた。
バザロフとはまるで違ってはいるけれども。 私は青年、
明治35年から78年代の日本の青年を調べて書いてみようと思った。 そしてこれを日本の世界発展の光栄ある日に結びつけようと思い立った。
ことに幸いであったのは、その小林修造氏の日記が、 中学生時代のものと小学校教師時代と死ぬ年1年と、
こうまとまって王くんの手元にあったことであった。 私は早速それを借りてきて読んだ。
この日記がなくとも田舎教師はできたであろうけれども、 とにかくその日記が非常に良い材料になったことは事実であった。
ことにし1年前の日記が。 この日記はあるいはこの小林くんの一生の事業であったかもしれなかった。
私はその日記の中に志を抱いて田舎に埋もれていく多くの青年たちと、 事業を成し得ずに滅びていく寂しい多くの心等を発見した。
私は田舎教師の中心を掴み得たような気がした。 日記はその死の前1日まで付けてある。
もちろん寝ながらかつ苦しみながら書いたろうとおぼしく、 墨も薄く、字も大きな、まずく書いてあるけれども。
私はそれを見て泣きたいような気がした。 療養の攻略の結果を死の床に横たわって考えている小さな哀れな日本国民の心は。
やがてこの世界的光栄をもたらし得た日本国民すべての心ではないか。 それに部隊が私の故郷に近いので、一層その若い心が私の心に染み通って感じられるように思われた。
日記を見てから小林修造くんはもう単なる小林修造くんではなかった。 私の小林修造くんであった。
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どこに行ってもその小林くんが生きて私の身辺について回ってきているのを感じた。 彼の目に映ったシーン、風景、感じ、
すべてそれは私のものであった。 私はそこの柿のほとり、寺の庭、
下どけの道、乗り合い馬車の中、 至る所に小林くんの生きて動いているのを見た。
栄一町の寺に行くといつも決まって私はその墓の前に立った。 そこにはすでに友人たちとの建てた自然石の大きな石碑が建てられてあった。
そこに恋もあり、涙もあり、未死の魂もあり、 日本国民としての可憐の愛国心が生きて蘇ってきているのであった。
私は野に咲いた花を追ってきてそこに手向けた。 私は秋の日など寺の本堂から広々とした野を見渡した。
黄色く色付いた稲、それに差し通った明るい夕日、 どこか遠く通って行く車の音、
藩の木のまばらな影、それを見るとそこに小林くんがいて、 そして私と同じようにしてやはり
その野の夕日を眺め、荷車の響きを聞いているように思った。 悠々たる人生だ。
こうした嘆声がいつとなく私の口に昇るのであった。 戦場での凄まじい砲声、修羅の巷、残忍な死骸、
そういうものを見てきた私には、ことにそうした 静かな自然の景色がしみじみと染み通った。
その対象が私に非常に深く人生と自然とを思わせた。 ある日、王くんに言った。
ミロくんに一度連れて行ってくれたまえ。 で、秋のある静かな日が選ばれた。
私たちは三里の道、小林くんが毎日通って行ったその同じ道を静かにたどった。
野には明るい日が照り、秋草が咲き、里川が静かに流れ、 住みのうどん屋では神さんがせっせとうどんを伸ばしていた。
私は最初に彼の勤めていた学校を訪ねた。 彼の宿直をした部屋、
一緒に教弁を取った人たち、校長、 それからオルガンの前にも連れて行ってもらった。
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放課後で校庭は静かに、やはり同じようにして教師や生徒がボールなどを投げていた。
ミロくんの村では今では変わって賑やかになったけれども、 その自分は寂しい寂しい村だった。
その湯屋の煙突からは、静かに白い煙が立ち、 羊水べりの小川屋の前の畑では、
百姓の陣愛を模している煙が斜めになびいていた。 私とオオくんとはその小川屋で祭の煮付けで酒を飲んだ。
学校の校長が私が話に聞きに行ったのを、 探偵にでも来たのかと思って非常に恐れていたのも滑稽であった。
それから私は一度小林くんの親たちの住んでいる家を訪ねた。 やはり小林くんのことを小説にするとは言えないので、
諸賀の話を聞くふりして出かけた。 私は優しい母親と呑気な父親とを見た。
その家は実に小林くんの死のとこの横たわったところであった。 この家を訪問してから、
日中教師のおける私の計画はやや秩序正しい形をとってきた。 日記に書いてあることがすべてはっきりと私の目に映って見えた。
で、さらに行田から魅力に行く道。 彼の毎日通った道を歩いてみることにした。
私はいろいろに考えた。 寺に寄宿した時代の彼は、かなりに詳しくわかったが、その交友の間のことがどうも飲み込めない。
中学校時代の日記は空想をたくさんで、どれが本当か嘘かわからない。 冗談に書いたり、
のんきに戯れたりしていることばかりである。 三十四五年、七八年代の青年を描こうと心がけた私は、
かなりに種々なことを調べなければならなかった。 その頃の青年でも、もう私の青年時代とはよほど異なった特色やら、タイプやらを持っていたから、
明星に憧れた青年。 半ばロマンチックで、ファンタスチックで、
そしてまだ新しい思想には到達しない青年の群れ。 その群れを描くことについては、私にとって非常な困難があった。
中学時代の彼の初恋。 続いて起こった恋愛事件。
それが飲み込めないで、長い間筆が取れなかった。 2、3年は経過した。
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この作は、布団などよりも以前に構想したものであるが、 生を描いてしまい、妻を描いてしまってもまだ筆を取る気になれない。
材料がだんだん古く、カビが生えていくような気がする。 それに、新しい一生が応一してきたその時では、
その作の基調がロマンチックでセンチメンタルに偏りすぎている。
生、妻とだんだん調子が低く甘くなっているのに、 またこのセンチメンタルな作ではどうも飽きたらないというような気がする。
またそれでグズグズしているうちに1、2年は経った。 しかし日記を紐解いてみると、どうしても描かずにはいられない。
そこには一期前の現代の青年の悲劇がありありと指すごとく見えている。 で、そんな世間的なことは考えずに描こう。
ロマンチックであろうが、センチメンタルであろうが、 新しい思想に触れていまいが、そんなことは考えずに描こう。
こう決心して、それから警司、小林くんの親友の警司を大塚に訪問し、 手紙を2、3通借りてきたりして、やがて行田に行って石島くんを訪ねた。
石島くんは忙しい身であるにかかわらず、私にいろいろなことを示してくれた。 私族屋敷にも行けば、彼の住んでいた家の後にも連れて行ってくれた。
で、その足で熊谷町まで車を飛ばした。 例の用水に沿った描写はこの時に写生したものである。
それから萩原くんを街の通りの郵便局に訪ねた。 ちょうど執務中なので、君の家の千秋という料理屋に行って待っていた。
萩原くんはそこの次男科3なんで、今は栄一町の郵便局長をしているが、情け深い、義理に堅い人であるのは日記の中にもたびたび書いてあった。
その日はそこで御馳走になって、主事と小林くんの話を聞き、 また一面、萩原くんの性情をも観察した。
女たちの方の観察をもう少ししたいと思ったけれど、 どうもその方は誰も遠慮して話してくれない。
それにその女たちにも会う機会がない。 遺憾だとは思ったが仕方がないのでそのまま筆を取ることにした。
6月の2日か3日から甲を起こした。 梅雨の降りしきる窓際ではことに気が落ち着いて、筆が静かな策の気分と相一致するのを感じた。
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そのくせその自分の私の生活は、田舎教師を書くにはふさわしくない気分に満たされていた。 焦燥と反問、それに病気もしていて、幾度か書きかけては床についた。
しかし8月いっぱいには約その3分の2を書き上げることができた。 で、原稿を関くんに渡してほっと呼吸をついた。
それから後は半ば構成の筆を動かしつつ書いた。 関くんと柴田隆成くんが毎日のように最速に来る。
車の方だってそう毎日休むわけにはいかない。 夜は遅くまで日の陰が庭の子達の間に輝いた。
反響はかなりにあった。 新時代の作物としては物足らないという評。
自分でも予期していた評がかなり多かった。 それに青年の心理の描写がぴたりといっていない。
こうも言われた。 やはり自分ですっかり飲み込んでしまわなかった部分がどこか影が薄いのであった。
関東に入れた地図は足利で生まれ、 熊谷、行田、
未禄、羽乳、 この狭い間にしか返してその足跡が至らなかった青年の一生
ということを思わせたいと思って挟んだのであった。 関東平野の人たちの中にはこの田舎教師を手にしているのをそこここで見かけた。
乗り合い馬車の中で女教員らしい女の読んでいるのを見たこともあれば、 こんな旅館にと思われるような
茅場に放り出されているのを見たことがあった。 中田の誘客に行ったなんて嘘だそうですよ。
小説家なんてひどいことを書くもんですね。 こういう言葉も私の耳に入った。
実際中田の誘客の位置上は下校であった。 しかし青年の一生としてはそうしたシーンが、形は違ってもどこかにあったにそういない、と私は信じた。
一年間日記が途絶えているのなども、私にそういう下校をさせる余地を与えた。
それにその位置上は多少作者と主人公と深く交わっているような形である。 トネの下流の描写は、
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大越から中田までの間の描写は想像でやったので、 後に行ってみてひどく違っているのを発見して惜しいことをしたと思った。
やはり写生でなければダメだと思った。 これに引き換えて、
ホット海岸の松原あたりは実際に行ってみて知っているので、この地方を旅行した人たちからはよく褒められた。
トネ川の土手の上の草原の名を並べた一生。 これを見ると、いかにも作者は植物通らしいが、これは日記に書いてあるままを引いたのである。
しかしとにかく、一青年の志を描き出したことは私にとって愉快であった。 生で描いた母親の肖像よりも、
月過ぎていないゆえか一層愉快であった。 私は人間の魂を取り扱ったような気がした。
一青年の魂を墓の下から呼び起こしてきたような気がした。 今でも私は栄一町の寺に行くときっとその自然石の墓の前に行った。
そして花などを備えた。 その墓石は私にとっては決してもう他人の墓石ではなかった。
その友達の植えたヒノキの木も、もう影をなしていたが、 最近行ったときには周囲の柿が壊れて、他の墓との境界がなくなっていた。
東京の三十年より。 1966年発行。
大文社、大文社文庫。 田舎教師、ほか一編。 より読み終わりです。
代表作を書き上げるのにたくさん構想を練ってたし、取材もしたよっていうことですね。
そうですか。 美しい文章でしたね。
ちなみに洗濯機は届きませんでした。 これから洗濯機を待つ時間です。
はい。といったところで、今日のところはこの辺で。 また次回お会いしましょう。おやすみなさい。
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