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寝落ちの本ポッドキャスト、こんばんは、Naotaroです。
このポッドキャストは、あなたの寝落ちのお手伝いをする番組です。
タイトルを聞いたことがあったり、実際に読んだこともあるような本、
それから興味深そうな本などを淡々と読んでいきます。
エッセイには面白すぎないツッコミを入れることもあるかもしれません。
作品はすべて青空文庫から選んでおります。
ご意見、ご感想、ご依頼は公式Xまでどうぞ。
寝落ちの本で検索してください。
それから番組フォローもどうぞよろしくお願いします。
さて、今日は芥川龍之介の追憶というテキストを読もうと思います。
Amazonによりますと、この追憶、
大正15年から昭和2年にかけて執筆されたもので、
幼少時から青春期まで44の思い出の断片が綴られていると。
詩的な作者であるが、心の奥底に極めて序章的な感性が見出されるとあります。
一節一節は短いんですが、44節あるので、どれぐらいですかね。
30分ぐらいになろうかと思います。
淡々と聞いていただければと思います。
それでは参ります。
追憶
1.誇り
僕の記憶の始まりは、数え年の四つの時のことである。
と言っても大した記憶ではない。
ただ、ひろしさんという大工が一人、
梯子か何かに乗ったまま、弦の金槌で天井を叩いている。
天井からはパッパと埃が出る。
そんな光景を覚えているのである。
これは江戸の昔から祖父や父の住んでいた古い家を壊した時のことである。
僕は数え年の四つの秋、新しい家に住むようになった。
したがって古い家を壊したのは、遅くもその年の春だったであろう。
2.威拝
僕の家の仏壇には祖父母の威拝や、叔父の威拝の前に大きい威拝が一つあった。
それは天保を何年かに没した祖祖父母の威拝だった。
僕は物心のついた時から、この金箔の黒ずんだ威拝に恐怖に近いものを感じていた。
僕の後に聞いたところによれば、祖祖父は億坊主を務めていたものの、
二人の娘を二人ともおいらんに売ったという人だった。
のみならずまた祖祖母も、祖祖父の夜泊りを重ねるために、
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家に焚物のない時には、中で縁側をたたき壊し、それを焚木にしたという人だった。
3.庭記
新しい僕の家の庭には、餅、かや、木こく、かくれみの、老梅、やつで、いつばの松などが植わっていた。
僕はそれらの木の中でも特に一本の老梅を愛した。が、いつばの松だけは何か不気味でならなかった。
4.鉄
僕の家には子守の他に鉄という女中が一人あった。
この女中は後に玄さんという大工のおかみさんになったために、玄鉄というあだ名をもらったものである。
何でも一月か二月のある夜、僕は数え年の五つだった。
地震のために目を覚ました鉄は、前後の分別を失ったとみえ、枕元の暗暖をぶら下げたなり、茶の間から座敷を走り回った。
僕はそのとき座敷の畳に油じみのできたのを覚えている。
それからまた夜中の庭に雪の積もっていたのを覚えている。
5.猫の魂
鉄は玄さんへ縁づいた後も時々僕の家へ遊びに来た。
僕はそのころ鉄の話したこういう怪談を覚えている。
ある日の午後、鉄は長火鉢に頬杖をつき、半水半生の境にさまよっていた。
すると小さい火の玉が一つ、鉄の顔のまわりを飛びめぐり始めた。
鉄ははっとして目を覚ました。
火の玉はもちろんそのときにはもうどこかへ消え伏せていた。
しかし鉄の信ずるところによれば、それは
四五日前に死んだ鉄の飼い猫の魂がじゃれに来たに違いないというのであった。
6.草造紙
僕の家の本箱には草造紙がいっぱい詰まっていた。
僕は物心のついたころからこれらの草造紙を愛していた。
ことに最悠奇を本案したコンピュラ・リショウキを愛していた。
コンピュラ・リショウキの主人公はあるいは僕の記憶に残った第一の作中人物かもしれない。
それは岩崎の神という、時に鈴掛けを装った眼差しの恐ろしい大天狗だった。
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7.おたぬきさま
僕の家には祖父の代からおたぬきさまというものを祀っていた。
それは赤い布団にのった一対の狸のデクだった。
僕はこのおたぬきさまにも何か恐怖を感じていた。
おたぬきさまを祀ることはどういう因縁によったものか、
父や母さえも知らないらしい。
しかしいまだに僕の家には薄暗い南戸の炭の棚におたぬきさまの宮を設け、
夜は必ずその宮の前に小さいろうそくを灯している。
8.乱
僕は時々狭い庭を歩き、父の真似をして雑草を抜いた。
実際庭は水畑にいろいろな草を生じやすかった。
僕はあるとき餅の木の下に細い一本の草を見つけ、
さっそくそれを抜き捨ててしまった。
僕の所業を知った父は、
せっかくの乱を抜かれたと何度も母にこぼしていた。
が、かくべつそのために叱られたという記憶は持っていない。
乱はどこでも石の間に特に一二桂植えたものだった。
9.夢中有効
僕はその頃も今のように体の弱い子供だった。
ことに便筆しさえすれば必ず引きつける子供だった。
僕の記憶に残っているのは、
僕が最後に引きつけた9歳のときのことである。
僕は熱もあったから床の中に横たわったまま、
おばの髪を言うのを眺めていた。
そのうちにいつか引きつけたとみえ、
さびしい海辺を歩いていた。
そのまた海辺には、
人間よりも化け物に近い女が一人、
腰巻ひとつになったなり、
身投げをするために合掌していた。
それは妙妙車という草造紙の中の挿絵だったらしい。
この夢うつつの中の景色だけは、
いまだにはっきりと覚えている。
正気になったときのことは覚えていない。
10. 通夜
僕が一番親しんだのは、
哲の後にいた鶴である。
僕のうちはそのころから経済状態が悪くなったとみえ、
女中もこの鶴ひとりきりだった。
僕は鶴のことを通夜と呼んだ。
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通夜は当たり前の女よりも、
アーティック趣味に富んでいたのであろう。
僕の母の話によれば、
崩壊物資が二、三人、
網笠をかぶって通るのをみても、
敵口でしょうか?と尋ねたそうである。
11. 郵便箱
僕のうちの門のそばには、
郵便箱がひとつ取り付けてあった。
母やおばは日の暮れになると、
変わるがある門のそばへ行き、
この小さな郵便箱の口から、
往来の人通りを眺めたものである。
封建時代らしい女の気持ちは、
明治三十二、三年ころにも、
まだかすかに残っていたであろう。
僕はまたこういうときに、
さあもう雀色時になったから、
と母の言ったのを覚えている。
雀色時という言葉は、
そのころの僕にも好きな言葉だった。
12. 球
僕は何かいたずらをすると、
必ずおばにつかまって、
足の小指に球を据えられた。
僕にもっとも恐ろしかったのは、
球の厚さそれ自身よりも、
球を据えられるということである。
僕は手足をバタバタさせながら、
カチカチ山だよ、ボーボー山だよ、
とどなったりした。
これはもちろん、
火がつくところから、
自然と連想を生じたのであろう。
13. 白犀の騎児
僕の家へ来る人々の中に、
お市さんという人があった。
これは大地下どこかにいた、
柳派の五輪の狼さんだった。
僕はこのお市さんに、
いろいろの絵本やおもちゃなどをもらった。
その中でも僕を喜ばせたのは、
大きい白犀の騎児である。
僕は小学校を卒業するとき、
そのオバネの切れかかった騎児を、
寄付していったように覚えている。
それは確かではない。
ただいまだにおかしいのは、
騎児の白犀をもらったとき、
父が僕に言った言葉である。
昔、うちの隣にいた、
名前は覚えていないホニャララという人は、
ちょうど元日のしらしら明けの空を、
白い鳳凰がたった一羽、
中津の方へ飛んでいくのを見たことがある、
と言っていたよ。
もっともデタラメを言う人だったがね。
14 幽霊
僕は小学校へ入っていた頃、
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どこの長歌の女師匠は、
邸主の怨霊に取り憑かれているとか、
ここの仕事主のおばあさんは、
嫁の幽霊に責められているとか、
いろいろの怪談を聞かせられた。
それをまた僕に聞かせたのは、
僕の祖父の代に助中をしていた、
おてつさんというばあさんである。
僕はそんな話のためか、
夢とも現つともつかぬ境に、
いろいろの幽霊に襲われがちだった。
しかもそれらの幽霊は大抵は、
おてつさんの顔をしていた。
15 馬車
僕が小学校へ入らぬ前、
小さい馬車をロバに引かせ、
そのまた馬車に子供を乗せて町内を回るじいさんがあった。
僕はこの小さい馬車に乗って、
お竹蔵や何かを通りたかった。
しかし僕の森をした通夜は、
なぜかそれを許さなかった。
あるいは僕だけ馬車へ乗せるのを危険にでも
思ったためかもしれない。
けれども青いホロを張った、
おもちゃよりもわずかに大きい馬車が
小刻みにことこと歩いているのは、
幼な目にもはいからに見えたものである。
16 水屋
そのころはまた本所も井戸の水を使っていた。
が特に飲用水だけは水屋の水を使っていた。
僕はいまだに目に見えるように、
顔の赤い水屋のじいさんが水桶の水を
水がめの中へぶちまける姿を覚えている。
そういえばこの水屋さんも、
夢うつつの境に現れてくる幽霊の中の一人だった。
17 幼稚園
僕は幼稚園へ通い出した。
幼稚園は名高い江高院の隣の高等小学校の付属である。
この幼稚園の庭の隅には大きい蝶が一本あった。
僕はいつもその落ち葉を拾い、本の中に挟んだのを覚えている。
それからまたある丸顔の女性とが好きになったのも覚えている。
ただいかにも不思議なのは、今になって考えてみると、
なぜ彼女を好きになったか、僕自身にもはっきりしない。
しかしその人の顔や名前はいまだに記憶に残っている。
僕はつい去年の秋、幼稚園時代の友達に会い、
その頃のことを話し合った末、
先方でも覚えているかしらと言った。
そりゃ覚えてないだろう。
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僕はこの言葉を聞いた時、かすかに寂しい心持ちがした。
その人は少女に似合わない萩やススキに梅雨の玉を散らした
袖の長い着物を着ていたものである。
18. 相撲
相撲もまた土地柄だけに大勢近所に住まっていた。
現に僕の家の裏の向こうは、年寄りの身にぎしの家だったものである。
僕の小学校にいた時代は、
ちょうど日立山や梅ヶ谷の全盛を極めた時代だった。
僕は新岩亀之介が日立山を破ったため、
大評判になったのを覚えている。
一体一人新岩に限らず、国見山でも坂穂子でも、
どこか西系の相撲に近い男ぶりの人に優れた相撲はことごとく僕の悲喜だった。
しかし相撲というものは何か僕には漠然とした反感に近いものを与えやすかった。
それは僕が人並みよりも体が弱かったためかもしれない。
また平成みかける相撲が、紙をわらたばねにしたふんどしかつぎが相撲校を張っていたためかもしれない。
19、宇治四山
僕の一家は宇治四山という人に一中武士を習っていた。
この人は酒だの遊芸だの、お蔵前の札差しの心象をすっかり費やしてしまったらしい。
僕はこのお師匠さんの酒の上の悪かったのを覚えている。
また小さい狩家にいても、二三ツボの庭に植木矢を入れ、
冬などは実を持った青木の下に枯れ松葉を敷かせたのを覚えている。
このお師匠さんは長命だった。
何でも晩年みそを買いに行き、雪上がりの往来で転んだ時もやっと家へ帰ってくると。
それでもまあふん年だけ新しくってやがった、と言ったそうである。
20、学問
僕は小学校へ入った時からこのお師匠さんの一人息子に英語と漢文と習字等を習った。
がどれも進歩しなかった。
ただ英語はTやDの発音を覚えたくらいである。
それでも僕は夜になるとナショナルリーダーや日本外資を抱え、
せっせと愛宵町2丁目のお師匠さんの家へ通って行った。
It is a dog.
ナショナルリーダーの最初の一行はたぶんこういう文章だったであろう。
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しかしそれよりはっきりと僕の記憶に残っているのは何かの表紙にお師匠さんの言った
誰とかさんもこの頃じゃみなりが三水だな、という言葉である。
21、活動写真
僕が初めて活動写真を見たのは五つか六つの時だったであろう。
僕は確か父と一緒にそういう珍しいものを見物した大川端の二周郎へ行った。
活動写真は今のように大きい幕に映るのではない。
少なくとも画面の大きさはやっと六尺に四尺くらいである。
それから写真の話もまた今のように複雑ではない。
僕はその晩の写真のうちに魚を釣っていた男が一人。
大きい魚が針にかかったため水の中へ真っ逆さまに引き落とされる画面を覚えている。
その男は何でも麦わら帽をかぶり、風立った柳や足を後ろに長い釣竿を手にしていた。
僕は不思議にその男の顔がネルソンに近かったような気がしている。
が、それはことによると僕の記憶の間違いかもしれない。
22 川開き
やはりこの二周郎の左敷きに川開きを見ていた時である。
大川はもちろん大月上賃を釣った無数の船に渦まっていた。
するとその大川の上にどっと何かのなだれる音がした。
僕の周りにいた客の中には亀製の左敷きが落ちたとか中村郎の左敷きが落ちたとか色々な噂が伝わり出した。
しかし事実は木橋だった両国橋の欄間が折れ大勢の人々の落ちた音だった。
僕は後にこの賃字を幻灯か何かに映したのを見たこともあるように覚えている。
23 ダーク一座
僕は当時エコーインの境内に色々な見せ物を見たものである。
風船乗り、大蛇、鬼の首、何とかいう西洋人が非常に高い竿の上からトンボを切って落ちて見せるもの。
数え立てていれば再現はない。
しかし一番面白かったのはダーク一座の操り人形である。
その中でもまた面白かったのは同桁西洋のブライカンが二人。
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化物屋敷に泊まる場面である。
彼らの一人は相手の名前をいつもカリフラと称していた。
僕は未だに花キャベツを食うたびにこのカリフラを思い出すのである。
カリフラは何のことか?
24 泣かず
当時の泣かずは言葉通り。
足の茂ったデルタだった。
僕はその足の中に流れ感情や馬の骨を見、
気味悪がったことを覚えている。
それから小学校の先輩に
これは足か?よしか?と聞かれて唐握したことも覚えている。
25 琴吹き座
本所の琴吹き座ができたのもやはりその頃のことだった。
僕はある日の暮れ方、ある小学校の先輩と元町通りを眺めていた。
すると途端の生小板を積んだ荷車が何台も通って行った。
あれはどこ行く?
僕の先輩はこう言った。
が僕はどこへ行くか見当も何もつかなかった。
琴吹き座。
じゃああの荷車に積んであるのは?
僕は今度は勢いよく言った。
ブリッキー
しかしそれはいたずらに先輩の礼賞を買うだけだった。
ブリッキー?あれはトタンというものだ。
僕はこういう問答のために妙にしょげたことを覚えている。
その先輩は中学を出た後、たちまち俳優化されて個人になったとかいうことだった。
26 いじめっ子
幼稚園に入っていた僕はほとんど誰にもいじめられなかった。
もっとも本間の徳ちゃんにはたびたび泣かされたものである。
しかしそれは喧嘩の上だった。
したがって僕も三度に一度は徳ちゃんを泣かせた記憶を持っている。
徳ちゃんは確か総武鉄道の社長か何かの次男に生まれた末権期の強いガキ大将だった。
しかし小学校へ入るが早いか、僕はたちまち世間に多いいじめっ子というものに巡り合った。
いじめっ子は杉浦透志郎である。
これは僕の隣席にいたから何か口実をこしらえてはたびたび僕をつねったりした。
おまけに杉浦の家の前を通ると狼にいた犬をけしかけたりもした。
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これは今日考えてみればクレイハウンドという犬だったであろう。
僕はこの犬に追い詰められたげく、とうとうある畳屋の店へ飛び上がってしまったのを覚えている。
僕は今満善といじめっ子の真理を考えている。
あれは少年にあらわれた茶道型性欲ではないであろうか。
杉浦は僕のクラスの中でも最も白石の少年だった。
のみならず名高い富豪の正福にできた少年だった。
27 え
僕は幼稚園に入っていた頃には海軍将校になるつもりだった。
が、小学校へ入った頃からいつか画家志願に変わっていた。
僕のおばは家納商業という法外の弟子に縁付いていた。
僕のおじもまた裁判官だった右国に難画を学んでいた。
しかし僕のなりたかったのはナポレオンの肖像だのライオンだのを描く洋画家だった。
僕が当時買い集めた西洋名画の写真版は未だに何枚か残っている。
僕は近頃何かのついでにそれらの写真版に目を通した。
するとそれらの一枚は塾に金髪の美人を立たせたウイスキーの会社の広告画だった。
28 水泳
僕の水泳を習ったのは日本水泳協会だった。
水泳協会に通ったのは作家の中では僕ばかりではない。
永井花風氏や谷崎純一郎氏もやはりそこへ通ったはずである。
当時は水泳協会も足の茂った中津から安田の屋敷前へ移っていた。
僕はそこへ2、3人の同級の友達と通って行った。
清水雅彦もその一人だった。
僕は誰にもわかるまいと思って水の中でうんこをしたらすぐに浮いたんでびっくりしてしまった。
うんこは水よりも軽いもんなんだね。
こんなことを話した清水も海軍商工になった後、おととし大正13年の春に孤児になった。
僕はその2、3週間前に展示先の三島からよこした清水の手紙を覚えている。
27:00
これは僕の君にあげる最後の手紙になるだろうと思う。
僕は口頭血格の上に腸血格も併発している。
妻は僕と同じ病気にかかり僕よりも先に死んでしまった。
あとには今年5つになる女の子が一人残っている。
まずは生前のご挨拶まで。
僕は返事のペンを取りながら春さまの三島の海を思い、何とかいう白句を書いたりした。
今はもう白句は覚えていない。
しかし口頭血格でも絶望するには当たらぬ、などという気休めを並べたことだけは未だにはっきりと覚えている。
29.体型
僕の小学校にいた頃には体型も決して珍しくはなかった。
それも横顔を貼り付けるくらいではない。
胸倉を取って小突き回したり床の上へ突き倒したりしたものである。
僕も一度は殴られた上、終時のお掃除を差し上げたまま半時間も立たされたことがあった。
こういう時に殴られるのは格別痛みを感じるものではない。
しかし大勢の生徒の前に立たされているのは切ないものである。
僕はいつかイタリアのファッショは社会主義にひまし湯を飲ませ腹下しを起こさせるという話を聞き、
たちまち薄汚いベンチの上に立った僕自身の姿を思い出したりした。
のみならずファッショの刑罰もあるいは損害当人には残酷ではないかと考えたりした。
僕は大水にもたびたび出会った。
が幸いどの大水も床の上へ来たことはなかった。
僕は母やおばなどが濁り水の中に二尺挿しを立てて、
一部植えたの二部植えたのと騒いでいたのを覚えている。
それから夜は目を覚ますと絶えずどこかの反哨が鳴り続けていたのを覚えている。
確か小学校の二三年生の頃、
僕らの先生は僕らの机に耳の青いわらばんしを配り、
それ可愛いと思うものと美しいと思うものとを掛けと言った。
僕は象を可愛いと思うものにし、
雲を美しいと思うものにした。
それは僕には真実だった。
が僕の答案はあいにく先生には気に入らなかった。
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雲などはどこが美しい?
象もただ大きいばかりじゃないか?
先生はこうたしなめたのち、僕の答案へ×印をつけた。
三十二 加藤清政
加藤清政は愛宵町二丁目の横町に住んでいた。
と言ってももちろん鎧武者ではない。
ごく小さいオケ屋だった。
しかし主人は評察によれば加藤清政に違いなかった。
のみならずまだ新しい金の蓮の門も邪の目だった。
僕らは時々この店へ主人の清政を覗きに行った。
清政は短いあごひげを生やし、金槌や鉋を使っていた。
けれども何か僕らには偉そうに思われて仕方がなかった。
三十三 七不思議
そのころはどの家も乱舗だった。
したがってどの町も薄暗かった。
こういう町は明治とは異常、まだ本庄の七不思議とは全然縁のないわけではなかった。
現に僕は夜学の帰りに元町通りを歩きながら
お竹蔵の矢部の向うの若林を聞いたのを覚えている。
それは石原か横浜かにお祭りのあった林だったかもしれない。
しかし僕は二百年来の狸の馬鹿林ではないかと思い
一刻も早く家へ帰るようにせっせと足を早めたものだった。
三十四 動員礼
僕は例の夜学の帰りに本庄警察署の前を通った。
警察署の前にはいつもと変わり高張錠陣がいっつい灯してあった。
僕は妙に思いながら父や母にそのことを話した。
が誰も驚かなかった。
それは僕の留守の間に動員礼発せらるという号外が家にも来ていたからだった。
僕はもちろん日露戦没に関するいろいろな小事件を記憶している。
がこのいっついの高張錠陣ほど鮮やかに覚えているものはない。
いや、僕は今日でも高張錠陣を見るたびに
婚礼や何かを想像するよりもまず戦争を思い出すのである。
三十五 被災田宇之介
被災田という文字は違っているかもしれない。
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僕はただ彼のことを被災田さんと称していた。
彼は僕の実家にいる牛乳配達の一人だった。
同時にまた今日ほどたくさんいない社会主義者の一人だった。
僕はこの被災田さんに社会主義の信条を教えてもらった。
それは僕の血肉には好か不好かしみ入らなかった。
が日露戦争中の非戦論者に悪意を持たなかったのは
確かに被災田さんの影響だった。
被災田さんは五六年前に突然僕を訪問した。
僕が彼と大人同士の社会主義論をしたのはこの時だけである。
彼はそれから何ヶ月も経たずに天城さんの雪中に投資してしまった。
しかし僕は社会主義論よりも彼の極中生活などに興味を持たずにはいられなかった。
夏目さんの後人の中に
若野浦へ行った男と女とがとうとう飯を食う気にならず
善を下げさせるところがあるでしょう。
あそこを浪の中で読んだ時にはしみじみもったいないと思いましたよ。
彼はひと夏恋笑顔をしながらそんなことも話していったものだった。
36 火花
やはりその頃の雨上がりの日の暮れ、
僕は馬車通りの砂利道を一体の歩兵の通るのに出会った。
歩兵は銃を肩にしたまま黙って進行を続けていた。
がその靴は砂利と擦れる度に時々火花を発していた。
僕はこのかすかな火花に何か悲壮な心持ちを感じた。
それから何年か経った後、
僕は白柳修子氏の利収とかいう商品集を読み、
やはり歩兵の靴から出る火花を書いたものを発見した。
僕に白柳修子氏や上塚紗聖堅氏の名を教えた者もあるいは被災田さんだったかもしれない。
それはまだ中学生の僕には、
僕自身同じことを見ていたせいか感銘の深いものに違いなかった。
僕はこの文章から同志の本を読むようになり、
いつかロシアの文学者の名前を、
ことにトゥルゲネフの名前を覚えるようになった。
それらの商品集はどこへ行ったか、
今はもう本屋では見かけたことはない。
しかし僕は同志の文章に未だに愛着を感じている。
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ことに東京の空を込める飛び色の靄などという言葉に。
37 日本海海戦
僕らはみんな日本海海戦の勝敗を日本の一大事と信じていた。
が、
今日成郎なれども並井たかしの豪返は出ても勝敗は容易にわからなかった。
するとある日の昼飯の時間に、
僕の組の先生が一人豪返をもって教室へ駆け込み、
おいみんな喜べ大勝利だぞと声をかけた。
この時の僕らの感激は確かにまた国民的だったのであろう。
僕は中学を卒業しない前に国気だどっぽの作品を読み、
何でも電報とかいう短編にやはりこういう感激を描いてあるのを発見した。
後国の後輩この一挙にあり、
云々の信号を掲げたということは、
おそらくはいかなる戦争文学よりも一層詩的な出来事だったであろう。
しかし僕は十年の後、
海軍機関学校の理髪師に頭を買ってもらいながら、
彼もまた日露の戦没に朝日の水兵だった関係上、
日本海海戦の話をした。
すると彼はにこりともせず、極めて無雑さにこう言うのだった。
何、あの信号は四十でしたよ。
それは豪快にも出ていたのは日本海海戦の時だけですが。
三十八 呪術
僕は中学で呪術を習った。
それからまた浜町賀氏の大竹という道場へもやはり観稽古などに通ったものである。
中学で習った呪術は何流だったか覚えていない。
が、大竹の呪術は天心陽心流だった。
僕は中学の試合へ出た時、
相手の稽古着へ手をかけるが早いか、
たちまち見事な巴投げを喰らい、
向こう側に控えた生徒たちの前へ座っていたことを覚えている。
当時の僕の柔道友達は西川英二郎一人だった。
西川は今は鳥取の農林学校が何かの教授をしている。
僕はその後も習才と呼ばれる何人かの人々に接してきた。
が、僕を驚かせた最初の習才は西川だった。
西川英二郎
西川はあだ名をライオンと言った。
それは顔がどことなしにライオンに似ていたためである。
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僕は西川と同級だったために少なからず啓発を受けた。
中学の四年か五年の時に英訳の
良人日記だのを、サッファオだのを読みかじったのは西川なしにはできなかったであろう。
が、僕は西川には何も報いることはできなかった。
もし何か報いたとすれば、
それはただ足柄をすくって西川を泣かせたことだけであろう。
僕はまた西川と一緒に夏休みなどには旅行した。
西川は僕よりも裕福だったらしい。
しかし僕らは大旅行をしても旅費は二十円を超えたことはなかった。
僕はやはり西川と一緒に
中里貝祐市の大菩薩峠に近い丹波山という間村に泊まり、
一等三十五銭という宿賃を払ったのを覚えている。
しかしその宿は清潔でもあり、食事も卵焼きなどを添えてあった。
たぶんまだ残雪の深い赤城山へ登ったときであろう。
西川はこごみ加減に歩きながら、
急に僕にこんなことを言った。
君は両親に死なれたら悲しいとか何とか思うかい?
僕はちょっと考えたのち、
悲しいと思うと返事をした。
僕は悲しいとは思わない。
君は創作をやるつもりなんだから
そういう人間もいるということを知っておくほうがいいかもしれない。
しかし僕はその自分にはまだ
作家になろうという志望などを持っていたわけではなかった。
それをなぜそう言われたかは、いまだに僕には不可解である。
僕は、僕の中学時代はもちろん、復習というものをしたことはなかった。
しかし試験勉強はたびたびした。
試験の当日にはどの生徒も運動場で本を読んだりしている。
僕はそれを見るたびに、
僕ももっと勉強すればよかったという後悔を伴った不安を感じた。
が、試験場を出るが早いか、そんなことはけろりと忘れていた。
僕は1円の金をもらい、
本屋へ本を買いに出かけると、なぜか1円の本を買ったことはなかった。
しかし、1円出しさえすれば、
僕が欲しいと思う本は手に入るのに違いなかった。
42:00
僕はたびたび70銭か80銭の本を持ってきた後、
その本を買ったことを後悔していた。
それはもちろん本ばかりではなかった。
僕はこの心持ちの中に中産仮想階級を感じている。
今日でも中産仮想階級の指定は、
何か買い物をするたびにやはり1円持っているものの、
1円をすっかり使うことに俊潤してはいないであろうか。
ある冬に近い日の暮れ、
僕は元町通りを歩きながら、
突然往来の人々が全然僕を帰り見ないのを感じた。
同時にまた妙に寂しさを感じた。
しかし格別、「今に見ろ!」という勇気の起こることは感じなかった。
薄い藍色に澄み渡った空には、
いくつかの星も輝いていた。
僕はこれらの星を見ながら、
できるだけ威張って歩いていった。
僕らの中学は秋になると発火演習を行ったばかりか、
東京のある連帯の軌道演習にも参加したものである。
体操の教官、
ある陸軍隊員はいつも僕らには厳然としていた。
が実際の軌道演習になると、
時々命令に間違いを生じ、
大声に上官に叱られたりしていた。
僕はいつもこの教官に同情したことを覚えている。
44.あだな
あらゆる東京の中学生が教師につけるあだなほど、
告白に真実に迫るものはない。
僕はあいにく、
今日ではそれらのあだなを忘れている。
が今から四五年前、
僕のいとこの子供が一人、
僕の家へ遊びに来たとき、
ある中学の先生のことを、
マッポンがどうして、
などと話していた。
僕はもちろん、
マッポンとは何のことか、
と質問した。
どういうことも何もありませんよ。
ただその先生の顔を見ると、
マッポンという気持ちがするだけですよ。
僕はそれからしばらく後、
この中学生と電車に乗り、
偶然その先生の風貌に接した。
するとそれは、
僕もやはり文章では到底真実を伝えることはできない。
つまりそれはあだな通り、
まさにマッポンという漢字だった。
大正15年3月から昭和2年1月。
45:05
1969年発行。
門川文庫。門川書店。
葛波。幻覚三本。
より読み終わりです。
うーん。
なんか取り留めのない漢字の情報の羅列でしたね。
小学校、中学校が多かった。
中学4年生とかってどういうこと?
昔のルールが違うな。
尋常小学校とかありますよね。
尋常小学校が中学生のこと?
ちょっとわかんないな。
学生時代の芥川龍之介の思い出でした。
あだなね。
ちょっと思い出せないな。
若林先生って人がいて、
あの人は何の教科だったかな。
技術。技術だったような。
その先生に玄像ってあだながついてましたね。
キャプテン翼ね。
全然僕、世代少し違うんですけど。
たぶんお兄ちゃんがいる子が、
その弟がお兄ちゃんゆずりでキャプテン翼見てて、
サッカー好きでキーパーの若林玄像を取って、
若林先生に玄像、玄像って呼んでましたね。
で、もうみんなよくわからないまま、
玄像、玄像って呼んでました。
青い髭にちょっと菅原文太みたいな格好がありで、
ちょっとサングラスっぽい眼鏡をかけた渋井先生でしたけど。
思い出すな。懐かしいな。
皆さん思い出の先生などいらっしゃいますでしょうか。
ということで、今日のところはこの辺で。
また次回お会いしましょう。
おやすみなさい。