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こんにちは。横浜で15年以上、犬の保育園の先生を行っている、なおちゃん先生と申します。
犬と人の架け橋でありたい私が、犬に関する様々なお話、大好きな旅の話、子供たちの話などを、マイペースにお届けしています。
今日は、少し台本を書かずに雑談めいた、今の心境をお話ししていこうと思います。
私の愛犬、美琴さんが亡くなったのは、昨年2023年の5月10日でした。
もうすぐその日がやってきます。約1年間ね。美琴さんがいなくなって、1年間が過ぎようとしています。
ふとした時に、寂しさを覚えたり、会いたくなったり、悲しくなったりする私ですが、最近思わぬところで、そういった寂しさがこみ上げることがあったので、少し残しておいてみようかなと思って、収録することにしました。
一般公開で配信をしようと思ったのは、きっと同じように大切なものを失った方は、ふとした時に悲しみにとらわれたり、つらい気持ちがフラッシュバックしてくることがあるのではないかなと思いますし、
また、そうした経験がまだない方に関しましても、そういうことがあるんだよということを知っていただけたらなと思いました。
私の愛犬が亡くなってから1年間、私は毎朝、愛犬の笑顔の写真に、おはよう、今日もかわいいね、話しかけています。
彼はいつも同じ笑顔で、同じようにおほえみ返してくれます。
三方さんが亡くなった時に、もちろん、悲しい気持ち、寂しい気持ち、たくさんありました。
けれど、私の中では、後悔というものは、その時はあまりなかったんですね。
ペットロスという言葉がありますが、ペットロス、ペットを失って悲しい気持ちというのは、
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そのペットを少なからず愛していた、情をかけていた方であれば、誰しもが感じる思いだと思います。
ただ、これが日常生活がままならないくらい悲しみに、悲嘆に、狂ってしまう、心身に影響が出てきてしまうということになると、
これはペットロス症候群という、いわゆる少し医療的な介入だったり、第三者のテデスカが必要な状態になっていくということになります。
人間の方では、グリーフケアだったり、グリーフに関わる問題やお話として取り上げられることが多いのですが、
喪失、失ったものの悲しみ、それを寂しく思う気持ちというのは、人間でもペットでもそれ自体は変わることがないと思っています。
私はペットロス、そしてグリーフの勉強を少し昨年させていただきましたので、
自分の気持ちが今どういうところにあるのか、そしてこの気持ちというのはどういう段階を経て通常というか日常に戻っていくことができるのか、
そういったことはある程度情報として知っていました。
そして当然ですね、ある事柄についても学んだ経験があったんですね。
それは何かと言いますと、記念日反応というものです。
記念日反応というのは、例えば自分が愛情をかけていたペットさんが亡くなってしまって悲しい、
やっと悲しみが二重の中に時間とともに紛れるようになってきたなと思っていても、
その子を迎えた日、うちのご記念日なんかとも言いますよね。
だったりその子の誕生日だったり、その子との特別な思い入れがある日になると、
その子と思い出して悲しみに暮れてしまう、悲しい気持ちが蘇ってきてしまうというような反応のことを記念日反応というふうに言います。
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これは人間の方でももちろんあることなんですね。
私は昨年の10月11日、美琴さんの誕生日、少しそういった寂しさがこみ上げてきました。
ただ、今回私は思いがけないところで心が揺れる経験をしました。
それは何かというと、お花見だったんですね。
先週の土曜日、私は家族と一緒に埼玉県の方まで足を伸ばしてお花見をしてきました。
その時はどうってことなかったんです。
そして日曜日に、うちの仙台県と美琴さんも供養していただいたペット霊園、
ペットの葬儀者さんでの春の合同供養祭というのがありました。
私は特にある種の宗教を信仰しているというわけではないんですけれども、
この供養祭ではお坊さんが来てお経を読んだり、説法をしてくださるという形になっています。
実はね、私の父親が創設したペット葬儀会社でもありますので、
そういった絡みもありまして、ずどずどお世話になっています。
そして、ここで私は今回、忠職さんのお話を聞いたんですね。
その時に、お坊さんが私たちにしてくださったお話の中で、
そのお坊さんはいろんなペット霊園だったり、葬儀者さんでお経をあげられたりすることがあるので、
ある違う霊園であったことをお話してくださったんです。
そこには、3歳と5歳の小さなお子さんを連れた若いご夫婦がいらっしゃって、
手に無くなった、まだほんとに小さな小犬ちゃん、プードルちゃんを抱いていらっしゃったと。
これから埋葬をする、仮葬にするということで、お経の方をお願いします。
どうやら、3歳と5歳の兄弟、小犬さんを迎えて嬉しくて嬉しくて、
ワンちゃんの取り合いになってしまったそうなんですね。
僕が抱っこする、私が抱っこする。
その時に力の入れ方が悪かったのか、ワンちゃんを床に落としてしまったのか、
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その時に力の入れ方が悪かったのか、ワンちゃんを床に落としてしまったそうです。
その小犬さん自体も、まだほんとにお家に来て1ヶ月ぐらいの小犬さんでして、
内どころが悪かったのか、そのまま亡くなってしまったということなんですね。
その小さな、幼い兄弟はずっと泣いていて、お父さんお母さんも取り尽くしもないという状態だったということでした。
そこで、そのお坊さんはね、お父さんとお母さんに、
どうかこの2人のお子さんのせいで、この小犬さんが命を落としたんだというふうに
教えることがないように、今後この子たちがそう思って、
親にそう言われたというふうな記憶が残らないように、せしてあげてくださいと伝えましたというふうにおっしゃってました。
仏教では、その生き物はみんな寿命をもって生まれてくる。
だから、それまでの寿命をもって生まれた子だったんだというお話をされたそうです。
この話自体が受け入れがたいという方もいらっしゃるかもしれません。
ただ、私はこのお坊さんのお話というのは、小さいお子さんのご家族が納得いかれたかどうかは別として、
私自身がその話を聞いたときに、とても思うことがあったんですね。
うちの美琴さんは13歳で亡くなりました。
本音を言えば、もう少しあと2、3年は生きてほしいなと思っていましたし、そう信じていました。
けれども、私自身としては、彼は13年間を生きる、そういう定めをもって生まれてきたんだろうなというふうに納得をしていました。
そうしたからこそ、旅立ちをきちんと見送ることができたのかなというふうに今考えています。
そしてですね、また話が戻ってしまうんですけれども、
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そういうふうに自分自身が納得をしていたからこそ、私自身は美琴さんの不在、美琴さんの死にあたっては、
自分が思っていたほど悲嘆に暮れることなく乗り越えられたかなというふうに感じていたんですね。
ただ、そのお坊さんのお話を聞いたり、
郷土供養祭という場所で、改めてあの日、美琴さんの亡き柄にさよならをしたときにね、ことを思い出したりして。
そして、私は次の日、月曜日に地元の公園にお花見に行きました。
そこで、思わぬ自分自身の心の揺らぎ、揺れに気がついたんですね。
ああ、去年はこの景色をあの子と一緒に見たのになーって、突然とても悲しくなってしまったんです。
関東はあまりお天気が良くなくて、月曜日も桜の花は満開だったんですが、
曇り空で時々ポツリポツリと涙のような雨が頬に当たっていました。
ザーザー降ることはなかったんですけどね。
そして、公園にはたくさんの親子連れやワンちゃん連れの方がお散歩に来て、みんなで楽しそうにお花見をしたり遊んだり、お散歩を楽しんでいました。
その姿を見て、ああ、去年は私の隣に美琴さんがいたのにな、そんなふうに私は感じて、とてもとても胸が苦しくなりました。
不思議なことに、子どもたちと一緒にいるときはあまりそういうふうに思わないんですよね。
おそらく私の気持ちが子どもたちに向かっている割合が多いからだと思います。
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子どもたちが保育園に行っていたり学校に行っている間に、私は美琴さんと二人でデートと呼んでいたんですけど、
デートをするその時間は非常に貴重で、今となってみると、本当に本当にどうしてもっとたくさん彼とデートしなかったんだろうなって後悔があるとすれば、そこに尽きるなという時間です。
子どもたちもいず、いつも一緒に毎年、その桜を眺めていた近所の公園で、今年は一人で見上げる桜、この風景の中に美琴さんがいない、その寂しさに改めて気がつかされた。
そしてそれと同時に、私の寂しさや悲しさ、美琴さんが不在で悲しいという気持ちだったり、また会いたいという気持ちというのはなくなっているわけではない。
ただ、いつもは少し私の奥の方に眠っているもので、こういったきっかけがあるとパッと扉を開けて、前面に出てくるものだなということを改めて自覚しました。
それが特別な誕生日とか、うちのご記念日とか、そういったものでなくて、こうした日々の季節の移ろいの中の一瞬の風景の中に、そういった鍵が仕込まれているんだということに改めて気がつかされた今年のお花見でした。
もしかしたら、大切な誰か何かを失った方の中には、他の方には何気ない日常の一コマ、季節の一瞬の移ろいの中に、そういった悲しみを引き起こすような風景や場面があるかもしれません。
それが正しい対処の仕方かどうかは分かりませんが、私自身は、普段は閉じている悲しみの扉が開いてしまったときは、それを押し殺すのではなくて、
「そうか、君はそこにいたんだね。私の悲しみはここにあったんだね。まだ悲しいよね。よしよし。」という感じで、一旦こういったことが悲しいよ、寂しいよという気持ちを受け止めて、
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それで、少し見つめて、その後、そっとまた扉の向こうにさよならをする、そういった方法をとるようにしました。
これを聞いている皆さんの中で、そういったお気持ちをされたことがある方は、ぜひ、あなたなら、その悲しみの扉が開いたときに、どのような対処をなさったか教えていただけたら、とっても嬉しいです。
それでは、今回も最後まで聞いていただき、ありがとうございました。