スピーカー 3
そうですね、確かに。
スピーカー 2
素地がなかったわけですかね。むしろ追いついていったってことですよね。
はい。
スピーカー 2
ちなみにですね、お兄ちゃんの秀吉はですね、
もうあのかなくぎりゅうというかめちゃくちゃ下手でですね、
かなと漢字となんかぐっちゃぐちゃの文字をよく書いてたと。
その秀吉なんですけども、
厳しい軍律を持ってよく家臣を統制すると言われています。
部下の軍隊ですよね、こう率いているのは。
軍隊がですね、暴走すると支配したところでですね、
いろんな乱暴労籍を働いたりということとかがあった戦国時代なんですけども、
そこはもう規律をすごくしっかり守ってですね、家臣を統制していたと。
一方でこう良民を慈しむということでですね、
非常にこの民の方たちを大事にされていたと。
理想的な分国統治を行ったと言われています。
なるほど。
じゃあどんなところを領主として支配していたのかなんですけども、
前回ですね、和歌山を攻めるところがありましたと話したんですけども、
その後ですね、その岸を攻めた後は、
紀伊、それから泉というところの領主になります。
和歌山ですね。和歌山城というのに入ってですね、そこを統治しました。
スピーカー 3
僕和歌山出身なんですよね。和歌山城の近くに住んでます。
スピーカー 1
ああそうなんですね。
スピーカー 3
自家がありますね。
スピーカー 2
はい。で、しらるさんはじめ、今の和歌山の方がどうかは分からないですけれども、
当時はですね、相当やんちゃだったんですね。和歌山エリア、紀伊のエリア。
信長の最大の敵と言われた一皇宗ですね。
一揆を起こしていた宗教勢力の一皇宗の地盤でありですね。
最賀宗、根頃宗っていう地侍がいてですね、
もう最後まで織田家に反発していたような人たちが非常に多くて、
希少が荒く独立心が強くてですね、
過去を統一していく大名というのがほとんどいなかったと。
みんなそれぞれですね、ワーワーワーワーワーやっていたという感じでした。
かつ、反豊臣勢力っていうのが存在をしていたと。
それと和歌山県からもうちょっと下っていくと熊野の辺りまでいきますと、
熊野水軍ですとか有力な水軍ですね、船などもあったので、
非常に統制が大事で必須でしたと。
かつ、いろんな建物を作っていくときの木材の重要な供給地でもありました。
ということで非常に大事なところですと。
スピーカー 1
ただ統治がとにかくしにくいと。
スピーカー 3
なるほど。
スピーカー 2
お兄ちゃんがですね、ちょっともう厄介なところをわーっと攻めて、
あとじゃあお前よろしくっていう感じで治めさせた。
まず奇襲ですね、和歌山がありました。
今度は四国に攻めた話、50日で四国を落としたという話を前回にさせていただきましたけれども、
そこで四国を平定できたということのご褒美でですね、
紀伊泉にプラスしてですね、この大和の地っていうのを与えられます。
大和、今の奈良県ですね。
大和の氷山城というお城があるんですけども、そこの城主になります。
ちょっと南の方に下ってきた感じですね。
紀伊というのは非常に統治が難しいところだったんですけども、
この大和という地、今の奈良県、想像してもわかるんですけれども、
幸福寺ですとか霞大社という強力な自社勢力がありましたと。
今の神社仏閣とはわけが違います。
武装しているようなめっちゃ強い自社がいたっていうそんな感じのイメージですね。
かつ本当に力を持っていた、領地を持っていてですね、
そこから年古じゃないですけれども、経済的にもそういったところから潤っていった、
そういった自社勢力っていうのがありました。
自社勢力があったところで、そこにバーンと戦国大名が出てきたときにですね、
スピーカー 1
何も言わずにですね、その自社領っていうのをどんどん摂取、
スピーカー 2
勝手にですね、分取っていくっていう歴史が奈良にはあったんですよね。
元々の領地を勝手に戦国大名が武力を使って奪われていっちゃったっていう恨みつらみがあるという感じですね。
ちょっと今の中東情勢にも似た感じかもしれないですけれども、
元々うちの土地だったんだけど占拠されちゃってると。
なので所有権をめぐって、あの土地は我が寺のものだったんですけれども返していただけませんかっていう申し出がですね、
死ぬほど来るそういう場所が大和。
この大和っていう地もですね、奈良県なので大阪京都の南にありますよね。
とても重要な場所です。
木材の産出の場所でもあったんですけれども、
当時ですね、日本で最も大事だった場所っていうのは天皇陛下というか味方がいた京都。
それから大阪城のある大阪。
京都大阪で日本を統治していたんですけども、その周辺である紀伊、それから大和ですね。
こういったところはもう本当最重要地域と。
かつ藩、豊臣派がいたところっていうところですね。
そこをしっかり守るのに秀永を支援していたと。
信頼とともにですね、守るべきところを一番信頼しているナンバー2に託していたっていうのがですね。
スピーカー 3
ある意味厄介なところを任せたってことですよね。
スピーカー 2
そうですね。もうあいつらが何とかしてくれるだろうと。
超重要だけどよろしくっていう感じで。
そこで自社の領地をしっかりと収めて、理想的な分国統治が。
領民をですね、慈しんで大事にしてということをされてきたんですけれども。
それと同時にですね、日本を滑る政権のナンバー2でもありますので、日本全国のことを考えなきゃいけないと。
日本全国っていうことは、豊臣派以外ですね、日本中に大名がいるわけです。
関東も九州も四国も中国も戦国大名が依然いてですね、一応豊臣家に下っている状態ではあるんです。
そういったところとの関係構築っていうのはとっても大事でした。
なるほど。
そこの中には、毛利、小早川、長足場、大友、島津、そういう大名が来るんですけれども。
そういった地方にいる戦国大名っていうのが、大阪城とか京都に来るわけですね。
そういうときの接待っていうのは全部秀永がやりました。
その中でも一番の大名、徳川家康ですね。
スピーカー 1
京都に来るっていうときには当然大接待をするんですけども、京都に家康さん、家建てますと。
スピーカー 2
その家を建てるときに命じた部下っていうのがですね、東道高虎っていう名前って聞かれたことあります?
スピーカー 3
聞いたことありますね。
スピーカー 2
東道高虎って何が有名かっていうと、築城の名人で有名です。
東道高虎、黒田、官兵衛、それから加藤清政っていうのが築城の三名人と呼ばれていた。
スピーカー 1
全員秀氏の部下なんですけども、東道高虎に家康が京都に来たときの家の設計をさせるんですね。
スピーカー 3
これ、知り合いの社長が別荘を建てるっていうときに、熊謙吾先生の家なんですとか。
そんな感じですね。
スピーカー 2
これぐらい家康を大事に。お二人はものすごく仲良くなってですね、信頼関係もあって。
秀永が最後ですね、病気で奈良の方にずっといたときもですね、家康は何回も奈良まで見舞いに行った。
そんな記録もあったようですね。
スピーカー 1
こういった接待だったりとか、家康を大事にする、親密になるっていうのはどういうことかっていうと、
全国統一戦争をして侵入した大名っていうのが豊臣大名として編成されることになります。
スピーカー 2
日本を滑るという。
ただこう進化になったとはいえですね、いろんな大名というのも力はまだ持っている状態です。
反抗しようと思ったら反抗できる。
スピーカー 1
そこのバランスっていうのをずっと保っていく。
かつ豊臣の進化でいてもらうっていうためのバランサーが必要だったんですね。
スピーカー 2
そのバランサーが秀永がずっと務めていたと。
スピーカー 3
なるほど。
スピーカー 2
ちょっとでも機嫌を損ねると、うわっと来るかもしれないっていう感じ。
スピーカー 3
めっちゃ重要ですね、これは確かに。
スピーカー 2
そのバランサーっていうところ、ここから秀永のキャラのところに入っていきたいと思うんですけれども、
冒頭で農民から武士になった最初の10年間、20年間っていうのは本当に愚直に耐えて耐えてきたという、
非常に忍耐強さがあるなというような気がします。
それからいろんな大名を調整していったっていう、
スピーカー 1
部下の息子も部下になるっていうことですね。
そこから征服していった土地が新たな部下として
スピーカー 2
ここまでいくって感じなんですけれども、
豊臣家っていうのはまず家族がいない。
スピーカー 1
農民だったので代々いる部下っていうのもいないんです。
スピーカー 2
その中の唯一の家族が秀永。
スピーカー 1
それ以外にも何人かですね。
スピーカー 2
秀嗣とか妹とかお姉さんが嫁いだ先だったりとかって
スピーカー 1
いろいろあるはするんですけれども、
スピーカー 2
他の戦国大名に比べると圧倒的に薄い。
昔からの部下っていうのもほとんどいない。
なのでそこの中でもほとんど戸様、後から来るっていう方たちを
いかに調整していくのかっていうのがとても大事なんですね。
秀永の役割だったんじゃないかなと思います。
なるほど。
今、家臣団代々っていうふうに申し上げたんですけれども、
スピーカー 1
結局ですね、戦国大名、小田家もそうなんですけれども、徳川家もみんなそうなんですけれども、
結局ですね、ファミリー企業同士の争いなんですね。
スピーカー 2
代々続いていってるんですよ。代々社長の家なんですよ。
それが日本中にバーッとあって、ファミリー企業同士の戦いで
スピーカー 1
そこでスタートアップとか参入してこないんです。全然。
スピーカー 2
代々続いたJTC同士の争い。基本的に戦国っていうのは。
スピーカー 1
そこでたまーにスタートアップっていうのが突然変異的に現れるんです。
1つは関東の北条家、それから斎藤道山っていう斎藤家、小田家に滅ぼされるんですけども、この2つぐらいですね。
スピーカー 2
出自がわかんなくていきなりドーンと生まれた。
それと同じような感じに近いのがこの豊臣家、木下家、橋場家ですね。
ある有名なJTCのファミリー企業である小田家という会社に入りましたと。
スピーカー 1
中卒社員なんだけども、なんか出世しちゃって小会社の社長になっちゃいました。
でも同期みんな大卒ですと。大学入社です。
スピーカー 2
中高もエリート高いってて、みんな同級生とか仲間とかめっちゃいるわけですよ。
家族も集まってですね、どとを組んでいると。小会社をすべていると。
でも自分はもう学歴もない。仲間も全然いない。
けどなんかお前小会社の社長やれっていきなりトップから言われましたと。
信長社長に言われましたっていうのが豊臣家をして。
そこでなんとか人を集めると。
人足んないんだったら本社の人からよこす、出向させるからっていうんで来るんですけども、
出向した方も何この小会社社長、なんかちょっと変な顔してみたいな感じでずっといるので。
そういう親会社から来た社員、これを当時よりきって言ったんですけども、
信長の部下、親会社の社員、そういう人たちですね。
スピーカー 1
八塚孤六っていう人だったり、前の長安堀代義晴、竹中半兵衛っていうのもそうです。
スピーカー 2
みんなですね、織田信長の部下なんですね。実は黒田勘兵衛も最初は信長の部下だったんです。
そういう人たちがとりあえず配置替えで、秀吉の会社の部下になってですね、
だんだんだん直接そこから出向から転席になって、プロバー社員に変わっていく感じです。
スピーカー 1
これはその人たちだけ見ると、出向者が転席しましたって感じなんですけども、
スピーカー 2
出向してくる時には、そうは言っても採用活動も頑張っている。
豊臣家、橋場家ですので、ひねらもめっちゃ頑張ってます。
ですのでそこにはプロバー社員も生まれてくるわけですよね。
そうすると、プロバーと親会社から来た出向転席社員の圧力も当然出てくる。
かつ最初はもうひたすら戦いまくっている武力タイプ、武功タイプの人たちが多かったんですけども、
だんだんだんだんですね、領地が増えてくると、それを収めていく政治力が必要になる。
政治力、分治派と言って行政法制度で仕切っていく。
例えば石田三成とかそんな感じですね。
なので武功タイプと分治派っていうのの争いですとか、
そういう調整を手に引き受けていたのが秀長であったろうと。
スピーカー 3
すごいなあ。
ずっと胃が痛かったと思います。
スピーカー 1
ですよね。
スピーカー 2
そこの調整もずっと頑張り続けながらやってます。
スピーカー 1
社員同士の争いですね。
スピーカー 2
自分のことも一応ナンバー2なんだけど、最初はバカにされてたんじゃないかなと思うんですよ。
それでも一生懸命真摯に対応して、みんなが信頼できるナンバー2になってました。
とりあえず秀長さんちょっと聞いてくださいよって感じで話を聞きながら調整をしていくってことをずっと繰り返してきた。
スピーカー 3
すごいなあ。
想像どこまでできるかわからないですけど、正直この時代でもこの仕事ってめんどくさいですよね。
スピーカー 1
本当にめんどくさいと思いますね。
スピーカー 3
せめて落とす方が楽っていうちょっと語弊があるかもしれないけど、シンプルですもんね。
占領しにくい方が。
スピーカー 1
いやもう本当そうなんですよね。
スピーカー 2
今回戦国時代を改めて本なんかも読み直したりしながら見てて、中間管理職の飛合しか感じないんですよ。
スピーカー 1
なるほど。
スピーカー 2
派手な戦場のシーンとかってあんまりなくてですね。
もうひたすら調整事をやってきたんだろうなと。
スピーカー 1
環境を考えるとそこに不審していないとやっぱり成り立たないっていうところがいろんなところに見えてですね。
豊臣秀吉っていうのは後継がいないで有名な武将でもありましたと。
そこの中でなかなか子供ができないときに親戚の秀次っていう後取り候補がいましたと。
その秀次っていうのは老いっ子になるんですけども、これがいまいちな感じだったんですね。
スピーカー 2
ものすごい優秀な人材というわけではなかったです。
いろんな言われ方があるんですけれども。
この秀次がですね、前回静岡岳の争いって言って、
押旗勝家という織田信長の後継戦争の時に出てきた戦いでですね、大チョンボしちゃうんですね。
当然秀吉の老いっ子なので将軍みたいな感じで現場にはですね、後輩されるんですけど。
全然働かなくてとりあえず右往左往して、秀吉が秀次のフォローするために大事な部下を当てるんですけれども。
それも死なしてしまうっていうぐらいの大チョンボをしました。
秀次もお預かりした大事な部下を亡くしてしまいましたっていう感じで報告すればいいのに、
すみません部下死んじゃったんで新しい部下くださいみたいな感じで秀吉に言ってました。
秀吉がブチ切れるっていうようなことがありましたと。
スピーカー 1
でもこの人しかいないんですよ、秀吉の後を継ぐ人。
スピーカー 2
それをナンバー2たる秀長が見てるわけです。
やべえと、次のナンバー1がこの状態だとまずい。
先ほど全国統一戦争で奇襲を攻めました、四国を攻めましたって話をしましたよね。
スピーカー 1
その時にいまいちな秀次を連れていくわけですよ。
お膳立てをして、はい秀次、行って、行って、よし、よかった、早く戻ってきて、はい次、はい次。
なんとかですね、武功を挙げさせるってこともやってますね。
スピーカー 2
このトップとその次の世代のナンバー1の調整事っていうのも頑張っていたっていうのがこれまた見える。
そういういろんなところでの調整だったりとかサポートをしていたんですけれども、
きっとですね、すごい人格者でいろんな人から信頼されて調整をするってことあったと思うんですけども、
人間同士ですので、当然ですね、言うこと聞かない人もいたんだと思います。
いい人に言われて必ずいい結果が出るっていうことも限らないと思うんですけども、
それをどうやって解決していったのかっていうのがちょっと垣間見れる話があるんですけれども、
秀長が亡くなりました。
亡くなった後ですね、お城の中を見るとですね、金とか銀とかがですね、もうあふれんばかりにたまってました。
いう記録が残ってるんですね。
部屋の天井まで積み上げられて、数知れない。金質が5万6千枚ありましたとか、そういう記録が残ってます。
それを見たですね、当時秀長のことをよく思ってなかったお坊さんだと思うんですけども、
浅ましい浅ましいって言ったり、そんな記録が残ってます。
けちとか蓄財家って言われたりとかするんですけれども、
実際にですね、お金を貯めていたってことはあったと思うんですけども、
なんとなくですね、その秀長のお金の使い方というか、散財しているようには見えないですし、
スピーカー 1
使うところに使っていたなっていう印象がなんとなくあるんですね。
スピーカー 2
すべて把握したわけじゃないんですけども、
これどういうことかっていうと、先ほどの人間関係の調整とかって、
かなりお金を使ってたんじゃないかなっていうふうに思っています。
スピーカー 1
そういうことか。
スピーカー 2
なので、例えば名誉をもんじる人にはその名誉を立てて、
それに折れる人にはお金を与えることでバランスを取るですとか、
スピーカー 2
だけど大和の地を併定していたときに自社勢力っていうのがあってですね、
昔これはうちの土地なんだけど返してくれって言われたときに返すわけにはいかないから、
このお金で収めてほしいとか、そういうことをやってきたんじゃないかなと。
スピーカー 3
なるほど。
スピーカー 2
これは秀吉がですね、結構お金を借金しまくってお金を使いまくるっていう戦い方をしていたんですね。
水攻めをするとか、水攻めってお城の周り全部水で埋めちゃうっていう戦い方ですけれども、
それ水流せば埋まるってわけじゃないので、
当然柵をずっとバーっと土木工場をして水攻めをするっていうことをやる。
当然鉄砲を買うとかも大量に買うこともありましたし、
スピーカー 1
敵がですね、牢城しているときにですね、お米を買い占めるってこともやります。
そのお米も通常の3枚の価格で買い占めたというような記録もあった。
スピーカー 2
とにかく天下を取っていったらお金が返ってくるんでっていう発想で、
お金を有効に使っていた兄を見ていてですね、
そういった争い事の調整も経済力とかお金を使って解決できるという術を
使っていたんじゃないかなって気がしますね。
長野このキャラっていうのを改めて見直すとですね、
記録としてこういう性格だったっていうのはそんな残ってるわけではないんですけれども、
おそらくなさってきたことを見るとですね、人格に非常に優れた人物で、
恩公徳実、肝心態度っていう言葉を使っている学者さんもいらっしゃいました。
スピーカー 1
肝心態度は初めてなんですけど、心が広くて情け深く、
スピーカー 2
度量の大きいという大絶賛な感じですね。
そういう人格者で、どっちかというと秀吉っていうのは厳格で部下に厳しいと。
性格希少っていうのが激しいっていうキャラ。
一方で弟の秀長っていうのはそれと反対の性格で、
兄弟が補完関係になるというような。
これからの大河ドラマもそうですし、過去の大河ドラマもそうですし、
小説なんかでも秀吉が天才肌の劇場化で秀長っていうのが、
スピーカー 1
冷静沈着な実向かって描かれることが非常に多かったです。
前回小説の中で坂谷太一さんの、
スピーカー 2
ひどいとみ秀長っていうのが一番有名なんですけど、
スピーカー 1
その中でですね、坂谷さんが書かれているセリフでこんなのがあります。
スピーカー 2
実力と権力の大きさでも兄秀吉に次ぐ存在だった。
誰疑うこともないナンバー2だった。
だがそのゆえをもって次期ナンバーワンを目指すことはなかった。
スピーカー 1
この人の機能は穂差役であって後継者ではなかった。
スピーカー 2
良き穂差役であることに誇りを持っていたことである。
本当に究極のナンバー2といったゆえがここにあるんですけど、
スピーカー 3
大阪のコーヒーで継ぐっていう出来の悪い老い子を何度か盛り上げている。
スピーカー 1
まあまあ自分仕事できるんで、
自分が兄よりちょっとだけ若いので、
スピーカー 2
次のナンバーワン取ってもいいんですけど、
スピーカー 1
おそらくそういうことも夢にも思わなかったんじゃないかなと。
スピーカー 2
なるほどなあ。
スピーカー 1
もうお兄さんの加減になって突き沿いながら黒子に徹していた。
スピーカー 2
たぶん戦いとかその戦いの中でのエピソードが少ないっていうところもそうなんですけども、
おそらく独創性とかビジョナリーとかそういうことはほとんどなくてですね、
本当に愚直真面目。
スピーカー 1
なんといってもお兄ちゃんの野心というかビジョンが大きいので、
スピーカー 2
その目的を達成すること、それに尽力することっていうことがもう生き甲斐にまで昇華させる。
生き甲斐とかそういう感覚もなかったかもしれないですけれども、
何よりも次のナンバーワンじゃないっていうことで、
武功とか功を求めない。
功名心がないっていう感じ。
何よりも大事なのは自分がここで活躍して自分の名前が売れるじゃなくて、
スピーカー 1
最終的にお兄ちゃんがうまくいくことが一番大事。
だから自分が武功を立てなくても功名を取らなくても部下が取ればいい。
あるいは老いっ子が活躍するっていうのが残ればそれでオッケーって感じなんですよね。
スピーカー 2
そこの加減徹するっていうトップの補佐ってあって、
スピーカー 1
何だったらトップと同化してるようなそんな存在だったんじゃないかなと、
トップが果たさなきゃいけない機能の一部っていうのを担っていた。
スピーカー 2
トップ機能そのものだったんじゃないかなと。
スピーカー 3
なるほど。
スピーカー 2
それだからというわけではないんですけれども、
秀永が亡くなった後は、
スピーカー 1
この秀吉っていうのは一人でトップ機能を回し続けるってことはなかなかできなくて、
スピーカー 2
豊臣政権が一気に瓦解をしていきます。
スピーカー 1
なるほどな。
スピーカー 2
本当にガタガタっていう感じなんですけれども、
実際に秀永の先ほどいい人だったっていう話があったんですけれども、
スピーカー 1
実際に補佐式の時にはこんな記録が残ってます。
スピーカー 2
野も山も崩れんばかりの20万人が参拝した。
スピーカー 3
すご。
スピーカー 2
葬式に20万人動員って。
スピーカー 3
動員そうですね、すごいですね。
スピーカー 1
動員ですよ。
スピーカー 3
しかも当時ですよね。
スピーカー 2
当時です。
20万人動員するイベントって何か。
スピーカー 3
いやもう、昔のグレーのライブ。
いやそれちょっとちょっと。
1999年幕張のあの伝説の10万人ライブ。
スピーカー 1
あれだけです。
スピーカー 3
お葬式なのでどんな形だったかわからないですけれども、
スピーカー 1
それぐらいの方が秀永だったという。
野も山も崩れんばかりのですからね。
スピーカー 2
奈良県ですからね。
スピーカー 1
そこまで20万人が行くんです。
スピーカー 2
亡くなったのが1591年1月になくなったそうです。
実はですね、その年の2月に千利休が切腹をします。
これは前回打ち打ちの際、利休に。
政治のことは私に相談してくださいというセリフが冒頭の時にご紹介したんですけれども、
当時千利休という存在はですね、
豊臣政権の中でも一定の重要なポイントを収めていた。
スピーカー 1
おそらくですね、出吉と千利休の間を取り持つバランサーの役割も
スピーカー 2
秀永がしていたっぽいんですよね。
ただその抑えがなくなって、
出吉との仲違いがドンと切って千利休が切腹して亡くなると。
それが1591年でした。
翌年ですね、1592年に文禄の役、これは朝鮮出兵が始まります。
朝鮮出兵はもともと秀永が生きていたときも、
この国を弟に任して自分は行くんだということをおっしゃっていたので、
多分生きていたとしても行われたことだとは思うんですけれども、
その3年後ですね、1595年、秀永が亡くなってから4年後、
なんとかですね盛り上げたその老いっ子、当時は漢白だったんですけど、
漢白、豊臣秀次が切腹をします。
この時には秀頼がもう生まれていた時ではあるんですけれども、
秀次が亡くなったと。
秀次が秀頼が生まれたといっても、先ほど言ったように戦国時代の大名の家臣団というのは、
まず家族集というのがいるわけですね。
一人でも失うというのは当然政権にとって絶対にマイナスなわけですけれども、
それを切腹させてしまう。
その後、慶長の役という朝鮮出兵があってですね、
スピーカー 1
その最中に秀吉が亡くなっていく。
スピーカー 3
なるほど。だから秀長がいたらまたちょっと違ってたかもしれないですね、歴史後半のところ。
スピーカー 1
そうですね。
スピーカー 2
まあなんかよくこれは歴史のもしもこうだったらっていうので語られる内容のようなんですけれども、
ちょっと私の個人的な感覚にしか過ぎないんですけども、
正直秀長一人だけ生きていたから大きい流れが変わったかどうかっていうのはちょっとわかんないと思います。
朝鮮出兵っていうのはおそらくやられたと思いますし、
スピーカー 1
李休とか秀次の運命は多少変わったかもしれない。
生きてる間は豊臣政権というのがもうちょっと長く延命できたっていうのもあったと思います。
スピーカー 2
もうですね、おそらく秀吉もそうですし秀長もそうなんですけれども、
俗人的な一人の人間あるいは二人の人間で滑られるほど、
日本という国が簡単ではなくなっていた時期があるんじゃないかなというふうに思うんですよね。
もちろんカリスマ的なトップ、秀吉が亡くなったのでっていう歴史はもちろんあるんですけれども、
多分そういう一人が突出していた中央集権体制じゃなくて、
しっかりと構築された制度とか集団によって維持されるような中央集権体制、江戸幕府がこの後続いてくるんですけども、
そこに映る本当最後のタイミングだったんじゃないかなと。
だから一年、二年変わったとしても、もう誰か優秀な人がポーンと来て、
その人だけが何とか調整して頑張ってどうこうなるっていうにはですね、
もう日本は大きくなっていったんじゃないかなという気が。
スピーカー 3
おもしろいですね。
この辺の深い考察はきっとコテンらしょうがない。
スピーカー 1
これからやってくれる人もいると思うんですけども。
スピーカー 2
二番系的に言うとですね、普通の企業とか組織集団っていうものと、
ナンバーワン、ナンバーツーっていうのは、
スピーカー 1
この秀吉、それから秀永の兄弟からですね、
スピーカー 2
いろいろ学べることもあったんじゃないかなって感じですね。
スピーカー 3
すごいですね。まず秀永、推測ですけれども、やっぱり人間力というか、
戦績だけじゃない、いわゆるコミュニケーション力、人間力みたいなのがめちゃくちゃあったんじゃないかなという気がしますよね。
スピーカー 1
そうですね。
スピーカー 3
それでお葬式に20万人来たっていうのも、それを裏付けるエピソードかもしれないですし、
すごくそこの部分で、本当にナンバーツーとしての一位を目指さなきゃいい、
ナンバーツーとしての立ち位置を感じるし、
働き方としては当時の時代においては先進的だったんだろう。
例えると、転職して、いわゆる会社経営じゃないんですけど、
国を経営していくってことですもんね。
スピーカー 2
そうですね。なんとなく秀吉のイメージが明るくて、人たらしで、
スピーカー 1
いろんな人に声かけまくって、話を聞いて、盛り上げて、
スピーカー 2
最後はちょっと感触持ちみたいなイメージもなんとなくあるんですけれども、
秀永はそこまでコミュニケーション力めちゃめちゃ高かったと思うんですけども、
スピーカー 1
初めての人に行って喋りまくるっていうよりも、