1. 名谷教会
  2. 2024/12/23:救い主の救い主
2024-12-23 17:59

2024/12/23:救い主の救い主

2024/12/23 燭火礼拝

加藤満牧師


サマリー

このエピソードでは、イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスの重要なメッセージが考察されています。特に、博士たちがイエスの前にひざまずく光景を通じて、救い主であるイエスが救い主にひざまずいている象徴的な意味が掘り下げられています。また、イエス・キリストによって愛されていることが強調され、他者を助けることの本質的な意味について語られています。さらに、救い主ではなく、共にイエス様の弟子として生きる必要が伝えられています。

クリスマスの光景
短く聖書の話をさせていただきます。
改めまして、皆さん、食家礼拝にようこそおいでくださいました。心から歓迎をいたします。
おそらく私は毎年言うことになると思いますが、私はこの食家礼拝というのがクリスマスの中で一番好きです。
それは、暗闇の中に光が灯っているというこの光景が、クリスマスのすべてを物語っているからです。
暗闇の世界に光であるイエス・キリストが来られた。
昨日の礼拝でも言いましたが、それは、暗闇がどれほど深かろうとも、光を覆うことは決してないということです。
それ上に、光であるイエス様を握り、イエス様と共に歩んでいくということが、ある種、暗闇に覆われる私たちの人生において大切であるということを、昨日お話をいたしました。
今晩は、昨日と同じ箇所を少しご一緒に心に留めたいと思うのです。
クリスマスのストーリーに出てきます博士たち。
そしてその博士たちが、幼子に出会って、あの解剖家に眠る幼子に、ひれ伏して礼拝をしたという、その光景を思い浮かべていただきたいと思うのです。
聖書は、マタイの福音書2章の11節にありますが、母マリアと共にいる幼子を見、ひれ伏して礼拝をしたと、そのようなことが書かれています。
実はこの光景は、遠く旅してきた博士がイエス様という光にひざまずいているということが言えるのですが、もう一つこの光景が物語っているその意味は、救い主が救い主にひざまずいているという光景です。
救い主が救い主にひざまずいているという光景です。
博士たちが来たのは東の方からと言われますが、彼らがどこの国の人間かは定かではありません。
ただですね、ちょっとだけお話をしますと、当時このイエス様が生まれたベトルヘムから東の方というのは、かつてのバビロンがあった地域です。
そして先世術というのは、バビロンという国のある種、オイエゲでした。
その地域はその後ペルシャ帝国となり、ハカセラという言葉はマゴスと礼拝の中で紹介をしましたが、ペルシャの国境のゾロアスター郷の神館を指す言葉がマゴスです。
ですから彼らはそういう立場だったのではないかと言われますが、しかしいわばこの博士たちというのは、やはりバビロンの方からやってきた使者ということを聖書は象徴的に意味しているのですね。
そしてこのバビロンにおいて先世術師と呼ばれる人たちは、いわばあたかも救い主のような存在でした。
ちょっとだけ旧約聖書を読ませていただきますと、イザヤ書の47章の13節、暗いので私お読みするので皆さん聞いていただけたらと思いますが、
イザヤ書の47章の13節というところにこういう言葉があります。ゆっくり読みますので聞いてください。
助言する者が多すぎて、あなたは疲れている。
さあ、天を観測する者、星を見る者、あなたに起こることを新月ごとに知らせる者を立たせて、あなたを救わせてみよという言葉があります。
これは神様がバビロンの王に対して語った言葉です。
星を観測する者たちに、あなたを救わせてみよというんです。
いわば博士たちは、天の神の御心、その伴唱を読み解き、王や民に神様の思いを伝える救い主のような存在でした。
ですからそうであれば、この博士たちが幼くイエス様に跪いているという光景は、言い方を変えれば、
バビロンの救い主がユダヤ人の救い主、いえ、それは世界の誠の救い主の前に跪いているという光景なんですね。
メサイアコンプレックスの自覚
それはまさにバビロンという聖書の中では一番救いから遠いとされる彼らもはじめ、すべての国々がイエス様の前に招かれているんだよということを意味しているわけです。
これはマタイの福音書の28章、マタイの福音書の最後にあらゆる国の人々を弟子としなさいという、
要は世界の人たちをイエス様のもとへと招きなさいという言葉とサンドイッチになっている。
そういう意味ではとても、主はすべての人の光であるということを聖書は語ります。
ただ難しい話はこのあたりにしまして。
私はこの救い主が救い主に跪くという光景、それは私たち自身に深く刻まれるべき光景ではないかなとそう思っています。
なぜなら、私たちはきっと誠の救い主であるイエス様を差し置いて、自分自身が救い主になろうとすることがおそらく多々あるからです。
実は私は生まれた時から教会に行ってますが、御教会の足立博史という先生によく注意された言葉がありました。
それは、「三君がその人の救い主になっちゃダメだよ。私たちはその人を救い主イエス様のところにお連れしなきゃいけないんだよ。」ということを口酸っぱく言われました。
そう言われるほど私は少し救い主傾向がある人間だったんですね。
ちょっとだけ私の話をしますと、私は大学を卒業した後に就職先は神戸近辺で職種は問わないという選び方をしました。
なぜかと言いますと、実家の父の元から離れちゃいけないと思っていたからです。
高校大学の間、父はうつ病を抱えてまして、私は父親の話を聞く係にある種なってたんだと思います。
そしてある種傲慢にも、母も兄も姉も妹もいるんですけれども、この家族の中で私が父を支えなければ誰が支えるのかと思っていました。
けれども、その就職活動中に私は神様に召されてしまいました。
神様は御言葉の約束をくださって、神様が責任をもって父を支えてくださるという偏案を与えてくださって、私は新学校に入学をしました。
ただですね、新学校に入学してすぐ私は体調を崩します。
その証をよくしますが、体調が治ってからも1年ぐらい本調子にならなかったんですね。
本調子に戻ったのはいつかと言いますと、新学校の2年生、後輩が入ってきてからでした。
入ってきた1人の後輩は、私と同じように最初の数ヶ月間思いっきり病んだとなったんですね。
私は校長先生に、社官の先生に、お前も同じような苦しみを通ったから支えれるだろうということで最初同室になってですね。
彼は毎晩のごとく、加藤さんちょっと話聞いてもらえませんかと私に話しました。
私はいいよと言って、彼の話を毎晩のように聞きました。
実はその時に私の心が本調子に戻りました。
安定したんですね。
なぜか理由は明白でした。
この後輩が私に、私が父にしてきた対応をさせてくれたからです。
安心したんですね。
誰かの話を聞ける私という存在に私は安心した。
それは驚きとともにショックでした。
私は誰かの話を聞き、支えになることで安定するような人間になっているんだということに私はショックを受けました。
それが言い方を変えるならば、誰かの支えになれていることに依存している人間に私はなっている。
とても危機感を覚えました。
牧師は誰かを支えることに依存してはいけませんね。
それは相手のバウンダリーを尊重せずに過剰に相手に入り込んで結果いびつな環境を築いてしまう。
それによって教会が壊れるということも聞いたことがあります。
調べますと、こういう症状のことをメサイアコンプレックスと言うそうです。
メサイアコンプレックス。
日本語にすれば救世主欲求というんでしょうかね。
それは自尊心の低さ、自己肯定感の低さを無意識のうちに誰かの救世主になることによって埋めようとするという。
そういう心の動きがある。
これは相手に対していいことをしているので問題だと思われにくいんです。
けれども問題があるとするならば、それは相手を助けようとするときに
相手が助かること、相手が健康で自立して生きていくことが目的ではなくて、
相手を助けることによって自分自身を慰めることを目的としてしまう。
けれどもそれは、ある種穴の開いたバケツのようにいつまでも満たされることがない。
次第に自分から、自分が助けさせてくれる相手に依存をして、助けているという立場から相手を支配してしまうということが起きてしまう。
私はこのことを自分自身にそれが起きているということを自覚をしてから、
私は一つのことを何度も何度も時代に響かせました。
それは神様の愛です。
神の愛とは何なのか。
神様の愛と私たちの役割
神様は私が誰かを支えているから、あなたは百点だよと言っているお方ではないということです。
仮に私が誰かを助けられなくても、いや誰の助けにもならないような人間であろうとも、
いや助けられることしかできないような存在になったとしても、
神様が私を愛する愛は一ミリも下がることはない。
神様は私にあなたはそれでいいんだと言われる。
そのことを私は何度も何度も自分に言い聞かせました。
そしてその中でもう一つ自分が気を付けたのは、
愛というのは相手を見つめることである。
愛というのは相手を見つめることであって、自分を慰めるために相手を見ることではない。
御子イエス様は十字架で私たちに愛を示されましたが、
それはただ罪深い愛のない私たちをあの十字架で見つめ、
御自身の命を捧げられました。
自分のためにじゃないです。
私たちのために御自身の命を捧げられた。
聖書は語ります。それが愛だと語るんです。
私は現場に、教会の現場というところに出まして、
同じように苦しむ人たちを多く見ることがあります。
みんな優しいんですね。いい人です。
けれども追われるように頑張りすぎます。
自分がボロボロになりながら人を助けることをやめられません。
良いことをしているので周りは良いことだとしてみますが、
本人はおそらくどこかで悲鳴をあげているんでしょう。
ただそれは穴埋め作業ですので、いつまでも平安がない。
その生き方というのは、私自身も経験がありますから言いますが、
ただただ苦しいです。平安がない。
誰かの支えになり、助けとなれるということ、それは素晴らしいことです。
ただそれは愛によって行われないとダメですよね。
愛というのは何なのか、
私は愛というのは、私の中に神様の愛が満ちて、
溢れ出て誰かを潤していくということです。
溢れ出ていくんですよ。
神様に私は命を捨ててまで愛されて喜ばれているということが、
溢れ出て誰かを潤していく、
私たちの穴を埋めるためにすることではないのです。
神様は今も変わらず言われます。
あなたが仮に誰も助けられなかろうとも、
仮に疲れて全てを手放してしまったとしても、
いやあなたが助けられることしかできなくなろうとも、
神様があなたを愛する愛は一ミリも厳じることがありません。
神様はあなたに対して、
それでいいじゃないと言われるんですよ。それでいいじゃない。
イエス様への信仰と帰依
恩師の言葉が今も時代に響きます。
三君がその人の救い主になっちゃダメだよ。
私たちはその人を救い主イエス様のところに一緒にお連れするんだよと。
私は救い主ではありません。
牧師は救い主ではありません。
そして皆さんも救い主ではありませんね。
当然のことです。
けれども私たちはよく忘れるんです。
救い主はこの世界にただお一人です。
クリスマスにお生まれになった巫女イエスキリストその方だけです。
私たちは救い主ではなく、私も救われる必要のある博士なんですよ。
光を必要としている博士なんです。
そして私たちが招かれるのは、私たちもまた立ち止まってこの巫女の前にひれ伏して礼拝するものでなければならない。
そうあり続けたいと思います。
そしてあの主のもとから離れなかったマリアのように、十二分にイエス様の愛に満たされ慰められ、
救い主ではなく救い主イエス様の弟子として、何でもできる神ではなくて神の子としてこのお方に仕えさせていただきたい。
相手を愛するということは、穴を埋めるための絆創膏ではありません。
愛は満たされ溢れ流れ出て、愛がそこに現れてくるんです。
母マリアと共にいる幼子を見、彼らはひれ伏して礼拝をしたと。
私たちの穴を埋める場所は、私は足りないと責め立てる言葉からの私たちの逃れの場所はいつもイエス様の身元です。
私たちはそれでいいんです。それでいい。何ができなかろうとも、それでもいい。
あなたは十分なんだ、私の目に。あなたは効果でたっといのだ。
このお方の言葉、このお方と共に生きるこの交わりこそが、私たちの暗闇に光を照らしてくれます。
どうか私たちは光を照らされたものとして溢れて、神様の愛が表されていくそのようなものでありたいと思います。
共に主のもとへと行き、ひれ伏させていただきましょう。
一言お祈りをしてメッセージを終わります。
17:59

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