1. 名谷教会
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2014-02-02 44:13

2014/02/02:聖日礼拝(旧音源)

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2014/02/02 聖日礼拝(旧音源)




00:01
はい、それでは一音お祈りいたします。
愛する神様、今日もこうして、私たち鳥取を名を呼んで、この家を清別させていただき、主の宮に集まりました。
上からの恵みを待ち望み、私たちに求めて切ない心を持って参りました。
神様どうぞ、集まっているあなたの民に、一人一人に、心の中、霊の中に、
今日の御言葉を、命の御言葉、力の御言葉を、また教訓を、あるいは言わせ目を、あるいは希望を、それぞれ一人一人にお与えくださいますように、お願いをいたします。
いつまでやってます、どうぞお語り下さい、という信仰を持って御言葉を待ち望み、また聞かれますように、どうぞお語り下さい。
このものを隠して、神の栄光だけが現れる恵みの時として下さい。
感謝して委ねて、家様の皆によってお祈りいたします。
アーメン
今日は、家様の清い習慣、その2、祈りです。
先々週ですね、先々週、家様の清い習慣のシリーズのメッセージ、第1回目をお伝えしましたけれども、
自分自身のどういう習慣を持っているか観察してみましょうという話がありましたが、どうでしたか、皆さん、自分自身の習慣を観察していただけたでしょうか。
西洋の言葉に、ことわずのような言葉に、こういう話があります。
考えの種をまけば、高度の実を得る。高度の種をまけば、習慣の実を得る。習慣の種をまけば、神聖の実を得るようになり、神聖は運命を決定するという話があります。
家様は、私たちの信仰の模範です。私たちが目指すべき、また見習うべき信仰の模範は、家様なんですね。
03:02
ですから、家様がどのように祈られ、どのように御言葉をいただき、どのように御言葉を伝え、どのようにこの企業での生涯をお送りになったのか。
それをよく見て、そこから見習いたい。そう思っておるわけですが、家様には多くの聖なる、清い習慣をお持ちでした。
今日はその中で、祈りという家様の習慣を、私たちが聖書から教えていただいて、そしてそれを見習いたい。誰かの人の祈りの習慣じゃなくて、私たちの信仰の創始者であり、信仰の模範である家様から、この祈りのことを学んでいただきたい。
そして、家様のように祈るものになりたいと、そう願っておるわけです。
今日の二つの歌詞を読んでいただきましたが、この二つの歌詞の中で、家様のこの祈りの習慣、清い祈りの習慣には、三つの家様の祈りの姿勢、態度がよく書かれているんですね。
その中のまず一つが、二十二章を見てみましょうか。二十二章の三途九節、それから四途節の前半ですが、私は四にします。
それからイエスは出て、いつものようにオリブ山に行かれ、弟子たちも従った。いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、誘惑に落ちらないように祈っていなさいと言われた。
ここに何とですね、イエス様はいつものようにオリブ山に行かれて祈られました。いつものように祈られ、いつもの場所で、そこで祈っておられたんですね。
第一は、イエス様の祈りの習慣の姿勢の第一は、いつものようにです。イエス様はいつものようにオリブ山に行かれました。そして、いつものようにいつもの場所に着いて、そこで祈られました。
06:07
これもですね、神科学のいつものようにの意味は、習慣に従って、そういう意味です。イエス様はいつもの祈る習慣が身についておられたから、その習慣、祈る清い習慣に従って、いつものようにいつもの場所で祈っておられたんですね。
なんと素晴らしいんじゃないですか。私ども神科の模範であられるイエス様は、いつものように習慣に従ってオリブ山に行かれて、いつもの場所で祈れておられたんですね。祈っておられたんですね。
これは本当に清い習慣です。これはですね、私ばかりのですね、形式的な習慣ではないと思います。いつものようにいつもの場所で祈っておられた。
私たちはいかがでしょうか。いつものようにいつもの場所で皆さんは何をしていらっしゃるでしょう。我らの日頃の暮らしを考えていらっしゃる。いつものようにいつもの場所で祈っておられた。
いつものようにいつもの場所で何をしておられるでしょうか。いつものようにいつもの場所で、あるいはいつものようにいつもの場所で聖書を開いて聖書を読む。清い習慣をイエス様から見習いたい。そう願っております。
また今日のルカウの十一曜一節のところをまた開いて見てみましょう。
イエス様がですね、あるところで祈っておられました。そばに手伝きがですね、イエス様の祈りが終わるまで待っていたわけなんですね。
イエス様がですね、本当に祈っておられるときに彼らが待っていた。
だから彼らがですね、イエス様がどのように本当に切に祈っておられるか、それを見ていたわけなんですよね。
イエス様が祈りを終えてですね、そのときに手伝きの反応を見てですね。
イエス様がですね、さてイエスはあるところで祈っておられた。その祈りが終わると手伝きがなんと申し上げたんでしょうか。
09:06
その一人がイエスに言った。
つよ、ヨマネが手伝きに教えたように、私たちにも祈りを教えてくださいとお願いしたんですね。
さあ、この場面をですね、イメージしていただきたいです。
イエス様が祈っておられました。それを手伝きが見たわけなんですね。イエス様はどういうふうに本当に祈っておられるか。
そのイエス様も様子を見てですね、イエス様の祈りがどれぐらいだったか知りませんけれども、終わったときに弟子たちが終わってですね、
ああ、イエス様の祈り終わった。先生、食事にしませんかと言ってなかった。
そのイエス様の祈る様子を見て、彼らがですね、自分たちももう祈りたくなったんですね。
もう祈りたくてたまらなかった。それでイエス様に、主よお祈りを私たちにも教えてくださいとですね、もう願わされた、考え支えられたわけなんですね。
これが大事だと思います。イエス様の祈りのあの姿を見て、弟子たちが自分たちからですね、イエス様がさ、
さ、今から祈りを教えるから聞いてくれ、じゃなくてですね、弟子たちから自らイエス様の祈っておられる様子を見て祈りたくなったんですね。
もう祈らずにはいられない。この祈りの何というんでしょうか、祈りの渇きがもうぽんぽんぽん湧いてきたんですね。
もう祈りたくない。イエス様のように祈りたい。主よ教えてください。そこで教えられた祈りが主の祈りだった。
私たちにもこのようにイエス様の祈りの姿を見て、は、祈りたい。祈らざるを得ない。もう祈りたくてたまらない。
と、そういう祈りに対する渇きを持っていただきたいんですね。
弟子たちがですね、イエス様の祈りの姿を見てですね、祈りの渇きが起こってなかったこと、それがおかしいと思います。
私には一生涯の祈りの後援者と言いましょうか、祈りの助。もちろんスマもいますけど、私の母です。お父さんです。
母はですね、中学生の頃から友達に誘われてクリタになりました。
まあ、こんなことはお得と言っても、少なくとも私の母は祈る人なんですね。
12:07
いつものようにいつもの教会で、やっぱり祈る返事。
私が生まれる前から小学生、高校まで家は宿堂をしていたわけですから、やっぱり疲れなかったんですね。
朝からですね、朝4時から起きて、夜ですね、もう10時までずっと仕事があるわけですから、疲れている。
その体を持っても、朝4時や5時になったら必ず起きて、教会に行って、一日間一日間祈るわけです。
それから金曜日とか、あるいは平日にもですね、何か緊急事態が何かがあれば、教会に行って、夜通し、夜明けまで。
今、私が鮮明に覚えている母の姿がありますけれども、私が高校の時だったと思います。
寝ているんですけど、何かの声が聞こえるんですね。あれ、おかしいなと。
目を開けてみたら、母が早朝を終えて帰ってきて、私の頭のところで跪いて、私のために涙しながら祈ってきたんですね。
その母の祈りの姿を忘れられないです。だからと言って、私の母が偉大な人物とかそうではありません。
でも少なくとも、祈りに関してはですね、私は勝てないんです。本当に祈り人でした。
去年も一度お分かりさせていただきたいと思いますが、私が1年生、小学校1年生の時に支給が末期で死亡先行みたいにですね、帰って。
そう言われてですね、もう寝たきりで立つこともできない、座ることもできない。そんな体にもかかわらず、もう自分の体を引きずるようにですね、
その時点で、ほとんどの毎朝、教会に育てに行って祈る。健康な人より祈る人です。主の祈願を主体に求める。朝も夜も祈る。
それが一時期の進化だったと思ったら、そうではない。今から20年前、私がちょうど軍隊に入る前に、母は大きなコースに止まって、両足の骨がほとんど粉々になってしまった。
15:16
で、3ヶ月、いや4ヶ月ぐらい入院して、退院して、かろうじて歩くようになったんですね。松橋。それを着て、朝起きて、教会に行くんですよ。
その時の私は軍隊に行くから似ていないんですけど、行くんですよ。しかし、そこまで祈る人があるか、でも、ああ、いや、祈らなかった。
集まって、教会があの時は遠かったんですけどね。遠かったんですね。あの時は遠かった。で、40分、50分歩いて、早朝に行くんです。
今の自分があることは、その母の祈りがあるから、お誤解かね、させていただきたいと思うんですけど、皆さん、家様の祈りをいただきたい。
皆さんは、祈るお母さん、祈るお父さん、祈る奥さん、祈る夫でしょうか。
家様のように、いつものように、いつもの場所で、祈っているクリエイターなんでしょう。自問自答していただきたい。
私の恩師と言える武蔵清夢の教会の聖先生のお話です。
祈りは生命、命である。だから、祈りは生きるか死ぬかの問題。
生きたければ、お祈りください。しかし、祈らないということは、クリエイターらしく生きることを諦めたことと同じである。
だから、もう死んだのと同じであると言われたと思います。
福岡と言って、5年間放棄させていただいているわけですが、よくよく言われるんですね。
あの、叱られる、怒られるとき、「祈らない牧師は僕をやめなさい!」って、みんなビビってね。どうしてもビビる。
18:05
その先生自体が、武蔵にいらっしゃるときには、朝あるときには、3時から4時に起きられるんです。
私がいるときは、朝の早点が、いつでも早いものが、4時、5時、6時なんですね。
私が審判のときでしたから、4時の人会の説教に、月に一回は回っていくんですね。
そうすると、自分もなかなか寝れないんです。4時の人会にて説教するわけですから、大体3時に重ねて行くんですけれども、
時々、ファイトの祈りをするんですね。
向こうに聖人が座って、怒られるんです。やっぱり緊張していたしね。
帰られたと思ったら、そうではない。5時の人会にも出られて。
ファイトなんです。祈りたい。
で、6時の人会に出られて、そして朝10時、あるときには12時まで、いくら忙しいことがあっても、
いくら誰が来ても、今日がお会いしたいとしても、会わないんです、祈り。
だからですね、朝5時から6時から覗かないんです。
皆さん、祈りは清い習慣です。
今、その先生はですね、もう引退牧師ですけれども、だから聖人牧師が高山で朝も昼も夜も祈るわけですから、
教会の信者さんがですね、教老さんや羊さんやもう青年も中高生もですね、小さいですね、小学生たちも祈る習慣が身について、
で、何かの特別祈祷会がですね、年中ずっとあるんですけどね。
朝5時半の特別祈祷会をするんですよ。
そうすると、この聞かれた方はわかりますけど、口壇が広いんですけれども、
この口壇に幼稚園生、小学生たちが200名ぐらい、あの5時半に座って祈るんです。
中高生たちは生徒来たままで来て、祈って、そのまま学校に行く。
男性の方はスースで来て、祈って、そのまま会社に行くんです。
みんながですね、最初からそうできたとは私も思いません。
しかし、一度祈って、二度祈って、また祈って、また祈って、それが1年、5年、10年、20年になると、祈るものに変えられるんです。
私もですね、武蔵に行く前は、そんなに祈るものじゃなかったんです。
実は、新学生だけれども、僕が行っているときにも、朝ですね、なかなか早朝にですね、祈れなかったんです。
21:04
それですね、こういうエピソードがありますけどね。
山でのことだと思うんですね。
自分も疲れるわけですから、月曜日にも早朝があるんですね。
あの業界が1年、365人の人界が現れて、月曜日は疲れてるから、休みたくてですね、布団の中にいると、判断がですね、こうするんです。
起きなさい、起きたから人界に行きなさい、そういうことですね。
そうすると、疲れたらちょっと休ませてくれって。
僕、あなたは僕しかいない。今、業界にいらっしゃる。
そうすると、それが喧嘩のためになるんですね。
いや、あなたは、私からですよ、あなたはずっと祖典にあまり行かないのに、私に祖典に行くと言うのかって、それが喧嘩になって。
自分が反省して、悔れたことがたくさんありましたけどね。
私が知り合いのある女性の親徒さんですけどね、乳がんを患ったんですね。
彼女ですね、放射線治療を受けながらも、髪の毛が全部抜けてですね、帽子をかぶって、一度ここに行って、この風でね、お会いしたんですけど。
顔がですね、もう半分になって、体が焦って。
でも、いつものように、いつもの場所で祈るんです。
特にこの時に祈っていた人だから、病気に患っていても、体がつらくてもですね、そのいつものように、いつもの場所で祈るんですね。
すごいなと思いました。
彼女はこの祈りでですね、その乳がんが感知されてですね、今、お召しにしんこを持っておるんですけど。
皆さん、アメリカのE.M.Boundsという有名な先生がおられますが、その先生が祈りに対する本をたくさん書かれたんですけど、その中で、私、とても印象に残っている一つの文章がありました。
祈ることは勝利することを信じるものであり、祈らないのは失敗することを信じることである。
わかりましたか。
祈ることは勝利すること、打ち勝つことを信じることです。
しかし、祈らないのは私は失敗するんだ、それを信じることだ、とE.M.Bounds先生はおっしゃいました。
なるほど、そうだなと思いました。
なぜ私はイエス様の祈りの模範を見習って、祈らなければならないのでしょうか。
24:09
それは、そのようにイエス様のようにいつもの場所でいつものように祈った人はその祈りの恵みがわかります。
朝ごと夜ごと、あるいは王子であるいは教会でひざまずいて、祈ったことのある方はこの祈りの恵みの味がわかるのです。
だから皆さん、食べたことのない食べ物の味はわかりますか。
わからないのですよね。
食べたからその味がわかるのです。
祈りの恵みもそうです。
イエス様のようにいつものようにいつもの場所で祈った人が、ああ、これが祈りの恵みなんだ、わかるのです。
いくらこうなんですね、祈りの恵みはこうです、ああですよ、聞くより実際にいつものようにいつもの場所で祈ること。
どうぞ皆さん、イエス様のようにいつものようにいつもの場所でお祈りしておりゃありませんか。
第二話、ルカの二十二の四十四節に戻りましょう。
四十四節、一緒に読みたいと思います。
よろしいですか。
三回、イエスは苦しみもたえていよいよ節に祈られた。
朝が日の雫のように日に落ちた。
イエス様の祈りの姿、その二つ目は、ここにですね、長く書かれているんですけど、苦しみもたえていよいよ節に祈られた。
簡単に言いますと、節なる祈りでした。節に祈る。
もう一度読みますので、イエス様の祈りの様子を想像してみてください。
イエスは苦しみもたえていよいよ節に祈られた。
朝が日の雫のように日に落ちた。
今、イエス様は、もうすぐ間もなく十字架に架かられる、その大きなことをまなざりにして、
イエス様にとってはまるで非常事態なんですね。
私はこれを、この四十四節のイエス様のこの祈りを非常事態祈りと呼びたいんですね。非常事態の祈り。
27:01
節に祈らざるを得ない祈りなんです。
もちろんイエス様も、福音書ですね、マタイからヨハネをよく見ますと、
イエス様の普段の祈りは静まったところで静まって静かに祈るイエス様の様子は多々とされています。
ところが、本当に緊急に非常事態があって祈るときには、
イエス様も、日頃は静かに祈っておられたイエス様ですが、
この四十四節のように苦しみもがいて、いよいよ節に祈っておられたんですね。
このルカノ二十二の四十四節の歌詞をですね、ヘブル人への手紙に、これをこのように解釈しているんです。
そのところを見てみましょう。ヘブル人への手紙、五章七節です。
このヘブル人への手紙、五章七節はですね、まさに今のルカノ二十二章の十字架の直前のイエス様のことを、
このように解釈して私たちに教えているんですね。
新約聖書429ページです。ヘブル人への手紙、第五章七節。よろしいですか。
では五章に3杯。
フィリストは人としてこの世におられた時、自分を力尽くすことのできる方に向かって、
大きな叫び声と思って祈りと願いを捧げ、その経験のゆえに聞き入れられました。
その通りなんですね。ルカノ二十二章のこの四十四節のこの姿を、
このヘブル人への手紙の記者は、フィリストは、イエス様は、
人としてこの世におられた時、自分の力尽くすことのできる方、神様なんですね。
神様に向かって、どのように、どんな姿で流れたんでしょうか。
大きな叫び声と涙を持って祈りと願いを捧げ、そしてその経験のゆえに聞き入れられました。
皆さん、沈黙が必要な時には沈黙しながらお祈りください。
静かに祈る時には静かにお祈りください。
ところがイエス様のように、大声で叫ばざるを得ない時には、涙を持って苦しみもたえてお祈りください。
皆さん、喜ぶ時には喜ぶ、悲しむ時には悲しむ、沈黙の時には沈黙、叫ぶ時には叫ぶ、
30:08
どれもできる境界になりたいんです。
今日、もう一回見てみたいと思います。
列を置き、第二列を置き、二十書三節。
旧約聖書672ページです。よろしいですか。
まず、三節を一緒に読みたいと思います。
二節から行きましょうか。
二節、三節、三回。
そこでイゼキヤは顔を壁に向けて主に祈って言った。
ああ主よ、どうか思い出してください。
私が誠を尽くし、待つたき所をもってあなたの御前に歩み、
あなたがいられることを行ってきたことをこえて、
イゼキヤは大声で泣いた。
イソレの王でした。
という返さえいただき、あなたは病気に向かって死ぬだろう、治らないと宣言されました。
その時にイゼキヤの気持ちはどうだったんでしょうか。
本当にさっきのイエイ様のように苦しみもがいて、いよいよ質に祈ったと思うんですよね。
イゼキヤは大声で泣いたと祈ったんです。
このように祈った時に、なんとですね、
イゼヤよ元社が王家の中に、イゼキヤに会ってですね、
あなたはもうすぐ死にますよと言って帰るんです。
帰るんですけど、四節をご覧ください。
イゼヤがまだ中庭を出ないうち、
その王宮に中庭が立ち寄ってあるわけなんですね。
そのところまだ出ていないんですよ。
その時に次のような次の言葉が彼にあった。
五節を一緒に読みましょうか。
三、引き返して私の民の君主イゼキヤに告げよ。
あなたの父ダビデの神父は皇王を制られる。
私はあなたの祈りを聞いた。
33:01
あなたの涙を見た。
によ私はあなたを癒す。
三日目にはあなたは主の宮に昇る。
アーメン。
皆さん、イゼキヤの祈りを主が聞いたと書いてありますね、五節。
私はあなたの祈りを聞いた。
その次、何を見たと書いてありますか。
あなたの涙を見たとあります。
皆さん、神様は時には私たちが神様の御前で
涙しながら祈るその涙を、
祂は見たいと願っておられるんですよ。
映画を見てテレビを見てですね、涙をする。
あなたより、イゼキヤのように時にはですよ、主の御前に火をして、
イエス様のように本当に緊急なことがある時に、
病気のことがある、あるいは家族の救いがある、
何かの大きな何かの課題がある時に、
イゼキヤのようにイエス様のように来る日にもらえて、
切なる心を持って祈る、私だけでありたいんです。
神様は皆さんの祈りを聞いておられる。
皆さんの涙を見ておられる。
皆さん、時には沈黙して静かにお祈りください。
しかし、緊急の時に、お急ぎの時に、危ういの時には、非常事態の時には、
涙を持って大声で祈ってみようではありませんか。
どうか、いずれにしても皆さん、
祈る強い数感を、
赤、想定力ね、起きられない方がいらっしゃいますか。
そうしたら、夜寝る前に祈ってもいいでしょう。
あるいは想定力ですね。
これ方は想定力をつけ、祈ろうではありませんか。
最初なら難しいかもしれません。
しかし、例えば試してみてください。
月に1日だけは想定に行ってみよう。
それは難しいですか。
そしたら半年に1日1回は想定に行ってみよう。
それは難しいですか。
そしたら年に1回は想定に行ってみよう。
それぐらいはできるのではないですか。
それもできないぐらいと、皆さんの体が苗弱でひげが出しめ、
東京ほど遠く離れてはいないのではないでしょうか。
まず1回ができたら2回ができますし、3回ができるのです。
36:00
お名前は申し上げませんが、
最近ですね、想定に1回、2回来始めた方が皆さんの中におられます。
本当に嬉しいです。
神様喜んでおられるでしょう。
1回来て、それぞれ2回。
3回来れるんでしょうね。
それができない方は、夜に金曜日におきとかやりますし、
それも難しかった方は、お家でもぜひぜひ置いておく。
家様のように皆さんのお部屋で静まって、
バスやテレビやラジオやすべてのものを置いておいて、
神様に専念する。
神様と一対一で向き合って、
家様のように祈る時をぜひお待ちください。
命なんです。命なんです。
3番目。
ルカノ福音書第6章12節に見てみたいと思います。
ルカノ福音書第6章12節。
ルカノ福音書第6章12節。
新原正表119ページです。
では、12節を一緒に読みたいと思います。
3、このごろイエスは祈るために山に行き、
神に祈りながら夜を明かされた。
皆さん、イエス様は祈るために山に行かれた。
イエス様は山でよく祈られたんですね。
そして、イエス様は神に祈りながら夜を明かされたとあります。
なんと、夜明けまで祈っていられたんですね。
その次に何があったのでイエス様は夜明けまで祈られたんでしょうか。
13つご覧ください。
夜明けになって弟子たちを呼び寄せ、
その中から12人を選び、彼らに祖父という名をつけられた。
ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨアネ、ピリポ。
イエス様が夜明けまで祈られたときには、
十二弟子を立てるとても大事な仕事が先にあったんですね。
本当に大事なことを先において、
そのために夜明けまで夜を明かしながら祈られたんです。
39:01
もちろんイエス様は毎回夜明けまで祈られたからそれはわかりますけれども、
でも、よく夜明けまでイエス様は祈られました。
本当に大事な課題がある。
そしてそのために祈らざのえないをもってイエス様は祈られた。
皆さん、ときには本当に大事なことがありますか?緊急なことがありますか?
そういうときにはイエス様のように、
ときには長く、ときには夜明けまで祈ってみようではありませんか?
皆さん、もちろんですね、長い祈りが全部めぐみにした祈りとは言えませんけれども、
でもだいたいのめぐみに満ちた本当に深い祈りは長い祈りなんです。
もちろん短い祈りも全く祈らないことよりはいいかもしれませんけれども、
いつも1分、2分、3分、5分しか祈れない方は、大事なことがあってもめぐみに満ちて祈り込む、
座り込んで椅子に向き合ってその祈りから来る力を体験することはしにくいかもしれません。
これを話しておきたいと思います。
私は今、週に1回木曜日、新緑湖に行って旧約新緑湖という勉強をしています。
鎌田尚先生が皆さんご存知でしょう。教えておられるんですけれども、あるときにこういう話がありました。
鎌田先生のお話です。
鎌田先生の内側には、それぞれみんな偶像を持っている。
それは何なのか知っていますか。
先生、何ですか。
その偶像は椅子がきれいに作った偶像ではなく、あなたが持っているこだわりが偶像だとおっしゃっていました。
どういう意味ですか。
そのときに鎌田先生がこういう話をしたんですね。
自分はある聖会に出たんですね。聖会が説教をしているうちに、あちこちから雨が降るんですね。
それが彼は嫌です。
そして祈るときに、静かに祈る人もいるんですけれども、あちこちで大きい声で祈る人がいる。
それが嫌で、自分はやはり静かにお子さんに祈るべきだ。
ああいうふうにしているときに、雨が降って大きい声で祈るわ。
それはよろしくない。
自分には合わない。
そこからあの聖会にもう行かなくなった。
そのときに鎌田先生がこうおっしゃいました。
あなたのそのこだわりがあなたの偶像なんです。
私は、みんな君もこう思う。
3年生の時代なんですよ。
鎌田先生は何か自分はこぶしたほうが正しいと思っている。
もちろん、それが真意であればいいんです。
イエス様は福になった。
42:00
それをこだわるべきなんですよね。
でも、どうでもいいことをあまりにも自分たちが自分の好みがある、慣れていることがある。
それをこだわる。
それは偶像になります。
なんでそれは偶像になるか。
神様から来る恵みをさまたげるから、それは偶像になる。
だからその話を聞いて、刃まで頭を打たれたような素取りが与えられる。
ああ、そうなんだ。
自分はこうだから、こんなことはあんなことはちょっと違和感を感じる。
だからそれをこだわる。
それが自分のお気にある偶像だということを真のことで学ばせていただいたんです。
言葉に戻りますと、いずれに言っても、私はイエス様を見習って、まずはいつものようにいつものところで祈りましょう。
そして時には静まってお祈りください。
あのソムエルのお母さんハンナはですね、静まって祈っていたんですね。
だからエリー・ウェンシャーがですね、お前、酒を飲んだかと言われているんですね。
静かに祈るときには静かに祈ってください。
しかし本当に緊急なときには、奇跡屋のようにイエス様のように祈ることもできる、そのような重要なクリスチャンになってください。
また3度ね、本当に緊急なときには、夜明けまで祈る。
どうか祈りの一週間を、私たちのものにしていきたい。
イエス様を見習いたいと、そう願っております。
お祈りしましょう。
では今日の御言葉を覚えてですね、それぞれ示されたこと、与えられたメッセージをですね、覚えて、私を祈るものになってくださいと。
応答の祈りを、ご一緒にお願いいたします。
44:13

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