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2025-02-02 29:16

2025/02/02:イエスの眼差し

2025/02/02 聖日礼拝

加藤満牧師

マタイの福音書 -38


サマリー

このエピソードでは、イエス様の恵みの支配と罪人への招きが探求されています。特に、イエス様が痛む人々を慰め、病を癒し、権威を持って罪を許す姿が描かれています。また、イエスの眼差しと人々への愛について語られ、イエスが直接招いた弟子たちや、羊飼いのいない羊の例えを通じて、イエスの願いが強調されています。これにより、私たちが抱える痛みや歪みを癒したいという思いが伝わります。さらに、イエスの眼差しが持つ深い憐れみについても語られ、私たちが抱える限界や矛盾をしっかりと見守る様子が描かれます。また、困難な状況において主にすがることの重要性が強調されています。

イエス様の祈りと招き
それでは一言お祈りを致します。
愛する天の父なる神様、尊い皆を心から賛美を致します。
私たち一人一人をその名を呼び、私たちを召し、救い、
あなたのことをしてくださった主の恵みを心から賛美を致します。
また私たちをあなたの身元へと招いて下さいました。
あなたは私たちを限りない愛をもって愛し抜いて下さり、
神子イエス様の十字架で流された血潮により、私たちの罪をすべて引き受け、
それだけではなく三神によみがえられた復活の命、永遠の命を私たちに与え、
永遠なる死と結びつけられた命、切っても切れない命、
それは死をもっても切り離されることのない命を、私たちへと与えて下さいました。
あなたはもはやあなたの足で立つのではない、私の恵みによって歩みなさいと、
そのように私たちをあなたの恵みの世界へと招き入れて下さったことをありがとうございます。
主よ、その豊かさをより知りたいと願います。
私たちの足元はいつも崩れがちです。
そして下には永遠の腕があると知りながらも、
しかし崩れ落ちゆく自分自身を止められない時が私たちにはあります。
どうか主が私たちを支え、御言葉を開き、
あなたの言葉によって命を照らし、光を現して下さい。
お願いをいたします。
そして生ける主をまた知ることができますよう、帰りみて下さい。
今日ここに来たくても来れないお一人一人、
ご支度におられる方、施設におられる方、
また心を痛めておられる方がいらっしゃることを覚えます。
お一人一人を慰めて下さい。
あなたの御臨在のうちに生かして下さいますように。
お願いをいたします。
これからの時を御手に委ねます。
世界にも様々なことが起きていますが、
あなたの御手の中にあることを覚えて、
祈りを見ることができますように。
これからの時を御手に委ねて、
イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
アーメン
癒しの奇跡
昔、ある方とお話をしているときに、
こういうお話を聞いたことがあります。
ここ最近、つらいことが重なりますと。
親に病が見つかりました。
家の近くに不審者が出てきて、怖い思いをしました。
家族が事故に遭いました。
それが数週間のうちに起きたんです。
神様、先生、私は呪われているんじゃないでしょうか、
ということを言われたことがあります。
ただ、そういう話を聞きながら、
こういうことはあるなということを少し思ったのです。
そういう経験は皆さんもおそらくあることでしょう。
嫌なことはどうして重なるのかな、
と思うことが私たちはあります。
思ってしまう。呪われているんでしょうか。
事実はそうではないと思いますね。
ただ、つらいことがタイミング的に重なることが
私たちはありますし、
ただ苦しいときには、
それは偶然だよと言っても聞けない。
物事をネガティブに捉えてしまいますし、
またそれが些細な苦しみ、
一個一個は小さなものであったとしても、
重なればジャブのように心に響いてきて、
誰かの小さな一言で一挙に倒れてしまうということも
私たちには起こり得ることです。
そういうときは、私たちは休まなければなりません。
絶対に休まなければなりません。
ただ、私自身もよく思わされますが、
そういう一つ一つに出会うときに、
ああ、主に祈るしかないと思うわけです。
主に祈るしかない。
教会の頭、あの子とこの子とも
主の御手にあるのだからと。
ただ時に、痛む胸に渦巻く怒りや嘆きがあります。
そして、祈りを阻まれるということがあります。
感情が心を締めて、祈ることは大事だと分かっているんだけど、
祈れないということが私たちにはあります。
私もそういう状況に陥るとつくづく思います。
ああ、こうやってサタンは私から何かを崩そうとしているんだなと。
このままではなし崩し的に何かが失われる可能性がある。
踏ん張りどころがきっと私たちはそれぞれあるんですよ。
踏ん張りどころが私たちはそれぞれにある。
多くの重荷があり、死に委ねたいけれども、
感情にとらわれて祈れない。
そういうある種の限界や矛盾を抱えるときに、
私たちは一体どうすればよいのでしょうね。
ただ、私はこの訓示を読みながらも、
イエス様はそういう自分で自分を救うことができない、
ある種の限界や矛盾を抱えている人間のところに来てくださったんだということが、
福音書の何よりもの福音だと思う。
そういうことが思います。
今朝、ご一緒にこの歌詞を見ながら、
私自身の願いですが主よ、私のところに来てくださいという願いを持ちながら、
このイエス様の歩みを少し見ていきたいと思うのです。
今朝は三つのポイントを見てまいります。
マタイの福音書の9章を読んでいただきましたが、
8章、9章全体を見させていただきたいと思いますが、
三つのポイントで見てまいります。
まず一つは、王であるイエス様は恵みの支配を広げ、
罪人を仲間として招いて行かれるということです。
王であるイエス様は恵みの支配を広げ、
罪人を仲間として招かれる。
歌の8章から9章にはそのような光景が記されています。
これは前回見ましたが、4章の18節から25節の延長にあるような、
同じような活動です。
ただですね、その内容は一層明確に、一層過激になっていきます。
8章の1節から4節というところを見ていただくならば、
ここにはタラーと重い皮膚病にかかった人にイエス様が出会うというシーンが出てきます。
この8章の3節というところには、
イエスは手を伸ばして彼に触りという言葉が出てまいります。
触る。
当時、タラーと重い皮膚病の人には、みな触ってはいけませんでした。
物理的に病がうつるということもそうですが、
儀式的な汚れが触るとうつるんです。
だから、物理的にも儀式的にも汚れる皮膚病の人には、まず誰も触りません。
ですからこの人は言ったのは、主よお心一つでと言ったんです。
触られるなんて思えないから、ただあなたの心を私に見せてくださいと願ったのに、
イエス様は触るという動作に出ます。
でも逆に、けがれた人に触ると、けがれがイエス様にうつったのではなくて、
ここで起きたのは、イエス様の清さがけがれた人を清めてしまうという現象が起きるんです。
触るという動作には愛がありますけれども、
まさにイエス様が触れるならば、どのようなけがれも清められてしまう。
病は癒されてしまう。
これは私たちへのメッセージでもありますよね。
私はあなたの一番のけがれや痛みに触れたい。
そこを私は触れて癒したい。
私たちは結構そこに触れられるのが嫌ですね。
いつも逃げますが。
でもイエス様はそこに触れて癒したいといつも願っておられるお方です。
またちょっと続けて見ていくと、8章の5節から13節には、
老魔兵をもイエス様が癒されるというシーンが出てまいりますね。
百人大将がイエス様のところに行って、
イエス様私の部下を癒してください。ただお言葉をください。
イエス様はお言葉一つで癒されました。
思い出していただきたいのは、
老魔というのは当時の一般的なユダヤ人からすると敵なんです。
でも敵をもイエス様は癒してしまわれる。
ユダヤ人たちのメシア像からするとかなりかけ離れていますね。
ただイエス様からするとこれは一本の筋が通った話なんです。
ユダヤ人たちが敵だと思っている老魔兵すらも、
神様の憐れみの中にある。
イエス様はそのことを宣言される。
イエス様は壁を越えて行かれるのです。
このような箇所を見ていくときに私たちは、
イエス様の権威の圧倒的な強さを見ます。
圧倒的なんですね。
まさに王の言葉には力があると言わんばかりに、
その言葉はこの箇所の箇所を見ていっても、
病、ペテロのシュートの病を癒します。
8章の14節からペテロのシュートめの病を癒し、
8章の23節からイエス様はお言葉一つで嵐をも沈め、
8章28節からはお言葉一つで悪霊を追い出し、
そして9章の18節に至っては死者を思い生き返らせる。
罪の許しと権威
圧倒的な権威ある言葉です。
圧倒的なんですね。
ただ、このイエス様の権威、神様の権威は、
全ての非造物や霊の世界、悪霊に対してもそうですし、
死の前に対しても圧倒的な力を持つのですが、
イエス様はその圧倒的な力を、
ご自身の力を誇示するためや、
人々を支配するためには一切持ちいなかったというのが、
この歌詞のすごいことです。
イエス様の力、神様の力、それは何のためにあるのか、
福音書が語るのは、それは、
痛む人々を慰め、罪人を解放するための、
地上で罪を許す権威のためです。
地上で罪を許すための、その力ですね。
9章の6節にそういう言葉があります。
地上で罪を許す権威を、私は持っている。
そしてそのようなイエス様の姿というのは、
当時のユダヤ人からすらしたら、
何だこれはと思われるかもしれませんが、
イエスの眼差しと招き
これは旧約聖書に語られている王の姿に合致するのです。
それが書かれているのが、8章の16節から17節というところ。
そういう意味しますと、8章の16節から、
夕方になると人々は悪霊に疲れた人を大勢身元に連れてきた。
イエスは言葉を持って悪霊どもを追い出し、
病気の人々をみな癒やされた。
これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。
彼は私たちの患いを担い、私たちの病を負った。
この17節の旧約聖書の言葉は、これはイザヤ書53章ですね。
嘆きのしもべ。
皆さんよくご存知の箇所だと思います。
イザヤ書53章に代表されますが、
イザヤ書40章から55章という一つのまとまりがあるんですけど、
そこで言いたいことは何かというと、
誠の王は誠のしもべでなければならないということです。
誠の王は誠のしもべでなければならない。
それがイザヤ書40章から55章で書いていることをギュッとまとめた内容です。
誠の王であるイエス様は、誠のしもべとして生きているんです。
このイエス様が、いかに当時のユダヤ人からしたら不可解で、
そしていかに新しいものであるかということを、私たちは想像に固くないですね。
彼らが期待していた強いメシヤ像からはかけ離れている。
けれどもイエス様は新しいことを始められた。
いや、父なる神様がイエス・キリストを通して新しいことを始められている。
だから9章の17節にありますが、
新しい葡萄酒は新しい皮袋に入れなさいと招かれるんです。
神が新しいことを始められて、新しい葡萄酒を始めた。
それは新しいから、あなたたちが今まで期待していたものとは全く違うかもしれない。
でも新しい心でそのままを受け入れなさい。
そのように招かれる。
イエス・キリストはあなたの願う王ではなく、そのまま来られたイエス・キリストという王を受け入れなさい。
そのように招かれるんですね。
これは今も私たちにあるチャレンジです。
そしてそれを全く受け入れられなかったパリ最派立法学者という人たちがいました。
これはイエス様の言動を見て、神を冒涜していると9章の3節で言います。
神を冒涜していると彼らは思いますし、最終的に9章の34節では、
あいつは誠の王なんかじゃない、彼は悪霊の王なんだとイエス様は明確に拒否します。
ただ、しかし真実はどちらにあるのかは、人々の反応を見れば明らかかもしれません。
人々はイエス様に徐々に傾いていきます。
人々は正しさだけではなくて、神様の愛に浮かばえていました。
そしてイエス様を見るならば、そこには神様の愛があったんですね。
あふれていた。
そしてそのようなイエス様は、ご自身の国、支配に人々を招き仲間とされていきます。
この8章から9章で選ばれたのは主税人マタイですね。
9章の9節にマタイの招きがあります。
主税人というのは、いろいろ説明すると長いのですが、ただ10節を見たらそれがよくわかります。
9章の10節に、イエスが家の中で食事の席についておられた時、
みよ主税人たちや罪人たちが大勢来て、イエスや弟子たちとともに食卓についていた。
主税人というのは当時でいうと罪人と同列。
まあいいや、それ以上ですね。
ユダヤ人でありつつ、ローマの税金集めに雇われた彼らは、売国奴と罵られました。
しかしイエス様はマタイを招きます。
いや、マタイだけではありません。
ちょっと出ますが、10章の2節から4節には12弟子を招かれるイエス様の光景がありますが、
12弟子で名前が挙げられている一人一人は、
一般的に見たらイエス様の弟子に全くふさわしくない人たちばかりです。
ふさわしい人なんか一人もいません。
で、イエス様は誰でもいいんでしょうかね。
そうではないでしょう。
私たちもそうですが、12弟子も含めて、
イエス様は私たちを召される、大事に名前を呼んで召されます。
あなたが必要なんだと名前を呼んで召されます。
ただ同時に、12弟子も私たちも人間としての互いに痛みであったり歪みを持っている。
ふさわしい存在では特にない。
ただ、イエス様はそれをご存知で弟子とされます。
そんなことはよくわかっている。でも私について来いと言う。
なぜか。9章の12節をご覧ください。
9章の12節にマタイを招いたイエス様がこう言われます。
イエスはこれを聞いて言われた。
医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人です。
私が喜びとするのは真実の愛、生贄ではないとはどういう意味かを言って学びなさい。
私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためですと言われる。
イエス様が私たちを召されるのは、役に立ちそうだから、有能だからではないですね。
むしろイエス様が私たちを選び救われ召されるのは、歪みがある、正しくない、病人である。
でもそういう一人一人をイエス様が愛されたから選ばれたんです。
羊飼いのいない羊の例え
私たちの選びの根拠は自分の中の能力には全くない。
イエス様が私たちを見出し、愛してくださったから、今私たちはここにいる。
私たち皆そうですね。
イエス様についていく、イエス様に召されると別に献身だけの話じゃない。
イエス様に従っていくっていうのは、日々の私たちがそれぞれ置かれた状況の中で、小さくでも真摯に御言葉に応えていく。
それだけですね。
イエス様は私たちと共に歩む中で、私はあなたの痛みや歪みを癒したい、そう願われる。
だから私についてきなさい、と真摯に私たちに言われる。
イエス様についていくっていうのは何か苦しくて怖い。
いや違います。
共に歩む中で私はあなたを癒したい。
先週、父と母を捨て、そういう話をしました。
誤解を与えないように、父と母を簡単に捨てていいということは言っていません。
父と母は大事です。大事にしてください。
ただ、時より大きな声は私たちに響く。
その言葉を、やはり私たちはどう答えるかを考えなければならない。
そういうことを思います。
さて、そのように私たちを招かれるイエス様がおられる時に、
イエス様はどのような眼差しで私たちを見ているのでしょうか。
9章の36節、今日の歌詞に入っていきますと、
9章の36節にイエス様はそのような人々を見る眼差しが書いてあります。
また、群衆を見て深く憐れまれた、
彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、
弱り果てて倒れていたからである。
羊の群れのようにというのは、
これはいざや書53章のテーマをまた引っ張っていると思いますが、
実はこの歌詞は旧約聖書の引用とも言われます。
もともとこれは第1列王記22章の17節という列王記の歌詞の話で、
全部ちょっと話すと長いので短く話しますけれども、
簡単に言うならば、
キタイスラエルとミナミウドがとても繁栄していた時期に、
2つの国の王様が一緒に話し合っていたんですね。
その時に、預言者ミカヤという人が呼ばれて、
この先この国はどうなるかということを聞かれた時に、
ミカヤが言う言葉なんです。
この国はいや羊飼いのいない羊の群れのようになっています。
王様が目の前にいるんですよ。
でも王様を目の前にして彼は言うんです。
王よ、王であるあなたが立っているけれども、
この国の民は羊飼いのいない羊のようになっています。
そしてこれはイエス様のこの時代とも重なります。
この地域にヘロデ王の子供たちがまだ支配しています。
王はいるんです。
でも誠にこの民を生かすような、
本当に跪くべき誠の王がいない。
だから民は彷徨っている。
この地に王はいるのに王がいない。
病や悪霊、そして世が引き起こす様々な痛み、歪みに囚われて、
弱い者は嘆くしかなくなっているし、
強い者は歪んでいる自分を王だと防護する。
どちらも彷徨っています。
どちらも限界や矛盾を抱えて自分で自分を救えない。
この9章の36節というところに、
その羊たちは弱り果てて倒れていたという言葉がありますが、
この言葉はギリシャ語で直訳するならば、
徹底的にいじめられ、力なく不死していると訳せる言葉です。
徹底的にいじめられ、力なく不死している。
いわばイエス様の目から見れば、
目の前にいる人たちはみんなボロボロに見えるという。
ボロボロである。
私たちもそうかもしれませんね。
平気に見せておいて実はボロボロである。
人の目を欺くことは簡単ですから。
ただイエス様は私たちを見つめます。
イエス様は私たちを見抜きます。
私たちがボロボロであることはよくご存知です。
ボロボロの人々
祈れない私。
怒りと嘆きを処理できず限界を迎える私。
こうありたいのにこうあることのできないという矛盾を抱える私。
そういう私をイエス様は気づいてボロボロだと見ておられる。
厳しく見ているんでしょうかね。
主はもうこんな私はダメだと思って見ているんでしょうかね。
私たち自身はそう自分のことを見がちですね。
私はこんなのだからダメだ。
私はこれだから全然神様の前に立てない。
見がちですね。
でもイエス様の眼差しというのは、
深い憐れみに満ちた眼差しであるとここで書いてあるんです。
イエス様の眼差しは深い憐れみに満ちた眼差しである。
辛いだろう。痛いだろう。
あなたの痛みを私に触れさせてほしい。
私の権威や力はそのすべてのためにあるんだからと
イエス様は言われるのではないでしょうか。
憐れみという言葉は皆さんよくご存知でしょう。
内臓が揺り動かされるという言葉です。
言い換えれば、あなたを思うならばいても立ってもいられないという感情です。
憐れみとはそういう言葉です。
それは厳しくお前はもうダメだという目線とは真逆ですね。
主はそのような眼差しで私たちを見ています。
限界と矛盾を抱える群衆を、そして私たちを見ておられる。
そして3番目のポイントです。もう終わりますが、
じゃあそういう私たちが主にできることは一体何なのでしょうか。
一つだけだと思います。それはただすがるということです。ただすがる。
この8章から9章で出てくる人たちがイエス様に願う言葉は実は似ているところがあります。
例えば8章の最初のサラートの人がイエス様に言われたのは、
主をお心一つで私を清くすることがお出来になりますと彼は言いましたね。
おコロコロ一つでというのはさっきも言いました。
サラートの人間は誰にも触れられるなんて期待できない。
だからあなたの心だけでもくださいということです。
あなたの心だけでも私にください。
百人大帳はイエス様に言いました。
ただお言葉をください。そうすれば私の下辺は癒されます。
8章の8節にありますが。
ただお言葉をください。
そして9章の21節の長血の女性もイエス様にこう思っていましたね。
この方の衣に触れさえすれば私は救われる。
これらの言葉に共通するのは強い信仰なのか弱い信仰なのかそれぞれ解釈はあるでしょう。
ただ共通しているのは追い詰められているということです。追い詰められている。
もうこのお方の心をいだたくしか私に救いの道はない。
ただこの方の言葉しか私はすがれない。
この方に触れさえすればそれは誰かに。
この世に徹底的にいじめられ力なく不死している人々がボロボロになりながらすかった言葉です。
でもイエス様はこれらの言葉をすべて受け入れられましたね。
喜んでむしろよくぞ私に言ってくれた。よくぞ私に言ってくれた。
私自身の反省をこの説教作りながら思わされたのは
嫌なことが重なって追い詰められるときに
私は自分ばかりを見て主にすがるということを忘れていたなということを
私自身の反省として思わされることがあります。
主よ、あなたのお心通りになりますように。
あなたの御言葉をただください。
あなたの御人材にただ触れさせてください。
うめきますね。どうしたらいいのかって。
でも主はうめくならばそのようにうめてほしいと私たちを招かれる。
主をあなたに触れさせてください。
そしてそれが導く先はおそらく
主よ、救いはあなたにありますという告白に私たちを至らせるのでしょう。
救いはあなたにあります。
それぞれの人生においておそらく呪いと思える現実がありますね。
何なんだと思うことがあります。
限界や矛盾を抱え、時には自分がもう何をしてしまうかがわからないという時が
私たちにはあります。
ただ私たちがそういうところからしよっていくのは難しいかもしれないけれども
そのぐらい気持ちが祈れって言われても祈れないかもしれないけれども
忘れてはならないのはそういう私たちを見て深く哀れんでおられる主がおられる。
その眼差しは決して忘れてはならない。
ボロボロなんですよ。
主にすがる重要性
だからすがりましょう。
そこでこそこの時を抜けられない。
そういうことを思っております。
私たちがすがる先に確かに主はそこで待っておられる。
そのことをご一緒に味合わせていただきたいと願います。
一言お祈りをしてメッセージを終わります。
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