1. 名谷教会 podcast
  2. 2024/08/25: 聖徒としての召し
2024-08-25 35:06

2024/08/25: 聖徒としての召し

2024/08/25 聖日礼拝

三股愛子師

コリント人への手紙第一 1:1-9


00:01
おはようございます。今日は、こちらで講談交換ということで、こちらに来させていただいて、ご用させていただきます。
実は、恩師教会なんですけれども、今ですね、今年は年に4回ですね、寂しそうにさせていらっしゃる斉藤先生においでいただいて、
聖祭式のご用していただくんですけれども、来週おいでくださることになっていて、その先生の前で今日はご用させていただけるのか、
少々ですね、いつも聞かせていただいておりますのに、今聞かれるのかって感じで、ちょっと少々この緊張感を持っております。
一言お祈りさせていただきます。
主は私の牧者であって、私には乏しいことがありません。主は私を緑の牧場にさせ、憩いの身際に伴われます。
恵み深い天の父なる神様、この8月も一月間暑い中にあり、また今も暑さが続いておりますが、私たちを守り、保ってくださって、
8月最後の主の日の礼拝を、こうして捧げられることを覚え感謝をいたします。
今日は神様、この三和谷教会においてご用させていただきますけれども、
どうぞこのものを御手の中に握り隠し、どうぞ清めてお使いくださることをお願いいたします。
あなたからいただいたメッセージを語らせていただきますけれども、聖霊様が一言一言お導きください。
御座に委ね、主エス様の皆によってお祈りをいたします。
アーメン
これはずいぶん昔の話になるんですけれども、私が若い頃ですね、同じ職場の同期の友人がクリスチャンになって、
そして彼女がですね、私に会うとき、クリスチャンって言っても、罪許されただけで他の人と何にも変わらないよね、なんていう話をされたことがあるんですね。
で、私もそうよねっていう話はですね、そういう言葉を返したのであります。
おそらくその友人はクリスチャンになったことによって、その他のノンクリスチャンの友人たちがこの色眼鏡で見るって言いましょうか、信仰を持つようになったということで、
おそらくそういうことを感じていて、そのような言葉を口に出されたのかななんて思うのであります。
確かに私たちはこの罪を許されたものであり、そしてまたそれによって他のノンクリスチャンの方々とどこが違うのか、いや同じような弱さを持っているスーパーマンになったわけではない、
本当に私たちは一気に聖人のようになったわけではない、本当に罪は許されたけれども、本当に周りの方々とそれほど見た目には変わらないわけであります。
けれども私たちはそこにいつまでも留まっていてはいけない、いやもうそれで全てであるというわけではないのであります。
この九州の方、私は九州の人間なんですね、九州の大分県の出身なんですけれども、九州で毎年2月になりますと、九州ケジックというそのような九州ケジックコンベンションが開催されています。
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そして第一回目のことを思い起こすんですが、今35回、今年が5回目だったでしょうか、その最初の時にイギリスからご高齢であられたジョージダンカン先生とおっしゃる本も何冊か出していらっしゃる日本語の本もありますけれども、
その先生がいらっしゃって、ケジックとはどういうところであるかということを語ってくださったんです。
その最初の時におっしゃったのは、ケジックはクリスチャンかクリスチャンでないかが問われるところではありません。
ケジックはどういうクリスチャンであるかということが問われる場所なんですよということをおっしゃったんですね。
ですからそこに行っている方はクリスチャンです。
でもそこで問われるのは、いったい自分はどんなクリスチャンなんだろうかという、クリスチャンとしてのあり方、姿が問われるということであります。
イエス様は、あなた方は地の塩です。あなた方は世の光ですと言われました。弟子たちに向かって言われたわけです。
そして地の塩が塩気をなくなったら役に立たなくなる。そして光、光であるのにその光を隠してしまったら何の役にも立たなくなる。
私たちは地の塩、世の光として使命を与えていただいて、今この世界に置かれているわけでありますが、
もしも私たちが塩気を失う、光を隠してしまう。私たちがそういうものになって役に立たないものとなってしまう。
あるいはまた世と一線を隠していきなければならない部分があるのにどうかしてしまっていくときに、私たちはその使命を全うすることができなくなっていくわけであります。
私たちは地の塩、世の光として、そして本当にそれを明らかに際立たせながら、どのようにしてこの使命を全うしていくことができるのだろうかということでありますが、
今日のこの先ほど読んでいただきましたところに、クリスチャンとはどういうものであるかというそのことが書かれているのですが、ここにキリストイエスにあって聖なるものとされ、聖徒として召された方々へと書かれています。
今日はこの聖徒ということにですね、本当に目を止めたいのであります。
私は宣教師として数年間韓国に行っておりました。韓国に行っていて、韓国の教会の先生のメッセージ、あるいは韓国のクリスチャンとの交わりの中で、クリスチャンという呼び名以上に聖徒というこの呼び名の方をよく耳にしたんですね。
このクリスチャン、キリスト教の信者、信者、教会、その人たちのことを聖徒というふうに呼ばれているわけです。聖徒、聖徒たちというですね。
06:07
でも、かたや日本においてはあまり聖徒という言葉を口にしないわけです。クリスチャンという言葉の方が定着しているわけですね。
どうしてあまり聖徒という言葉を口にしないんだろうかというと、私たちお互いそれぞれ思われると思うんですが、私たちが抱く聖徒のイメージ、聖徒のイメージというと、
自分を捧げてきた本当に清い人、仁和の人、そのような謙遜な人というですね、そのようなイメージを持っているわけですね。
そのようなイメージの聖徒、自分が聖徒なんてとても言えないというふうに思ってしまう方が多いんじゃないかと思うんですね。
私自身も聖徒って、自分がですね、聖徒本当にふさわしくされているだろうかというふうに思ったりするわけであります。
けれども、私たちはこの聖徒ということ、聖徒という言葉をもっと自分の中で意識すると言いましょうか、そのような自覚を持って良いや、自覚を持つべきではないかなというふうに思うのであります。
今日ここで、コリントの教会の神徒たちに向かって、教会の人たちに向かって、パウロは聖徒としてめさへって、聖徒という言葉を使っているわけであります。
そして要説から見ますと、コリントの教会も本当に礼的にも恵まれていたんだなということを思うのでありますが、しかしコリントの教会のこの手紙をですね、この第一の手紙を開いて読んでいくと、教会の中にいろんな問題があったということがわかってくるわけですね。
いろんな問題があった。その問題のためにパウロは手紙を書き送っている。
その教会の中にあった問題の中には、クリスチャンの中でも見られないような大きな罪を犯すような人もいるということが書かれているわけです。
そういう問題の多い教会、大きな町であり、物質主義とか背筋主義だとか、世俗主義とかそういうのが蔓延しているような町にある教会でした。
ですからそういう教会を受ける、影響を受けるということもあったかもしれませんが、そのような問題を抱えた教会の方々に向かってパウロ先生は聖徒という言葉を使っているわけであります。
この同じくパウロ先生による牧獣書館のエペソピリピコロサイを見ていくときにですね、そこにはエペソの聖徒たちへ、ピリピにいるキリストイエスにあるすべての聖徒たち、コロサイの聖徒たちと書き送っているんですね。
エペソ教会の人たち、ピリピ教会の人たち、コロサイ教会の人たちのことを思うと、彼らが聖徒と呼ばれるのは全然違和感がない、相応しいことではないかなと思うんでありますけれども、この孤立の人たちが聖徒として呼ばれるというのには少々驚きを覚えるのではないでしょうか。
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こんな大きな問題を抱えているのに、この聖徒、聖なる人、聖なるもの、聖徒というふうに書き送っている。
でも、このように聖徒と呼んだこと、決しておかしなことでもないし、間違ったことでもなく、やはりこれは本当は聖書的なことなんですね。
聖書的なことでありました。
クリスチャンは聖徒である、私たちは聖徒であるということを本当に覚えたいのであります。
なぜ私たちは聖徒であると神様もおっしゃってくださるのか。
その一つは罪から清められたものであるからですね。
ここに2節のところに、キリストイエスにあって聖なるものとされ、イエス様にあって聖なるものとされた。
すなわち、イエス様によって罪を許され、罪を清められているという、そういう意味でもう聖徒とされているんだ。
御子イエスの血、すべての罪から我らを清むというのは文語訳ですけれども、そのイエス様の血がすべての罪から私たちを清めてください。
また9節には告白するならば、清めてくださるというお言葉があります。
イエス様の十字架を追いで、自分の罪を知り、そして十字架を追いで、悔い改めてイエス様の十字架の救いを受け入れた私たちには、
目には見えませんけれども、本当にイエス様の血がお互い注がれたものである。
そしてイエス様の血によって罪が許されて、清められたものである。
本当にかつての私たちを見るならば、心の中も行いにおいても、神様に喜ばれる聖徒としては全然相応しくない、まさに罪、美とそのものであったわけです。
けれどもただ一つ、イエス様の十字架のゆえに、イエス様によって罪を許されて、清められている。
それによって私たちは聖徒とされているというのであります。
過去の一切の罪が許され、清められている。
サタンは私たちがその悔い改める時に思い出せなかった罪もあるでしょう。
すべての幼い時から、生まれた時からのその罪で思い出してすべてを告白するという、そこに至ることはできなかったでしょう。
けれども時いたって何年もたって思い起こされる罪というのが出てきたかもしれません。
けれどもそういったものを思い起こさせられ、サタンが私たちを仮に訴えるようなことがあったとしても、
イエス様が本当に弁護してくださる。
私の血をもってあなたは罪許されたものだ。
12:01
清められたものだ。私のものだ。聖徒なんだ。
そのようにイエス様がおっしゃってくださるわけであります。
もしも仮に私たち自身の中で過去の罪を思い起こし、
私は聖徒としてふさわしくない、いやそんなものとは呼べないというような、そういうような思い、
両親の加食めいたことが起こってきたとしても、
イエス様の十字架のゆえに私たちは許され清められ、既に聖徒とされているという、
そこに固く立っていく必要があるのではないでしょうか。
神様ご自身が聖徒としてくださっていると、
この聖書を通して私たちに言ってくださっているという、
そこに私たちはしっかりとこの足を踏みとどめたいと思うのであります。
そして私たちが聖徒と呼ばれるもう一つは、
よから聖別されたものであるというですね。
よから聖別されたものであるゆえに私たちは聖徒なのであると。
コリントの町はその繁栄したそのような町で、
もう本当に今の日本のような社会と言いましょうか。
そういう町であったわけです。
でもその中から神様が選ばれて、
一人一人を選ばれて、その中から導き出されて、
神のものとされた。
神様のためにこの周りの社会とは違う存在として取り分けられた。
それがコリントの教会の人々でありました。
そして私たちもこの日本の繁栄した社会の中にありながら、
その中から取り出されて、
神のために取り出された、聖別された存在であるということ。
イエス様がヨハネによる十字架が迫ってきている中で、
イエス様がおっしゃった最後の晩餐の後のメッセージの中で、
私がこの世のものでないように彼らもこの世のものではない、
という大祭祀としての祈りの中でイエス様が、
私がこの世のものでないように弟子たちもこの世のものではない、
そしてあなたが私を使わされたように私も彼らを使わせている。
ですからこの弟子たち、イエス様を信じる人々は、
この世にあってこの世のものではない。
私たちはこの世にあって本当に神様から使わされた、
そういう存在であるということ。
皆さんもお聞きになれたことがもちろんあろうかと思うんですけれども、
私たちクリスチャンはこの湖に浮かぶ船のような存在だという話がありますよね。
この船がしっかり浮かんでいるときにこの海の中にありながら存在することができる。
でもその船が破れてしまう。
この穴が開いてしまうと水が入ってきて渋んでしまう。
そのように私たちはこの世という海に浮かんでいるこの船のような存在である神様によって、
15:01
この海の中に入ってしまうのではなく、
海の中に浮かんでいる、湖の上に浮かんでいる、
違う存在と言いましょうかね。
そこに置かれている。
まさに私たちはこの世にあって性別された、
死害保険というような言葉もありますけれども、
そういうような存在であるという、
この世のものと隠されていると言いましょうか。
そういう存在なんだということであります。
世から性別されている故に私たちは聖徒とされているという、
そして聖霊の宮とされている故でもあるということです。
この聖書のコリントの手紙の中にですね、
この後ですね、6章の19節のところに、
少し後ろの6章の19節にこういう言葉があります。
あなた方は知らないのですか。
あなた方の体はあなた方の内におられる、
神から受けた聖霊の宮であり、
あなた方はもはや自分自身のものではありません。
ここであなた方神から受けた聖霊の宮である、
クリスチャンは聖霊の宮とされているということであります。
そしてここであなた方は知らないのですかと、
コリントの教会の人々に問いかけているわけです。
すなわちコリントの教会の人たちは、
自分が聖霊の宮であるという自覚を持っていなかったのかもしれません。
自覚を持っていなかった。
その彼らに対して知らないのですか。
あなた方は聖霊の宮なんですよと言っているわけであります。
同じように私たちも聖霊の宮であるという、
時にその自覚を失ったり忘れてしまうということがあるかもしれません。
けれども聖霊の宮とされている、
清い聖霊の住まわれるところとされている、
イエス様の血をもって買い取られただけじゃなく、
清き神の御霊の住まうところとさせていただいているということ、
本当にこれらのことを見ていく時に、
イエス様の血をによって罪を洗われた、
罪を許され清められた、
そして私たちはこの世の中から清別された存在であり、
また聖霊の宮とされているという、
このことのゆえに私たちは聖徒なんだというふうに言うことができるんですね。
自分自身を見ると、
私のようなものが聖徒と言っていいんだろうかとかですね、
思うような存在であったとしても、
全てはイエス様の十字架がもたらした恵みであります。
私たちはこの恵みに信仰によって預かっているわけであります。
本当に私たちは、この朝もう一度、
私のようなものが聖徒として、
聖徒として今召されているんだ、
いや、聖徒とされているんだ、
なんと感謝なことであろうかと、
18:01
本当にですね感謝をしたいと思いますし、
またこの自覚の生むというのは、
私たちの日常の生活に大きな影響をもたらすのではないでしょうか。
聖徒としての自覚を持って生きるか、
聖徒としての自覚を持たないで生きるか、
そこには大きな違いが出てくるはずです。
聖徒としての自覚があるならば、
当然私たちの生活に大きな影響を与えるわけですね。
聖徒としてふさわしくないものは、
おそらく排除していくでしょう。
でもその自覚がないならば、
私たちは本当にもう周りの方と同じような生活、
送るような、いつの間にかそのようになってしまうということが
あり得るのではないでしょうか。
私たちは聖徒として、
もう聖徒とされているんですが、
実はこれは、
イエス様の十字架によって与えられた立場、
自覚と言ってもいいでしょうか。
けれども私たちの内側、
実際に私たちの内実はまだそこに至っていない、
伴っていないということがあるわけですね。
私たちは聖徒として召されたにもかかわらず、
まだまだそこに到達していない。
聖徒と言われるにふさわしいところにまで行っていない。
でも神様は、
聖徒としてふさわしいものになるようにと
選んでくださり、導いてくださっているわけです。
では私たちはどのようにしたら、
本当にそのような聖徒たるべき内側も、
そのようなものにですね、実質、
実質においてそのようなものに変えられていくことができるのでしょうか。
私たちは本当に、
自らの生きるその生き方において、
自分を本当に神様に捧げる、
委ねるということが重要だなということを思うのです。
私たちはクリスチャンになっても、
神様の御言葉によって歩むんですけれども、
時としてやはり自分の考えとか、
自分の思いが優先してしまうということがあるのではないでしょうか。
同じクリスチャンとの会話の中でも、
あなたはそう思うんですね、私はこう思います。
そこには神様の御心はというのがですね、
ちょっと横に置かれてしまって、
自分の考え、自分の思いが優先されてしまうということがあるわけであります。
私たちは神様がご自分のものにしようとして、
そしてご自分の使命を私たちを通して、
私たちにさせようとして選んでくださった。
そして神様の素晴らしさを私たちを通して表そうとしていらっしゃる。
にもかかわらず私たちが自分の考え、美人の自分の願望、
それをもう御所大切にと言いましょうか、
持って、いやこれだけは、これだけは、これだけはという風に逃げているならば、
私たちは神様が選んでくださった。
御計画を持ってくださっているにもかかわらず、
21:00
それを実現にまで至らして、
もうそこまで至らないままで終わってしまうということがあり得るわけです。
私たちは本当に自分の考えとか、自分の願いとか、思いとか、
そういうものをですね、本当に神様のみてに、
神様に委ねて、そして神様に導いて歩んでいくということを、
本当に優先していきたいものであります。
私たちは自分の頭でいろいろ考えて、
これがいいんじゃないか、これがどうなのかと思うわけでありますけれども、
しかし私たちは、神様は私たちを愛し、
私たちのために御自分の御子、イエス様さえも惜しまずに与えてくださった。
その神様は私たちのために、本当にですね、
最終的には私たちにとって最も良きことを計画してくださって、
最も良き所へと私たちを導いてくださるお方であるということを、
私たちはしっかりと握っておきたいものであります。
時にはそこに至る前に、大きな痛みとか苦しみとか悲しみとか、
味合わされることもあるかもしれません。
いや、やっぱり神様は私をこんな苦しみに合わせようとして、
この道に導いたのかしらってですね、
本当にそのように思うようなことがあるかもしれません。
でも私たちは本当に、この苦しみやつらい、
そういう中においては非常に近視眼的になって、
先のことが見えなくって、今目の前のことしか見えなくって、
どうして神様は私をこんな目に合わせるんだろうか、
どうして神様はこんな風にと、
私はやっぱり自分で選んだ道を歩むべきだった、
自分の道を選んでいくべきだったと、
そのような後悔が多少起こるようなことがあるかもしれませんが、
しかし神様は私たちに最も良きものをご計画してくださっている、
本当に神様は私たちをなおも愛し続けてくださっているということ、
最終的には善であり、最も良い良きものを
神様は私たちのために備えていらっしゃるということを
私たちは止めておきたいと思います。
ヨセフの生涯を思うときに、
今今回ベラカはなくなってしまったんですけれども、
この聖書日課、毎日読むところはインターネットでも
ホームページの方から見ることができるわけですが、
今ちょうど創世記をやっているわけなんですけれども、ヨセフのところですが、
あのヨセフの生涯を思うときに、
本当にヨセフはつらい大変なところばかりを通っていきました。
けれども最終的には自分にとっても良きものであり、
自分の家族にとっても最も良い事柄を
24:00
神様は計画していらっしゃったわけであります。
牧中に置かれたとき、お兄さんたちに裏切っていったとき、
本当にその都度その都度、人間ヨセフ、まだ若いヨセフにとっては
どれほどつらかったことかと思います。
けれども最終的に神様が私をここに最初に使わせてくださったんです。
あなたたちではありませんとヨセフは言っているわけです。
本当に神様のその永きに渡るゴールが見えるまでは長い長い
つらいところを通りましたけれども、最終的には
最も良きものを自分と家族に与えてくださったと
そこに彼は立って感謝をするわけであります。
同じように私たちもそのようなところを通ったとしても
神様は私たちに自らを委ねていくときに
捧げていくときに良きことをご計画し
そしてそこに至らせてくださるお方なんだということをですね
本当にしっかりといろんなつらいときにも
そこに立つべきではないかと思うのであります。
そして私たちはそれとともに上にあるものを求めて生きるということ
これはコロサイショの3章の1節から3節の中にあるんですけれども
地にあるものじゃない上にあるものを求めて生きていく
私たちはもうともすれば水平ばっかり見てしまう
水平ばっかり周りを見たりとかですね
私たちが上ではなく水平を見ていくときには
人との比較の中にあり
そしてまた一気にいろんなことが起こるわけです。
でも上にあるものを求めなさいと
聖者は私たちに命じているわけです。
上にあるもの上にあるもの
神様のお溝でありイエス様であり
そしてまたそれは霊的なこと柄
言葉を変えると神の国と神の人も言うこともできるでしょうが
霊的なそのような祝福という
神様がもたらす霊的な諸々の恵みという
私たちはそのようなものを求めていくべきであります。
救われる前の私たちはひたすらこの世にどっぷりと使ってしまっていて
そしてこの世が提供するものでこの私たちは生活し
それを喜んでいたわけであります。
でもイエス様から救い出された私たちは
この世にあってこの世のものではない
そして私たちの国籍は天にあるという
本当の私たちのふるさとは天にあるものとされている
そうであるならば私たちは本当に上にあるものを
目をしっかりと止めて歩んでいくべきではないでしょうか
私たちが上にあるものから目をそらして地にあるものを見ていくときに
私たちは堕落してしまう。
神様が望んでおられるようなところにまで成長することができないということが
起こってしまうわけであります。
27:02
もうずいぶん昔の新学生の頃の話ですから
もうずいぶん昔なんですけれども
その頃に森山卒先生というですね
ご存知の方々多いと思うんですけれども
森山卒先生が時々来て御用してくださいっておりました
その森山卒先生がおっしゃったんですね
本当に神様は天から私たちのために
報いとしての王冠を手に持って
私たちにあげようとして
手を差し出してくださっているのに
地にいる私たちは下ばっかり向いて
ゴミ拾いしているっておっしゃったことがあるんですね
下ばっかり向いてゴミのようなものを求めて歩んでいるっておっしゃったんです
神様は天から素晴らしいものを私たちに
与えようとして手を伸ばしてくださっているのに
下ばっかり見てるからそれが見えていないっていうようなことでした
本当に実際私たちはクリスチャンになり
本当にこの世から救い出されて
そして私たちは神様のものとされたにもかかわらず
そのような事柄をやっているってことがあるのではないでしょうか
コリントの中に後の後ろの方にありますけれども
私たちは目に見えるものではなく
目に見えないものに目を注ぐと
目に見えるものは一律的であり
見えないものは永遠に続くからであるというお言葉があります
私たちは何にこの目を向けていくであろうか
儚いもの消えゆくものに目を止め一生懸命なるのか
私たちは目に見えない上にあるもの
霊的なもの神様がくださる永遠に続くものにしっかり目を止めて
私たちはそれを求めて生きていきたいものであります
そして私たちはさらに聖徒という名刺にふさわしくなるために
本当に自分を捧げる上にあるものを求める
そして清められることをさらに追い求めていくという
清められることさらに清められていくこと
この目史録の22章のところにこういうお言葉があります
22章の11節のところにここに
22章の11節聞かれるだけでも結構です
不誠意を行う者にはますます不誠意を行わせ
穢れた者はますます穢れた者とならせなさい
正しい者にはますます正しいことを行わせ
聖なる者はますます聖なる者とならせなさい
聖なる者となる
清められるということ
それは私たちが一回あれしてもそこで十分だ
そこがゴールだじゃなくて
30:00
私たちはますます聖なる者となる
ますます聖徒とふさわしくなるべく
本当に清さを追求していくということが
求められているわけであります
ヘブル書の中にもありますけれども
清められることを追い求めなさいと
私たちは清さにおいて本当にもっともっと
渇きをもって追い求めていきたいものであります
神の御心はあなた方が聖なる者となることですと
ありますけれども
私たちは清さというもの
私はもう清められた
もう清さを求める必要はないというような人はいないんですね
この地上にいる限り
私たちはどこからでも攻撃を受けて
そこから引き摺りされそうになります
私たちはパウロ先生のように前に向かって
体を伸ばしながらまた
清められることということにおいても
そのように求め続けていくということが
必要なのであります
そしてそのように私たち自身が追い求めるとともに
本当に清きお方との交わりということが
大切であろうと思います
日本の言葉に
種に交われば赤くなるという言葉があります
種、赤いものに交わると自分は赤くなる
その言葉のように
聖なるお方と私たちが親しく長く交わっていくときに
本当に神様が私たちをお取り扱いくださって
私たちの心の中にある
神様に喜ばれないこと柄も
本当に示してくださって
私たちはこの清いお方と交わることを通して
主は私たちを清いものへと変えていってくださる
見た目のある聖霊の働きであるとありますけれども
この清い栄光の主耶穌様に
似たものに交わりの中で
イエス様が変えていってくださるというですね
本当に私たちはそのように
そして聖霊に満たされていきたいものであります
私たちはこの世にあって
このような聖徒として召されている
そして私たちはまだまだその実質を伴っていないかもしれないけれども
でも今話させていただいたように
私たちは自らも清められることを追い求めながら
神様の御心を第一にし
神様の御胸に従っていき
そして上にあるものを
この求め続けていくお互いでありたいものであります
私たちを聖徒として整え
神様はこの地上において
用いたいと願っていらっしゃることを思うのです
神様の栄光のために
そしてまだ神様御自身を知らない方々のためにも
私たちを通して働きたいと願っていらっしゃることを思うときに
本当にさらに私たちは
どうぞ聖徒として相応しく
なおなお内を探り清めてくださいと
祈っていきたいものであります
でも感謝の言葉がこの9節の中に
33:01
この8節9節のところにあります
8節に
主はあなた方を最後まで固く保って
私たちの主イエス・キリストの日に
責められるところがないものとしてくださいます
神は真実です
その神に召されてあなた方は神の御子
私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです
この8節の中では
あなた方を最後まで固く保って
そしてイエス・キリストの日に
責められるところがないものとしてくださいます
すなわち責められるところがないもの
私たちを本当に聖徒として
聖徒として神様は私たちを
そのように整えてくださるという約束なんですね
そして9節にあるように神は真実ですと
私たちがこの信仰を捨てない限り
私たちが神様から離れていかない限り
私たちが神様を追い出いく限り
神様は責任を持って私たちを導いてくださって
その御真実のゆえに私たちを
イエス・キリスト様の御祭輪の日
その日にまで責められるところのないものとして
備えてくださるという
なんという大きな神様のお約束
恵みであろうかと思うのです
どうぞ私たちは自分の力で八つになって
私はとなるのはない
本当に神様の御前にこのように死の前に差し出して
私はまだまだとそう思う方がいらっしゃるなら
本当に整えた方々もいらっしゃいますでしょうけれども
本当にでも天に映されるまで
清さを尚も求め続けていくお互いとして
そしてやがてこの神様の御前に
イエス様の前に出て行った時に
イエス様の姿に似たものとさせていただいている
そのことを見ることができたら
幸いだなというふうに思うのであります
では一言お祈りをいたします
35:06

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