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2024-08-18 25:00

2024/08/18: 今、本当のことが分かった

2024/08/18 聖日礼拝

加藤満牧師

使徒の働き 12:5-11


サマリー

このエピソードでは、洗礼式を迎える水本さんを通じて、信仰の道のりや力強い祈りの重要性が語られています。また、使徒の12章を通じて、教会の危機的状況や神の救いの御業について考察されています。ペテロとコルネディウスの出会いを通じて、神様の働きの進行についても考えられています。洗礼を受けた経験が信仰のスタートとなり、その後の人生における神様の計画についての理解が深まります。

洗礼の意味と信仰の道
それでは、お祈りをいたします。
愛する天の父なる神様、今日も主の御前へと私たちを招いてくださり、ありがとうございます。
この暑さの中で、心も体も霊も弱りやすい中にありますが、
しかし主が私たち一人一人を支えてくださり、このところまで導いてくださいました。
どうか主よ、傷んでいる兄弟姉妹もいることを覚えます。
お一人一人をどうか慰め励まし、立たしてくださいますよう、お願いをいたします。
私たちは、あなたの十字架の愛を知りました。
イエス・キリストに流されたあの血を、私たちの罪を引き受けてくださったあの苦しみ、
それによって私たちが神の子とされ、それだけではなく、三日目に甦えられた復活の命を通し、
今も主よ、永遠なる人と共に生きる永遠の命を与えられているその恵みを心からありがとうございます。
私たちにどうか、あなたの恵みの豊かさ、広さ、深さ、そしてまた、それにあって喜ぶことができるように信仰を与えてください。
弱る中にあったとしても、神様、弱り続けるだけではなくて、
どうかその中にあなたの永遠の御手があることを覚えることをなさしてください。お願いをいたします。
今朝、主がまた御言葉を開いてくださいますように、
ここに来たくても来れないお一人一人がいることを覚えます。
施設におられる方、ご自宅で礼拝を守っておられる方、
思いがここに向かない方、それぞれがいらっしゃいますが、
お一人一人のうちに主が届いてくださいますように、
そこに主はおられると、あなたの御人材を表してください。お願いをいたします。
これからの時を見てによだねます。あなたが御言葉を開き、私たちを導きください。
やつ様の御名前によってお祈りをいたします。アーメン。
本日は、水本さんの洗礼式をこの後行いますが、
皆様は自分の洗礼式を覚えていらっしゃるでしょうか。
そしてそれは印象的だったでしょうか。何かが変わった式だったでしょうか。
実は私自身のことを申し上げるならば、
私にとっての洗礼式はさほど良いものではなかったというか、
ちゃんとしたものではなかったんですね。
と言いますのも、私が洗礼を受けたのは小学2年生の時でした。
その1年前に実は私の幼馴染が洗礼を受けたんですね。
彼は心から神様を信じて洗礼を受けた。
幼な頃にも分かりました。神様信じたんやな。
そこから礼拝で隣同士に座っていると、
清算式の時に彼だけパンとぶどう汁が取れるわけですよ。
これが私はとてつもなく悔しかったんですね。
その年、1995年のクリスマスの前に、
その当時の牧師から、今でも覚えてます。
廊下でパッと聞かれたんです。
「みっくん、洗礼受ける?」と。
私は即座に答えました。
「うん、受ける。」と。
そこから洗礼の学びもなく、
トントン拍子でその年のクリスマスに洗礼を受けました。
それが私の洗礼です。
イエス様を信じるという意味もよく分かっていません。
洗礼の意義もよく分かっていませんでした。
ただ、あの友達と一緒に洗礼の精算式のパンとぶどう汁が取れる。
その安心感を得るがために、私は洗礼を受けたのです。
ただ、神様は慚み深いお方でして、
そういう不純な動機を持った私でありましたけれども、
使徒の危機的状況
大学1年生の時に不思議と神様を明確に信じる経験を致しまして、今に至ります。
神様は不思議なお方なんですね。
私はある種いい加減な思いで洗礼を受けました。
ただ、そういう私が主に導かれて今、牧師になっているというのは、
これはなるべくしてなったのではないのです。
この前、舞妓の方々が来てくださいました。
あの回の短さでよかったですね。
あれがもうちょっと長引くと、いろんなボロが出てきます。
あれがもうちょっと長引くと、いろんなボロが出てきます。
そんなもんなんです、私なんですね。
でも、神様のなさる技は不思議でして、
それは人の目には思いもよらないことを身技として起こされるということです。
や、種の身技というのは、人の目には思いもよらないことなんです。
だから、神の技とも言えますが、
神様はある種、人の目にはつながらないであろう、
え、この子が将来牧師に?
でも、そのようなつながらないであろう点と点を線で結び、
美しい絵を描かれる神様なんです。
そして、その絵が見えたときに初めて私たちは、
分かったということができるということなんですね。
今朝の箇所はそういう箇所ではないかなと思うのです。
今日は、使徒の十二章を読んでいただきました。
今年の使徒は今朝で最後といたしますけれども、
この十二章に至るまではどうだったかというと、
実はキリスト教会は順調に宣教を進めてきました。
ユダヤから、エルサリムから始まっても散らされたけれども、
サマリア違法人に宣教が進んでいきました。
しかし、この十二章では、教会はかなり危機的な状況に陥ります。
一説から見ていただきますと、まず、
イエス様の十二弟子の一人、ヤコブが、
ユダヤの統治者ヘロデによって殺されてしまいます。
当時の教会、イエス様がいなくなった当時の教会にとっては、
十二弟子が筆頭の指導者です。
でも、その一角が落ちたわけです。
教会にとって大きな激震が発したと思います。
ただ、それだけではなくて、ヘロデの手は、
この弟子の筆頭角のペテロにまで伸びるわけですね。
三説、四説をお読みしますが、その様子が書かれていますが、
三説、四説。
それがユダヤ人に喜ばれたのを見て、
まさにヤコブの殺害がユダヤ人に喜ばれたのを見て、
さらにペテロも捕らえにかかった。
それは種なしパンの祭りの時期であった。
ヘロデはペテロを捕らえて牢に入れ、
四人一組の兵士、四組に引き渡して監視させた。
杉越の祭りの後に、彼を民衆の前に引き出すつもりでいたのであると。
ペテロが捕らえられて、四人一組の兵隊のグループ、
四組に監視をされたというのは、
いわばこれは、四六時中監視がついたということです。
四六時中監視がつき、しかも彼はヘロデの城の牢獄のところに鎖でつながれた。
その状態を兵隊に監視されているという状況になった。
しかもヘロデはここで、杉越祭の後、民衆の前に引き出すつもりでいたとありますから、
これは明らかに、一年前にイエス様が十字架で死んだのと、
全く同じ状態で殺害しようとしたということです。
ペテロもイエスと同じように殺そうと、覚察をしたということですね。
十二弟子の筆頭のペテロをイエス様と同じように十字架で殺害をすれば、どうなるでしょうか。
キリスト社の信仰中心、それはイエスは誠の王であるという信仰ですが、
しかしそのイエスは王であるという信仰は、根本的にくじかれることでしょう。
誠の王イエスと言いながら、
イエスもそしてペテロもユダヤの王であるヘロデに勝つことはできない。
そういうことが吹き飛ばされることでしょう。
ユダヤ人はそのことに喜び、迫害はヒートアップすることでしょう。
そうであれば、トップを失ったキリスト教会はなし崩し的に崩れるかもしれない。
これは短い箇所ですが、実はこれは初代キリスト教会存続の危機なんです。
神の救いの御業
ただペテロはローにとらわれて、人の手では決して助けに行けない場所にもとらえられてしまった。
どうしたらいいのでしょうか。
誤説を見ますと、そのような中、教会は祈ったとあります。
教会は祈りました。しかも、教会は彼のために熱心な祈りを神に捧げていたというのです。
熱心にという言葉は、これは限界まで張り詰めるという意味の言葉です。
いわば熱心に祈ったというのは、限界まで、祈りということを限界までしたということです。
真剣にとも訳されます、この言葉は。
真剣に限界まで彼らは祈った。本当に神様を信じて祈った。
いわば教会はもう後がないのです。
神が奇跡でも起こされない限り、私たちに明日はないという状況です。
ただ、少し考えてみたいのですが、彼らはどのように祈ったでしょうね。
どのような言葉で祈ったでしょう。
牢に鎖で繋がれて、兵隊に監視されたペテロを助けてくださいと心から祈ることができたでしょうか。
私だったら、祈りの手の一人だったと思うかもしれません。
さすがにもう無理じゃないかと。さすがに無理じゃないでしょうか。
そう思いながら、祈った人がいたかもしれません。
私たちはよく、あの人を救ってくださいとお祈りをいたします。
でも、どこか私たち、それは私もそうですが、先に諦めて祈ってしまうことってないでしょうかね。
ありますよ。それは私にもあります。
理性的には信じられないんです。さすがに無理じゃない。
でも、無理だと思いながらも、でも助けてもらわないと困るわけです。
だから、無理かもしれないという不信心を持ちながら、でも主をどうにか助けてください。
助けてくれないと困るんです。
そういう私たちにはある種、尻滅裂な言葉にもならない、うめきのような祈りってあるんじゃないでしょうか。
真剣な祈りというのは、美しくありません。そういうもんでしょう。
真剣な祈りというのは、別に美しくもなんともありません。
でも、おそらく私たちの祈りの生活の、もしかしたら大半はそのような真剣な祈りなのかもしれませんね。
そして私たちは思うかもしれません、そういう祈りって神様は聞いておられるんだろうか。
この言葉にも出すこともできない、うちでうめくだけの私の祈りを主は聞いておられるんだろうか。
ただ今朝の6節以降を見ていただくと、興味深いことは、実は6節以降にペテロが祈ったという言葉は出てこないんですよ。
ペテロが祈ったという言葉は出てきません。
ペテロは鎖につながれて寝てしまったとしか書いてありません。
もしかしたらですよ、ペテロはすでに、ああ無理だと思ったのかもしれません。
さすがに無理だと。
もしそこに主の使いが現れたとするならば、その理由の一つは間違いなく教会の熱心な祈りだったのです。
間違いなくその祈りが聞かれていたのです。
教会というのは祈りの共同体だと言われます。
それは時に神様を信じれずに祈れない時が私たちは誰しもあるということです。
けれども私が祈れなくとも、誰かが私のために祈ってくれているという安心感を得られるのがまた教会であるとも言えます。
教会はそういう交わりなんですよ。
自分以外の誰かの祈りが私の信仰を支え、私の救いにつながっている、
そのことを私たちは決して忘れてはならないと思いますし、
だからこそ私たちは誰かのために祈るということの重要性もまた覚えたいと思うのです。
そして、続きの話にもつながりますが、真剣な祈りも含め、祈りというのは地には落ちないということです。
後半に入っていきますけれども、祈りは地には落ちないというのは、このことは実は6節以降を見てもよくわかります。
6節以降は、もう読んでいただいての通りですが、主の使いが現れるのです。
兵の目をくらませ、眠るペテロを起こし、鎖を解き、出口まで導きます。
この時ペテロは夢見心地だったと書いていますね。
夢ではないかと彼は思っていた。
彼は何もしていないのです。
ただ彼を解き放つ御使いに導かれて、力強くペテロを引っ張る主の使いに導かれて、彼はすべての障害を超えていく。
それは重い重い鉄の扉までも主の使いが開き、突破していく。
ペテロが我に帰るのは11節ですね。
それはもうすでに城の底でした。
その時に彼は初めて言います11節。
その時ペテロは我に帰って言った。
今本当のことがわかった。
主が御使いを使わせて、ヘラゼの手から、またユダヤの民のすべての黙々みから、私を救い出してくださったのだと。
今本当のことがわかった。
実はこれと似たような言葉をペテロは10章の34節でも言っています。
10章の34節。
これで私ははっきりわかりました。
神はエコヒーキをする方ではなく、うんぬんと。
ペテロの気づき
10章の34節に書いています。
これは、違法人コルネディウスと出会った場面ですね。
聖書を順に読むことができる私たちは、思うかもしれませんね。
ペテロって勘の悪いやつじゃなと思うかもしれません。
気づくのが遅い。
彼はすべてのことが終わって、やっとわかったとどっちでも言っているんですよ。
けれども、私はこれは大事なことを教えている点かなと思うのです。
つまりそれは、私たちは神様の御業を最後に知るということです。
私たちは神様の御業を最後に知るということですね。
10章のコルネディウスの話を思い出していただければわかると思いますが、
実はペテロがわかったと34節で言う前の10章の1節から主の使いは働き始めています。
コルネディウスのところに見つかりが現れ、そしてペテロのところにも見つかりが現れ幻を見て、
ペテロは何のこっちゃかなと思いながら歩いていきながら、でもコルネディウスとの出会いが与えられ、
そしてコルネディウスとの話を聞きながら、それが双方主の働きによってなされているということが気づいたときに、
最後になってペテロは今わかった。今わかったと彼は言います。
ただ大事なのは、ペテロが気づく前から神様はすでに御業を始めておられるということです。
ペテロが気づく前からです。
それはまさにペテロからするならばコルネディウスという自分とは全く関係ないと思えるような点と自分という点を結び合わせて、
ある種そこから絵を描くように、そして絵が見えて初めてペテロは言えたのです。
ああ、今本当のことがわかった。
洗礼の意味
先ほど私は不純な動機で洗礼を受けたということをお話をいたしましたが、
ただ私は自分が受けた洗礼は無駄であったと思っていないのです。
と言いますのも、実は洗礼を受けたことによって、私は神様のことをよくわかっていませんでしたが、
自分はクリスチャンであるという自覚を持ったのですよ。
友達にも、僕は教会にいてクリスチャンなんだと自己紹介していました。小学校、中学校、高校と。
大学になって、やっと私は神様がわかった、そう言える経験をしたわけですけれども、
しかしもしも私が小学2年生のときに洗礼を受けていなかったら、わからないですよ。
わからないけど、もっと早く教会から離れていたかもしれません。
兄と姉はすでに教会から離れていましたからね。
でも私がこの大学生のときに神様がわかったと言うために、
私はあのときに洗礼を受けた意味はあったんだなということを強く思うのですね。
そういう意味で、神様はある種不思議と不純な思いで、
あるべきところから離れていた私の行為を、その点と点をつなぎ、絵を描かれたということだと思うんです。
そういう意味において、洗礼というのはスタートです。どう考えてもスタートです。
これが全部の完成でもなんでもないです。
ここから私たちと主と共に歩む歩みが始まった。
そしておそらく信仰生活の長い方々は、主がそこからどのような絵を私たちに見せてくださったのか、
そのことを一人一人握っておられることでしょう。
でもそれがある種大切な経験なのだと思うんですね。
私たちの祈りと祈りの答えというのは、すぐにはわかりません。
すぐにわかるときもあれば、そうではないときもあります。
けれども結果がすぐに見えない祈りというのは、無駄だったのでしょうか。
そうではないですね。
主は祈りを聞き、すでに働いておられるのです。
そしてその結実はきっと、ああ、そことそこがつながったのかと、
ある種、人間が決して描くことができないような絵を私たちに主は描いてくださるのです。
でもそうですよね。そういう神様じゃなかったら信じる意味なんかないですよ。
私たちの想像を超える絵を見せてくれる神様でなければ。
でもそういう神様を私たちは信じてますよね。
実は峯本さんとの出会いも不思議なものでした。
少しだけお話をさせていただきますと、ある日急に電話がかかってきたんです。
電話の先は、筒字が丘キリスト教会の竹内先生という牧師先生でした。
その先生が、自分の教会員の娘さんがマレーシアに行っておられて、
その娘さんがマレーシアの宣教師の先生と一緒に、
聖書を題材にした英語の学び会をしている。
そのオンラインの学び会に日本から参加されたのが峯本さんなんです。
そこで峯本さんが聖書の話を聞き、ああイエス様素晴らしい、イエス様信じたいと思って、
竹内先生がそれを聞いて、じゃあ峯本さんのお住まいの近くで、
どこかの教会につながることができないかなと探していたところ、
橋本翔子さんの年賀状を思い出した。
実は橋本翔子さんが関東におられたときに、この筒字が丘の教会に行っておられて、
自分は宮谷教会に行き始めて、宮谷教会には加藤という若い夫婦が来たと、
若い夫婦の先生が来たということを言ってくださり、
竹内先生がそれを思い出してホームページを見たところ、加藤夫婦は刑事刑出身者だ。
竹内先生はもともと刑事刑の主事なんです。
刑事刑出身者だったら信用ができるということで電話をかけてこられた。
その日のうちに私はオンラインで峯本さんとつながりました。
今思っても不思議ですね。
それはきっとどこかのピースが欠けていたら、どこかのつながりが触れていたら、
多分今日は峯本さんはここに来ていませんし、洗礼も受けておられないかもしれません。
でも離れた点と点を結び、そことそこが結びつくのかという驚きを覚えながら、
しかしそこに絵が描かれて、今朝私たちは洗礼を迎える。
私は今朝本当に思っています。
ああ、今本当にわかった。
これは間違いなく主が導きなしてくださったことなんだということです。
今朝の箇所から二つのことを覚えて終わりたいと思います。
まず、私たちの祈りは地には落ちないということです。
ぜひ覚えてください。
私は一年そこらしか宮殿に来ていませんけれども、
皆さんがすでにあのことのために、あの人のために真剣に祈っている祈りをたくさん聞いてきました。
すでに真剣に皆さん祈っておられますが、その祈りは確かに神様の耳に届いているということです。
そしてすでに神様は働いておられます。
しかしもう一つだけ私たちが覚えたいのは、
神様は私たちの想像を超える絵を描かれるということです。
その点と点をつなぐのかと驚かされるような点をつなぎます。
けれども、それはきっと私たちの良いことだけではなくて、
私たちにとっては、ああ、会ってほしくなかったあの痛みも、
やってしまったというあの失敗も、
考えの浅かったあの不純な動機も、
そして私の不従順をも、神様は用いて壮大な絵を描かれるんです。
そういう意味で主は恵み深く大きなお方ですね。
いつかそれは私たちの存命中か正直わかりません。
でも必ず主はそれら一つ一つの点を結び、
今私は本当のことがわかったというだけの絵を完成させてくださる。
神様の計画
私たちはそのことを信じ、希望を持っていいと思うのですね。
私たちはその時をご一緒に待ち望みながら、
コツコツと神様を信じて祈っていけたらなあと思っております。
一言お祈りをしてメッセージを終わります。
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