1. 名谷教会
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2016-05-01 36:37

2016/05/01:聖日礼拝(旧音源)

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2016/05/01 聖日礼拝(旧音源)




00:02
改めて皆さん、おはようございます。
今日も名谷教会の礼拝にようこそおいでになりました。
今日、初めての方もいらっしゃいますし、またご家族の方々、
久しぶりの信徒の方々もお見えになりました。感謝いたします。
では、メッセージに入る前に、お隣の方と軽くですね、挨拶しましょうか。
よくいらっしゃいました。
それでは一言、お祈りをさせていただきます。
主よ、最後まで私たちを固く保ってくださる主を賛美いたします。
どうか、その主に今日、お会いする喜びの日となりますように、
命の日となりますように、
どうぞ、我らをお助けあわれんで祝福してください。
このものを隠して、ご聖霊さん、神様の身が現れる恵みの一時としてくださいますように。
少々疲れている方がいるでしょうか、
この体も主が本当に強めてくださいますように。
イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン
はい、今日は先週に続きまして、
大使コリントを受けての手紙の公開、説教に入りたいと思います。
皆さんいかがでしょうか、皆さんの中でですね、
何かのことに数年間、あるいは数十年間、こすこすと忍耐強くやり続けている、
そしてそれをいよいよ完成を目指していることが何かおありでしょうか。
人の性格によってとは違うかもしれませんけれども、
日本の方はそういった分野においては得意かなと私は思うんですけれども、
去年でしたっけ、柳川姉妹のご爺さんがちょっと寄仮をされてお見舞いの里に行ったときに、
03:05
なんと旦那さんがですね、手作りでオールガンを作っていらっしゃいます。
しかもですね、インターネットでいろいろ調べてですね、何もかも全て作って、
実際に音も出ていてですね、素晴らしいなと思ってですね、
それをこすこすと作り上げていらっしゃることを見て、すごいなと私は本当に感動しましたけれども。
ところが皆さん、私たちが信じる神様こそ、一つのことをやると決心したからには、
本当に忍耐強く必ず、ときにはこすこすとそれを神様がやり通すぞとお伺いになってですね、
必ずやり通してくださる方が私たちの神様なんです。
では、私たちの神様は、何をどういうふうに必ず忍耐強く、力あってやり通してくださるのでしょうか。
今日はその神の恵みについて、三つのことをともに学んで恵みをお受けしたいと思います。
まず第一は、私たちの救いに対して神様は必ず、ときには時間がかかるかもしれませんが、
ときには早くも忍耐強くこすこすとやり通してくださる必要であられます。
神様は皆さん、私たち一人一人を救うことを決心されたからには、必ず何があっても私たちを救ってくださるんです。
それは私たちに対する救いについてですね、神様は決してあきらめることはありません。
なぜなら、私たちに向かう神様の救いは間違っていないからです。
例えばですね、神様が営意の人を救うことを決心されました。
そして神様が働きかけて、働きかけて、声かけて、やってみた。
ああでもこの人はやっぱりだめだな、もうやめよう。
そういったくだらないもの、くだらないものではない。神の救いは。
神様が皆さんを、私たちを救うこと、神様がお定めになったら必ず何があっても必ず救ってくださる。
06:02
その救いの芸技をやり通してくださる人が私たちの神様です。
この点については私たちとだいぶ、いや全く違うと思うんですね。
たぶん世界どこの国にもニッカーボールズという言葉はあるんじゃないかなと思います。
皆さんいかがでしょうか。何かやってみて突然やめたことはないでしょうか。
私の場合は英語の勉強をやる、やる、でまたやめて、またやる。
あるいは日本語の修辞も自分で本を書いてやって、そして何ページかやって、また忙しからやめようとやめる。
皆さんいかがでしょうか。何かやりだしてやめようと、そんなことはなかったんでしょうか。
私たちはこのように弱いものだから、普通でやめたりするんですね。
ところが神様は一度やると。
神様がおざわめになったことは、必ずニッカーボールズはなくて、途中で諦める、やめることなくて、必ずそれをやり通してくださる種が私たちの神様です。
皆さん、諦めないこと、やめないということは、悔いない、後悔しないということではないでしょうか。
ちょっと聖書を開きたいと思います。新約聖書のローマ人への手紙、11章29節です。聖書は308ページです。
新約聖書の308ページ、ローマ人への手紙、11章29節。
それでは29節をご一緒にお読みしたいと思います。
神の賜物と証明とは変わることがありません。
ここにですね、神の賜物と証明、証明は私たちを召して救ってくださる、その救いのことですね。
それには、ここに神科学聖書は変わることがありませんとありますが、その意味はまた他の意味として言うならば、区切ることがありません。
後悔することはありませんという意味なんです。どういう意味でしょうか、皆さん。
神様が私たちを救うと決心されたからには必ず、この人はダメだなと、もうやめようと、後悔することは絶対にない。
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滅ってくださった死は必ず死のときに私たちを救ってくださる。諦めることがない、やめることがない、悔えることがないという言葉ではないでしょうか。
神様がですね、もしですね、誰かを、たぶんここにいらせない名前を言いましょう。中山さんを救おうとしましょう。中山さんいらせないですね。中山さんを救おうとしました。
ところが神様は、要するにいくら考えてもですね、中山さんより山中さんの方が良くしてですね、中山さんをやめて、山中さんを救おうとしましょう。
それで中山さんの救いを取り消して後悔する、そんなことはない。皆さん、何と感謝なことでしょうか。
それは神様が私たちを愛することを、それも変わることがない。それもやめることがない。
Aを愛して、この人よりBの方がもっと良いんだからBを愛すよ、そういう人間の愛とは全く違って、何があっても、どういうことがあっても妨げられることもありませんし、
変わることもないということが、神の愛と神の救いであります。
私たち人は愛すると決心した人と暮らしていて、ある人は離婚をしたり、ある人は自分の体で産んだ子供を捨てたり縁を切ったり、
あるいは同業で一緒にビジネスを始めて、それがライバルになって、もうアダになってしまうことがとうとういろいろあります。
それ人間、私たちは後悔したりするんですよね。
ところが皆さん、神の救いには、神の証明には、悔いることが、後悔が、皆さんを救われること、皆さんを神のことされたこと、
そして私たちを救うために、ニコイエス様が十字架で代わりとなって死んでくださったことを、神様は決して後悔されないということです。
そしてその救いは変わらないということです。何と驚くべき恵みなんでしょうか。
2番目、神様の何が変わらないのでしょうか。何がずっと死が必ず、何をやり通してくださるのでしょうか。
それは、2番目は、私たちの回復です。回復、癒しです。
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死は私たちを癒すこと、回復することをあきらめないで、必ずそれをやり通してくださる死です。
先週の水曜日の祈祷会に、火曜日、水曜日、木曜日の朝まで教会で泊まってくれた、富山から文庶藩という兄弟の3人の家族が来ました。
富山の時代の知人ですけれども、親徒さんですけれども、その水曜日の午前中にお墓に座ってもらいました。
23人多く集まっていただきましたけれども、神様の超自然的な奇跡的な癒しがありました。
ちょっとまとめてお話を変わりにさせていただきたいと思います。
実際に言いますと、お医者さんもあきらめた約4ヶ月間の無意識状態で、肺も腎臓も膵臓もほとんども臓器と、また脳も数値も、すべての数値は死亡を示している状態です。
その死の神から神様は不思議に超自然的に奇跡的に彼を困睡状態から起こしてくださって、そして自分の足で歩いて退院することができるように主は癒してくださりました。
彼は35歳に脳内出血で突然倒れてしまいました。そして癒して2日後、全く無意識の状態になってしまいました。
脳の出血をするわけですから、頭蓋骨の後ろの部分は今も頭蓋骨しかない状態で、脳も出血をしました。
肺はほとんどの機能を失って、回復不能だった。もう腎臓も透析をしていて、このままではもう治れないと。
心臓も発動もほとんど停止状態になり続けて、死を向かっていた。息が戻ってこない。
そしてこの担当のお医者さんも、もし息が戻ったとしても、この寝たきりの状態でずっと行くだろうと。そういう診断でした。
それでやがては、お医者さんも家族を来てもらって、サウンドマスクを外して、死亡宣告をするつもりでした。
家族もほとんど諦めている状態でした。ところが、その日に不思議なことが一応起きてしまいました。
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その文教堂のお母さんは、とても真実なクリスタルで、もうそれはそういうふうにしてほしくないと。
もう泣きながら、号泣しながら、彼の体を揉みながら祈ったんですね。
そしたら、ほとんど停止状態だった心臓の拍度が一瞬足すようになりました。
それから、拍度ができたわけですから、そのお医者さんも、そしたらしばらく様子を見てみましょう。
でも息は戻ってこない。
彼はずっとICUの手術治療室に入院していました。ところが、これで不思議なことが起きてしまいました。
普通、ICUは面会も決まっているし、そこに出入りするお医者さんとか看護師さんも、みんなバイチンとかウイルスの感染にならないように担当するんですよね。
ところが、彼がなぜか水道、水暴走という病気にかかって、無日中になって、かゆくてかゆくて、自分の体をかきすぎてしまって、
もう血管に出て、痛くて痛くて、その痛みで意識が戻ってきた。不思議なことなんです。
そのICUの中に多くの患者さんがいたのに、彼だけがその水暴走にかかった。
そして、そういうふうに無意識、脳も手術もした人が水道にかかって、かいてかいて、そしてその痛みで意識が戻ったケースは、お医者さんは見たことがない。
そしてその後、彼は徐々に、ここに今も大きな傷跡がありましたけれども、大きなチューブも外して、そして少しずつリハイビリノもやって、やがて自分で退院したんです。
そのパントのお医者さんがそう言ったそうですね。彼に、私がやったことは何一つもなかった。私が起動したのは、実は何も聞かなかったんですね。
あなたは自分で倒れて、自分で頑張って、自分で治って、もう退院するようになったと。もう不思議ですねって。
彼の話によるとですね、そもそもお医者さんも看護師さんもみんな泣いたそうなんですね。多分、もうこのまま死ぬんじゃないかと。
あるいは、ずっと無意識の植物人間のようになるんじゃないかと思った人が、もう泣いてですね、歩けて退院できるようになったら、みんな感動の涙をしたことではないでしょう。
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死の門の門前まで行った、36歳の若い兄弟を、神様が癒すことを決心されたからには、何がっても脳内出血がっても、全ての臓器の損傷で死の直前まで行った人であっても、死は生かしていらっしゃった。
皆さん、私たちの神様は、癒やしの神様です。そしてこの癒やしがある場合には、そういう風にあまりにも早い時もあるでしょう。ところがある場合には、数年が数十年がかかることもあるかもしれない。
なぜそうなのか、私たちには分からない。しかし、一つ確実な事実は、私たちの神様は、私たちを回復すること、癒やすことを決心されたからには、必ずそれをやり通してくださる人であられることです。
わかりますか、皆さん。神様は、私たちの体だけではないですよ。精神も心も、死は癒やして、必ず癒やしてくださるんですね。
私の韓国にいるもう一人の友人の話をしたいと思います。私は軍にいるときに、教会のフォースをしていたチャペリン兵士の、私の専任の専任です。
彼は、過去にネイジャーのホームショッピング、テレビショッピングのMVをやっていました。本当に年数、収入も、私の前ほど多く持っていた優秀な社員でした。
そういうことが、ある日から突然、電車に乗って会社に行こうとできなくなってしまった。もう外に出ることが怖くて、バスにも乗れない、電車にも乗れない、家の外に出ることができない、いわゆるパニック状態になって診断されました。
彼は、2年ほど仕事を辞めていたんですね。教会にはずっと行っていました。それで、奥さんが変わるのでバイトをして、子供が、息子が二人いるわけですから、そういうふうに暮らしをしていました。
ところが神様は、ちょっと時間はかかりましたけれども、少しずつ彼を癒してくださった。全く外に出れなかった彼が、少しずつ出れるようになった。そして、バスにも乗れるようになって、電車にも乗れるようになって、
一時期、私とメールやリトルしたら、今日は一日電車に乗って、どこかの就活みたいにそこに行って、帰って、これかよって、よかったねって。
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彼は私より1歳上の男性ですけれども、それが少しずつもっと長く外に出れるようになって、そして今は他のホームショッピングの会社に就職ができて、
そして彼は高校卒業でしたから、学歴の列とかみたいなものもあって、大学も入って勉強もできて、今も勉強と仕事も両方やれるようになった。
そして、なんとしても、ハリーグからもう癒してくれたというのは、普通に出れるようになったんですね。どこにも出れない状態の彼をお会いしたことがあって、
治った後の彼にまだ会っていないので、総理にいたらぜひお会いしたいなと願っていますけれども、皆さん、神様の、私たちへの回復と言い合っては、神様の考えであって、神様の願いであって、神様の希望であります。
そしたらは、神様、それを必ず、神様が考えたとおりに、計画をなさったとおりに、それを成し遂げてくださるしです。
聖書のところを開きましょうか。旧約聖書の14ページ、14ページじゃなくて、伊沢書14章24節です。
旧約聖書の1148ページです。1148ページ、伊沢書14章24節。
旧約聖書14章24節にお読みしたいと思います。
万軍の地は、誓って仰せられた。必ず、私の考えたとおりに、ことを成り、私の計ったとおりに、成就する。アーメン。
皆さん、神様が、皆さんお一人お一人を、心も身体も精神も、あるいはあらゆる関係も人生も、主が回復する、祝福する、癒すことを、神様、考えておられる。
そしてならば、その考えたとおりに、ことは成ります。そして、神様の計ったとおりに、計画とおりに、成就するのです。この御言葉を整理していただきたいと願っております。
だから、主なる神様を信じる人は、幸いな人なんです。もし、今、身体に、心に、精神に、ちょっと弱さを抱えていたとしても、感謝できる。平安の中に過ごすことができる。
24:16
だから、いつも喜んでいられるということが、あるなら、私を癒し、私を回復することを、私より切に願っておられる主が、生きる主であって、その力を持っておられる。
そして、癒したいと主は願っておられる主が、私たちの神であられる。だから、これは何という感謝のことなんでしょうか。
3つ目に行きましょう。3つ目は、私たちの成熟を主は必ずやり通してくださるということです。
神様は、私たちを神様を知らないところから、信じていないところから滅して、クリスタルにしてくださった。神のことを知ってくださいました。
そして、その信仰から成熟した大人の信仰へと、作り直してくださる、作り変えてくださる、成熟させてくださる、その働きを主は必ずやり通してくださる。そして、固く保ってくださる主であられる。
それが、今日の御言葉なんですね。今日の御言葉に一つ行きましょうか。
子輪とおびといの手紙、1章8節です。今日の御言葉、第1子輪と1章8節、317ページですね。新約聖書の317ページ。
では、8節ですね。一緒に読みましょうか。8節、一緒に読みましょう。
いつもあなた方を、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、最後まで固く保てくださいます。アーメン。
ここの責められるところ、この責められるは、傷のないという意味もあります。どういう意味でしょうか、皆さん。
イエス様が必ずもう一度来られる祭輪の日が来る。その日は、この人類の歴史はそれでも終了、終わりなんですね。終わりの日が必ず来る。
その時に、私たちみんな神の御前に立たされるんですね。その時に、責められるところのない者として、不完全な者として、傷のない者として、主が最後のその立つその日まで、最後まで固く保てくださる。
27:09
作り直してくださる。成熟させてくださるという事なんです。
人はなかなか変わらないところがあるかもしれません。そして、譲らない。あるいは、変えない。諦めない。そういうこだわりとか言いましょうか。好き、嫌いと言いましょうか。あるいは、固くないところがそれぞれ人間にあるかもしれません。
人はなかなか変わらないなと思うんですね。これは私の個人的な考えですけれども、一番変わらないのは人間じゃないかなと思うところがありますけれども、でも不思議に不思議に変わるところもあるんですね。
例えば、こだわりとか好き、嫌いもなかなか変わらない。例えば、私のうちの私とハンナの場合は、私は甘いものが好きなんですね。パンも好きですし、ケーキも好きですし、お菓子も好きなんです。
ところが、ハンナは昔からケーキとかお菓子は絶対に食べないんです。それから、ケーキをプレゼントもらっても、他の家族だけが食べる。
人間はそれぞれ好き嫌いがあるわけなんですね。変わらない。ところが、このようになかなか変わらない私たちであっても、時には頑固なところがあっても、時には神の御事をよく聞いてくれなくても、従ってくれなくても、神様は諦められない。後悔しない。
必ず、もうやり通すぞと、もう変えてみせるぞと、主はそういう思いになって、私一人一人を信徒の歓声者として、聖なる者として、美しい人格者として、主は変えてくださるんですね。
これが今日のこの9節の御言葉なんです。
主を、あなた方を、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、最後まで固く保ってください。
私たちを見つけ出した神様。
その神様は、イエス・キリストの日、すなわちサイリンの日、そのサイリンの日は裁きの日でしょう。
その日が必ず来るんですけれども、その日に、私たちは神の御前に渡されるその日に、私たちが責められるところのない者として、最後まで固く保ってください。
忘れてしまうことはありません。諦めてしまうこともありません。
30:01
あ、名前間違ったと言って入れ替える、そういうこともありません。
固く固く保ってくださる主が、私たちの基地なる神様であります。
なんと感謝な目の目なんでしょうか。
神様は、私たちの信仰も、私たちの器用さも、私たちの人生も主が完成品として作り直してくださる。
そして、イエス様を通して、聖霊様を通して、私たちが神の御前に渡されるときに、
イエス様が、あるいは聖霊様が、神様、この人はもうちょっとダメで、もうやめました。
また未完成です。もう、そういうような報告はない。
必ず、最後まで固く保ってくださる。
ヒト・パウルは、この第1コリン島別の手紙を書き印したヒト・パウルは、他の手紙でこういうふうに語っています。
そこそこ開きましょうか。
第1セサロニケ5章23節です。
401ページですね。新約聖書の401ページ。
第1セサロニケ5章23節。
一緒に読みましょう。
平和の神御自身が、あなた方を全く聖なるものとしてくださいますように、
主イエス・キリストの来人のとき、
責められるところのないように、あなた方の霊、魂、体が完全に守られますように。
アーメン。
みなさん、これは本当に希望の目的ではないでしょうか。
自分は自分を変えることができない。なかなか人は譲れない。変わろうとしないというところがありますけれども、でも大丈夫。
なぜでしょうか。神様が。
神様があらゆる働きを通して、働きかけてくださって、
時には刺激を通して、時には恵みを通して、時には悲しみを通して、
私たちを、イエス様の来人のとき、責められるところのないものとして、霊も魂も体も完全に守ってくださるんですね。
みなさん、その日を待ち望んで歩んでいこうではありませんか。
その日になったらですね、本当に仲の悪い人は誰にともいなくなってしまいますよ。
33:01
みんな仲良く、そしてもう恨んで、恨んでいた人とも会って、脱法ができる、ハグができる人に変えられる。
今は世界中に様々な復讐がある、戦争がある、敵対の関係が続いているこんな世界なんだけれども、
イエス様の来人のその日になりますと、責められるところがないから、霊も魂も体が完全なものになりますから、
パラダイスのところに私たちは入れていただこうということではないでしょうか。
それを誰がやり通してくださるんですか。神様です。
ですから本当にですね、何を見ても、私たちが神様にお会いしたことも、神様に召されたことも、
イエス・キリストを救い主として信じたことも、
そしてこういうふうにスクンコが守られていることも、実は全て誰の恵みなんでしょうか。神様の恵みなんです。
実は私たちがやったことは何一つもないのです。全ては神様がなされたことです。
だから本当に感謝しますと言わざるを得ないのではないでしょうか。
最後に、今の第四ペサロニケ五章二十三節をお一緒にお読みしまして、メッセージを終わりたいと思います。
第四ペサロニケ五の二十三節を信仰をもって、希望をもってですね、お一緒にお読みしましょうか。
アーメン、平和の神御自身が、あなた方を全く聖なるものとして下さいますように、
主イエス・キリストの来臨の時、責められるところのないように、
あなた方の霊、魂、体が完全に守られますように、アーメン。
お祈りいたしましょう。
それでは皆さん、今主の御前に大きな祈りを捧げようではありませんか。
今日初めての方々、家族の方々、信徒の皆さん、そうですしは、私たちを、
体も霊も魂も、つまり精神も、完全なものにして下さるんです。
この肉体はいつかは必ずみんな血に変えるでしょう。
しかし魂は永遠に生きるものであります。
そしてその魂は必ず、いつかは血の御前に立たされて、
パラダイスに入るか、あるいは滅びに入れてもらうことになるでしょう。
しかし主は、私たちみんな滅びのことなく、永遠の命を得るように、
36:00
イエス・キリストを殺すようにお使いになりました。
だからそのイエス・キリストを信じる者は、みんな救われます。
そしてパラダイスに入れていただきます。
そして永遠に、完全な体、完全な精神、完全な霊を持って、
喜びのうちに生きるものになるでしょう。
どうか、もし徹心の祈りが必要な方は、徹心の祈りを必要でありませんか。
あいは血の恵みに感謝の祈りを、しばらく捧げていきたいと思います。
それではしばらくの間、ご一緒にお祈りいたしましょう。
36:37

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