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皆様おはようございます。
今日も三言葉の時が来ましたので、一緒に今日の歌唱を開いていきたいと思います。
では一言お祈りをさせていただきます。
めぐみふかい天の父なる神様、あなたはこの礼拝の主であられ、
私たちはそのお方を拝し、あがめるためにここにみつびかれています。
今日も私たちに命を与えて、あなたを礼拝する者として、ここにおいてくださったことを感謝をいたします。
聖霊が豊かにこの場に臨んでくださって、ともにて最後までこの礼拝を導いてくださるようお願いをいたします。
私たちは今、樹乱節の中にいますが、
ヨシ様がお苦しみをなされたその意味と、またその奥義を今日も覚える時を与えられ、ありがとうございます。
ヨシ様は月迫のそのにおいて、本当に祈りをなされ、
またその祈りの中に勝利をなさって十字架へと向かわれたことをもう一度覚えて感謝をいたします。
今私たちは人とともにカルワリーの丘へと向かい、
そしてヨシ様がこの十字架にかかって私たちの身代わりとして、
罪の贖いを成し遂げてくださったことを心から覚えて皆をあがめます。
私たちはその痛みのどれほどかを知るかは本当に知れたるものであります。
しかし礼において、祈りのうちに、また信仰のうちに、
ヨシ様とともにこの十字架を追い、また日々歩むものとさせていただけるように、
そのための礼拝であります。
神様どうぞ祝福し、そして恵みを注いでくださるようにお願いをいたします。
また明日の3月の11日、この日は東日本大震災のメモリアルの時であります。
2年過ぎましたけれども、依然として私たち日本人の心に深くこのことを覚えて過ごしてまいりましたが、
なお復興に向けてこれからもこの働きがなされてまいります。
犠牲になられたその魂をどうぞしようあなたがともにいて、
そしてこの悲しみまたその痛みを今もっておられる御遺族の皆様の上にも、
どうぞしの慰めとまた癒しがありますようにと。
今日もこのメモリアル、礼拝がもたれているところもあろうかと思いますが、
私たちもともどもこのことを忘れずに、これからも祈りまた支えていくものとさせてください。
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このような思いがけない出来事、そして神様になぜですかと問いたくなるような、
そんなことももう一度この礼拝にあって、それを主に聞いていただき、
また主のお声を聞く者としてどうぞ礼拝を祝し、
またそれにつながる日々のディボーションまた信仰生活、教会生活の上に、
どうぞ主のまた豊かな慰めと恵みがありますように。
今日も御言葉を待ち望んでいます。
どうぞお一人お一人に主がお語りくださるようお願いをいたします。
どうぞ皆さんの上に豊かな精霊が臨んでくださって、また語るものをも精霊で満たして、
どうぞ御言葉が一人一人の心に留まりますよう、
今日ここに来れたことを感謝をいたします。
事情があってまた弱気を覚えて、ここに来れなかった兄弟姉妹方の上にも、
その場にあって主が望んでくださるように、また来たる時には共に礼拝を捧げる、
その交わりの中に加えてくださるよう、
信じ織田ねって主キリストの皆によってお祈りいたします。
アーメン。
私たちはジュナンセスの中にいて、そしていよいよイエス様が十字架に付けられるという、
そういうところまで来ております。
私たちがこのイエス様のどうぞと思う日々を過ごしているんです。
時には忘れてしまいます。
でもこうした年に一度の記念のとき、
ジュナンセスとしてやがてジュナン集が来ますし、
また復活された主を仰ぎ見るそのイースターも控えておりますけれども、
そういう意味でもゲッセマネの歌詞を読んでいただいたことも幸いでありますし、
今日開かれています十五章のイエス様が十字架の上で語られたという、
そのことも併せて今日見ていきたいと思うんですね。
人々の記憶の中にいつまでも残る言葉というものがあります。
それはやはり誰が語ったのかということも大きな意味を持つと思うんですね。
同じ言葉を語ってもAさんが言ったことはもうその場で消えてしまう。
誰も聞く耳を持たない。
しかしBさんが言った、それが人々の心に深く残る。
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そういうこともありますし、
いつ語ったのか。
それは例えば歴史の中で誰かが語った。
それはその時限りで消えてしまう言葉もありましょうけれども、
何かの大変な状況の中で同じことを語ったとしても、
その時にふさわしい、それこそ時にかなって美しい言葉として必要であった。
その時に必要であったという言葉がいつも残っている。
そういうことがあります。
それともう一つは、どこで語ったのか。
場所。
同じ言葉でもどこで語ったのかということによって、
私たちの心に強くそれが残っていく。また語り継がれていく。
そういうことを私たちは今日覚えるときに、
このイエス・キリストが言った言葉、それは限りなくたくさんあるんですけれども、
その多くは福音書、四つの福音書の中に記されています。
前にも英語の聖書をお見せしましたように、
イエス様が実際に語られた言葉だけを赤字で浮き上がらせるようにして書いてある。
そういう聖書もあるくらいですが、この言葉はイエス様ご自身が語られた。
そしていつそれを語ったのかということ。
そのイエス様の言葉はまさに神の言葉であり、
私たちへの神様の語りかけとして、時には慰め、励まし、癒し、
そして忠告を与え、また時には命令を与え、
すべてが私たちの霊の糧であったということが今も思うわけであります。
そういう中でイエス様がおっしゃった言葉の中に、
どこで語ったのかということに焦点を当てるときに、
今日のこの十字架の上でおっしゃったイエス様のお言葉というものがあるわけです。
これはまさに柔軟説にふさわしいものではないかな。
そのことを考えているわけですね。
イエス様は十字架形に書けられた。
その後でも言葉を発しておられたということは、これだけでも驚くべきことです。
十字架形は死刑の道具でありますから、
しかも一瞬にして命を絶つようなギロチンとか光子刑とか、
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あるいは電気刑とか、そういうものではありません。
苦しめて苦しめて苦しめて、そして死に至らしねる、そういう死刑であったわけです。
それは想像するに激痛、そしてもちろん体から血が流れる、
喉の渇きを覚える、そしておそらくもう貧血、目が眩むでしょうし、
息も絶え絶えの、そういう状況の中で、そんな中でお言葉を発せられたということ。
こんなことが私たち定書を読んでいくときにわかるということですね。
これは私たちのイマジネーションと精霊の働きなくして、これは読めない、
また神様のメッセージをいただくことはできない、そんなふうに思うんです。
イエス様は十字架の上で、息も絶え絶えの中で、絞り出すようにしてお言葉を発せられた。
それが七つ福音書に記されている。
それはマルコ、マタイ、ルカ、ヨハネ、四つの福音書にそれぞれ記されているんですけれども、
それを見ていきたいと思います。
これはイエス様の十字架上の七言、七つのお言葉。
まず一つが、ルカによる福音書の中に記されている二十三章三十四節、
また後に開いていただけたらいいと思いますし、
皆さんも暗記して覚えておられることはもうあろうかと思います。
そこでイエス様は、聞くよ、彼らをお許しください。
彼らは何をしているのか、自分でわからないのです。
聞くよ、彼らをお許しください。
彼らは何をしているのか、自分でわからないのです。
イエス様の許しの言葉、許しの祈りと言ってもいいかと思うんですね。
神とは何だろうか。
神とは何かという問いに対して、いろんな答えがあろうかと思うんですね。
皆さんも神とは何ですかという問いに対して答えを持っておられると思うんですね。
中には聖書通り、神は愛ですとか、神は天地万物を創造された方ですとか、
いろんな答えがあろうかと思います。
その答えの中の一つとして、神とは人間ではない。
これも当たり前のようですが真理ですね。
神とは人間ではない。
人間では到底できないことを神はなさる。
だから神なのである。
人間では到底こんなことは言えないだろう。
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それを神がお叱る。
だから神たるゆえんがそこにあるわけです。
人間には許せないという思いがあります。
もちろん許せることもありますけれども、
神は許せないという思いを人間は持つものであります。
それこそ何年も前にされたこと、言われたこと、
それをいつまでもいつまでも心の中に抱えて、
そしてあれは許せない、あれだけは絶対私は許せない、
そういう思い、よっぽどのことがあったんですよね。
そういうものをやはり人間は持つものであります。
自分は何も言っていない。
しかしあなたはこういうことをしただろう。
私は何も言っていない。
しかし人はいや、お前は言ったんだ、というふうに言われる。
でもそれで殴る、蹴る、そして鞭打つ、
そしていや、実はこうであって、こんなことをしたことない、
いろいろ説明しても聞いてはもらえない、そんな状況。
罵られ、あざけられ、椿を掛けられ、
そして挙句の果ては十字掛けに処せられて、死刑にされる。
こんな躊躇をさせられて、息通りもせず、腹を立てることもせず、
許せる人はいるだろうか。
人間はこんなことをされて、許せるということはできるだろうか。
到底できないと思うんですよね。
それが人間であります。
しかし、こういうことをされて、こんなひどい目を合わせられて、
したこともないのに来たと言われ、行ってもいないのに行ったと言われ、
そんなむごい仕打ちを受けながらも、
彼らを許してください。許してあげてください。
これは、自分が何をしているのかわからないのですからとおっしゃったのがイエス様。
これが神です。
人間では到底言うことのできない言葉、あるいは祈りをなされたのがイエス・キリストである。
しかもその十字架の上で。
これはやはり人間はだとは思えない。
だからイエス・キリストは神なのである。
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このイエス・キリストの祈り、そしてその言葉。
父よ、彼らを許してあげてください。
彼らは何をしているのか、自分でわからないのです。
この許しの祈りの中に、
彼らをお許しくださいとあります。
この彼らの中に自分も含まれているんだということに気づく人は幸いです。
その人は神からの許しを与えられるからです。
私たちはこのイエス様のこの許しのお言葉、この祈りをいつもいつも覚えて、
そして感謝し、そして自分が神から許されているということを常に覚えてこれからの日々を歩んでいきたいと願うわけです。
二番目のイエス様が十字架の上で言われた言葉。
それはルカの福音書の二十三章四十三節にこのようにあります。
あなたにいます。
あなたは今日私と共にパラダイスにいます。
カルバリゴルゴザの丘に三本の十字架が建てられ、
イエス様がその真ん中につけられたわけですが、
その両端に豪走で同じ時計にとせられたものがつけられていた。
そのうちの一人が、主よ、私を覚えておいてくださいということを、
このルカの福音書では記してあるわけですね。
あなたが御国に行く時は私のことを思い出してください。
そういうことを、この強盗の一人が、これも十字架の上で言ったわけですね。
その時に、あなたは今日私と共にパラダイスにいます。
そういうふうにイエス様はおっしゃった。
これはまたに救いの言葉であります。
キリストの救いが見事に成就した瞬間である。
この強盗はどんな生き方をしてきたのか。
十字架にかけられたわけですから、それなりのことをしたということはわかるんですけれども、
彼もまた苦しみの中に生き耐えようとしている。
その中で私のことを思い出してください。
その言葉を発した時に、あなたは今日私と共にパラダイスにいます。
あなたは今私を使徒を仰ぎ、そして私に救いを求めてきた。
いわゆる彼が悔い改めをしたということです。
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自分の今までの生き方、そして今なぜ自分がここにあるのかを、彼は悔いたわけです。
ああ、それがよかった。あんなことをしなければよかった。
いろんなことが彼の心の中に起こってきたわけです。
それはなぜか。
それは今この隣で十字架にかかっているこのイエス・キリストを見たからですね。
ヨハネがここに愛がある。ここに救いがある。
そのことを彼自身も示された時に、このお方が私の主として今生き耐えようとしています。
もしこの先があるとするならば、このお方が私を救ってください。
そんな永遠の思いを彼が与えられた時に、心配しなくてもよい。
あなたは今日私と共にいます。
そしてこれからも私はあなたの使徒と共に、使徒としてあなたと共にいますということを、私様は言ってくださった。
ですからこの救いというのは、私たちのこの死上での生涯だけの救いではない。
やがて行くであろうその死を越えた向こうに繋がるその永遠のお救いである。
そんなことを思うわけですね。
大事なのはこの強盗が悔いを改めたということ。
これがこの礼様の救いのお言葉を聞く、与えられるチャンスであった。
そんなことを思うわけです。
礼様はいつも私はあなたと共にいますというこのお言葉は、それは十字架の上であってもそうでありますし、
やがて行くであろうその御国への道すがら、そして天の御国においても、いつも御神様は共にいてくださるという約束。
私は世の終わりまであなたと共にいます。
このお言葉は真実であります。
第3番目の言葉、これはヨハネの福音書の19章26節から27節で、そこにあなたの息子がいます。
そしてそこにあなたの母がいます。
これは母マリアに対してイエス様が言ったわけですが、そこに十字架の下にいた弟子の一人、これはヨハネだと言われていますが、
その者に対して、あなたの息子はイエスキリスト、私でありますけれども、私はもうこうして十字架にかかって行くべきところに行きます。
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しかし私の代わりに、この者をあなたの息子として一緒に暮らしていきなさい。
そしてヨハネ弟子に対して、このマリアがあなたの母としてこれからこの母の面倒を見ていってください。
私はもうこれ以上このマリアと共にいることはできない、この地上で。
だからあなたがこのマリアを母として、そして助けてあげてください。
そんなことをこの十字架の上でイエス様は言ってくださった。
息子に対してのその母への投げかけと、母親に対してのこれからの安心を与えるために、イエス様はこのように言ってくださったんだろう。
誠に慈しみと愛情にあふれたこのお言葉。
ここに私たちはやはり親子の関係というものを、イエス様がもう一度見直すように、そんなことを私たちに考えるようにと言ってくださっているのではないかと思うんですね。
日本も高齢化が進んできて、私たちの年代そのあたりになりますと、やはり親の今後のことが気になる世代ありますけれども、
しかしそういう中で、もう一度親子の関係、そして年老いていくその親をどうするのかというようなことを、もう一度改めて考える機会ではないかなと思うんですね。
介護というそういうことも含めてですけれども、やはり本来の家庭のあるべき方、親子関係というそういうものを、もう一度私たちはこのイエス様のお言葉を通して見直し、
願わくはこの親子がいつも心が通い合い、そしてお互いに支え合い助け合っていく。そういう子どもたちが親の世話をする。
それを見ているまた次の世代の子どもたちはそのようにまた習っていくでしょうし、そういう姿が本当にいいのではないか。もちろん事情があって家ではお世話できない。
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親子がそういうところにお世話になるという、そういうこともこれもあるでしょう。でも任せきりではなくて、できる限り時間を作って、心は常にそこにあるんですけれども、現実的にできなくても何か時間を作り、そして労を取っていってあげるということですね。
やはりそれが本当に本人にとっても一番うれしいことでしょうし、何よりもこの家族として、いわゆるよく身内のものが来てくれるというのは本当にうれしいという声を聞きます。
そんなことを考えさせられる家様のマリアに向かって、そこにあなたの息子がいますから。そしてマリアに向かって、そこにあなたの息子がいますから。ヨハネに向かって、そこにあなたの母がありますから。そういうふうに言ってくださった。
4番目ですが、これは先ほどの聖書の箇所にありますマルコの15章の34節の中に、エロイエロイレマサバクタニ。我が神、我が神、どうして私をお見つけになられたのですか。そういう言葉を家様がさせられた。苦悩の言葉ですが、ここにどうして、あるいはなぜ、そういう言葉が出ています。
家様に沿って、父なる神はいつも一つであった。三名一体の神ですから、父なる神、子なる神、イエス・キリスト、聖霊なる神は三つにいまして一つになる。その父なる神は、私はあなたを離れず決して見捨てることはしないと言われたお方が、私を見捨てられるんですか。どうしてですか。
なぜですかと問わずには折れなかったということ。ここに苦悩があるわけです。私たちが何かに悩み、あるいは苦しむということの一つは、それは原因がわからないから、あるいはなぜこんなことになるのか、その理由がわからない。そういう時って大抵私たちはそのことに苦しむんですね。
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なぜですか。どうしてですか。自然災害に見舞われる人たちも、おそらくそういう言葉をはけられたと思うんですね。なぜ私たちにこんな災いが及ぶんですか。どうしてですか。なぜ私なんですか。なぜ犠牲になったあの人、この人、中には子供たちもいた。
何をしたと言うんですか。そういう思いがあるわけです。わからない。そういう中で人々は苦しむ。
私たちはそこに慰めも与えられたら幸いだと思うんですね。私たち人間であればこそ弱さもあり、そして何もわかっていない、そういうものでありますから。
当然なぜですか。どうしてですか。そんなことを常に覚えやすいものですけれども。神の御子イエスキリストさえもこの父なる神から見せられたということ。そこに大きな苦悩があった。
しかし、やがてそれはわかるわけですけれども、イエスキリスト御自身が人々の罪の救いのためにあがないの犠牲となって、この十字架を追うというその使命をもう一度覚えたときに、このどうしてですかということが解決したわけであります。
私たちのなぜ、どうしても、今はわからないかもしれない。トンネルの中に入っているような状態のとき、真っ暗で、ただただ、なぜですか、どうしてですか、なぜこんなことになるんですかと叫ぶしかない。
そんな中にあっても主は共にいて下さい。そして一歩一歩その出口に向かって歩いていて下さい。そんなことが後わかるんだということも聖書は記してあるわけです。
それは私たちがこの世で味わうであろう、そのすべてを味わって下さった。そんなことをこの言葉が表しているわけです。
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5番目の言葉は短い言葉です。私は渇くという、そんな言葉を発せられたわけです。私は渇く。
これは単純にわかることは、あの家様が十字架にかかられて、釘付けられ、打ち打たれ、そしてずたずたにされた。それは血が走る、そして血を流す。当然、熱も出るでしょうし、喉が渇く。
それが十字架形であるわけですから、当然のことであります。そういう意味で喉が渇くという、その意味の渇くであろうということも考えられますが、私たちがこれを奥義として礼的な解釈をするときに、
イエス様は何かに渇いておられた。渇くということは、何かを欲せるということを意味するわけです。体が水分を要求している。それが不足している。だからそれが渇きとなって、それを求めようとする。そういう渇き、上渇きと表現してもいいんですけれども。
イエス様の神としての礼的な渇きというものが、当然十字架の上で起こったんだろう。それは、そのうちの一つは、やはり魂の救いに対する渇き。
私はこの十字架の上で命を断たれて御国に行きますけれども、自分がこうして今十字架に架かることの使命は、人類が罪から救われて、そして皆がこの神の恵みの中に入れられることであります。
しかし、未だ多くの者たちは、神を知らず、そして罪の中、滅びへと向かう、そういう人たちが多くある。
ですから、イエス様の魂は、そのことに対して渇きを覚えて、何とかこの人たちが救われて欲しい。そして私の語ったその福音があまねく伝えられて、その中から救われる人が起こるように。
そのための私のこの十字架での贖いなんだ。
イエス様はこの十字架の上においても、人々のその魂のために祈り、そしてその救いを願っておられたということ。
私たちも、このイエス様のこの身思い、その魂の上かわし、そして人類を救いに導きたいという、その熱意が私の心に訴えかけて、
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それによって人々は癒やされ、そして慰められ、そしてこの主を信ずる信仰へと導いてくださるんだ。
常にこのイエス様が十字架の上で、私は渇くと言われた、そのお言葉を耳にしながら、それに応答するものとして、主よ、私はここにいます。
こんな私でよかったら、私を使わせてください。私が、あなたが願っておられることをさせてください。
そういう働き、選挙の働き、これによって少しでもイエス様がその渇きを癒してくださったら幸い。
そんなことを思うこの御言葉であります。
第六番目の言葉は、ヨハネの福音書十九章の三十節、新開薬聖書では、寛慮したという、これも短い言葉ですが、寛慮した。
苦痛と苦悩と一切を味わわれたイエス様が、やがて平安へと導かれていきます。
息を引き取られる最後の瞬間であったろうと想像しますけれども、全てが終わった、寛慮したという、これはイエス様の勝利の宣言であると言われる。
四時間の長い長い苦痛の時が終わって、イエス様はやるべきことをやり終えた。
寛慮した、全て終わった、これで贖いの業は終わったんだという、イエス様はその祈りと、父なる神様へのその応答の中で勝利の言葉をここで言っておられるわけです。
寛慮したということは、これは途中で投げ出さなかった、その満足の言葉でもあろうかと思うんですね。
全ては良かった、創造主なる神が天地万物を一つ一つ作られていかれた時に、全ては良かった、そういう風に満足なさった。
このイエス様の十字架の言葉の寛慮した、これはその天地創造の業とも通じる、全てが終わった、全ては良かった。
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この贖いの業は、こうして寛慮したんだ。
人の目には、むごい、そしてあざ切りと罵りと、そしてこの十字架形の刑罰でしかないわけです。
父なる神様の目には、本当に素晴らしい完成した業として、ここに終了を迎えるということ。
私たちもオリンピックなどでマラソンの競技を見守ることがあります。
そして一番の人がやがてスタジアムに入ってきて、そしてみんながそれを待って拍手をもってたたえる。
大きな歓声とともに、その一着のランナーがそのゴールのテープを切るという、スタジアム中が本当に大きな感動に湧くその瞬間を見ることがあります。
しかしもう一つの感動と歓声が上がる瞬間があります。
それは最後のランナーが帰ってきたときですね。
その最後のランナーが、もうそれこそ走っているというよりもフラフラフラフラと、本当にただゴールを目指して歩いているということも恐ろしくない。
ただ何かにされるようにして、一生懸命ゴールを目指して行くというその姿を見るときに、一着のランナーが到着したときよりもさらに大きな感動とそして大きな拍手が起こる。
それはやはりそのランナーが途中で投げ出さないで最後まで完走したという、そのことに意味があるわけです。
ですから、この完了した、すべてをやり終えた、人と比べてあの人はどうだ、この人はどうだ、私はどうだったのか、そういうことではなく、与えられたその責務を最後まで全うする、完走した、そのことによって与えられる、これは大きな栄誉である。
そんなことをお主様は教えて下さい。
すべてが終わった、完了した、その言葉は本当に私たちへの励ましであります。
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最後の七番目の言葉は、ルカの福音書の二十三章四十六節で、
地球を我が霊を見てに委ねます。
すべてが終わり、すべてが完了し、いよいよこの後、主様はこの言葉を発して、この命を語れば、地球を我が霊を見てに委ねます。
我が命を見てに委ねます、ではない、我が霊を見てに委ねます。
ここに私たちへの大きな希望、慰めがあろうかと思うんですね。
私たち人間が生きていくということも同じだと思うんですね。
命はこの地上でのその仕留めを、それこそ完了し、終えるかもしれない。
しかし霊はこの神の見てに委ねて、そして生き続けていくんだ。
そういう永遠の命を私たちが与えられる、そういう約束がこの聖書にはあるということを覚えるわけですね。
これもイエス様が満足した、そういうお言葉ではなかったかな。
もうすべてをやり終え、すべてを完了し、あとはもう主をあなたに委ねます。
そんなこの委ねる、満足のそういう信仰、そしてそこに与えられる平安をイエス様は与えられておられたんだ、そのように思うわけです。
私も牧師をさせていただいて、何人かの方を天にお送りする、そういう司祭のお勤めをさせていただきました。
牧師名利に尽きるという、そういう言葉が相応しいのかどうかわかりませんが、
本当に司祭をさせていただくというのは本当に感謝なことですね。
それは生産式であっても洗礼式であっても感動、そして喜び、そして結婚式も本当にいいものですね。
しかしその中でも特別に国別式というのでしょうか、葬儀の、そういう司祭をさせていただく。
これはまた他の司祭とは全然違う、そういうものであったなというのを今も思うんですね。
急に電話をかけて出てきてください。外内病院に今すぐ行きますと、もうその途中で息を引き取られたりすることもありましたし、
その時に私たちが何をさせていただけるのだろうか、先生祈ってください。
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もう息をしていないそういう方の前に何を語ればいいのか、何を祈ればいいのか。
それこそ新学校出たての姉妹牧師の時もそうであったと思うんですね。
もう頭の中真っ白です。もうただそこに現実があるだけ。
あの一緒に出会った、あの交わる人、あの方が今ここに生き絶えて亡くなっておられる。
命は、この市場での命は終わってある。そしてご家族の方がおられるという。
その中で牧師は一体何をここで祈ればいいんだろうかという、そんなことがありました。
その時にこの家様のお言葉を思い出したわけです。
天皇父なる神様、この誰それ兄弟、誰それ姉妹の霊をあなたの身手にされます。
もうそれ以外言葉を発することはできない。
しかしそれが全てであったろうし、それがまた一番ふさわしい祈りではなかったのか。
本当に家様がこの言葉を十字架の上から語られ、またこれがこうして記されているということは本当に感謝であります。
また私たちもこの家様の見思い、それを分かち合っていただけたということの幸い。
おそらく自分たちがこれから生きてやがて行くであろうこの地上を去る時も、
同じようにこのお言葉が本当に真実に私たちに慰めと平安を与える。
私はもうこの地上での生涯は終えます。
だから天皇父なる神様、親父様見たまえよ、私の霊を今あなたの身手に委ねます。
おそらく私たち兄弟姉妹方もそのようにしてこの魂を天に贈る時に、
この身手に委ねる。
宗の身手に委ねる。
そのことを覚えて、そしてまた共に迎拝したこと、交わりしたことのそれを慈しみ、あるいは思い起こして、
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そしてこの死を讃えていくという、それが本当に神様の願いであろうかと思います。
私たちへのこの幸いであろうかと思います。
このようにして神様が十字架で残してくださったこのお言葉、
これが私たちのこれからの教会生活、あるいは信仰生活の上で大きな力となる。
また私たちへの慰め、励まし、また導きとしていつまでも残っていくでしょう。
あるいはそれをまた次の世代の人たちに語り継いでいく。
これが神様が十字架の上で残してくださった七つの言葉であった。
そのことを覚えていきたいと思います。
お祈りをいたします。
父よ、我が霊を身手に委ねます。
天の神様、今日は十字架の上で語ってくださったイエス様のお言葉をもう一度覚えたことであります。
イエス様がどんな思いでこの十字架でのひとときを過ごされていたのか。
しきなる神様とまた三田松殿、この三人一体の神は今も生きて私たちとともにいてくださることを信じます。
そしてイエス様が語ってくださった多くの言葉、福音書に記され、また後のタオルの手紙の中にも引用がありますけれども、
この言葉は時を越え、場所を越えて、今を生きる私たちへの力ある言葉として、
これからもこの言葉をしっかりと握りしめて、日々の歩みをしていけるように、どうぞ三田松殿が助けてくださるよう、
今日のお言葉を感謝し、主キリストの皆によってお祈りをいたします。
アーメン