1. 名谷教会
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2012-02-26 39:26

2012/02/26:聖日礼拝(旧音源)

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2012/02/26 聖日礼拝(旧音源)


00:00
お着席ください。
聖書朗読をしていただきます。
《馬太の福音書》5章の1節から12節、新約の6ページ、白石教題にお願いいたします。
聖書を拝読いたします。
《馬太の福音書》5章の1節から12節、新約聖書6ページ、この群衆を見てイエスは山に登り、お座りになると弟子たちが御元に来た。
そこでイエスは口を開き、彼らに教えて言われた。
心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
悲しん者は幸いです。その人たちは慰められるから。
にゅうわな者は幸いです。その人たちは血を受け継ぐから。
義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。
憐み深い者は幸いです。その人たちは憐みを受けるから。
心の清い者は幸いです。その人たちは神を見るから。
平和を作る者は幸いです。その人たちは神の子供と呼ばれるから。
義のために迫害されている者は幸いだし、天の御国はその人たちのものだから。
私のために人々があなた方を罵り、迫害し、ありもしないことで悪行を浴びせるとき、
あなた方は幸いです。喜びなさい。喜び踊りなさい。
天ではあなた方の報いは大きいから。
あなた方より前にいた預言者たちを人々はそのように迫害したのです。
上手です。
聖歌隊の方々に賛美していただきます新聖歌160番。
その後、内田牧師より誰が幸いなのかと題してメッセージしていただきます。
04:50
しびかな雨積み上げりおときからとこしえのしゅう
つもれぬつみうかひけがしゅうおあのいけつくいおぞえ
うすしきかなあまついたみめにおときからとこしえのしゅう
06:07
おはようございます。
今日もまた御言葉をいただきます。
その前に一言お祈りをさせていただきます。
我あがなわれて自由にせられ、キリストにありてやすきみなり。
天の神様、こうして私たちをこの御堂へと導いてくださり感謝をいたします。
聖霊様がお一人お一人を促してこの御堂へと導いてくださったことを覚えて皆をあがめます。
キリストはこの教会の頭であり、またこの礼拝の主であられます。
そのイエス様の尊い十字架のあがないによって私たちは今御前にあることを覚えて感謝をいたします。
そして今あなたを賛美いたしましたように、私たちはキリストの尊い十字架のあがないを代価として救われて、
そして今あなたを賛美できるこの特権に預かっていますことを心から感謝をいたします。
今日こうして安息のとき、まずあなたを拝し、そしてすべてのことから解き放ってくださって、
ただあなたをのみあがめ、また魂をあなたに向けて、そしてあなたを覚えるそのときとならしめてくださるようお願いいたします。
寒い日が続きますけれども、どうぞお一人お一人をあなたが支えてくださり、
そしてあなたが一人一人を豊かに用いてくださいますようお願いいたします。
そしてあなたに使えるものとして、これからもお支えくださることを信じて委ねています。
今日もまた御言葉を通してあなたの御心を教えてくださるように、私たちも心の目を開き、また心の耳を開いて、
あなたを見、あなたのお声をさやかに聞くことができますよう助けてください。
いろんな事情があり、また弱さを覚えてここに来れなかった兄弟姉妹方のうちにも、どうぞあなたが届いてくださることを信じます。
今からの御言葉のひととき、どうぞ精霊様が豊かに臨んでくださるように、小さなしもべを哀れみ支えてくださいますよう、
委ねて主キリストの皆によってお祈りいたします。
寒い日が続いておりますけれども、どうぞお体ご自愛くださって、そして信仰に励んでいただきたいと思います。
第四週は伝道礼拝ということで、いつも読んでいます使徒の働きから少し離れて、
09:06
今日はマタイによる福音書の五章一節から十二節を読んでいただきました。
何度も見いただいて、もう暗唱するぐらい覚えている御言葉でありますけれども、
特にこの宮堂の方がおられたり、あるいはまた私たちがもう一度あの頃に帰って、そして御言葉の一つ一つに聞き入っていきたいと思います。
あるアンケートの調査の結果なんですが、あなた方はどういう時に幸せを感じますかという、たくさん出ておりましたが、
そのいくつかを挙げてみますと、皆さんもそうだそうだと頷くこともあろうかと思いますが、
小さな幸せですが幸せだなと感じる時、夜ぐっすり眠る時、涙を流すほど笑った時、お買い読品をゲットした時、
日曜に家族と食事を食べる時、何キロか体重が減ったことに気付く時、
友達とランチをする時、赤ちゃんの笑い声を聞いた時、マッサージをしてもらう時、母親の手料理を食べた時、新しいヘアスタイルにした時、
そんなことがアンケートで出てきたわけですが、僕は君といる時が一番幸せなんだと歌った人もいますね。
そういう古今東西、多くの人が幸福とは何か、そういうことを語り、ある人は本に記したりしてきたわけですね。
三大幸福論というのがあるようで、アランという人とラッセルという人とヒルティという人の書いた幸福論、そういうのもあるようです。
ですから、それぞれ三人とも幸福論、それぞれ違うわけですし、おそらく百によれば百用の幸福論があるんだと思いますし、
それぞれ一人一人がみんな自分なりの幸福論を持っていてもいいんだと思いますし、また持たないといけないと思いますよね。
私の幸せはこうなんだ、そうでないとそれに向かって進めないわけですから、それぞれに幸福論、幸せというものがあって、それをみんなが目指していく。
12:13
それだけ人間というのは誰でも幸福や幸せを求め、それを願っているんだろうと言えるわけです。
その幸福とか幸せ、幸いというものを整理してみますと、二つの面があることに気がつきます。
一つはその人の状況とか環境とかが大変恵まれていて、整えられていて、そしてもう誰が見てもあの人は幸福だねという、そういう幸福がありますよね。
本人もそうです、こんなに何でも満たされて、私は本当に幸福です、幸せですという、そういう面が一つあろうかと思うんですね。
それともう一つは、その自分の置かれている環境とか状況とは関係なく、どう感じるかという面なんですが、状況はこの満たされて、誰から見ても幸せだろうというわけですが、
本人曰く、いや私は実は幸せではないんですとおっしゃる方がいたり、あるいはその状況がもう誰から見てもちょっと気の毒だねというような状況の人が聞いてみると、いや私はこれで幸せなんですよとおっしゃる方がいたりするわけですね。
ですから、この状況面での幸福、幸せという面と、いわゆるその人の感性と言いましょうか、感情の面の幸福感、幸せ感という、そういう両面があるんだなということに私たちは気づくわけです。
そういうものをきちっと整理して、私たちの本当の幸せというのは何だろうか、そんなことをそれぞれに整理しておく必要があるんだろうと思います。
そして今日は私たち、このイエス様がおっしゃった、その中にイエス様の幸福論というものがあるんだということを、今日読んでいただいたわけです。
この群衆を見て、イエスは山に登り、お座りになると弟子たちが身元に来た。そこでイエスは口を開き、彼らに教えて言われた。
そういう中で、こういうものが幸せなのだということをイエス様はおっしゃったわけです。
旧約聖書、新約聖書にかかわらず、何々は幸いであるとか、幸いなるかな、何々という、そういう表現がいくつも出てくるわけです。
15:10
それは、群衆たちの、あるいは弟子たちの環境や状況、その暮らし向きが幸福だ、幸いだとおっしゃっているのでしょうか。
それとも、そういうことに関係なく、一人一人がどう感じているのか、幸せに感じていますかという感性のことについておっしゃっているのか。
実は、そのどちらでもない、イエス様は第三の幸福論、幸せ論を今日語っておられるわけです。
群衆に向かってイエス様は語られたと同じように、今日生きる私たちにも、どういうものが幸いなのかということを、今日語っていてくださっているわけです。
私たちが今日、イエス様がおっしゃった幸福論を理解する上で、どうしても知っておかなければならないことが二つあります。
一つは、イエス様がおっしゃったということ、それは聖書に書かれてあるわけですから、私たちは聖書を通してイエス様があたかまを私たちに語っているように聞いているわけですが、
聖書は常に、神対人間、人間対神という、そういうことを前提にして書かれた書物であるということです。
もちろん、神対人間の中に私がいるわけですけれども、人間があって神がある、神があって人間がある。
そういう大きな枠の中で、聖書というものは語られているんだということです。
そしてもう一つは、私たちが聖書を読むときに大事なことの一つ、それは、まず神ありきという、そのことが根底にあるということです。
それはもう言わずもがな、創世紀の第一章の一節、まずはじめに神が天と地を創造されたに現れているように、まず神ありき。
私たちが聖書を読んで、もちろん日本語で訳されたものですから、理解はできますね。
理解はできるんですけれども、聖書はそう言いますけれども、私は、という聖書を読むときに、私というものを置いて読むと、聖書は頭で理解できても魂で理解できない、そういうことが起こってくるわけですね。
18:08
そういう中で聖霊様が働いてくださって、聖書を読むときは、まず神ありき、これが大前提、根底にあるんだということをしっかりと覚えて、あるいは聖霊様に導いていただいて、そして聖書を読んでいくときに、そこから聖書のメッセージ。
そして恵み、慰め、愛、そういうものが私たちにもう限りなく及んでくる、そういう幸いを味わうことができるわけですね。
ですから、イエス様がおっしゃったこの言葉、聖書の中に記されている幸福論も、これは神様が人間に対してお前たちを何とか幸いにしたいのだ、あるいはお前たちの人間たちの幸いを神が願っているんだということを聖書は言っている。
そしてこの幸い論、幸せ論も、まず神ありきというその前提に立って読まない限りわからない、イエス様はそう言いますけれどもということになってしまうわけです。
そういうことを前提にして、では一体誰が幸いなのかをイエス様はおっしゃっているのでしょうか。
まず口を開き彼らに教えて言われた。心の貧しいものは幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
私たちがこの日本語に訳された貧しいという、そういうイメージを持つときに、英語で言うプワーというような言葉、それは何も持っていない。
あるいは反対から言いますとお金持ちでない、裕福でない、そういうことですね。
そして住むにおいてもなかなかそういう住むところもない、食べることにおいてもひもじい思いをする、あるいは着るものも満足にきれない、いわゆる経済的に困っている。
そういうイメージを持つわけですが、イエス様の周りにいた群衆の多くもおそらくいわゆる貧しい人たちだったんだと想像します。
しかしイエス様は心の貧しいものは幸いですとおっしゃった。
この貧しいという、それは置かれている状況、環境ではなくて心の貧しさをイエス様は説かれたわけです。
21:10
心の状態、それはもし住む家がない人が貧しい、そういう状態のときにその心はどうだろうか。
ああいいお家に住みたいな、いい家があればいいのになというそういう思いが当然心の中にあるでしょうし、満足に食べれない人、食べ物が欲しい、どこかに食べ物はないだろうか、誰か与えてくれないだろうかというそういう心があるでしょう。
着るものの満足にない人、そういうポアな人、そういう人はその人の心、それは暖かい着るものがないだろうか、どこかにないだろうか、あるいはそれを与えてくれる人はないだろうかという
あああれがあればいいのに、これさえあったらいいのに、ああ誰かそれを与えてくれないだろうかという貧しい心。
心が貧しいというのはそういう上書き、そしてそれを必死に求めていこうとする、そういう心をイエス様はおっしゃったんだと言えます。
それは環境がどうであれ、その人が本当に恵まれ豊かで、そして何もかもを満たされているとしても、その心が上渇いて、そして求めている、そういう魂あるいは心。
そういう心が幸いなのですとイエス様はおっしゃってくださった。
ですから私たちがイエス様のこの言葉を聞くときに、心の貧しいもの、それは神にあって心の貧しいもの。
すなわちその心が上渇き、神を求めて、そして上渇いているということ、それが幸いなのですということを言うわけです。
私たちはイエス様の言葉にしろ聖書の全ての言葉、それは神抜きにして当然あり得ないわけですから、心の貧しいもの、それは当然神様を求める、そういう上渇いた心、それが幸いなのですというわけです。
世界中を旅してみますと、それこそ二十年前、三十年前、日本でも四十年前、五十年前はどうだったでしょうか。まだ物恋をするそういう人たちのいる国があります。ストレートチルドレンと言われるようなそういう人たちもいますね。
24:19
信号で車が停まりますと、さっと来て、そして頼んでもいないのに窓を拭くんですね、子どもが。どうしたのかというと、手を差し出して恵んでくれと言うんですね。
そうすると運転手はポケットの小銭か何かあるものを渡す、それが地域のその国の自然なリズムなんですが、日本でも私の子どもの頃まだそういう人がいたというのも記憶にあります。
本当に貧しいということは、その状況が貧しいということと、その心が何かを植えかわいて求めている、恵んでくださいという、そういう思いですね。
イエス様はそれが何よりの幸いなのです。神様助けてください、神様憐れんでください、神様救ってくださいと、神様にすがるようにして祈る心、それが貧しい心、そしてそういう心を持った人は幸いなのです。
私たちは環境の面、状況の面、そういう面での幸福、幸いを求める。それもいいでしょう。あるいは自分がどういうことに幸せを感じるかという、そういうものも大切にしなければいけませんが。
もう一つイエス様が言われた、神を求めて、そして神を主体求めて、神様にすがるようにして、そして生きていく。そのことが何よりの幸いなのですと、今日イエス様は語ってくださっているわけです。
悲しむ者は幸いです。これも神抜きに考えれば、私たちは到底納得できません。悲しんでいる人はかわいそうです。しかしここで悲しむ者、私たちは何を悲しんでいるんだろうか。
聖書が言っている悲しむ人、それは当然神様との関係の中で、その人は泣いているんでしょう。悲しんでいるんでしょう。そういうことを思うときに、この人は神に罪を犯して、そのことに耐えられない。
27:10
そして自分の犯した罪、今自分の心の中にあるその状態を、もういたたまれなくなって、そして悲しんでいる。涙を流しくいているんだろう。イエス様はそのことをイメージなさって、悲しむ者は幸いです。
聖書の中に、これもイエス様の例え話なんですが、二人の人が宮に上ったという話。そしてそれぞれが祈った。一人は見るからに立派なパリ裁備と、その人が宮の中央に寡然と立って祈ったわけです。
神様、私はあなたのいましみをもうことごとく守っています。もう何一つ罪など犯すようなものではありません。あそこにいるあんな主税人の、あんな罪人では私はないのです。そうして祈ったわけです。
もう一人のこの主税人は、もう宮の端っこにいて、そしてもう顔も上げられないぐらい、そして胸を打ち叩き、本当に悲しんでいる。ただ一言を祈った。神様、こんな罪人の私を憐れんでください。助けてください。そう祈った。
どちらが神に義とされたかということを、お安様は問いかけなさったわけですね。神に義とされたということを言い換えれば、どちらが神にあって幸いなものとされたかということ、そのことを今日私たちにも問いかけているわけです。
悲しむものは幸いです。その人たちは慰められるからです。きっとその人は神に義とされ、そして人としての本当の幸いを得るものになるでしょう。
入和なものは幸いです。入和なもの、この人は穏やかで、柔らかくて、そして人当たりも良く、でもそれも幸いでしょう。
でも神様は聖書を通して、神にあって入和である。それは神様に、あるいは神のお言葉に従順である。そのしなやかさ、柔らかさ。
そのことを安様は言っているんだろうと思うんですね。固く撫でない神様の言葉にしなやかに従うものは幸いです。そういう人はおそらくその表情も動作も言葉も自然とまた入和になってくる。
30:22
そのことを安様は言ってくださった。義に植えかわくものは幸い。この義も神の義。神が良しとされるものを大事にしていく人、そのものは幸いなんです。
哀れみ深い人は幸い。神の哀れみを深く受けて、そしてまたその受けた神の哀れみを隣人にそれを施す者、そういう者は幸いです。心の清い者は幸いです。
これも神にあって心の清い人。神に支配されてその心が神のものとされている。私たちは心の清い人というのは何か貧困法制で悪いことをしないという、そういうイメージがありますけれども、
心が清いというのは、この清いというのは清潔の清というよりも聖書の聖、秘辞という、そちらの方に近いと思うんですね。私たちの魂が主を信じ主に従いますと信仰告白したときから、この魂はもう神様のものとしてくださった。
他のものとは、性別されて神様のものになる。そして私たちの心が神様によって支配されるという、そういう状況そのものは幸いなんです。
その人は神を見るからです。心が神様に支配されていなければ当然神を見ることはできない。誠の神を見るということ、それは何と幸いでしょうか。平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子供と呼ばれます。
平和の運動、あるいは平和を唱えて行進する、そういうのはよく耳にしますし、私たちも時々そういう行進に加わることがあるかもしれません。平和、平和、平和を大事にしよう、平和を取りまとそう。
しかし、それも大事でしょう。しかし、イエス様は平和をつくる者は幸いです。平和を唱える者は幸いとは言わず、平和を生み出す、平和をつくり出す、あるいは今中田がしているその二つのものを一つにする、そういう働き、それをする者は幸いです。
33:07
もちろん、平和を生み出し、平和をつくり出す、それには犠牲が伴います。ただ、平和を訴える、平和を唱える、それは自分だけの世界でいくらでもできます。しかし、平和をつくり出す、これは大変な作業です。
性を向き合っている二人を、そこに入っていって、二人を、二つのものを一つに和解させる。Aさんのことも、そうですか、わかりました。Bさんの方の言い分も、そうですか、それもそうですね。どういうふうにして、その二つのものを一つにしていけるのか。
でも、それは精霊の働きで、必ずその相反しているものは一つになることができる、平和をそこにもたらすことができる、その見本がイエス様であったわけです。十字架を通して、中田がしているその隔ての中垣を取り払って、そして皆が一つになるという、そういう世界を実現してくださった。
ですから、平和をつくるものは幸いです。どんなに犠牲を払っても、神様によってなされた平和の技は、きっと読み捨てられる。そのことをすることは、天に宝を積むことに等しいのだ、そのことをイエス様はここでおっしゃってくださった。
平和をつくるものは幸いです。その人たちは、神の子供と呼ばれるからです。義のために迫害されているものは幸いです。これも、神の義を第一とし、そしてそれを求めて。
そのために迫害、あるいは悪行憎患と言われても、全てを御存じの神は、それを良しとしてくださり、天に宝を積んでくださる。喜びなさい、喜び踊りなさい。
そういう人たちは、本当に神様にあって幸いなものであり、その幸いは、喜び踊るに値する、そのような素晴らしいものだ、そのことをイエス様は言ってくださった。
心の貧しいものは幸いです。天の御国は、その人たちのものだから。悲しむものは幸いです。その人たちは、慰められるから。
みわなものは幸いです。その人たちは、地を受け継ぐから。義に植えかわくものは幸いです。その人たちは、満ち足りるから。
36:08
憐れみ深いものは幸いです。その人たちは、憐れみを受けるから。心の清いものは幸いです。その人たちは、神を見るから。
平和をつくるものは幸いです。その人たちは、神の子供と呼ばれるから。義のために迫害されているものは幸いです。天の御国は、その人たちのものだから。
イエス様は、群衆を前にして、こういうものが幸いなのですと言ってくださった。
それは、あなた方の心の目を、この地上のことから、天の御国に向けなさい。そして、ひたすら神を求めなさい。
そして、この神に信頼し、もう植えかわくようにして、貪るようにして、この神とキリストの十字架を求めていきなさい。
憐れんでください。助けてください。そういう心の貧しいもの。そういうものが本当に幸いなのですと。
イエス様は群衆に言われました。そして、今日を生きる私たちへも、このことを今日語ってくださった。
これは単なるメッセージではありません。神の約束なのです。私たちはお祈りをして、もう一度これを信じていきたいと思います。お祈りします。
心の貧しいものは幸いです。天の御国はその人たちのものだから。イエス様のお言葉を今聞き、そしてもう一度幸いを覚えてありがとうございます。
日ごろ、あなたをどれほど求めていたでしょうか。どうぞ私たちをもう一度心の貧しいものにしてください。
精霊様によってあなたの見前にひざまずき、そしてただただあなたを恋求めて、そしてあなたと共に生きるこの生涯こそ幸いな生涯であると、もう一度確信し、そしてここから出ていくことができますように。
そしてまた世にあってまだ本当の幸い、神にあっての幸いがあるということを知らない人にも、どうぞこの福音を告げ知らせていくことができるように、そしてその人たちも本当の幸いを見つけなさることができるように、どうぞ導いてください。
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まず私たちが今日このお言葉によって幸いなものと、されたことを感謝し、イエス様の尊い皆によってお祈りをいたします。
アーメン。
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