1. 名谷教会
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2024-10-13 33:52

2024/10/13:力ある主の勇士

2024/10/13 聖日礼拝

加藤満牧師

士師記 -24

サマリー

詩式においては、ギデオンの物語が描かれ、神が彼に語る「力ある勇士」という言葉が中心となっています。このエピソードでは、イスラエルの民が不従順の歴史を繰り返す中で、ギデオンの恐れや疑いを通して神の存在と助けの必要性が強調されています。また、ギデオンとイスラエルの民が偶像崇拝に苦しむ中で、神がどのように彼らに関わり、ギデオンを力ある勇士として見出す様子も描写されています。神がギデオンの疑いや不安に寄り添い、彼を信仰へと導くプロセスも語られています。さらに、このエピソードでは神への信頼と献身の重要性が取り上げられ、特にギデオンに語られた言葉を通じて、弱さを自覚しつつも主に頼ることが真の勇士の姿であると強調されています。

祈りと感謝
それでは一言、お祈りをさせていただきます。
すべて疲れた人、重荷を負っている人は、私のもとに来なさい。
私があなた方を休ませてあげます。
愛する天の父なる神様、今日も主の御前へと私たちを招いてくださり、
あなたの御声を聞かせていただけることを感謝いたします。
季節の変わり目で落ち着かない日々ですが、しかし穏やかな朝を与えてくださり、
あなたの恵みによって、あなたの前へと集えている幸いを感謝いたします。
道家主よ、私たちには本当に多くの戦いがあります。
乗り越えられないものと共に生きています。
しかしあなたが変わらないお方であること、
私たちのために命をも捨てるほどに、御子をも捧げるほどまでに、
私は変わらずあなたを愛しているとあなたは語ってくださることを、
私たちは十字架の下に知っています。
あなたの流された御子の血潮によって、私たちの罪が許され、
あなたの復活させられた命によって、
私たちにも永遠の命が、主と共に永遠に生き続けるその命が与えられていることを感謝いたします。
道家主よ、大きすぎる恵みを受け止めながら生きているものですが同時に、
私たちは日常の左半のことにおいて、その恵みが見えなくなること、
あなたが共におられることが見えなくなる弱いお互いであることを覚えます。
どうか憐れんでくださり、この礼拝の時にまた、
あなた御自身とお出会いすることができますように、祝し導いてください。お願いをいたします。
今日はお久しぶりにお顔を見れた方もいらっしゃって、本当に感謝をいたします。
お一人一人の命を、主が変わらず支えていてくださっていることを感謝をいたします。
それだけにしよう、ここになおも集えないお一人一人を覚えてください。慰めてくださり、
今その場において礼拝を守っておられるお一人一人にも、あなたの御臨済とあなたの御言葉を語りかけてください。お願いをいたします。
全世界で起きてしまっている戦争のことに心を痛めています。
その人間の罪の現れとしてもしか見えない、その戦争のうちに、罪に勝利された主が語りかけてください。
異性者に知恵を与えてください。そしてまた、痛んでいる一人一人が守られますように、どうかあなたが助けてください。お願いをいたします。
これからの時を見てに委ねます。どうか御言葉を開き、あなたを仰がしてください。
イエス様のお名前によってお祈りをいたします。アーメン。
ギデオンの登場
お祈りありがとうございました。実は私たち夫婦は、先週、教団の全国牧師会に参加をさせていただきました。
私自身は実は昨年はオンラインでしたので、その前は
終始で2年間、半分休職みたいなことになっていたので、対面で全国牧師会に参加するのは実は数年ぶりだったんです。
いろいろ変わったなぁと思いました。先生方のお久しぶりの顔、久しぶりに先生方のお顔を見れて嬉しいなぁと思う一方で、
ああ、あの先生はもう牧師会にいらっしゃらなくなったのかということを、いろいろと感じるそのようなひと時でも、少し寂しくあるひと時でもありました。
主には教団の組織改革について話し合いました。詳しく話はいたしませんけれども、
逼迫した教団協会の実情の中で、組織の軽量化であったり、共にそのためにたくさん議論をする牧師会でした。
けれども、結局のところ、たくさん話し合うことは必要なんですが、
最終的に私たちは、いける種により頼まないとどうしようもないねというところの結論に行きました。
行き詰まりは必ず経験するんだと。行き詰まりは、私たちの人生もそうですが、行き詰まりは必ず経験をする。
けれども、その行き詰まりのときに、突破する力というのはどこにあるのか。
私たちは、種にしかそれがないということを知っている者たちではないか。
そのことをご一緒に確認をするときでした。
たくさん考え、検討をします。しかし、種にのみこれを超えることができる。
そのことを覚えて、一緒に祈り合うときを持ちました。
今朝、詩式を続けて読んできています。
詩式、今日は6章から9章に書いてある、詩師ギデオンのストーリーに目を向けていきますけれども、
先日目といえばギデオンの話というのは、そういう話です。
種にのみ勝つ力があるということを徹底的に教えられる。そのような箇所。
少し詩式に入って参りますが、
詩式は神様に対する不従順の人間の歴史だということを語りました。
それゆえに呪いに陥っていく人間の歴史です。
そして、前回見ましたが、その詩式の歴史というのはパターン化しているわけですね。
種に従う指導者がいなくなると、民は悪を行います。
そして悪を行う民に対して神様は怒られるわけですね。
諸外国が攻めてきます。
そして、それを受けて民は叫び声を上げるわけです。
そして叫び声を聞いた神様は、哀れみによって裁きつかさ、死死をつかわして、イスラエルを救われるわけですね。
しかし救われた後、その指導者が生きている間、民は種に従うのですが、指導者がいなくなるとまた民は種の前に悪を行うという、そのパターンが何度も何度も繰り返されるのが詩式でした。
しかもそれは、詩式の2章の19節に書いてありますが、一層堕落していくわけです。
神の証明とギデオンの疑い
歴史が繰り返し、不従順を繰り返せば、徐々に徐々にイスラエルというのは悪化していく。
下り螺旋状に悪化していくというのが詩式の歴史の描き方です。
私たちは今朝6章をお読みしましたが、実はそのようなパターンが3章から繰り返されていきます。
獅子が出て救われたというのが一つのパターンですから、獅子の名前だけ挙げると、獅子オテニエルの話が3章の7節から11節にありますし、その後に左利きのエフデという獅子も現れます。
シャムガルという獅子も名前だけですが出てきまして、そして皆さんよくご存知でしょう。
女予言者デボラ、5章に出てきますが、女予言者デボラも獅子として登場いたします。
これだけの獅子が出てきたというのはとてもいい話だなと思うんですが、同時にそれは、いわばそれだけ民は何度も何度も罪を繰り返したということです。
その度にイスラエルは一層悪化していきました。
この状況というのは、今日お読みしましたギディオン、読んでいただいたギディオンとこのイスラエルの民の状況を見ると、一層堕落したというのはどういう状況なのかということが実によくわかるんですね。
今朝はそのギディオンとそのイスラエルの民の実情を覚える。しかしそれだけじゃなくて、そこに神様はどう関わられているのかということをご一緒に覚えたいと思っています。
一つ目ですけれども、獅子ギディオンですね。彼はどういう人物であったのかということをご一緒に目を向けていきます。
詩式の6章から9章にはギディオンの時代が書かれるわけですけれども、私が教会学校の時によく教えられたのは英雄ギディオンという呼び方ですね。英雄ギディオンであると。
それは今日の中心聖句にさせていただいた言葉ですが、6章の12節に、「力ある勇士よ。主があなたと共におられる。」というギディオンに対して主が語られた言葉がその根拠となっていると思いますけれども、ギディオンは本当に英雄なのだろうか。実はあまりそうではないようにも見えるのです。
彼の姿は英雄というよりかはむしろ臆病で疑い深い人物である。そういう言い方がふさわしいのではないかと思うんですね。
例えば、今日読んでいただきましたが、11節で彼はミディアン人を恐れて隠れているということが描かれています。当時イスラエルを責めていたのはミディアン人という民でした。
彼らはこの6章の前半にも書いていますが、ラクダが武器なんですね。ラクダに乗って稲穂の大群のように機動力をもってカナンにあるイスラエルの民を責めては引いていき、責めては引いていきということをしていた。そのようにとても力強い民でした。家畜から産物まで根こそぎ奪われたということが書かれています。
ギデオンの最初の登場というのは、そのミディアン人を恐れて隠れているというところから始まるわけですね。
主の使いが現れて言いました。力ある勇士よ、主があなたと共におられると。しかし13節を見ていただくと、ギデオンの口から出てくるのは実は不平なんですね。
お読みいたしますと、ギデオンは見つかりに行った。
ああ主よ、もし主が私たちと共におられるなら、なぜこれらすべてのことが私たちに起こったのですか。主は私たちをエジプトから登らせたではないかと言って、先祖が伝えたあの驚くべき御業は皆どこにあるのですか。
今主は私たちを捨てて、ミディアン人の手に渡されたのです。
主よ、こういう状況はあなたが私たちを捨てたからじゃないですか。あの出エジプトの神はどこに行ったんですかというギデオンの不平です。
しかし、詩詩記を順に読んできている私たちはこの言葉がおかしいということに気づきます。主は私たちを捨てたんですかとギデオンは言いますが、読んでいったらわかります。違います。
イスラエルの民が神を捨てたんです。逆転しているんですね。
主が私たちを捨てたじゃなくて、民が主を捨てた結果、今この状況が起きているということが、実はギデオンは自覚ができていない。わかっていないのです。
その後、神様がギデオンと語りかけて関わるのですけれども、ギデオンの行動というのはちょっと不可解というか不思議なんですね。
16節にギデオンに対して主は証明の言葉を語られます。
私はあなたと共にいる。あなたは一人を討つようにミディアン人を討つと。
主の勇士、あなたは力ある勇士だと言われたギデオンは、15節にも私は弱いんですということを言いますね。
しかし、私はあなたと共にいるというのは、モーセに対しても、そしてヨッシャーに対しても語られた主の証明の言葉です。
私はあなたと共にいるから大丈夫だというのが証明ですね。
けれどもギデオンはその証明の言葉に対して、印をくださいと言います。印をください。17節にありますね。
そして彼は贈り物を準備するんです。印を求めた、いわばそれは言い方を変えるならば、
私はあなたと共にいる。私がいるから一人で万人を討つかのようにあなたは勝利するんだと言われた神様の言葉だけでは信頼ができないんですよ。印をください。
そして彼は食べ物を持ってくるのです。主は待ちますが、しかし不思議なことに主はそのギデオンが持ってきた捧げ物を燃やし尽くしてしまいます。
この箇所は微妙です。主は受け取られたのか、もしくはそうではないのか。微妙な箇所。
しかもギデオンはこの箇所だけではなくて、この6章の最後もそうですが、ミディアン人との戦いを前に彼はもう一度疑いを、疑いというか印を求めます。
ギデオンとイスラエルの偶像崇拝
主はあなたが一緒に行ってくれるならばこういうことを印として見せてくださいということを彼は言う。
言葉だけじゃもう信じられない。目に見える何かがなければ信じられない。それがギデオンの姿でした。
そしてこのギデオンに代表されるようなイスラエルの民の姿というのは、6章25節からもよくわかります。
神様がギデオンに言ったのは、イスラエルの中にあるあなたの家、父の家にあるバウルの偶像、もしくはアシラ像を壊しなさいということを言うわけです。
主が持ちようとする器であるギデオン、その家にある偶像を取り除きなさいということを言う。よくわかる話です。
そしてギデオンはそれをしようとするのですけれども、興味深いのは6章の27節に。
そこでギデオンは自分の下辺の中から10人を引き連れて主が言われた通りに行った。しかし彼は父の家の者や町の人々を恐れたので、昼間はそれをせず夜に行ったと書きます。
偶像を取り除きなさいというのは別に何も恥じることじゃないはずです。
けれども家からアシラ像を取り除くということをしたら、お父さんや町の人たちが私を責めるかもしれない。
言い方を変えるならば、イスラエルの民の中に偶像崇拝というのが実はすでに蔓延してしまっていて、偶像を取り除くということをしたら逆に責められるような民の状況になっていたということです。
言い方を変えるならば、実会の第2回、あなたは自分のために偶像を作ってはならないと神様は語られましたが、民の中からこの立法がすでに忘れ去られているということです。立法の一角が落ちてしまっている。
真綿で首を絞めるかのように、日常の中に神様が禁じたことが入り込んでいる。しかもそれに全く心を痛めることすらできなくなっている。実はこれが呪い。
神の愛とギデオンの呼びかけ
その結果、イスラエルの民は徐々に徐々に神様との関わり方を忘れていってしまいます。実はこの箇所で最も皮肉なのは、6章の22節です。
ギデオンはこの方が主の使いであったことが分かった。話し合っている相手が主の使いだと分かったということを思って、ギデオンは言うのです。
「ああ、神しよ。私は顔と顔を合わせて主の使いを見てしまいました。」と。
でもこの言葉をじっくり読むと不思議な言葉ですよね。主の使いを見たから死んじゃうということを主ご自身に言っているんです。何かがちぐはぐなんです。
自分は今目の前で誰に相対しているのかという恐れであったり、神がそこにおられるということが実は分からなくなっていっている。
実はそれがギデオンの姿で、見ていただいたら分かる通り、ギデオンをはじめイスラエルの民の状況が徐々に悪化しているんですね。
しかし神様はそこにどう関わられるかということを2番目に見ていきたいと思いますが、イスラエルのこの状況を見て神様はどう思われたでしょうか。
私たちも先週から見ていますが、神様というお方は愛の関係を求めるんです。
神様は私はあなたを愛しているからあなたに私も愛してほしいという愛の関係を求めます。
であれば、このイスラエルの状況はとても深く心を痛めたんじゃないでしょうか。
ただこの6章から9章を見るときに、神様はそうであったとしても、ギデオンとイスラエルの民に対して実に関わりを深くなさる、憐れみ深く関わられるのですね。
神様はどのように関わられたか一つ見れるそれは、神様はギデオンの弱さを見てあなたは勇士だと言われたということです。
先ほども何度も申し上げていますが、敵を恐れて隠れていたギデオンに対して力ある勇士を主があなたと共におられると神様は言われる。
で、隠れるギデオンの姿には勇士の姿など全くありません。
けれどもそこにあるのはギデオンの弱さがあるんですよ。弱さがそこに。
神様はそれを見てあなた、弱いあなたある種、敵を恐れて隠れているあなた、けれどもそのような弱いあなただからこそ勇士になることができる、そう思われたのです。
なぜでしょうか。それは弱さを自覚している人しか心から主に信頼することなどできないからです。
私たちはヨシワキから順にこの聖書の話を見てきていますけれども、思い出していただきたいのです。
カナンの地に割り入っていくイスラエルの民の戦いというのは、軍事力による戦いでは全くありませんでした。
むしろイスラエルの力というのは蛮軍の神様ご自身でしたね。
蛮軍の主がイスラエルのために戦闘に立って戦われるのです。
ですからイスラエルの民が戦闘において注視しなければならなかったのは、自分たちにどれだけの軍事力があるか、自分たちにどれだけの力と知恵があるかではありませんでした。
蛮軍の主が前に立って戦われるんだから、その戦いにあなたたちは加わりますかということだけ。
そしてその戦いへの加わり方というのは、まさに聖なる主の前に靴を脱ぎなさいということでした。
そしてエリコの城壁において、こういうふうなことをしなさいと言われたように、主の言葉に従うということでした。
それが主の戦いに加わる加わり方でしたね。
エリコの城壁に対してヨシアやイスラエルの民は刃一つ付けていないんです。
けれども蛮軍の主があの城壁を崩されたわけですよね。
そしてそこに開いたところに民を押し入っただけでした。
弱さを自覚するからこそ主に信頼をする。
私たちに力がないけど主が蛮軍の主であることを知るからこそ、そこに跪き従う。
前進するというのは、形勢にも能力にもよらない主の霊によるのだ。
ゼカリア書が語りますね。
このことは7章からのミディアン人との戦いにおいてさらに明らかになっていくのです。
この箇所が一番ギデオンの話では有名だと思いますね。
7章からはギデオンのイスラエルの一部の民の連合とミディアン人との戦いというのが始まってまいります。
人数だけで言うならば、ギデオンの下にイスラエル人というのは、いろんな箇所で見ていくならば3万2千人集まるんですよ。
3万2千人の軍勢がギデオンの側に集まります。
一方でミディアン人の軍勢というのは、聖書に書いてある箇所だけで見るならば13万5千人いるんですよ。
3万2千人対13万5千人です。
すでにこの戦力差で勝ち目なんてなさそうですよね。
これだけでもすでに勝てそうにありません。
しかし神様は言われるんです。7章の2節。
主はギデオンに言われた。あなたと一緒にいる兵は多すぎる。
多すぎるので、私はミディアン人を彼らの手に渡さない。
イスラエルが自分の手で自分を救ったと言って、私に向かって誇るといけないからと語ります。
そしてその言葉の通り、徐々にその兵力というのは削られていって、様々な試験によって削られていって、
最終的にギデオンのもとに残ったのは8節に書いてありますが、300人だけです。300人です。
300人で13万5千人と戦いなさいということを言うんです。
これは何を言っているのかというと、可能性としてはゼロパーセントになったということです。
普通に戦ったら絶対に勝てない戦いになった。どんな偶然が働いたとしても絶対に勝てない。
けれどもこれこそが神様の狙いでした。
もし3万人で戦って偶然が重なって勝利でもしたら、イスラエルが自分の手で自分を救ったと言ってしまう。
神の力ではなくて私たちがそれをやったんだと誇ってしまう。
でもそうなってはいけない。これは徹底的に主の戦いである。これは神の戦いである。
そのことを徹底してギデオンに教えるために神様は300人まで人数を削られるんです。
そしてそれはイスラエルの神は我々を見捨てたのかというギデオンの最初の疑いにとんでもないということです。
とんでもない。神である私はあなた方を決して見捨ててなどいないし、
神の軍勢をもってあなた方の勝てない敵であろうとも、あなた方にあって可能性がゼロパーセントであろうとも、
私はあの時と変わらずあなたたちに勝利を与える。
あなたは私の戦いに加わるかということです。
ギデオンの疑いと神の印
聖なる私の前に靴を脱ぎ、私の御言葉に聞き従いなさいということ、このところでも再度語られているんです。
そしてもう一つ、神様のイスラエルに関わられた関わり方で注目をしたいのは、
実はミディアン人を恐れて疑いを持ち続けるギデオンに対して、神様はその疑いに最後まで付き合われるんですよ。
これは面白いです。面白いと言いますか、
ギデオンはこの戦い、人数が300人に減った、その中でも恐れるんです。当然ですよね。300人で13万と戦いを恐れる。
しかしその恐れ戸惑うギデオンのために、神様は夢によってギデオンに戦の勝利の印を示されるということが、7章の半ばあたりに書いてあります。
主は疑う者に付き合われるんですね。これは面白いです。
新約聖書においてもそうですけれども、イエス様は群衆に対して、この悪い時代は印ばかりを求めると言って怒る時があります。ルカの11章にあります。
そしてイエス様ご自身は、アレノの40日の試みの中で、神を試みてはならないと言って退けますよね。
神様を試みるというのは、本来はやっぱりダメなことですよ。ダメというか、あってほしくないことだと思います。
でもそれを知りながらも、神様は疑うギデオンに付き合われる。彼が望む印を示される。
私たちは時々思います。神様は神様を信じるという信仰の基準に達せなければダメだ。
信じるということは、疑いが微塵でもあってしまったら、それは不十分な信仰であってダメなんだ。そう思い出しですね。
でもそうじゃないですよ。神様はギデオンの疑いにとことん付き合われる。
いわばギデオンの弱く疑ってしまう心にまで主は下っていかれたんですよ。ギデオンとどうにかして共に歩むために。
私たちもまた神様を信じていますが、疑いもあります。ただその中には誠諾があるでしょう。
でも神様は私たちのその疑いをも含む信仰を、実は信仰として受け止めてくださっているんですね。
そして一歩一歩このギデオンに、ギデオンの疑いに付き合って一歩一歩主は御意志に歩んだように、
試みを通して様々な試練を通し、しかしそこで私は変わらないだろうということと、
そして、なあだからこそあなたは私の戦いに加わるか、いわば私を愛するかということをその中で問うていく。
イスラエルの民は変わりました。変わってしまったのはイスラエルでありギデオンです。
しかし変わってしまった民に対して、神様は私は変わらないという御自身の姿をただただ示され続ける。
それがギデオンのストーリー。
信頼と献身の重要性
そして神様の願いはギデオンとイスラエルの民が、私こそ変わってしまったんだということに気がついて、
方向転換をし、私の神はこの方しかいないと主を愛するその感覚を求めておられる。そうではないでしょうか。
一つお話をしても終わりたいと思います。
牧師会で久しぶりにお会いした先生に、新学校の私の日上の先輩で熊本信愛教会の金田陽介先生がいらっしゃいます。
先生とご飯を一緒に食べたときに、一つのお証を聞いたんですね。
先生はご実家は福島県の白川です。
ご両親金田さんという方々で塩食堂というラーメン屋さんをやっているんですね。
おいしいラーメン屋さんなんですよ。私よくお世話になりました。
その塩食堂というラーメン屋さんは今年で50周年なんですね。
この食堂を始めた当初、ご夫妻はクリスチャンのご夫妻でしたけれども、一つチャレンジがあった。
それは何かというと、飲食店をやっているけれども日曜日を休むかどうかということです。
飲食店の書入れ土式は休日ですよね。日曜日ですよ。
それを休むかどうか。最初は休まれなかったそうです。
ずっと働いてとにかくやってきた。
でも途中で祈りの中で試みられた。本当にこれでいいのだろうか。
その時に金田さんたちは祈って、
主よ、あなたがこの月曜日から土曜日までのウィークデーの売り上げだけでこの店を回してくださるほど祝してくださるならば、
私たちは日曜日をあなたに捧げます。
私たちはあなたを第一にしたいのですどうか、あなたの祝福を見せてください。
そう祈って始めたそうなんです。
すると神様はそのウィークデー、月曜日から土曜日までの売り上げで資本食堂を支えてくださるようになった。
その時に思ったそうです。金田さんたちの口癖だそうですけれども、
神様を第一にしたら神様の祝福によって生きるんだよと。
神様を第一にしたら神様の祝福によって自分たちは生きるんだよと。
息子の金田陽介先生はその父親の御両親の姿にね、本当に信仰ってものを教えられた。いわば生きた信仰を見せられた。
実は陽介先生は資本食堂の後取りとして修行してたんです。
修行もしてて、この息子に委ねて資本食堂をやろうと。
でもある時、陽介先生5歳が揃って主に召された。
でもその時も御両親は全く反対しなかった。
主が御利用ならばあなたたちは神様に従うべきだって言って、そのまま先生たちを喜んで送り出された。
でもそれも一つの原則に基づいている。
神様を大事にするのであれば、神様は私たちが願った以上の祝福をもって応えてくださる。
自分が献身をする時に、その両親の生き様が自分の献身を支えてくれた。
ということを金田先生が証してくださったんですね。
私金田さんで、このラーメン屋さんが50周年を迎えるんですよ。
白川って白川ラーメンの激戦区ですね。
トラ食堂の近くにはトラ食堂ってまたそこに美味しいラーメン屋さんがあるんですよ。激戦区なんです。
でもそこで50年店が続いた。
当たり前のことじゃないでも、それは主の祝福だっていうことを先生が証してくださいました。
真の勇士の姿
もう終わりますが、私たちは今朝一つ注目したいのはギデオンに語られた主の言葉です。
力ある勇士よ、主があなたと共におられる。
でもこの言葉を誤解してはならない。ギデオンに力があったんじゃない。
力があるのは主ご自身だけです。
でもギデオンが持っている弱さのゆえに、
あなたであればこの力ある私に心から信頼をする器になることができるでしょう。
主が求められる勇士というのは、自分の弱さと限界を自覚しつつ、主にのみより頼むものです。
この方を第一とするならば、主の祝福によって私は生きるのだと弱いがゆえに信じ切れる人です。
でもそれが主の勇士ですね。
私たちはいつも戦い方を誤っていないだろうかと問われます。
私たちの戦いというのは、自分に何が持っているかじゃないんです。
主を仰ぎ、主の御前に膝を折れるかどうか。
実はそれが私たちの戦い。
それが力ある勇士の力ある主に従う、主が語る力ある勇士の姿なのではないでしょうか。
ご一緒にこの姿に近づければと思います。
一言お祈りをして。
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