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2024-09-08 35:09

2024/09/08:罪を引き受ける方

2024/09/08 聖日礼拝

加藤満牧師

ヨシュア記 -26

コリント人への手紙第二


サマリー

このエピソードでは、罪を引き受けることの重要性が探求され、イスラエルの民がエリコの戦いと敗北を通じて学ぶ教訓が掘り下げられています。偶像崇拝の恐ろしさや神の戦いにおける聖なるものへの理解が強調されています。また、偶像崇拝の危険性とそれがイスラエルの民に与える影響についても深く考察されています。アカンの罪とその結果、神様の裁きがどのように現れるか、さらにはイエス・キリストが私たちの罪を引き受ける意義について述べられています。イエス・キリストの十字架を通して罪を引き受けることの意義や、ヨシアの教訓を通じて偶像崇拝の危険性、さらに神の言葉に耳を傾ける重要性が強調されています。

罪の重要性
今朝は、この箇所から、罪を引き受ける方と題して、メッセージを取り継がせていただきます。
一言、お祈りをさせていただきます。
天の父なる神様、今から御言葉を開きます。
今一度、私たちが、あなたの限りない愛を受け、
あなたの流された十字架の術によって、罪許され、神のことされ、
そして三日目に甦えられた復活の命、永遠の命を私たちに与え、
永遠なる種と共に、永遠なる種と結びつけられた豊かな命を生かされて、
あなたと共に御国を築く者へと招かれている、その使命と恵みを深く覚えさせて下さい。
そしてまた、この礼拝に集うお一人一人のうちに、
そしてまた、ここに集えないお一人一人、
施設におられる方、ご自宅で礼拝を守っておられる方、
ここに来たくても来れない心を痛めておられる方、
どうか私たちには、そのお一人一人の顔が浮かびますが、
どうかそのお一人一人のうちに、あなたが慰めと癒しを注いで下さいますように、
そこにも種がおられるということを信じ、あなたの御声をそこにも届けて下さい。
お願いいたします。
全世界で起きている戦争があります。
そしてまた、様々な災害によって痛んでいる一人一人がいます。
どうか一生者たちに、あなたの知恵を示して下さり、
そしてまた、痛む一人一人の上に、あなたの慰めが豊かにありますように、
種がその世界の底におられることを、私たちも見ることができますように、
かえり見て下さい。
お願いいたします。
これからの時を御手に委ねます。
御言葉を開いて下さい。
神様のお名前によってお祈りを致します。
アメン。
エリコの戦い
先週から、私たちは吉浮きを見てきています。
少し申し上げましたけれども、
吉浮き、死式というものは、神明記の続きであるということが大事です。
神明記では一体何が書いてあったかといいますと、
主に従い、主の言葉を守るならば、あなた方には祝福があり、
主を否み、主の言葉を軽んじてしまうならば、呪いへとあなた方は向かっていっているのですよと、
そういうことを語っていた。
だから、あなた方は命を選びなさいと、神明記の30章の19節で書かれていました。
そうあるように、神様は私たちの祝福を願っておられるのです。
ただ、その祝福というのは、主が私たちに祝福を注がれるとされるように、
私たちもその道を選ばなければならない、そう言えるのだと思うのですね。
そのために、神様はヨシアというリーダーを立てました。
それがヨシア記の1章の始まりでした。
そしてまた、イスラエルの民に、
あの出エジプト、あなたたちをエジプトから導き出した、あの力強い神様は、
今も変わらずあなたと共にいる、あなたと共にいるんだということ、
そのことを示すために様々な方法を用いられた、それが1章から5章に書いてあったことでした。
そして、その中での最大の大事なポイントは先週見ましたけれども、
このカナンの地で戦う戦いというのは、これはあなたたちが戦うんじゃない。
あなたたちの戦いというのは、主の戦いなのだということ。
主の戦いであるのであれば、あなたたちは、
私の戦いのためにあなたは何をしてくれますかではなくて、
ここで主が戦われている主の戦いのために、私は何ができますかという、
主に従うということが大事ですよということを改めて確認をしましたね。
イスラエルの民が、何と言いますかね、主が戦っておられるということで、
イスラエルの民が主に従うのであれば、神様は存分にその力を発揮されるのです。
それが六章に描かれているエリコの戦いがその良い例でしょう。
イスラエルの民がしたことは、先日目で言えば、主の言葉に従ったということです。
自分で手も出さず、城壁の周りを一周ずつ毎日回り、最後の日は七周回るというのは、
実にこれはチャレンジングですね。
敵に狙われる中でずっと彼らは黙って回ることしかしなかった。
防御もせずに攻撃もせずに。覚悟を持って主の言葉に従った。
そして七日目に時の声をあげたら城壁が崩れた。主の軍勢が城壁を崩したのですね。
そのように主の言葉に従うならば主はご自身の力を発揮される。
そのような戦いの典型例がこの六章のエリコの戦いでした。
今日は七章八章、広く言うならば六章から十二章の東部のカナンの占領の地域を扱うのですけれども、
エリコの勝利、カナンの入り口にあったエリコというのは彼らにとって一番の勝壁だったんです。
偶像崇拝の恐ろしさ
難攻不落の都でした。
でもそのエリコを倒して、最先のいいスタートを切り出したなという彼らが続く、
タイという国と戦うときに惨敗するというのが七章八章に書かれていることです。
惨敗をするんです。
そして彼らはある種この大きな負けを通して、
イスラエルは高い代償を払いながら学ばなければならないことがあった。
これは学びの時だった。
そのことに今朝は目を止めていきます。彼らは一体ここで何を学んだのか。
三つのポイントで今朝は少しお話をいたします。
第一に彼らが知らなければならなかった、学ばなければならなかったのは、
偶像崇拝の恐ろしさということでした。
今日七章の後半を読みましたが、前半を見ていただきますと、
愛との戦いに彼らは惨敗をします。
しかもイスラエルはショックを受けます。
七章三節というところに偵察隊に出した民が、
そんなに人数いりませんよと、少ない人数でも勝てますよというぐらいですから、
愛の街というのはそれほど強くはなかったわけです。
しかし彼らは負けた。
四節五節を見るならば、五節の最後なんかは面白いですね。
愛の人々は彼らの中の三十六人を打ち殺し、
彼らの門の前からシェバリンマまで追って、下り坂で彼らを打った。
民の心は苗、水のようになった。
大きなショックだったのです。
最先のいいスタートであったにも関わらず、
愛なんかに負けるじゃないですけど。
そこで彼らは足止めを食った。
このことはヨシハもショックでした。
七節八節を見ますと、ヨシハが神様に言います。
全部読みませんが最初だけ読むと、ヨシハは言った。
「ああ、神しよ。あなたはどうしてこの民にヨルダン川をあえて渡らせ、
私たちはアモリ人の手に渡して滅ぼそうとされるのですか。
私たちはヨルダン川の向こうに居残ることで満足していたのです。」
これどこかで聞いたことありますね。
エジプトから出た民が苦しんだときに、
エジプトに置いておいてくれたらよかったのですというのと同じような嘆きですね。
でもヨシハも嘆いたのです。
「主よ、あなたはこんなところで私たちを滅ぼすために連れてきたのですか。
何でこんな負けを期したのですか。主よ、あなたが戦うんじゃなかったのですか。
しかし、この敗北の原因はイスラエルの中にあったということを神様は告げられます。
10節以降、主がヨシハに語られるのは事の天末です。
なぜ負けたのか。
全部を読むと長いので、11節、12節を読みますとその理由が書いてあります。
イスラエルは罪ある者となった。
彼らは私が命じた私の契約を破った。
聖説のものの一部を取り、盗み、欺いて、それを自分のものの中に入れることまでした。
だからイスラエルの子らは敵の前に立つことができず、敵の前に背を見せたのだ。
彼らが聖説のものとなったからである。
あなた方の中からその聖説のものを滅ぼし尽くしてしまわないなら、私はもはやあなた方と共にはいない。」と言われ、
負けた原因というのは、イスラエルの民の中で聖説のものを盗んだ者がいたからだと神様は言われる。
聖説という言葉は、多分聖書の中でしか聞かない言葉だと思います。
イスラム教でも使いますが、しかし聖説という言葉。
これは何かと言いますと、実は6章の16節。
この聖説のものの話が出てくるのは、6章の16節。
エリコの町を倒した後に聖説のものだからという話が出てくるんです。
これもちょっと長いのでサッと読んでしまいますけれども、6章の16節からこういうことが言っています。
7集目に祭司たちが角笛を吹き鳴らした時、ヨシオは民に言った。
「時の声をあげよ。主がこの町をあなた方に与えてくださったからだ。
この町とその中にあるすべてのものは主のために聖説せよ。
ユージョラハブとその家と共にある者たちだけは皆生かしておけ。
彼女は私たちが送った使いたちをかくまってくれたからだ。
あなた方は聖説のものには手を出すな。
あなた方自身が聖説されないようにするため。
すなわち聖説のものの一部をとって、イスラエルの宿泳を聖説のものとし、
これに災いをもたらさないようにするためである。
ただし銀や金及び青銅の鉄の器すべて、主のために聖説されたものである。
それらは主の宝物蔵に入れよ。」
ありますが、聖説というのは何なのか。
今朝、細かくは違います。部分的にしか話しませんが、
今のが聖説のものというのは、これは神様のものだという意味です。
聖説のものというのは神様のものだということです。
なぜなら、主の戦い、この戦いが戦っているのは主だからです。
神様がこの戦いを戦われたのだから、戦いの戦勝品は神様のものなんです。
そう理解していただいたらいいです。なぜ聖説のものなのか。
神様がこの戦いに戦われたのだから、戦勝品は神様のものなんです。
ですから、戦勝品は神のものだから、手をつけてはならない。
鉄だとか、金だとかは、主の宝物蔵に入れなさい。
私たちはこういう言葉を聞きますと、
なんかイスラエルの民に取り分がないなんてひどいじゃないか、横暴だと思われるかもしれませんけれども、そうではないですね。
実は聖説のものにはもう一つ意味があります。
聖説のもののもう一つの意味は、主のものであるということと同時に、
これがイスラエルの民の中に持ち込まれたら危険だというものです。
これがイスラエルの民に持ち込まれたら危険だというものが、聖説のものとして滅ぼされるということがあります。
例えばこの箇所を見るときに、神様がこの町とその中にある全ての者は死のために清徹せよと17節にありますが、
これはエリコの住民全員を殺せと言っているのです。
エリコの住民を皆殺しにせよと言っているのです。
これは実に残酷ですよね。どう考えても残酷です。
なぜこんな残酷なことをするのか、これにもまた細かい説明があるのですが、
一番はエリコの民がカナンの地域に住んでいる民が、イスラエルの民の中に入ってくると危険だからです。
偶像崇拝の危険性
なぜ危険なのか、カナンの地域に住む民というのは偶像崇拝が当たり前になっている民だからです。
その民がイスラエルの民の中に入ってくるときに、彼らの中に偶像崇拝の価値観が混ざり込んでくる。
だから清徹せよと言われる。
私たちは思います、そんな理由でと。
カナンの地域の人たちだってしゃべったらわかるんじゃないですかと。
確かにそれもあるかもしれませんが、ここで注目しなければならないのは、神様はそれだけイスラエルの民の中に偶像崇拝が入り込むということ、警戒しているということです。
偶像と言いますのは、神様の像が彼らの中に入ってくるというだけじゃないんですよね。
偶像崇拝というのは富ということも例えばそうです。
そして偶像崇拝というのは何かというと、本質的な話で言えば、それは神様以上に私が高くなることを願う人の心です。
偶像を手にすると人間はどうするかというと、手元に収まるサイズに神様が来るので、神様の大きさをトーンダウンするんです。
そして神様を自分の願いを従わせるものに変えてしまう。
主に従う私たちではなくて、私の願いに主を従わせる。
そのような考え方に切り替わっていってしまう。
神様の声以上に私の内なる声が大きくなり、その声を聞かなくなっていく。
そこから神様との愛の交わりを痛めるようになっていく。
実は偶像崇拝の問題というのは、この後のイスラエルの中の中心的な問題になっていく。
ですから聖説のものを盗むというのは二つ問題があるのです。
一つは神様のものを盗むこと。
そしてもう一つは、聖説されるほどの危険という危険を民の中に持ち込んでしまうということです。
神様はカナンの偶像を強く警戒します。
アカンの罪と裁き
神様はイスラエルの民が目に見えない神様よりも、目に見える偶像や富に面白いぐらいにスッと行ってしまうということを
金の格子事件でよく知っているのです。
出世時の32章にありますが。
でも実は根深く人間の中にあるのは偶像崇拝ですね。
そういう恐ろしさが彼らを学ばなければならなかった。
ただもう一つ、次のポイントを見るならば、ここで彼らがもう一つ学んだのは、裁きに対する厳粛さです。
神様はこの箇所を見ていくときに、誰かが盗んだといい、そしてその盗んだ犯人をくじで突き止めるようにと言います。
その中で浮かび上がってきたのがアカンという人物でした。
この19節から21節にアカンが見つかるところが書いてあります。7章の19節から21節。
ヨシワはアカンに言った。
我が子よ、イスラエルの神主に栄光を期し、主に告白しなさい。
お前が何をしたのか私に告げなさい。私に隠してはいけない。
アカンはヨシワに答えた。
確かに、私はイスラエルの神主に対して罪を犯しました。
私は次のようなことをしました。
私は分取り物の中にシンアルの美しい街灯一着と銀200シェケルと重さ50シェケルの金の延べ棒一本があるのを見て欲しくなり、それらを取りました。
それらは今、私の天幕の中の地面の下に隠してあり、銀もそこにあります。
アカンは富に目がくらんでしまったということですね。
そしてアカンとアカンの所有物。
今日読みましたが、22節以降、そこにはアカンの息子娘も含まれますけれども、
このアカンの人やアカンの子供たちや物がアコルの谷という場所へと引かれ、
25節には後半、全イスラエルは彼を石で打ち殺し、彼の所有物を火で焼き、それらに石を投げつけたと描かれています。
あまり礼拝説教で扱いたくない生々しい場所ですが、しかし実に恐ろしい光景です。
アカンとその子供を含めた財産を燃やし、石打ちにした。
しかもそれは、イスラエルの民は男性だけで60万と言われますから、何十万というより全イスラエルの民が彼らに石を投げつけた恐ろしい光景です。
私たちはこういうところを見ると思います。
神様が愛ってどこにあるのという、愛の神様という姿からかなりかけ離れているような光景です。
この場面を理解するために、私一つ大事な視点はどこかなと思うときに、
私はアカンに石を投げたとき、人々がどう思っていたかということをちょっと想像すればいいなと思うんですね。
例えば、ヨシアはここでアカンの、そういう系を言いますけれども、ヨシアはここでどういう表情でアカンを見ていたでしょうか。
裏切り者、汚い不純物を取り除くかのように無情にアカンを見つめていたでしょうか。
いらないことをしやがってと。
私はそうじゃないだなと思うんですね。
7章19節でヨシアはアカンに対して、我が子よと言います。我が子よと。
アカンは敵じゃないですよ。同胞ですよ。我が子よ。
そう呼んだヨシアが、無情にもアカンにその諸断を下さなければならなかった。
どんな顔をしていたでしょうか。
そう、アカンよ。なぜあなたはこんな愚かなことをしたのかと。
怒りながら、けれども胸痛めて泣きながら石を投げるよう言ったのではないか。
イスラエルの民も同じでしょう。アカンは敵ではありません。同胞です。仲間です。
しかしその同胞、しかも目の前にいる子供たちにまで石を投げなければならない。
神が命じられた。
彼らはどんな思いで石を投げたでしょうか。
アカン、なんでお前こんな馬鹿なことをしたんだ。
そう思いながら、彼らは怒りながらでも泣きながら石を投げたんじゃないでしょうか。
そしてこれは、おそらく神様も同じなんじゃないでしょうか。
アカンの死によって、神様の怒りが収まりますね。
26節、死の燃える怒りが収まったわけです。
神様はアカンの偶像崇拝に怒りました。怒ります。
けれども、その怒りは何のためか。
イエス・キリストの贖い
民に偶像崇拝が広がるという危険性を、彼が自覚もせずにやっちゃったという。
重たいことを自覚もせずにやってしまったアカンに対して。
アカン、どうしてあなたはこんな契約を破ってしまったのか。
軽々しくも重いことをあなたはしてしまったのか。
ここで神様も痛み、嘆かれたのではないかなと思うのですね。
さて私たちは、この物語を読んでいくときに少し考えたいことがあります。
私たちは、それぞれここにいる私たちは、このアカンの物語の一体どこにいるでしょうか。
皆さんは石を投げる側の人でしょうか。もしくは石を投げられる側の人でしょうか。
CSではアカンみたいになったらアカンとよく教えられました。
ただ私たちは果たしてアカンになることを避けられるのでしょうか。
つまり偶像崇拝を私たちは避けられるのでしょうか。
私は本当に素直に言わせていただくならば難しいんじゃないかなと思います。
神様や神様の像や仏壇が家にある。それが偶像崇拝か。そんな話ではありません。
それは本質的な問題でもなんでもないです。
偶像崇拝というのは神様以上に私が高くなることを願うということ。
神様の声以上に私の内なる声が大きくて見声を聞かないということ。
富というのは決して悪いものじゃないですよ。
ただ富が神様以上に大きくなれば富は偶像になるんです。
私の願い、私の心の思い、悪いものじゃないですよ。
でも神様以上に私の願いや私の思いが大きくなるんだったらそれは偶像化するんです。
そうであるならば私たちの中に果たして偶像はないんでしょうか。
それは私自身を見ても思います。
私の感性や信仰や考え方のその中にすでに偶像崇拝は入り込んでいるなと思います。正直申し上げて。
私はこの物語の中に自分を置くとするならば思うんです。
私はアカンだなと思います。
神様は聖なる神様です。
そして憐れみ深い愛の神様です。
聖なる神様は偶像崇拝をはじめとする罪に対して厳粛です。
神様は黒いものを白いとは言いません。
白いものを黒いとも言えません。
そういうごまかしをされません。
ただ同時に神様は憐れみ深い愛の神様なのです。
罪に陥る人間を怒りつつも嘆き待つ。
なぜこんな馬鹿なことをお前はしたんだ。
そして私がヨシアの時代に生きていたならきっと石を投げつけられる。
群衆が私を取り囲み、各々が石を私に投げようと構える。
その時になって私は初めて自分の罪がどれほど重いのか、その重さを知るのでしょう。
神様の前に私はこれほどのことをしてしまったのかと愕然とその時初めてするのでしょう。
私はそういうものだと思うのですけれども、皆さんはどうでしょうか。
ただし続けて想像する時に私は今私に起きていることはこういうことだろうなと思うんです。
今や石を投げかけられようとするその時に神様の声が聞こえるのです。
私はどうしてあなたを見捨てられようかという声が聞こえる。
そして私の肩に手が触れる。
振り返ればそこにイエス様がおられる。
イエス様は言われる。
愛する加藤光よ、あなたが石を撃たれることに私は耐えられない。
私があなたのその罪を引き受けようと。
そして私を横に押し合って、イエス様に石が投げつけられます。
何十万という石がイエス様に向けて投げつけられていきます。
血は飛び散り、骨は砕け、叫び声が聞こえます。
父よ、どうか加藤光を許しくださいと。
しかしその声もだんだん聞こえなくなり、
ただ私の目の前には石くれの大きな山だけが残る。
私にはもはや誰も石を投げません。
裁きのすべてはイエス様に下ったのです。
神様は黒いものを白と言うことはできません。
しかしただ一度聖書が語るのは、真っ白なお方にすべての人の黒さを覆わせ、真っ黒にされて裁かれたということです。
すべての人を白と認めるがために、イエス・キリストが真っ黒になられた。
皆さんこれが十字架で起きたことではないでしょうか。
石くれの山を眼前に、私はどう思うでしょうか。
イエス様が私の罪の見代わりのためにやってくれた、やったーと喜ぶでしょうか。
確かに自分の死と滅びを回避できたことは喜んでいいかもしれませんね。
ただ、それだけであるならば、私はきっと何かがおかしいのでしょう。
むしろこうあるべきだと思います。
石くれにすがりつきながら、胸を打ち叩きながら、泣くんじゃないんでしょうか。
主よ、あなたが死なれたのは私の罪のためです。
それゆえに、あなたが死なれたから私は生きることができます。
あなたが生かしてくださったこの命を、あなたのように誰かの命を生かすために使わせてくださいと、思うんじゃないでしょうか。
イエス様のように、イエス様のために生かしてください。
罪と十字架の意義
そう思うんじゃないんでしょうか。
今朝、コリント書の第2のコリントの5章の15節を開きましたが、パウロはきっと同じような思いで書いたのではないかなと思うのです。
第2コリントの5章の15節。ご存じの言葉かと思います。
キリストはすべての人のために死なれました。
それは、生きている人々がもはや自分のためにではなく、自分のために死んで、よみがえった方のために生きるためです。
ヨシアワキにおいて、主の戦いというものが描かれましたが、実は主の戦いというのは今も続いています。
占領すべき約束の地はカナンではなくなりました。
今や地の果てまで、地の果てまでが約束の地と変わりました。
軍事的に占領するのでしょうか。そうではありません。
むしろ、神様の清さと愛を人々が知ることによって占領されていくように変わりました。
十字架の愛がまず一人一人の心を占領するようになりました。
その心が占領された愛の心をもって、そして十字架の愛の上に今度は、自分のためではなく、自分のために死んでよみがえらった方のために生きる私たちを通して、
イエス様の愛と謙遜を生きる私たちを通して、この世界に神様の清さと愛が実現されていくようになりました。
大事なことはヨシアキから変わりません。
ヨシアは、愛との戦争に勝利した後、8章の34節から、ヨシアキの8章の34節から35節に変えてますけれども、
ヨシアはもう一回立法の章をみんなで読み直すんですよ。8章の34節、35節。
その後、ヨシアは三好英語書に記されている通り、立法の全ての言葉を祝福も呪いも読み上げた。
モーセが命じた全ての言葉の中で、ヨシアがイスラエルの集会全体及び、
女と子供たち及び彼らの間で生活する起流者の前で、読み上げなかった言葉は一つもなかった。
アカムの悲劇を二度と繰り返さないために、神を学ぶために、ヨシアは神の言葉をここで何度も確認をいたしました。
私たちも同じです。
私たちも実はこのアカムのようなことを繰り返さないために、
聖書の中にはあなたたちはキリストを何度も十字架につけるんですかという言葉があります。
そうしないために、私たちを耕し砕き養う神の言葉に聞かなければならない。
もう終わりますけれども、アカムの過ちを通し、
イスラエルの民は偶像崇拝の恐ろしさを学びました。
罪に対する神様の裁きの厳粛さを学びました。
しかし、ここにいる私たちはもう一つのことを知っている。
それは、イエス・キリストの十字架を私たちは知っている。
それを学んでいる。
私たちが十字架へと向かなければならないときに肩を叩き、
私たちの代わりに十字架へと釘を打たれたイエス・キリストの姿を私たちは知っている。
私たちはそこで喜ぶのでしょうかね。
喜んでいいと思いますよ。
ただ、喜んでいるだけだと何かがおかしいんだと思います。
十字架を見上げれば、私たちの罪を引き受けたキリストがそこにかかっておられる。
私たちはおそらくそれを見つめて泣くんじゃないでしょうか。
心を痛めるのではないでしょうか。
そしてその愛に触れて、キリストのために生きようと私たちは思うんじゃないでしょうか。
なぜなら、この命はあなたが生かしてくださった命だからです。
今朝は生産式です。
十字架で裂かれた体、流された血を覚えて、私たちはパンとぶどう酒をいただきます。
ご一緒に私たちは今から十字架のもとへと行かせていただきたいと思うのです。
ただ、死と滅びを避けられてよかったという、その喜びだけの十字架で終わらないように。
私たちがかかるべき十字架に、私を愛するがゆえに巫女がかかられた。
その事実に私たちはいつも新鮮なショックを受けたいと思います。
そしてそれゆえに、自分のために死んでよみがえった方、主のために生きれるように。
あなたの罪は、このイエス・キリストが担われた。
私たちははっきり確信してよいのです。
私たちに石を投げる人はもういません。いないんですよ。
でも時々あります。
ああ、私はこんな罪深いから石をまだ投げられるんだ。怖い。
それはキリストの十字架を不完全なものとすることですからやめましょう。
石はもはやあなたには投げられない。
あなたは許された。
ヨシアからの学び
主のために、主のように、主と共に生きる決心を、この十字架を前にご一緒にさせていただきたいと思うのです。
一言お祈りをいたします。
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