神の愛と恵みの理解
皆さん、おはようございます。やっと涼しくなってきたと思いますが、気候の寒暖でお体もお疲れかと思います。ぜひ、楽な姿勢をとっていただけたらと思います。
また、お祈りくださったように、今朝は、綾名先生は、舞妓の丘教会での礼拝の御用となっています。
ぜひ、彼女の御用も覚えて、一緒にお祈りをしたいと思います。
短くお祈りをいたします。
愛する天の父なる神様、今日も私たちを主の御前へと招いてくださって、心からありがとうございます。
あなたが私たち一人一人を心から愛し抜いてくださって、私たちのために御子イエス様を十字架に捧げてくださいました。
その流された血潮により、私たちの罪が許され、神のことされ、それだけではなく三日目に甦えられた主の命、永遠の命を与えてくださり、
私たちが永遠なる日と共に死をも超えて生き続ける、そのような人生を私たちに与えてくださったことをありがとうございます。
それゆえに、御国が来ますようにと、あなたと共にこの世界に御国を築くように、僧侶をするようにと、私たちを用いてくださることもありがとうございます。
本当に祈られたように、世界は困難を極め、またその複雑さの中に、私たちは祈りの言葉を失うような最中にありますが、
ただ、本当にこの世界の王であるお方はあなたであると、私たちは真摯告白をし、あなたを仰いでいきます。どうか主よ、なおも祈りの手を挙げさせてください。
世界は戦争が終わりませんし、そしてまた日本においても、次のトップが選ばれようとしているそのような中にありますが、
神様、どうかあなたの知恵を表してください。あなたを恐れる人が立てられますようにと願います。
どうか私たちも、本当にあなたの思いを持って選ぶことができるよう助けてください。お願いいたします。
そしてまた、本当に今日来たくても来れない、ご自宅で礼拝を守っておられる方、施設におられる方、思いがあっても来れないお一人一人が、痛みを抱えておられる方々がいらっしゃいます。
どうか主が慰めてください。そのところにも変わらず、私はあなたと共にいるという恵みを表してください。お願いいたします。
今日、綾名先生が舞妓の丘教会で礼拝のご用をします。彼女の上にもあなたの霊を注いでくださり、あなたの御言葉を取り継ぐことができますよう助けてください。お願いいたします。
この者も憐れてください。主の御言葉を語ることができるよう助けてください。お願いいたします。
これからの時を見てに委ねます。主が導いてください。イエス様のお名前によってお祈りを致します。アーメン。
エフタの逆境と使命
今朝も続けて四式を私たちは見てまいりますけれども、今朝注目を致しますのは四師エフタという人物です。
エフタという人物は中々注目されることが少ないと思います。少なくとも私はCSでエフタの話は聞いたことがありませんでした。ギデオンやサムソンの話は聞くのですけれども。
それはおそらく彼のストーリーが悲しみに満ちている、そういうストーリーであるからだと思います。
彼の物語は四式でいうと10章から12章に書いてあるのですけれども、ちょっとだけ抑えたいのは四式は10章を皮切りによりイスラエルの堕落の歴史が速度が上がっていくということです。
呪いの現実が酷くなっていく、そのような状況を描きます。
例えばすみません、少し先に読ませていただくと、四式の10章の6節から7節というところを読み見せると、こういうことが書いてあります。
四式の10章の6節。
日本人の手に売り渡されたと書かれています。
ギデオンを前回見ましたが、徐々に偶像崇拝が彼らの生活に入り込んでいるということでしたが、
今日の歌詞を見るならば、彼らは自分の周囲の国々の偶像のすべてを取り込んでいるかのような、そのような状況に陥っているということが書かれています。
これはイスラエルの民が偶像崇拝に心をとらわれたわけですが、これは神様が早いうちから忠告をなさっていたんですね。
2章の3節というところ、言葉だけを見ますと、
彼らの神々はあなたにとって罠となると、主は早いうちから語っておられました。
偶像に心が奪われる、いわば神様以上に私の願いを叶えてくれる何か。
それを偶像と言っていいでしょう。神様以上に私の願いを叶えてくれる何か。
それは人の目には魅力的に見えるわけですけれども、
でも神様は偶像というのは実はとても危険なんだよということを早いうちから忠告をされています。
そもそも偶像崇拝は一体何が危険なんでしょうか。
一言で言いますと、それは神様がどういうお方かわからなくなっていくんです。
神様がどういうお方かわからなくなっていくんですね。
レイフターの物語には実はそのことにおいてとても悲惨なことが起きたということが語られている。
痛々しい話です。
けれどもそこにある人間の愚かさを見ると同時に、
そこに対する神様の眼差し、そこもご一緒に今朝も注目していきたいと思うのです。
2つのポイントでお話をしますと、1つ目のポイント。
神様から離れるときに私たちは神様の愛と恵みを忘れてしまうということです。
神様から離れるときに神様の愛と恵みを私たちは忘れてしまうということです。
ちょっとだけ十章の話をするならば、イスラエルは偶像崇拝が悪化していくその状況の一途をたどっていきます。
その状況に対して神様は十章の11節から14節を読みしますと、こういうことを言われるんですね。
主はイスラエルの子らに言われた。
私はかつてエシプト人、アモリ人、アンモン人、ペリステ人から、またシロン人、アマレク人、マオン人があなた方を強いてあげているあなた方が私に叫んだとき、
私があなた方を彼らの手から救ったではないか。
しかしあなた方は私を捨てて他の神々に仕えた。だから私はこれ以上あなた方を救わない。
行け、そしてあなた方が選んだ神々に叫べ、あなた方の苦しみのときには彼らが救ってくれるだろうというのです。
以前もお話ししましたが、詩式というのはパターンの繰り返しなんですね。
民が罪を犯しました。それに対して神様が怒りました。そして民が叫び声をあげて助けを求めました。
主は裁きつかさを使わせて民を助けられる。そのパターンがあるわけですが、しかしここでパターンが揺らぐんですよ。
それは何か。民の叫び声がその都度、死死を使わせて救われた神様が悲鳴をあげられるんです。
何度救ってもあなたは偶像の神々のところに行くじゃないか。ならその神々に救ってもらえばよい。もう私は救わないと嘆かれるんです。
これはよく神様とイスラエルの民は結婚関係でよくその比喩で表現されますが、夫婦の会話のように聞こえますね。
それはあなたが何度も私を捨てて他の人のところに行くのを私は何度も何度も許したけれども、もう限界許せないということです。
そうイスラエルに神様は言うんです。私たちも少し今日この箇所で誤解を正したいのは、聖書の神様というのは心も痛まない不動の神様ではありませんね。
そうではない。生きた愛の関係を神様は求められるんです。求められるときに神様は愛ゆえに痛まれる神様なんですよ。捨てられる痛みを感じている神様。
そしてそれゆえに民に対してもう救えないとまで叫ぶ神様ですね。でも同時に16節。
彼らが自分たちの家から異国の神々を取り去って主に仕えたので、主はイスラエルの苦痛を見るに忍びなくなられたと言える。忍びなくなられた。
痛んでいるけれども、でもどうしても手放せない。諦められない。それが神様。そういう姿が描かれます。
ただですね、先ほど言いましたこれを皮切りに、知識がだんだん闇の深いところに進んでいることを私たちは感じるわけです。
さてエフタの話に入っていきますが、当時このイスラエルを苦しめていたのはアンモン人でした。
アンモン人から救うのはエフタで、ペリシテ人から救うのはサムソンというふうに話は続いていきますが、しかしアンモン人がこの時民を苦しめていた。
そしてその危機から救うために現れるのがエフタです。ただこのエフタという人物は一言で言うならば、ならず者なんですね。ならず者である。
他の聖書の訳で彼は三族と訳されますけれども、彼は生育歴というか生まれがとても気の毒な人物でした。
11章の最初から書いてある話ですけれども、彼はおそらくギルアデ人という部族のギルアデという人、首長の息子として生まれましたが、彼は優女の子供であった。
だから彼は小さいうちから家から追放されるんです。追放されたところで、家族の愛も知らずに彼はならず者の中で育っていく。
結果彼はならず者の当領みたいな姿になっていくんですね。家族の温かさを知らず傷つきながら大人になった人物、それがエフタなのかもしれません。
しかし、アンモン人の危機が迫ってきたときに、ギルアデの長老たちが手のひらを返すように、エフタに私たちの首領になってくださいと言ってお願いしに来るんですね。
エフタは一度はふざけるなと断るわけですけれども、けれども結果的にエフタはこのことを了承してアンモン人と戦うわけです。
エフタの誓願と結果
そしてそのアンモン人との戦いがどうなったかということを描くのが、今日読んでいただいた11章の29節からですね。
結果だけ見るならば、エフタは見事、エフタ率いるイスラエルの民はアンモン人に勝利をするわけですけれども、
ただここでめでたしめでたしと終わらないのが、彼が一つ不可解なことを言うというところに現れてくる。
それは何かと言いますと、今日読んでいただきました11章の30節から31節の言葉です。
実に不可解なことを彼は言うんです。
30節から。
エフタは主に誓願を立てて言った。
もしあなたが確かにアンモン人を私の手に与えてくださるなら、私がアンモン人のところから無事に帰ってきた時、私の家の戸口から私を迎えに出てくる者を主の者といたします。
私はその人を前生の捧げ者として捧げます。
これは、誓願を立ててと言われていますか、誓願なんですが、いわば、誓いを立てて神様の祝福を求めるという形ですね。
これをしますから神様祝してください。
その誓いの内容は、私が帰ってきたら最初に出迎えてきてくれた人を前生の捧げ者としてあなたに捧げます。
モレクの信仰とその影響
前生の捧げ者というのは、その人を殺して神様の前に燃やし尽くしますということです。
皆さんどう思われるでしょうか。
この誓いは素晴らしい。犠牲が大きい。素晴らしい。
これは神様に喜ばれる誓いだと思われるでしょうか。
一箇所聖書、別の箇所をお読みしたいと思いますが、レビキの20章の1節からというところを読ませてください。
レビキの20章の1節から5節というところにお読みしますと、旧約聖書213ページの下の段にありますが、ちょっとお読みします。
レビキの20章の1節から5節。
主はモーセにこう告げられた。
あなたはイスラエルの子らにゆえ、イスラエルの子らあるいはイスラエルに起留している者のうちで、
自分の子供をとってモレクに与える者は、誰であれ必ず殺されなければならない。民衆がその者を意志で打ち殺さなければならない。
私はその人に敵対して私の顔を向け、彼をその民の間から断ち切る。
彼がモレクに自分の子供を与え、そのために私の聖女を怪我し、私の聖なる名を怪我したからである。
もしも人がモレクに自分の子供を与えるときに、民衆がそれを見て見ぬふりをし、彼を殺さないことがあれば、
私自身が彼とその家族に顔を向け、彼と彼に習い、モレクを慕って因行を行うみだらな者を皆、その民の間から断ち切る。
これはモーセが語った言葉ですが、モーセの時代から、神は人間の犠牲を求めるというような、モレクという偶像の崇拝、信仰というものは、神の中に流行していました。
これはレビキはこのことを明確に禁じていますね。
モレクという神様がいて、その神様に捧げるときは、その人間を捧げなければならない。でもそれは禁じていました。
しかし、このモレクの信仰というのは、イスラエルの民が調子が良いときはないんですが、調子が悪化すると民の中にふつふつと何度も何度も起きてくる信仰なんです。
それが実はミナミユダが崩壊するときにも現れていました。
ちょっといろいろ書いて申し訳ないんですが、ここだけ見させてください。エレミーア書の32章の33から35節というところをちょっとだけ見させてください。
エレミーア書の32章の33から35節。旧約聖書の1354ページですけどね。下の段階。エレミーア書の32章の33から35。
ちょっとだけお読みしますと、
彼らは私に背を向けて顔も向けず私がしきりに教えても聞かず懲らしみを受け入れなかった。
彼らは私の名が付けられているミヤに忌まわしいものを置いてこれを怪我し、
デンヒノムの谷にバウルの高きところを築き、自分の息子娘たちに火の中を通らせてモレクに渡した。
しかし私はこの忌み嫌うべきことを行わせてユダを罪に陥りやせようなどと、
念したことも心に思い浮かべたこともない。
南ユダ末期にもモレクの信仰は残っていましたけれども、
南ユダの民は周囲の敵への戦争に勝つために、自分の子供の命を殺して、
神の前に燃やして捧げるということを実際にしていたという歴史がある。
ただ神様はその状況を見て、それは忌み嫌うべきものであり、言われるんです。
エフタの誓願と神の真意
私は命じたことも心に思い浮かべたこともない。
それを思識に戻って考えるならば、そうであればエフタがしたことというのは、
神様が命じたことも心に思い浮かべたこともないことを彼は誓い、
そして残念なことにそれを実行してしまったということですね。
彼を出迎えたのは彼の一人娘。
家族に対して特別な思いを持っていたエフタからするならば、かけがえのない存在ですよ。
でもそれを捧げたわけです。
それ自体悲劇ですが、もっと悲劇なのはそれが神様が命じたことでも望んでいることでもないということです。
そしてもっと皮肉なことにですね、実はこのモレクという偶像はアンモン人の神なんです。
アンモン人の神なんですね。
そう思うときにエフタは果たして勝利をしたのかということすら怪しくなってくるような気がいたします。
なぜかと言いますと、エフタは確かに死の霊が注がれて、アンモン人には目に見える戦いでは勝利をしました。
戦争には勝利をしたんです。それは目に見える勝利ですね。
けれどもエフタ自身を見るならば、彼はその信仰や価値観に至るまで既にアンモン人の神モレクに奪われてしまっているということです。
目には見えないけれども彼自身の内面、生き様を思うならば、実は彼は既にアンモン人の神に負けている。
まさにこれは神様が心配されて言われたことですね。
彼らの神々はあなたにとって罠となる。
偶像崇拝を繰り返して、もう目に見えるところの勝利は神様が与えてくださいます。最後まで与えてくださいます。
けれども問題の本質は、それを繰り返す中でエフタ自身が、そしておそらく私たち自身が気づかないうちに、私たちの中に偶像の価値観が支配し始めるということですね。
そしてその結果、神様がどういうお方か本当にわからなくなるということです。
ひるがえって少し私たち自身のことを考えてみたいと思います。
私たちの中に偶像崇拝はないのでしょうか。
おそらくですが、怒らずに聞いてくださいね。
ここにいる私たち全ての中には大なり小なり偶像はあるのだと思います。
それは何か宗教的な像を持っているだとか、わかりやすく富や権力がそれがあなたの偶像になっていますよ、そういうことだけではなくて、そういうレベルには皆さんはもはやいないと思うのです。
けれども、おそらく私たちの一番の偶像は何かというと、それは私たち自身です。
私たち自身という偶像が私たちの中にある。
どういうことなのか、少しだけ私の経験をお話しさせていただくならば。
何度かお話ししましたが、私は新学校に入ってすぐ鬱になったんですね。
環境の大きな変化についていけなくて、気持ちがダンと落ち込みました。
けれども、その鬱を増長したのは何かと言いますと、私の中に刷り込まれている、私はしっかりした人間でなければならないという思い込みです。
それまでの人生で培われてきた価値観でした。
あの人、この人が何もできなかろうと、物分かりが悪かろうとも、私は一番物分かりが良くて、この中でしっかりした人間でなければならない。
けれども、体調不良に倒れてそういうことができなくなると、いつも私の中に声が聞こえる。
お前はこんなこともできないのか。もっとしっかりしないとダメじゃないのか。お前はなんで、お前みたいな人間がなんで献身したのか。
そういう自責の声が四六時中私を攻撃してきました。
ただ、そこに神様を届いてくださったんですね。またお明かししますが、いろいろな導きを通して私を導いてくださって。
神様が教えてくれたのは、お前はしっかりした人間じゃないということです。
お前はしっかりした人間じゃないし、そうし続けることなんかできない。
でも、それでいいんだ。なぜなら私があなたと共にいるんだから。そう私に教えてくださったんですね。
そういう声が聞こえた時、そう分かった時に、私は心が本当に軽くなりました。
私自身は、私自身から開放された経験だと思っています。
神様ってこんなに広いんだってことを教えられた経験だと思っています。
そしておそらく、神様はどういうお方かということを知った。それは今も知り続けていますけれども。
エフタ自身のことも振り返るならば、彼の誓願の内容から見えてくるのは、彼自身の神様感ですね。
それはきっと、神様は何かの誓願をしなければ祝福を果たしてくれないケチくさい神様であるかのように彼は思っているんですね。
そして神というお方は、人の命を犠牲として喜ぶような残酷な神であるということを、彼はどこかで思っている、納得しているわけですよね。
そのことは、もしかしたら彼が幼い頃に親から追放されて、孤独の中で傷つきながら生きてきたということもあるかもしれません。
そういう中で培われた彼の価値観であった人間性、困った時には結局神も誰も助けてくれない。それが彼の中に根深くあったのかもしれませんね。
愛と恵みの神
でも、そういう神なんだということ、彼の中にある偶像が彼にそう呟いている。
けれども、神様がエフタに臨まれていたことは、彼の中で響く偶像の声、その偶像が教え込むような、神とはこういう方だという思い込みを捨てて、本当の神様の姿を知ってほしいということなのではないでしょうか。
私たちは知っていますよね。神様はケチくさい神様ではないわけですよね。
私たちが何かを求めるよりも先に、私たちに恵みと慈しみを負わせるような人生を与えてくださったような、そのような種ですよね。
そして神様は、人の命を喜んで求めるような残酷な神様ではないですよね。
むしろ人の命を遠飛び、その命が本当の輝きを持って生きるために、ご自身の一人ごの命すらも与えてしまわれた神様ですよね。
そういう、いわば愛で貫かれている神様なんですよ。愛で貫かれている神様。
そして私たちは十字架というものを見るときに、それが決して変わらないものになったんだということを何度も何度も確認するわけですよね。
余談ですが、フィリップ・ヤンシーという人の本の中に、恵みという言葉を説明する上で、こういうフレーズがありました。
恵みとは、神に愛していただくために私たちにできることはもはや何もないということ。
そして恵みとは、神の愛を厳じるために私たちにできることはもはや何もないということであると。
私この言葉好きです。恵みとは、神に愛していただくために私たちにできることはもはや何もない。
そして恵みとは、神の愛を厳じるために私たちにできることはもはや何もない。
そういう意味だという言葉。
神は愛と恵みの神ですね。私たちが何かを下から愛してあげましょう、恵んであげましょう。
それはない。それはないですよ。
すでに私たちが何もできないそのときに恵みがあるんです。
私たちが死から離れてしまうときに、そこに愛の語りかけがあるんです。
神を知るための祈りと聖書
私たちは問われます。私たちはこの神様を知っているでしょうか?
本当に知っているでしょうか?
私たちが神様を知るためにできることというのは、何も特別なことなどありません。
私たちができることは、祈って聖書を読むことです。
何度も言います。祈って聖書を読むこと。見言葉に聞くことです。
けれども、そのときに少し、目に見えない自分の内面で起きていることに注目してもいいかもしれませんね。
目に見えない内面で起きているのはきっと、聖書の言葉、神様の語りかけと、
私自身の内面の声、私自身の価値観との攻め合いというのが、私たちの中にはあるんじゃないでしょうか。
聖書が語ります。神様はすでに十分に豊かに、あなたを愛しておられるよと。
けれども、そう語られても、いいや神様、私はそういう存在ではございません。
私はそんなものではありません。
そういう大きな声が、それを消し去ってしまう。
そうならば、実は神様の言葉を聞いているようで、私たちは自分の声、心の声ばかりに無心してしまっているということがあるわけですよ。
そういうときに、私たちは何が私を支配しているのか、何が神様以上の私の偶像となっているのか、
その声が一体どこから発せられているのか、それを探るということも必要なのではないか、そう思います。
神の愛と恵み
そこにこそ私は、聖霊様が働いてくださるようにと願いたいと思います。
私たちの内に確かに住まわれる種が、私たち自身から出てくる、神様はこう言うけれども、私はそうは思わない。
そういう声はどこから来ているのかを明らかにしてくださって、そしてそこを慰めて、私は癒してくださるようにと、私は祈らなければならないと思う。
大概そういう声は、たぶん何かの傷から来ているんですよ、絵札のように。
そして神御自身の姿、イエス様の姿を、私の内に証してくださるように、聖霊様はイエスキリストについての証を、私たちの内にしてくださるように。
私自身も、解放され続けながらより神様を知り続けている途上です。
もう終わりますが、私たちが神とすべきお方、それは、私自身の思い込みや、私自身の内から発する神様の語りかけを否定するような偶像ではない、ということを受け止めたいと思います。
むしろ神様はどういうお方なのか、今日の箇所で言うならば、10章の16節をしっかり覚えたいと思います。
何度も何度もイスラエルを裏切る民、もうあなたのことは愛せないとまで深く事実傷つかれている神様。
けれどもその主は民が声を上げるときに、イスラエルの苦痛を見るに忍びなくなられた。
心を痛めて、なおも愛することを手放すことのできない神様。
それが私たちの神様、愛と恵みに満ちたもう私たちの主である。
どうか私たちは、自分自身の姿を、自分自身の内にどんな叫びがあるのかということを主によって解き明かされながら、
同時に私たちの心で占める比率が、私の声ではなくて徐々に徐々に癒されながら、神様の御声が私の心を占めるように。
そして、ああ主は本当に愛と恵みに満ちたお方なんだなあということを、
ハレルヤその通りだって受け止めて喜んで安心して生きることができるように、そう願っております。
解放と癒しの祈り
どうかご一緒に解放されながら、癒されて前に進ませていただきたいと思います。
一言お祈りをいたします。