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2024-12-01 29:24

2024/12/01 イエス様の輝き

2024/12/01:Ⅰアドベント礼拝

加藤満牧師

マタイの福音書 1:1-17


サマリー

このエピソードで、アドベントの季節にイエス様の輝きについて考えています。イエス様が暗闇の世界に光をもたらし、人々を新しい世界へと招いてくださることが強調されています。経図を通じて、イエス様の素晴らしさとその意味が探られています。また、アブラハムとダビデの契約がどのようにイエス様によって成就されるかについても論じられています。特に、イエス様が真の王としてこの世に持ち込んだ光と救いについて深く掘り下げられています。さらに、イエス様の誕生を通じて示される祝福と愛の存在についても語られています。イエス・キリストを通して新しい光を持つことができることと、彼の存在がどのように世界に希望をもたらすかを考えています。

アドベントの始まり
それでは一言、お祈りをさせていただきます。
愛する天皇父なる神様、死の御前へと私たちを招いてくださり、祈られたように今朝からアドベンツの季節をご一緒に迎えることができますことをありがとうございます。
この暗闇の中に光であるお方が来てくださったと、そして主よ、その光であるお方は、今もこの世界を輝かしておられる光であること、生きておられることを覚えて心から主の皆を賛美をいたします。
私たちは罪に陥っていたものでしたが、しかし主が私たちを愛し抜いてくださり、御子イエス様の十字架の治癒により私たちを完全に許し、神のことし、永遠の命を与え、永遠なる日と共に生き続ける新たな世界へと私たちを招き入れてくださいました。
そして私たちは目に見えるところではなくて、神様が治めておられる世界、神様が新しく始めてくださった世界に行き、御一緒に御国を築くようにとその使命を与えられて生きていること、その恵みを感謝いたします。
神様、このアドベントの季節にも、あなたが私たちのうちに語りかけてくださり、あなたがこの世界に、そして私たちのうちに初めてくださったあなたの救いのみわさ、あなたの輝きを知ることができますように、どうか主がこの季節を祝してください。
お願いいたします。ここに来たいお一人一人がいらっしゃること、心が痛んでいる方、自宅で礼拝を守らざるを得ない方、施設におられる方それぞれがいらっしゃいます。神様がお一人一人を慰めてくださり、励ましてくださり、主の恵みをそのところで味わうことができるよう、助け導いてください。あなたとお出会いすることができますように。
祈られたように、世界の様々な貧困、争いは耐えることがありませんが、このところで私たちはまた、この世界に誠の王として確かに主が立っておられることを知り、祈り、そのために自分ができることをおろうします。どうか主が私たちのその歩みをこの季節にも祝し導いてくださいますように、お願いいたします。
あなたの御手に委ねます。それぞれの内に御言葉を語りかけてください。
イエス様のお名前によってお祈りを致します。アーメン。
アドベントの季節を迎えました。
先週のお礼拝後に教会にはクリスマスの祝食をお施されましたし、玄関の木にはイルミネーションがかかっていまして、今夜になるともうすでに玄関の木が光っているんですね。
私も朝、争点に来るときにまだ輝いてますから、それ見ながら本当にきれいだなと思って感動しています。
やはりいいなあと思うのは、暗闇の中に光が灯っているというあの光景こそが、まさにクリスマスは何であるかということを語っている一番最たるものだと思うからです。
食家礼拝も好きなんですけれども。
ただクリスマスというのは、光がこの暗闇の世界に来たことを祝うわけです。
光ですね。ただそれをもうちょっと具体的に言うならば、それは暗闇の世界を照らす光のようなお方が来られたということですね。
それがイエス様です。
イエス様はどのようにこの暗闇の世界を照らされるのでしょうか。
どのような輝きを放っておられるのでしょうか。
実はそのことを物語っているのが、今朝読んでいただいたこのマサイの一章の経図なんですね。
聖書朗読された方は大変だったと思いますし、聖書を初めて読む人からすると一番苦痛を強いられるような、そのような箇所かもしれませんが、
ただこの箇所は本当に大事な意味があります。
この経図が言いたいことは、それはクリスマスにお生まれになるイエス様がどれほど素晴らしいお方で、この世界にどれほど素晴らしいことが始まったのか。
そのことを告げているのがこの経図なんですね。
教会というのは、2000年間クリスマスを祝い続けてきました。
それは、このイエス様の素晴らしさであったり、イエス様という光が、単にこの巷を逃げますような、かりさめの蛍光色の光ではなくて、
ああ綺麗だなと終わる光ではなくて、本当に人間の内にある暗闇を照らし、その人たちを生かしてきたという、生きた光だから、2000年間教会はクリスマスを祝い続けているんです。
単なる文化ではない、光が私の内に来たから、そのことに感動し続けているから、教会はクリスマスを祝っています。
その素晴らしさであったり、輝きが改めてどういうものであるのか、この箇所からご一緒に味わっていきたいと思っています。
経図の重要性
さてですね、今日のこのマタヨン一章の経図ですけれども、これはイエス様がどれほど素晴らしいかを示していると話しました。
経図と言いますのは、当時の人々にとっては、この人は一体どういう人なのかを説明するために、一般的に用いられるものでした。
その人はどういう人なのかというのは、どういう文脈の中に生きてきたかということが、とても大事な世界でした。
その上でこの経図は、見事にイエス様って何者なのかということを明快な構成で伝えているんですね。
鍵になるのは17節です。
お読みしますと、それでアブラハムからダビデまでが14代、ダビデからバビロン保守までが14代、バビロン保守からキリストまでが14代となると。
この前の経図は、14代、14代、14代という、そういう流れでイエス様に至ってますよということを言っている。
ユデイ人にとっては実は、数字というのはとても大事な意味があります。
14というのは何かというと、これは簡単に言うと7×2なんです。7が2つありますよということです。
これが3つ続くということは、14が3代続くということは、これは7が6代続いたということです。
7が6つ続く。その中でじゃあイエス様はどこに位置するかというと、イエス様は7の6番目の最後。
この経図のルールにのっているならば、7×7の最初に位置するんです。
7というのはユデイ人にとって大事な数字でして、これは完全数と言います。
いわばこれは何かが完成すること、何かが成就すること、何かの頂点に至ったこと、それを表すのが7という数字です。
あるならばこの経図が言いたいのは、この旧約聖書に連なっているこれまでの歴史の頂点であり、成就であり、完成になられるのがイエス様というお方なんだということを語っているんです。
イエス様は旧約聖書の頂点であり、成就であり、完成である。
そのことを思うときに、改めてイエス様はどのような光かということがなんとなく見えてくるのです。
イエス様は一体じゃあ何を成就されたのでしょうか。何の頂点なんでしょうか。
それをまた紐解く鍵になるのは一説です。
この一説を見ますと、イエス様はアブラハムの子、ダビデの子、イエスキリストの経図と言われているのです。
アブラハムやダビデというのは旧約聖書を知っている人たちからすると、この二人の共通点ってパッと浮かぶんですよ。
それは何かと言いますと契約というものです。契約ですね。
アブラハムもダビデも神様と契約を結んだ人たちなんですね。
ということはイエス様というのはこのアブラハムとダビデの契約を成就するお方として、この世界で輝き始めたんだということを言っているわけです。
じゃあそれはどういう契約だったでしょうか。
すいません今日は先に旧約をパラパラ振り返るかもしれませんが、ついてきていただけたらと思います。
そしてこのアブラハムとダビデのことを振り返りたいと思いますが。
まずアブラハムと神様はどのような契約を結ばれたでしょうか。
聖書で言うならばそれは創世紀というところに書いてありますが、平たく言うならば、まず先に平たく言うならば、
神様がアブラハムと結んだ契約は、アブラハムと彼の子孫を通して神様はこの世界を祝福すると約束されたんです。
有名なのは創世紀の12章の1節から3節というところでしょうし、またその約束が発展して創世紀の17章の1節から8節というところにそのことが書いてあります。
まあでも有名なのは12章でしょうね。
ちょっとだけお見せすると創世紀の12章の1節から3節、有名な箇所ですね。
主はアブラハムに言われた。
あなたはあなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、私が示す地へ行きなさい。
そうすれば、私はあなたを大いなる国々とし、あなたを祝福し、あなたを大いなるものとする。
あなたは祝福となりなさい。
私はあなたを祝福するものを祝福し、あなたを呪うものを呪う。地のすべての部族はあなたによって祝福されると語られます。
その祝福はあなたの子孫からですよというのがまた強調されるのが17章になりますけれども、
創世紀のこの文脈をちょっとだけ思い出していただくと、
神様はこの世界を、そして人間を、神様との愛の交わりに生きる良いものとして創造されました。
しかし神様から人間は離れてしまいました。
その結果、人間は自らを神や王だとみなして、自分の目に良いと思えることをし続けるようになりました。
私たちは先週まで詩式で、その悲惨さを見てきたことを思い出します。
自分の都合の良い神を作り、愛し合うべく与えられた家族と争うことしかできなくなってしまった。
しかし、神様はこの世界と人間を愛し、諦められないのですね。
そのため神様がなさったことは、アブラハムを選び出し、
アブラハムの契約の成就
そしてこのアブラハムとその子孫とともに、この世界を癒し始めようとされた。
それがこの歌書が語っていることです。
さて、この契約は成就したでしょうか。
実はこれは成就しませんでした。
アブラハムとその子孫であるイスラエルの民、そしてまたその国々も、世界を癒すどころか、帰ってますます偶像に仕え、互いに傷つけ合うことしかできなくなっていった。
そのような歴史を私たちは旧約聖書で見ます。
思います。
じゃあこの神様とアブラハムの契約というのは無効になったのだろうか。
実はそれはそうではないんですね。
この経図が語るのは、神様とアブラハムの間で結ばれた契約はまだ終わっていない。
いや、あの契約はイエス様によって成就されるようになるんですよということを語るんです。
イエス様というのはどういうお方でしょうか。
それは創世紀の言葉を借りるならば、祝福のもといなんです。
イエス様というのは祝福のもといです。
イエス様が行かれるところに神様の祝福があふれる。
そうではないでしょうか。
イエス様が行くところで、ちょっと福音書の内容に入ると、
イエス様が行くところで病が癒され、いやその衣に触れるだけで人々は癒されていき、
人々が空腹である時にそのパンは満たされていき、
イエス様を通して神様ってなんて素晴らしいお方なんだろうということが表されていくわけです。
イエス様はどういうお方かというときに、単になんかすごいお方、いやそうじゃないんですよ。
イエス様はどういうお方かというと、昔も今もイエス様というお方はアブラハムの契約を成就された祝福のもといなんですよ。
そしてこの経図が語るのは、だからこそこの聖書の時代の人も、この聖書を読んでいる私たちも、
いや祝福というのはこのイエスキリストにあるんだということ。
ダビデとの契約
そのことを知り、このお方こそ頼るべきお方だと指し示しているんですね。
そしてもう一つ見ていきますと、神様はダビデとも契約を結ばれました。
ダビデとの契約、ここもせっかくですから開きますと。
第2サムエルの7章の11節から13節。
ちょっと開ける方は開いていただけて。
第2サムエルの7章の11節から13節。
旧約聖書の550ページの下の段にありますけれども、お読みしますね。
第2サムエルの7章の11節から13節。
11節の真ん中からお読みします。
主はあなたに告げる。主があなたのために一つの家を作ると。
あなたの皮膚が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、
私はあなたの身から出る四次の子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。
彼は私の名のために一つの家を建て、私は彼の王国の王座を常しえまでも固く建てる。
私は彼の父となり、彼は私の子となると。
これがダビデと神様が結んだ契約の言葉です。
ダビデの子孫からその国の王が立ち、その王国は常しえに立つ。
いわばダビデの子孫から永遠の王が立つのだということを神様は約束をなさいました。
神様の前に喜ばれる王様というのはどういう王様だったでしょうか。
先週ちょっと触れましたが、新明紀の17章に書いてあるんです。
開きませんけれども、神様の前に喜ばれる王様というのは、
自分自身のために軍隊や富を集めるのではなくて、
神様の御言葉に聞き、神様を恐れる王こそがふさわしい王様だと語られました。
ダビデはそのように歩んだ王様だったんです。
けれども、このダビデの子孫はどうなったかと言いますと、
ダビデの子孫は神様から離れてしまいました。
その結果、イスラエルの王国は滅亡しました。
その後、イスラエルにはユダヤ人の王国って立つんですが、
ダビデの子孫からは立ちませんでした。
私たち思います、神様とこのダビデの契約も無効に終わってしまったのだろうか。
そうではないとこの経図が語るんです。
それは何かというと、
このダビデの子孫から立つ永遠の王というのは、
それはイエス様なんだよと言っているんです。
イエス様こそが誠の王であり、
ダビデの契約に約束された永遠の王だと語られるんですね。
私たちは福音書を見るときにその姿を思います。
イエス様のあの生き様というのは、神明記十七章の王なんですよ。
自分のために富を蓄えるのではなく、軍隊を持つのではなくて、
ロバの子に乗ってエルサルムに入る。
そして神の御心を行っていった王様。
そして王様というのは権威があります。
権威があるからこそ人々を悪霊の支配から解放し、
その権威によって嵐さえも静まりましたよね。
イエス様とはどういうお方なのか。
それは今も昔もイエス様は誠の王なんですよ。
このお方こそあらゆる支配からこの聖書の人々、
そして今を生きる私たちを解放することのできる王なんだと、
この経図は語るんですね。
イエス様の光
私たちがそういうふうに見てくるときに、
ああ、イエス様というお方はすごいお方が生まれたんだなということがわかるわけですけれども、
ただもう一つ目を向けなければならないのは、
じゃあイエス様はどういう時代にお生まれになられたかということです。
どういう世界にお生まれになられたのか。
このような神様の契約を成就されるまさに光のようなイエス様は、
真っ暗闇の世界にやってきました。
これを指す言葉が十二節にありますバビロン保守という言葉です。
バビロン保守というのは歴史的に言うならば、
南ユダ王国が滅んだ後にバビロンに民が奴隷として引かれていったという歴史的な出来事を指します。
その保守自体は70年くらいで終わるんですね。
けれどもその後、イスラエル人、この時期から彼らはユデイ人と呼ばれるようになりますが、
その人々はその後も外国から支配をされ続けるわけです。
新約聖書の時代はローマがこの地域を支配していました。
人々はこの旧約聖書はバビロン保守というのは、
神様に逆らった人間たちに対する神様の裁きであると旧約聖書は明確に語ります。
エレミア書はそう語ります。
ただ、人々はそれだけではなくて、
このバビロン保守からこのローマの支配に至るまでの様々な支配も、
これは神様の裁きがずっと続いているんだ。
私たちは未だに保守の中に囚われているんだと当時の人たちは考えていました。
だから一生懸命立法を守ったら神様の解放が早く来ると信じて、
パリ裁破という人たちが立ったんです。
けれども、この世界を覆っている暗闇の原因はローマにあるわけではありません。
神の怒りがこの世界を覆っているわけでもないんです。
問題の本質は何かとすると、それは神様から離れようとする、
神様を愛さず、自分自身を愛することができず、他者を愛することができないとさせる、
人間のうちに働く罪の力。
それがこの暗闇の問題の本質である。
人々はイエス様が来た時に、この方はローマから私たちを解放してくれる王だと喜びました。
けれどもイエス様はもっと本質的なところを見つめていた。
人間が解放されなければならないのはローマからではない。
あなたたちが解き放たれなければならないのは、あなたたちを縛っている罪の力から解き放たれなければならない。
そのためにイエス様は十字架に向かわれるのです。
人々の罪のすべて、それをその身に引き受けて十字架で架かられて、
そしてそれは、イエス様はこの世界の根本的な罪と死に対して勝利をなさったと聖書は宣言するのです。
それによって、十字架によってです。
人間にとって何かではなくて、根本的に私たちを縛る暗闇。
しかしそれに対して、2000年前に来られた誠の王であるイエス様は、もうすでに勝利をしてくださったんだ。
それが福音書が語る福音です。
イエス様は十字架で罪に完全に勝利をされた。
神様はイエス様を通して、この真っ暗闇の世界に光を灯すという新しい御業を始められたのです。
私たちは少しふと自分たちの世界を思う必要があるかもしれません。
現代に目線を移すならば、私たちはこの世界は呪われているように見えます。
なんで争いは、みんな嫌なのに争いは尽きることがないのだろうか。
そしてこの世界は、人間の異性者たちがまさに自分の目に良いと見えることを行いながらこの世界を導いていくと、私たちの人間の目には見えます。
けれどもこの経図が語るのは、事実はそうではないということです。
2000年前に、あの馬小屋の解剖家に巫女がお生まれになったその時から、この世界のルールは変わり始めた。
そしてイエス様のあの十字架と復活の御業によって、この世界のルールは完全に変わったんだということを針薬聖書は告げるのです。
誕生の祝福
それは何か、この世界には目に見えるところは呪われているように見えるかもしれないが、しかしこの世界の中には祝福が存在するのだということ。
憎しみに覆われている方しか見えないかもしれない。
でもこの世界には憎しみに囚われる私たちに愛を生み出すお方がいるんだということ。
そして不正と暴力が蔓延する最中にいや、正義と公正を実現する道はあるんだということ。
異性者によってこの世界は進んでいくのか、違う。
誠の王がこの世界には存在するのだということ。
クリスマスにお生まれになったイエス様、そして復活し天に昇り、今や神様の右の座につかれたイエス様。
このお方こそが誠の王として今この世界に立っていると聖書は語るんですね。
私たちクリスチャンというのはどういうものなのでしょうか。
クリスチャンというのは、私はイエス様が私の主ですと告白しているお互いのことです。
このお方がこの世界の誠の王は私の王なんですと告白している人たちのことです。
それは言い方を変えるならば、この世界は目に見えては呪われて、王様がいなくて、どうしようもないように見えるかもしれないけれども、
いや、誠の王を主だとする私たちは、その世界はそうではないと知っているお互いなんです。
王がいる。この世界には祝福がある。愛が生み出されるんだということ。
そのことを今朝の箇所から私たちが覚えることができるのは一説の御言葉でしょう。
アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの経図と。
この経図はイエス様まで記されて終わっていますけれども、
でもこの経図はここで終わっていないんですね。
イエス様を通して私たちは神の子とされました。
パウロは私たちをしてあなた方は光の子だと呼びました。
であるならば、私たちはこの世界に新しい光が、イエス様という輝きがこの世界に灯ったということを信じて歩むように、
そのような世界だとしてこの世界を見るように、私たちは招かれているんですね。
私たちは絶望をよくいたします。
目に見える世界は暗闇に包まれているように思いますし、
私の心の中にある闇がとても深く、どうしようもないなと思わされることがあります。
けれども今朝覚えたい、アブラハムの子、ダビデの子、そして神の子、光の子と私たちはすでにされているということは、
私たちは生きているルールはこの世界のルールとは違うんだということ。
私たちはすでにイエスキリスの輝きのもとに生きているということ。
新しい光のもとで
イエス様がいるから私の中に光が見えなかろうとも、イエス様がいるから祝福は尽きない。
このイエス様を通して神様の私への愛は尽きない。
イエス様がいるからこの世の何かを、誰かを憎むのでもなく、何かを恐れるのでもなく、
この権威あるお方、誠の王なるイエス様を恐れる。
私たちはこのイエス様の誕生によって新しく始まった世界を見ることができるお互いにされている。
そしてもう一つ言うならば、この世界がイエス様という輝きに出会う場所はどこなのか。
それは何度も言います。私たちを通してです。
光に照らされた私たちを通して人々は光に出会うんですよ。
それはどういう方法か分かりません。その愛なのか、何かの奉仕なのか分かりません。
でも私たちがするその一つ一つの業こそがこの世界に光を灯していく。
それが神のことされている私たちの特権ではないでしょうか。
長くなりましたが、このアドベントの季節に私たちは今一度何がここで起こって、
どのような素晴らしいお方に出会い、どのような素晴らしい立場に私たちはされているのか、
そのことを覚えながら私を喜びたいと思います。
一言お祈りをしてメッセージを終わります。
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