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2024-12-08 29:14

2024/12/08:インマヌエルの驚き

2024/12/08 Ⅱアドベント礼拝

加藤満牧師

マタイの福音書 -25


サマリー

アドベントの第二週を迎え、ヨセフはマリアの妊娠について混乱と疑念を抱いています。夢の中で神の計画を啓示され、彼は勇気を持ってマリアを妻として迎え入れ、イエスの誕生の重要性を理解します。このエピソードでは、マリアの妊娠を通じて神の計画の驚きを考察し、ヨセフの信仰と応答について語られています。また、インマヌエルの名の意味や、その存在が日常生活に与える影響についても触れられています。

ヨセフの混乱と神の愛
お祈りをいたします。愛する天の父なる神様、尊い皆を心から賛美をいたします。
アドベント第二週を迎えて、また一歩、光として来られるイエス様を待ち望む思いで、私たちをこのところへと集めてくださったことをありがとうございます。
主よ、本当に、祈られたように、せわしない日々を、私たちは生きていますが、その最中にあっても、主よ、あなたは共にいてくださり、私たちのその日々を、その根底から、あなたの身手をもって支え、運んでくださっていることを覚えて、心からありがとうございます。
神様、それは、あなたの限りない愛のあらわれであることを覚えます。私たちの罪のために十字架にかかり、その罪をすべて引き受けてくださり、私たちの罪を許し、それだけではなく、三日目に甦えられた復活の命、永遠の命、永遠なる死と共に生き続ける命を、私たちに与えてくださり、
もはやあなたは自分の足で立つのではない、私の恵みによって歩みなさいと、あなたが私たちと共に、私たちを支えてくださるその歩みへと、導いてくださっていることを覚えて、ありがとうございます。
主が共におられるということの豊かさ、それをまた今朝知りたいと思います。どうか御言葉を開いてくださり、あなたご自身を見ることができるよう、帰りみてください。お願いいたします。
祈られたように、世界は闇で覆われています。戦争もありますし、またそれは、私たち個人個人の中にも闇があることを覚えます。先が見えません。どちらに進めばいいかわかりませんが、しかしその最中にも、あなたは死の影の谷を歩むときも、私と共におられるという、その約束を信じます。
どうか御言葉を与えてくださり、私たちが本当にあなたの光に照らされて、その一歩一歩を築くことができるよう、帰りみてください。お願いいたします。
ここに来たくても来れないお一人一人、施設におられる方、またご自宅で礼拝を守っておられる方、思いあってもまた今日ここに来ることのできなかった方、神様覚えております。どうかお一人一人を、主が支えてくださり、慰めてくださいますように、そのところであなたと出会うことができますように、導いてください。お願いいたします。
御言葉を開いてくださいますように、あなたへと期待をして、イエス様のお名前によってお祈りを致します。アーメン。
アドベントの第二週を迎えました。ろうそくも二本目の火が灯りました。
今朝、お開き致しましたのは、イエス様のお父さんヨセフに起きたクリスマスの出来事です。
昨年、私たちはルカの福音書を順に見てきました。ルカの福音書では実は、イエス様のお母さんマリアに焦点が当てられているんですね。
そこではご存知かと思いますが、ミスカイガブリエルがマリアの下に現れて、あなたは聖霊によって救い主を見守るんだよと語り、マリアはそれに対してあなたのお言葉通りになりますようにと受け止めた、そういう出来事がルカの福音書の一章に書いてあります。
今朝読んでいただいた歌書というのは、時系列的に言えば、おそらくその後のことかなと思うんですね。
ヨセフとマリアが一緒にならないうちに、二人は婚約関係にありましたが、まだ結婚をする前に、マリアのお腹が徐々に大きくなってくるわけですね。
身に覚えがないヨセフはマリアに聞く。
それは一体どういうことなんだ?マリアが答える。
いや、私は聖霊によって身こもったんです。
ヨセフはその言葉を聞いてどのように答えたでしょうか。
今日読んでいただいた十九節に彼の対応が書かれています。
夫のヨセフは正しい人で、マリアを晒し者にしたくなかったので、密かに離縁しようと思ったと書いているのです。
ヨセフはかなり動揺したようですね。
聖霊によって身こもったと言われても、ああそうですかとは普通には信じられないわけです。
いや、彼の頭には最悪の状況が浮かんだかもしれません。
いや、私はマリアに裏切られたのかもしれない。
ヨセフは正しい人であると書かれていますから、これは聖書にあるヘセド、神様の憐れみを体現する人だったということでしょう。
ですから彼は、マリアが婚前もしくは婚外交渉によって罰を受けることがないように、公にならずに密かに彼女から身を引こうとした。
マリアを案じての行動だったと思いますが、ただ彼の心の中には疑念の闇が覆ったことは確かでしょう。
一体何がどうなっているんだと。
夢の中の密会の啓示
闇が心を覆う時というのが私たちにもありますね。
私たちもそうですが、そういう時には闇ですから、手探りで前に進まなければならないんですよ。
どっちに進んでいいか分からない。何を選んでいいか分からない。手探りなんですね。
それは、このクリスマスに登場するマリアもヨセフもそうだったわけです。
聖霊によってあなたは救い主のお母さんになりますよと言われたマリアは、前代未聞の経験をしなければなりませんでした。
そしてそれを受け止めるヨセフも、どうしたらいいかが分からない。まさに手探りですよね。
しかし、この二人を訪れた密会が、マタイの福音書もルカムの福音書も共通してこの二人に対して語る言葉があるんです。
それは、恐れてはならないということです。恐れてはならない。
手探りで前に進まなければならないことは、恐ろしいことです。
当然、恐れがあるわけです。それは密会を通し、神様ご自身も彼らの恐れをよく知っていたでしょう。恐ろしいでしょうとは。
でも、恐れてはならないと言うんです。
なぜなら、今あなたに起きていることは、悲しいことでも悪いことでもなくて、神様のご計画のうちに進められている素晴らしいことがあなたに起きているんだよと密会は語ろうとするのです。
私たちもまた手探りの日々がありますが、しかし手探りの日々の中に、主がご計画を持っておられるんだと知ることができるならば、どれほど安心でしょうか。
今朝はご一緒にヨセフの後を、その後をおいたいと思うんです。
二つのポイントでお話をいたします。第一のポイントは、夢の中でということです。
ヨセフは、この後どうなったでしょうか。
彼は夢の中で密会に出会うのですね。二十節に書いています。
彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れていったというのですね。夢に現れていった。
先週のマタイの一章でも少しお話ししましたが、マタイ福音書というのは、イエス様は旧約聖書の成就だと語りたい書簡です。
福音書は全部がそうなんですが、マタイの福音書は特にその傾向が強い。
なので、このマタイ福音書は、訓断に旧約聖書のイメージが盛り込まれています。
ですから、そういうことをイメージしながらお話を見ていくと面白いと思いますが、
まさにヨセフが夢で神の見声を聞くというのは、あの創世紀のヨセフを彷彿とさせます。
あの時のように、神様は夢というある種、ヨセフと神様しか出会えない秘密の場所で、神様のご計画の大切なことを告げられるのです。
夢の中というのは、少しだけ寄り道をしますと秘密の場所です。
私たちもそうですが、私たちは人の夢を覗き見ることはできません。
人も私の夢を覗き見ることはできません。
夢というのは、そういう隠された場所。
しかし現実で私自身が自覚する以上に、私たちの中にあるものを目に映す場所だとも言えるのではないでしょうか。
ですから、真相真理の研究などで夢診断とかもされるわけですが。
けれども夢の中というのは、ある種、私の闇が隠すことのできない場所ですね。
私があらわにならざるを得ない場所。
一番私の生身が見える場所。
そう言えるのかもしれません。
ただ、その最中に、密会がやってきたと告げるのです。密会がやってきた。
密会が告げるのです。
20節の括弧から21節を読みますと、密会が告げました。
ダビデのコヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。
その胎に宿っている子は、精霊によるのです。
マリアは男の子を産みます。その名をイエスと付けなさい。
この方がご自分の民を、その民からお救いになるのです。
夢の中でヨセフが密会から、神様の使いから語られた言葉は、
恐れずにマリアを妻として迎えなさいということでした。
彼女が精霊によって見こもった、普通では信じがたいそのことは、
彼女の作り話ではなくて、本当のことなんだということをはっきりと言うのです。
それはヨセフにとっては、いやあなたは裏切られてなかったんだよという、
そのような慰めの言葉、そして響いたでしょう。
けれども密会の言葉はそこでは終わっていないですね。
そうではなくて、いやここからが本番だと言わんばかりに、
そこから誤記を強めて密会の言葉は続きます。
本当に精霊によってマリアに子供を見こもったということは、
神の奇跡があなた方というこの世界に始まったんだということ。
そしてその子の名をイエスと名付けなさい。
その子はご自分の民を罪からお救いになる、そのような子なのだと語るのですね。
インマヌエルの意味
少しだけ名前に注目をするならば。
イエスっていう名前は、実は当時一般的な名前でした。
これはヘブル語でその意味は、神は救いであるという意味なんです。
よくある名前なんですね。
ただこのイエスという名前は、実は短縮形で呼ばれている言葉でして、
これを短縮せずに正式にヘブル語で発音すると、これはヨシュアなんです。
ヨシュア。ヨシュアですね。
私たちは9月からヨシュア記を順に見てまいりましたが、
先ほど申し上げたように、旧約聖書のイメージといろいろなものが結びつけられます。
イエス様っていうのは、ある種、ヨシュアと結びつけられていると考えてよいと思います。
すなわち、イスラエルの民をエジプトから解放したモーセがいて、
そしてそのモーセと共に相働いて、民を約束の地へと導き入れたのはヨシュアでしたよね。
それと同じように、この生まれる救い主である子は、あのモーセのように、
イエスはモーセであるというイメージがまたたくさん出てくるので間違いないと思いますが、
イエスはあのモーセのように、そしてあのヨシュアのように、
ご自分の民を罪から救い出し、そしてその民を神様の約束の地に導き入れる救い主なんだ。
そのような導き手、それがあなたから、あなたのマリアから生まれるそのイエス様なんだと、
ミツカイは告げるのですね。
そしてこの22節から23節というのは、マタイの福音書に挿入されるナレーションです。
22節、23節を読みすると、
この全ての出来事は主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。
身を諸女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。
それは訳すと、神が私たちと共におられるという意味であると言われます。
マタイの福音書の特徴の一つでして、
イエス様は旧約聖書の成就ですから、このイエス様に起きた出来事は旧約聖書のこれの成就なんですよということを、
マタイは丁寧に説明を加えてくれますが、
このイエス様の誕生というのは、
イザヤ書7章14節の言葉の成就なんだと語るのですね。
このイエス様の誕生によって、
まさに神の子、神であるお方が私たちと共に歩み始めるという、
神が共におられるという言葉が実現し始めているんです。
これはイザヤ書7章の背景に深く関わることだと思いますが、
ちょっとここで話すと長いので、次の祈祷会でお話をしたいと思っています。
ただ今朝少し注目したいのは、このインマヌエルという呼び名です。
インマヌエルという言葉だけに注目をしますと、
実はこの言葉は直訳しますと、英語だと、
with us God なんです。
日本語で言うと、我々と共に神が、ということなんです。
我々と共に神が。
調べたら、いろんな先生が書いてましたけれども、
この言葉の中には驚きが込められているというんです。
我々と共に神が。
こんな暗闇の中に神が。
神も仏もいないと叫びたくなるようなこの現実の中に、
え?神が?
闇の中を手探りしながら進んでいるこの私と共に、
え?神が?
神が?という驚きなんですね。
そしてそれこそが、クリスマスの驚きであり、
驚くばかりの喜びなのだと語られている。
そしてその神様は、ご自身の民、
それは私たちも含めてですけれども、
私たちも含めて、私たちを罪から救い出し、
神が荒野の地を一緒に民と共に歩んで約束の地へと導いていったあのように、
神様が、私たちイエス様が私たちと共に、
ご計画されている約束の地へと私たちを導いてくださる。
ヨシハのようにイスラエルの戦闘に立ち約束の地へと入っていった、
あのヨシハのようにマリアから生まれる幼子が、
民を戦闘に立って約束の地へと導き入れてくれる。
夢というのは様々なイメージの断片がくっついたりもしますけれども、
ヨセフは夢の中でそのような光景を目にしたのかもしれません。
夢から覚めたヨセフの応答、2つ目ですが、
夢から覚めたヨセフの応答をご一緒に見たいと思います。
ここでヨセフは夢から覚めるんですね。
目覚めるとすぐ夢というのは消えがちです。
ヨセフの信仰の挑戦
目もしたとしても不思議とそのイメージも薄れていくところがありますね。
けれども、あれは夢だったのかな、あれはどういう意味だったのかなと思い巡らしながらも、
しかしヨセフの目の前には夢では終わらない現実があるんです。
マリアのお腹は徐々に大きくなっていくんですよ。
ヨセフはきっとマリアのお腹が大きくなっていくのを見るたびに、
あの夢の内容を思い出したんじゃないでしょうか。
マリアの大きくなったお腹を見て、私は裏切られたかもしれないと思った。
しかしそのお腹を見て彼はこう思ったと思います。
いやこれは悪いことが起きているわけでもない。
悲しいことがここで始まっているのでもない。
これは神様の素晴らしいご計画がこの中に進められているんだということを、
彼は受け止めたと思うんですね。
ですから実はこの24節25節に書いてあるヨセフの応答というのは実に淡々としています。
ヨセフは眠りから目覚めると主の使いが命じた通りにし、自分の妻を迎え入れたが、
子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そしてその子の名をイエスと付けた。
見ていただいてお分かりの通り、これは見つかりが語った通りのことを淡々と彼はするんですね。
その歩みはもはや手探りではないような気がいたします。
あの神様と出会った夢。
でもそれは夢ではなくて、私の現実を私が見ようとする現実以上に、私の現実を形作っていっている。
神の言葉の通りにここに始まっている。
そうであるならば、私は私の人生に神が計画してくださったその道筋に従おう。
私の使命、私の委ねられた役割をこなしていこう。
そう振り切れた姿が目に見えるように彼は淡々とここで従うのです。
神の現実と約束
この歌詞を見ながら思います。
私もヨセフのようになれたらいいなということです。
最初に少し申し上げました。
闇が心を覆うということが私たちはあります。
手探りで前に進まなければならないという時があります。
私たちもそうですが。
そしてその時に私たちはすでに約束としていただいている、神が共におられるということを、私たちは信じられない時が往々にしてあります。
信じられないというよりも、実感が湧かない。
祈っても何を祈っているのか、それが届いているのか、確信がない。
深い闇というのは、すぐ隣に誰がいるのかすら気づかせない。
そういうことがあります。
私は孤独なのだと、そう思わせる力があります。
それは遠い。
私たちは神様と霊的な交わりの中で出会うわけですけれども、しかしそれはまさに夢のように。
あの時に私は神様に語られて、ああいう約束をいただいた、こういう励ましをいただいたけれども、現実に目に見えるものはないです。
そうであるならば、本当に神は私と共にいるのかということを、私たちは迷うことがあるのではないでしょうか。
ただ、私たちはそれでも思い出したいのです。
マリアのお腹は夢から覚めても大きくなっていった。
私たちは2000年前にイエス・キリストというお方がこの歴史に確かに実在したという事実を、やはり思い出さなければならないと思います。
イエス様がこの世界にいたというのは、歴史的な事実です。
この私たちの立っているこの世界と、地続きの地表にイエス・キリストは立たれたのです。
この地上の地面に十字架が立ったのです。
それは誰かの空想や、誰かの信仰心が生み出した虚像ではないのです。
夢ではないのです。
イエス・キリスト、インマヌエルと呼ばれるお方は、事実としてこの世界にお生まれになった。
その事実だということを、私たちが改めて思う時に、
そうであるならば、私たちは2000年を経てなお、この約束もまた事実であるということの驚きを取り戻さなければならないような気がするのです。
それは何かというと、その名はインマヌエルと呼ばれる。
ウィズ・アス・ゴッド。
私たちと共に神がおられる。
ええ、本当ですか。
それは事実なんです。
それは、いかに私たちの現実において現実味がなかろうとも、実感がなくて、ああ本当におるのかなと思うその時であったとしても、いや事実なんですよ。
神は私たちのそのところに必ずおられる。
その驚きを取り戻すべきなのではないでしょうか。
私たちはあまりにも慣れてしまっているのかもしれない。
でも驚くべきことですよね。
そして、それが事実なのだとして受け止め始める時に、私たちの中に徐々に驚きとともに平安であったり喜びというものがあふれてくる、取り返されてくるということがあるのではないでしょうか。
そして思うのです。
救い主イエス様は約束の地へと共に私たちと歩み、今も私たちを導いておられるということもまた事実なんです。
私たちは約束の地に主と共に導かれている。
手探りの中にある。
私たちの目にはそれは混沌に見えますね。
どうなっていくのか分からない。
けれどもインマネルであるお方が、あの約束の地のヨッシャーと共に導いていったように、そのお方が私たちの人生を約束の地へと導いているということは事実である。
そのことを受け止める時に私たちもまた思うことは、ここで起きていることは悪いことではない。
ここで起きていることは悲しいことが起きているのではない。
導かれる道筋
悲しいことが起きている。
目の前にあることを悲しんでもいいんです。
でも事実としては悲しいことがそこで起きているのではない。
陥り切らなくてもいい。
なぜならそこにも神様のご計画のうちに進められている素晴らしいことが必ずあるはずだからです。
あるんですよ。
私はこの神と共に最後まで約束の地へと入っていくんだ。
これが私たちに与えられている約束であり平安じゃないでしょうか。
以前お話をいたしました。
私たちの教団のある先生がですね、大病を患われたんですね。
その先生が久しぶりにオンラインの会議に出られた時に、もう骨と皮だけになっておられました。
でもその先生のお話を聞く時ね、その時瞳が輝いてるんですよ。
こうおっしゃいました。
今は私の人生という種の御業を、種ご自身がどのように完成させてくださるのかを、ただただ楽しみにしています。
今は私の人生という種の御業を、種ご自身がどのように完成させてくださるのかを楽しみにしています。
そう語られたんですね。
私はその言葉に本当に色々教えられました。
ああ、そうだ。私の人生は種の御業である。
私も共に、あのエジプトから脱出して、種と共に約束の地に入っていく。
その約束の地で安住し、完成される時がある。
私の完成はじゃあ一体何なんだろう。
神様は私たちの人生に計画と道筋とゴールを定めておられるんです。
じゃあ、それぞれ違いますけどね。
私たちの、皆さんの私の人生の完成とは一体何なんでしょうね。
でも確かに握りたいのは、種がそれを完成させてくださるために、今も私たちと共に導いてくださっているんですよ。
色々な苦しいことや悔やみが起きますが、でも導いておられるんです。
時に私たちはその道筋に迷います。人間ですから。
そしてその道筋が見極められなくて焦ることもあります。人間ですからね。
でも、今朝私たちは、だからこそこの約束をしっかりと握り直したい。
その名はインマヌエルと呼ばれる。
神はそういう私たちと必ず共におられる。
私たちを導いて、その確かな約束に、この確かな約束に、今朝はご一緒に驚きながら感謝をしたいと思います。
ああそうだ、主を感謝します。
主が私たちの人生を握ってくださっていることを、ご一緒に感動し受け止めたいと思います。
一言お祈りをいたします。
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