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2016-12-04 29:13

2016/12/04:預言と成就(2)神の子、イエス・キリスト

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2016/12/04 聖日礼拝

尹善鎬牧師

イザヤ書 2:7-9

00:00
改めて皆さん、おはようございます。今日も礼拝にお越しいらっしゃいました。
それでは、礼拝のメッセージの前に、お隣の方と挨拶しましょうか。よくいらっしゃいました。
それでは一言、お祈りさせていただきます。
神は私に言われた。あなたは私の子。今日、私があなたを生んだ。アメ。
このように、アドベント、第二聖事式礼拝、神の御降参をお祝いし、
また、その臨在と再臨を待ち望みつつ、信仰の共同体として集まって、
礼拝を守っている、この群れの上に、主よ。
今日のお恵みを、今日の力を、今日の支えを、この時に、ここに集まっている、この群れの上に、主よ。
余すところなく、豊かに主がお与えくださいますように。
道をあふれさせてくださいますように、お願いいたします。
最後まで、二手に打たれます。主をどうぞ、祝福してください。
イエス様の御名によって、お祈りいたします。アーメン。
はい、今年のアドベントにおいては、イエス・キリストの預言と成就のシリーズメッセージをさせていただいております。
今日は、その二回目で、神の子イエス・キリスト、神の子イエス・キリストという題にして、
恵みを共にしたいと思います。
毎年そうでしょうけれども、今年こそ、このアドベントの、この礼拝の時に、
あるいは皆さんが、日ごろお家で祈ったり、あるいは恋愛しているその日に、
このアドベントのシリーズこそ、イエス・キリストにお会いして、
そして、そのイエス・キリストの誕生の誠の意味を悟り、
また、そのイエス・キリストによって、平和を豊かに味わっていきたいと願っております。
先週には、お三年ぶちイエス・キリストという題にして、御言葉の恵みをお受けしました。
03:04
いかがだったでしょうか、皆さん。
一週間の間、イエス・キリスト様に、皆さんの心や行い、あるいは歩みを納めていただいたのでしょうか。
納めていただきましょうとですね、牧師が絶句するようにお話ししましたけれども、いかがだったでしょうか。
願わくは、絶えず、お三年ぶちであるイエス・キリストに、
私たちの心も、歩みも、道も、将来も、すべてを、人生を納めていただくものになっていただきたいなと願っております。
今日は、神ごっこイエス・キリストです。
タイトルだけ見たらですね、もうすべてわかるようなタイトルですけれども、
今日の聖書歌詞は短いですが、私たちが信じているイエス・キリストが誰なのか、どんなお方なのか、
そして、私たちはどういうふうに信じるべきなのかを教えてくださる、とても大事な見言葉であります。
7節だけをもう一度、お一緒にお読みしたいと思います。
私は、宇宙の定めについて語ろう。
今日は、私に言われた。
あなたは、私の子。
今日、私があなたを産んだ。
アメン。
この見言葉は短いですけれども、この1節だけで、イエス・キリストが誰なのか。
それは、神の子である。
あなたは、私の子となっています。
今日、私があなたを産んだとありますが、実際に神様は男性でもありませんし、女性でもありません。
神様はレールであられますから、男女の性別を持っておられるわけではありませんね。
私たちは、人が理解できる人間の言葉で語ってくださったわけなんです。
イエス・キリストは神の子です。
そして、イエス様が神の子であること。
私の子であること。
この見言葉が、実際にイエス様の時代に、イエス様の上に同じが語られて、この見言葉通りに上手されました。
そこを真逆に言って、確認していきたいと思います。
マサイの福音書3章13節を開いてください。
マサイの福音書3章13節。
06:06
13節から続きますけれども、時間の関係で。
最後の16節と17節だけを、私が読みたいと思います。
マサイの福音書3章16と17節です。
読みます。
こうして、イエスはバクテスマを受けて、すぐに自ら上がられた。
すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。
また、天から大告げる声が聞こえた。
これは私の愛する子。私はこれを喜ぶ。とありますね。
これは私の愛する子。私はこれを喜ぶ。と言う。
神様ご自身が、イエス様に対して、私の子ですよ。私はこの子を喜びますよ。
というふうに、神様が直接確証してくださった。表現してくださったわけですね。
皆さん、イエス様は神の子でありながら、同時に神様そのものです。
イエス様は神様です。本質において、力において、権威において、知恵において、栄光において、神様と同一です。
ちょうど、今日ですね、教団紙の補足にも書いてありました。
ですから皆さん、イエス様は非造物でもありませんし、作り主、創造主であられます。
延々から永遠まで神様と共におられるお方です。
だからですね、新約聖書の最後のヨハネの目白には、イエス様をアルファであり、オメガであり、はじめであり、終わりであるとですね、語っておられます。
そして、イエス様は神様でありながら、その独り子であることを、もっとも詳しく語っている聖書がありますので、そこを一緒にいただきたいと思います。
新約聖書のコロサイビクエの手紙1話15セス17セスです。
ここはですね、イエス様が神でありながら、巫女であることを私たちに明かしている言葉です。
新約聖書の390ページコロサイビクエの手紙1話15セスから17セスです。開いていただいて。
私はですね、15、16セス読みますので、17セスは一緒に読みたいと思います。
09:02
390ページです。15セスから17セス。
では15セスから私は読みます。
みこは見えない神のかたちであり、つくられたすべてのものより先に生まれたかたです。
またなら、万物はみこにあってつくられたからです。
天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、または見えないもの、王座も主権も支配も敬意もすべてみこによってつくられたものです。
万物はみこによってつくられ、みこのためにつくられたのです。
17セス一緒に、みこは万物よりも先に存在し、万物はみこにあって生み立っています。
みなさんお分かりになれたでしょうか。
ですから、この15セス、16セス、17セスは、家様が神でありながら、またはみこであることを正しく教えているとても重要な箇所か、このコロサギトリの手紙1表15、16、17セスです。
覚えていてほしいんですけれども。
ですからみなさん、例えばわかりやすく言うならば、神様の権威力が100として、家様の力と権威は90とか、あるいは95とか、あるいは99.5とか、それぐらい神様に近い、かなり似ている方ではありません。
もう全く神様そのものであられます。
同時に、イエス・キリストは神の一人ごとです。我々の人間の頭では、知識では、理解が足りないことです。納得にいけないかもしれません。
ところがみなさん、私たちが認めていかなければならないことがあります。
なぜなら、神様と家様の関係だけではなく、その他に人間の技術が、科学が、あるいは哲学がいくら発達していても、まだ得物ができない問題、神秘的なこと、あるいは病気のこと、あるいは自然現象は、もう数え切れないほどたくさんあるのです。
そんな中で、私たちは生きて喰らっているのです。それを全部理解して納得して生きている人は一人もいないのです。
でもそれは、秘伝に受け入れているわけです。なぜなら、私たちは作られた秘蔵だからです。
12:02
人間の理解力、知識は限界があるのです。だから、その限界のある理解力、知識を持って、神とイエス様、神みたいな幹部が、私たちは理解できないから信じない、それは本当に傲慢に過ぎないことであります。
神様は、ご自身の独り言であるイエス・キリスト、この秘蔵にお使わせになりました。
その神であるイエス・キリストが、この秘蔵にお生まれになったその日をお祝いするのがクリスマスです。
それはどういう意味が私にあるのでしょうか。今年のこのアドベントには、イエス様のご報答、それが一体、私に、自分自身にとってどういう意味があるのか、それを知っていただきたい。
そして、天候を深めていきたいと、そういうふうに願っておるわけであります。
その第一は、よく聞いていてください。
創造中なるイエス・キリストが秘蔵物になられて、聖なる神様が、このイエス様ですね、聖なる神であるイエス様が、罪人の人間の体としてお生まれになったわけなんですね。
創造中なるイエス・キリストが秘蔵物になられた。聖なる神であるイエス・キリストが、罪人も人間の体をもってお生まれになった。
ところがこれはですね、どう考えてもありえないことなんです。起こりえないことです。そうなんですよね。
創造中なるイエス・キリストが秘蔵物になった。聖なる神様が罪人になった。これはありえないことなんです。しかしそれが起きたんです。
一箇所説明していただきましょうか。ピリピリとへの手紙、2章6節から8節。この箇所もイエス様と神様との関係をですね、よく教えている箇所です。
ピリピリとへの手紙、2章6節から8節。新約聖書の384ページです。新約聖書384ページ。6節から8節を読みますのでご覧ください。
キリストは神の見姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして使えるものの姿をとり、人間と同じようになられました。
15:00
人としての性質をもって現れ、自分を癒しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
わかりましたでしょうか。皆さん。創造主が死状物になったこと、聖なる神が罪人になったこと、罪人の人間の体をもっておまわりになったこと、それは何でこんなありえないことが起きたのでしょうか。
何を神様は起こしたのでしょうか。それはただ、私たち、皆さん、お一人お一人を愛して救うために愛されるからなんです。ありえないことを起こしてでも私たちを救いたかった。
それが神様の恵みであって、家様のお誕生の意味であります。皆さんは何でしょうか。大体僕はほとんど大人の方ですけれども。
大人になったり、子供の目線や子供の考え方をそれに合わせるのはなかなか難しいです。その子供のレベルに自分を祝福するのはまあまあできるんですけれども、なかなか難しいです。
我が家にも子供3人いますので、時には理解できるし、時には我慢できる時もありますけれども、時には到底理解できないような時、そういう経験がよくあったりするんです。
このように、例えば45歳で70歳ぐらいの大人が7、8歳あるいは6歳の子供の考えとか理解のレベルとか外まで降りていって、合わせて全く同じくする、それはなかなか難しいことですね。
時にはやりたくない時もありますし、時には面倒くさい時もあったりします。ところが、この大人と子供の間のこの関係、それよりはるかに高い次元のことが、
祝福主なるイエス様が、被造物の人間のレベルに降りてこられて、しかもそれは自ら降りてこられて、被造物になられた。これはありえないことが起きた奇跡中の奇跡ではないでしょうか。
それは救いのための愛なんです。そもそもクライマックスなんです。
何でしょうか。イエス様は、神様は、このようなありえないこと、とんでもないことであっても、それを起こしてでも、なしてでも、私たちを救いたかたんです。
愛したかたんです。闇から光へ導けたかたんですね。それがイエス様のご好感なんです。
18:08
かたんでしょうか。それから、このようなイエス様のご好感は、神なるイエス様が被造物になられた。
これはですね、ちょっと破綻した言葉であるかもしれませんが、この愛はクレイジーラブです。普通のラブではないです。
どれだけ愛しておられたんでしょうか。それはどれだけ愛しておられたんでしょうか。
神なるイエス様が人間になられるほどまで、もう狂ったかのようなクレイジーラブが、イエス様の愛、神の愛なんですよ、実は皆さん。
皆さん、この神様とイエス様のクレイジーラブ、死ぬまで愛していらっしゃった愛、人間となられた愛、その愛を、その本当の意味をこのクリスマスに深く味わっていただきたい。
そして、感謝して、感激していただきたい。そして、なお、私たちもイエス様を、そのイエス様の、神様のこのクレイジーラブをもって、死を愛したい。
そう願っております。
皆さん、わかりましたでしょうか。私たち人間は時々ですね、あまりにも犠牲的で物事を考え、反乱しようとするところがあるかなと思います。
犠牲的に、合理的に、常識的に、あるいは社会観念を重視して、その線を越していこうとしない。
これは絶対に守らなければならないんだというふうな観念を持っているのではないでしょうか。
あるいは、時には私たちの愛は打算的であったり、計算的であったりすることもあるかなと思います。
私たちがイエス様を愛する愛、イエス様のための献身、神様のための愛が献身が、その情熱が理性的で常識的で合理的な水準を越していけない時が多くあるのではないでしょうか。
いつもその常識とか、理性的とか、世の価値観とか、日本の価値観、その枠の中に詰め込もうとする、そういう敬語があるのではないでしょうか。
皆さん、これを考えていただきたいと思います。
皆さん、神なるイエス・キリストは、皆さんお一人お一人を救うために、神と人間の壁を越えました。
21:03
その壁を破られました。
人間の理性を越えて、常識を破って、社会観念を乗り越えて、ありえないことでも、それを起こしてでも、愛してくださったわけです。
そうなんですよね、皆さん。
だからクリスマスがあるんですよ、皆さん。
もし神様が、理性的で合理的で、社会観念が常識的の中に、私も越して行かないよ、
そしたらイエス様の繁盛はないんです。
神が人間になることはありえないことですから。
イエス様の愛が常識的だったら、十字架の死もないんです。
十字架の繁盛に死のものはありませんから。
もしイエス様の愛が理性的で合理的なものだったら、イエス様の復活もないんです。
復活は理性的ではないです。合理的ではないです。
それを遥かに超える奇跡の奇跡だから。
なんでそれを奇跡に起こしたんでしょうか。
それは私を救うため、愛するため、そのために主がそれを起こしています。
だから本当に神の愛とこのクリスマスのイエス様の愛はクレイジーラブなんです。
そのクリスマスはイエス様のお誕生はクレイジーラブの現れなんです、実は。
ありえないことが私のために起きたんですよ、皆さん。
あまりにも私たちは普通に毎年、毎年クリスマスと迎えて迎えて、
キッチンを食べたりケーキを食べたりお祝いしたり、神戸のビーフを食べたりお祝いしている。
これいいことですよ。
ところがそれほどイエス・キリストの愛が、神の愛がどんなに素晴らしい愛だったのか、
ありえないことを起こしてでも救いたかったその愛をどれだけ私たちはもう身につけるほど
鳥肌が立つほどホッとするほど快楽しているんですよ。
さっきの、読んでいただきましたピリビートの手紙、2章の5節の、6節の前の5節に大事な箇所があります。
もう一度ですね、開いていただけますか?
ピリビートの手紙、2章の、さっきは6節、7節、8節を読み始めましたけれども、
その前の5節が私たちに必要なメッセージをしています。
私が読みたいと思います。
あなた方の間では、そのような心構えでいなさい。
普通の言葉で訳すならば、イエス、このような心を持ちなさい。
24:02
その心構え、心は誰の心なんでしょうか?
それはイエス・キリストのうちにも現れる、見られる心です。
その心はどんな心ですか?
6節、7節、8節の言葉であって、神なるイエス・キリストが神のあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を無にした心、使えるものの姿を取った心、
人間と同じようになられた心、人としての真実を持って現れた心、
自分を癒やしくした心、死にまで従った心、
いつに十字架の死にまでも従われた心を、あなた方も持ちなさい、ということです。
私たちはどんな心を持つべきでしょうか?
神と人間の障壁を破って乗り越えられたその愛、その心を持つべきではないでしょうか?
常識を超えて、合理的なことを超えて、世の価値観を乗り越えた、それを打ち破られて、
愛して、死んでくださって、よみがえられたその心を、私たちも同じく持つべきなんです。
ですから皆さん、私のクリスマスには、このアルベントの期間中には、その心を渡していただきましょう。
主よ、イエス様、あなたのその神と人間の壁を乗り越えられた心を、私にも与えて下さい。
死のまで愛してくださったその心を、私にも与えて下さい。
そして私も、死のためなら、神の御国のためなら、常識を、理性を、合理的なことを、
この世の価値観を乗り越えることができるほどの心を、私にも与えて下さいと祈るべきではないでしょうか?
私はこう思います。
この世界が、イエス君との福音について変えられるのは、私たちがイエス様の心、
イエス様のこの神様のクレイジーラブ、死のまで愛してくださったその愛、死ぬためにおまねによったその愛、
ありえないことを起こしてでも救いたかったその愛の心を、
私たちが持って、家庭に、この世に、世界に出ていけば、この世界は変えられると、必ず変えられると信じます。
ところが、なぜ変えられるのでしょうか?
27:02
実は、私の愛は、イエス様の愛のようにクレイジーではありません。
時には、計算的で、理性的で、合理的で、常識的なスイングに、いつも留まっているからでしょう。
それ以上を乗り越えていこうとしないから、それを恐れているからではないでしょうか。
なおかつは、私たちも、このクレイジーラブの神のイエス様の愛を見習いたい。
そして、時には、常識を超えて、イエス様を愛してみてください。
時には、理性を超えて、イエス様を愛してみてください。
時には、世界的な観念を乗り越えて、イエス様のために捧げてみてください。
そしたら、必ず驚くべき奇跡が、皆様の人生に起こると信じます。
常識を超えないと、常識的レベル以上のものは、起こらないのです。
メッセージをお願い致します。
イエス様は、神であり、神の一人です。
何より大事なのは、神なるその方が、私を愛して、私を救うために、
非生物のかたし、しもべのかたしと並べて、この地におおわれになった日がクリスマスであって、
この日は、ありえないことを、それを起こしてでも、
私を愛したかった、愛してくださった、イエス様のクレイジーラブの日が、実はクリスマスの日でありました。
そして私は、さっきのペリピペトラ手紙2章、5節の御言葉のように、そのような心を持つべきであります。
それがクリスマスです。それが私たちの生き方であります。
私のクリスマスは、このイエス様のクレイジーラブのこの愛を、心を新しいものを持って、
愛するものへと変わらせていただきます。お祈り致します。
29:13

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