1. 読書のまにまに
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2025-01-27 35:40

#14-2 ゲスト・まなび舎ボート代表・合同会社ネクスファ共同代表 / 辻 義和さん【読書のまにまに】

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神奈川の逗子と千葉の柏でこどもたち向けの学び舎を運営する辻 義和さんをゲストに迎えて、トークセッション。こどもたちと接し続けてきている中で形づくられてきた辻さんの想いや気持ち、その変化について、その時々に在った本たちを交えながら話していきます。

 

【今回のゲスト】
まなび舎ボート代表。合同会社ネクスファ共同代表 / 辻 義和さん
こどもたちが心地よく元気に過ごすことのできる放課後の居場所・学び舎を2拠点でつくり続けている。独自の探究学習や遊びのプログラムも開発、実施している

▼まなび舎ボート(神奈川県逗子市)
https://www.manabiyabootto.com/

▼ネクスファ(千葉県柏市・流山市)
https://www.next-ph.jp/

サマリー

今回のエピソードでは、辻義和さんがフィンランドでの旅を通じて、自らの故郷との繋がりや心の余白の重要性を考察しています。読書が心の余白を取り戻す助けになることや、デジタル情報に囲まれた現代における余白の創出についても話が進められています。辻義和さんは、教育における「余白」の重要性を強調し、子供たちの持つ潜在能力を引き出す教育の在り方について語っています。また、彼の経験から、探求学習やプロジェクトベースのラーニングが教育現場において重要な役割を果たすことが明らかになっています。辻義和さんは、子どもたちとの関わりの中で、美しさや瞬間を大切にすることの重要性についても語っています。彼は本を読むことが多様な対話のきっかけとなると感じており、この時間を通じて得た思いを共有しています。

フィンランドの旅と故郷の思い
今の聞きながら、僕も最近旅をするようなときのことを思い出したんですけど、
3ヶ月くらい前にフィンランドに2週間くらい旅をしていて、
それは今の会社に入社してちょうど10年、9月で、
だったので、スタートアップやってきて、
10年を振り返って、これから10年でどう生きるんだろう、みたいなことを感じようと思って2週間くらい、
PCも全部置いていったんですけど、
スマホもスラックとかそういう系は全部アプリ潰して、
一切通知入らないようにしていったんですけど、
向こう行って首都がヘルシンキ、空港に降り立つわけですけど、
そこらへんはもちろん都会なんですが、やっぱり北の方に行くと、フィンランドってスカンジナビア半島にありますけれども、
まだその時期は雪の季節じゃないけど、
針葉樹の森がすごいたくさん広がっている場所で、
そこに行って、雪があるときの写真とかも美術館だったりとか、お店とかで見たりしている中で、
なんだかちょっと自分の故郷の秋田の風景を思い出したりしたときに、
その時に旅をする木を読みたいと思って、
それで、ただ別に持って行ってなかったので、
Amazonで探したら、保生道夫さんの本の中で唯一旅をする木だけKindleになってて、
文明素晴らしいとか思いながら、その場でKindleで買って読んでました。
それも現地でダウンロードしてみたんだ。
なんか、何て言うんですか。
別に何かすごい繋がりあるわけじゃないけど、
フィンランドの感じと僕の中になんとなく故郷の秋田が繋がった感じがして、
かつそこに、僕もまだ行ったことがないけど、
アラスカの雪の第一の感じが、よくわかんないけど繋がるものがなんとなくあるような気がして、
そこに至った気がしたんですけど。
それを今思い返しながら、やっぱり僕もアラスカ行ってみたいなと思ったりしました。
余白の重要性
うーん。
いいなぁ。
なんか、
ふるさとがあるって、いいっていう、なんだろうな、
価値観があったとして、
僕は実家が関西なのでふるさとがあって、
でも他にいくつか、
友達が住んでる場所に訪ねていくみたいなふるさとがいくつかあるんですけど、
それってすごく僕の中で、僕の価値観の中ではすごく良かったなとかいいことだなと思っていて、
ヒグマとかクジラじゃないけど、
地方だったりとか地元とかに暮らしてる友達があって、
例えば農業やってる人だったら自然の中で暮らしていてみたいなのが、
なんかふっと思い出されると、
なんか少し我に変える感じっていうか、何をそんな悪せくやってんだろうみたいな。
はいはいはい。
そうそうそうそうそうそう。
やっぱりそこのなんか、
余白?
そう、心の余白を本を読むことで取り戻したいのかな?
なるほどな、余白。
なんかそれがスイッチみたいに、読むと取り戻せるっていうのがちょっと分かってて、
初めて出会う本だったらそれはどっちかっていうとどんな本なんだろうっていう読書体験なんだけど、
読み返す本ってもう話が分かってるから、
なんかそう、スイッチみたいなイメージで、
この本を読むとちょっと余白が取り戻せるようみたいな。
そういうのもいるんじゃないかな。
今の聞きながらその余白を取り戻すってすごく分かるなと思ってて、
きっと僕の中にもそういうものってありそうだなって今感じていたんですけど、
今その余白を取り戻すっていう表現についてなんかもうちょっと聞いてみたいなと思っていて、
取り戻すということは土屋さんの中にもともと余白はあったみたいなニュアンスがあるなみたいなことを思いながら聞いていたんですよ。
余白みたいなものがきっと何かによってなんかちょっとなくなっちゃうみたいな。
それは日々の忙しさだったりとか、いろんなことによってそれが起きてるんだと思うんですけど、
取り戻すというふうに思うと、もともと土屋さんの中に、
人の中にある余白っていうのは一体何なんだろうかみたいなことを今聞きながら思ったんですよね。
土屋さんもしかしたら生まれつき持っている余白なのかもしれないし、
小さい頃使われた余白なのかもしれないけど、
余白って何かどんなもののイメージがあるのかもうちょっと聞いてみたいなとか思ったんですよ。
何だろう。
そうだな。
なんかまあ、
それは僕に限らずだとは思うんだけど、
忙しい忙しいって、本当よくある話で心をなくすで忙しいなのでって話で、
忙しくなっちゃうと余裕が生まれなかったり、思いやりも含めて人への、
自分への思いやりもそうだし、失われちゃうんだなって思って、
でもさっき北部がフィンランドへ行くときに、
そういうデジタル系をシャットアウトしていったっていう、
そういうことをしないと情報が次々に入ってきてしまう感じ?
通知がポンポンポンポン来て、
そこに意識向けられて時間が奪われていくっていう、
マジでモモの世界が実現したような感じで。
思ってる感じなんだけど、
そこに意識を向けないと本当に忙しい忙しいっていうだけで日々が過ぎていっちゃうな、
人生が過ぎていっちゃうなって思ってて、
でも多分その気持ちに気づけたりとか、
余白は本当に大事だよなって思えるのって、
子どもと関わってるからかもしれないと思っていて、
子どもたちって何もないところから遊びを作り出したりとか、
ただただ本当にぼーっとするっていうか、
無意な時間を過ごすっていうのかな。
そういうのがすごく得意だなと思ってみてて、
無意な時間。
そこから生み出されるものがたくさんあるなって子どもたちの姿を見てて、
これって大人も絶対同じだよなって思って、
だから意識的に余白を作り出したいのかもっていう感じかな。
デジタル情報との向き合い
今聞いてて、子どもたちと常にこの10年、15年以上ずっと向き合い続けておられる、
辻さんだからこそ感じる子どもとしての余白みたいなものとかの絵の意識って、
結構辻さんすごい持たれてるというか、
しざ的に持っておられるんだなーみたいなことを今聞きながら思っていて、
いやーそれ確かになーって今すごい思いました。
本当にその余白っていう言葉に意識をずっと向けているんだけど、
もうこんだけ何だろうな、
いろんな情報が氾濫っていうかいっぱい溢れてる時代で、
いろんな人が、やっぱりその余白だったりとか、
自分だけの時間って大事だよねって言ってるのに、
その流れはもう変えようがないっていうところがあって、
小さな傾向のようなものを日々の中でやってるのかなって、
その子どもの居場所をやっていくっていうのは、
その流れにちょっと抗う行為かなとも思ってて、
何だっけ、古文広一郎さんの本。
暇と退屈?
暇と退屈の倫理学もそうだけど、
それじゃない。
目的への抵抗家っていう本がありまして、
まさにタイトルを見て、もうこれなんだなって思って、
自分がやってることって。
はいはい。
それめっちゃ面白い。
そうなんだ。
そう。
でも自分自身は結構目的に支配されがちな人間だから、
はいはい、そうなんだ。
そうそうそうそう。
つい、ほんとスケジュール調とか埋めるの好きだから。
そういう細かいの好きそうなイメージある。
そこの自己矛盾も感じながら、
余白って大事なんだよねって言ってるのが、
ちょっと自分でも面白いなと思いながら。
いやー、なるほどな。
例えば自分だったら、
カフェに行ったりとか、
それこそ本屋に行ったりとか、
そういう一人だけの時間っていうのを入れるようにしてて生活の中に。
はいはいはい。
そうすると自動的に、
余白の時間を持てるっていうか。
はいはい。
家の中にいてとか生活してる中で、
そこの意識に持っていくのはちょっと難しくって。
だから場所を変えたりとか、
そういう本を読んだりして、
余白を作っていくっていう感じなのかな。
じゃああれですか、今後スタバとかでついさんが、
本読んでるの見たら目的に抵抗してるんだなって。
でもでも、これはまたちょっと面白い話で、
スタバだと僕は余白の時間は持てないんですよ。
あれは違うんだ。
スタバは距離が近いし、
確かにね。
で、なんだろう、
仕事してる人も多いから、
なんか僕も仕事しなきゃみたいな感じになっちゃうっていう。
確かに仕事してる辻さんにスタバで会うことが時々あります。
自分の中でもスタバはオフィスだと思ってるから。
そうかそうかそうか。
だけどほら、
パソコンとか使わないでくださいっていうカフェとかもあったり。
ありますよね。
そう、喫茶店とか。
だから結構ルノワールとかいい。
そうなんだ。
ルノワールとか仕事モードになれないっていうか。
そうなんだ。
自分の中ではね。
別に人によってはそこで仕事してる人もいるし、
人間あるルノワールも多いから。
でもなんか、
結構人が喋ってたりとか、
なんか本読んでる人が多かったりとかっていう感じもあるから。
ああ、そっか。
なんか今聞きながら、
さっきの目的への抵抗、
ちょっと久々に、
説明文を軽く見せたんですけど、
すごくいいなと思ってて。
自由は目的に抵抗する。
それにこそ人間の自由がある。
にも変わらず我々は目的に縛られ、
大切なものを見失いつつあるのではないか。
って書いてるんですけど。
まさになんかルノワールで、
隋さんは人間の自由を体現しているんだなって、
今聞きながら思ってました。
ああ、そっか。
多いな。
ちなみに、
なんだろう、この余白という話、
今してきましたけれども、
そういう話とかっていうのは、
結構、今のネクスファだったり、
始めた頃、子供たちと関わるということを、
教育における余白
し始めた時も比較的そういうふうなことを、
感じていたりしたんですか。
感じてなかったです。
違うんですか、そうなんだ。
もともと始めた時の自分の気持ちとしては、
学校では体験できない、
本質的な学びだったりとか、
その当時出始めていた探求学習とかを、
どんどんやっていこうとか、
学校では体験できないプロの人を呼んで、
プログラムをしてみたりとか、
たくさんいろんな体験機会を作ろうって思ってて、
本当に一番最初の2012年に始めた時って、
放課後週5日、何かしらのプログラムが毎日あって、
いろんな先生を呼んできて体験をする、
いけばらやってみたりとか、
対話の時間を設けたりとか、
プロジェクトっぽいことをやってみたりとか、
いろんなことをやってみました。
そうすると子供たちが結構しんどそうな顔をしていて、
お腹いっぱいだよみたいな、
それより公園で遊びたいみたいなね、
そういうのを得て、
やっぱバランスって大事だなって思って、
そういう体験する機会とか、
本物に出会う機会っていうのは全然あっていいと思っていて、
それが子供たちに何かしらの刺激になったりとか、
普段生活してるだけでは見えない世界に触れられるかもしれないので、
それは大事なんだけど、
でもベースは放課後自由に過ごす余白があることだよなって、
だんだんやっぱり思ってきた。
そうなんだ。
それは肌感覚かな、子供たちと直接接して。
最初始めた時って本当にいろんな、
こんなことしてやろうとか、こんなことを子供たちに伝えたいとか、
そういう思いをたくさん持って始めたんだけど、
実際目の前の子供たちと接してると、
よく言う、教育、エデュケーションが引き出すっていう言葉なんだよっていう。
エデュケートは引き出すっていう意味なので、
教え込むとか伝えるよりは、
子供の持っているものを引き出すってことが大事だよねって。
引き出すためには子供が自分で考えて動く余白作んなきゃっていう。
そんなふうに変わってきたかなって感じですね。
そっからも、そっからやっぱり余白っていう言葉が自分の中ですごくキーワードになった。
探求学習の実践
そうなんだ。
そうすると、やっぱりそういう本とかそういうことを言ってる人の言葉が巻きついてくるイメージ。
そうそうそう。
目に飛び込んでくるっていうか。
そうなんだ。
ちなみにその余白という単語がすごい、自分の中で定着したとか感じられたのっていつぐらいのタイミングなんですか?
ちょっといろいろそのタイミングがあって、
ナビアボートを立ち上げるときに、個人事業務仕様になったんですね。
はいはいはい。
柏の方では法人でやってて、ナビアボートの方は個人事業務仕でまずやってみようということで。
そうなんだ。
それで個人事業務仕の野号っていうのを決めないといけないと。
それが2016年とかに申請して野号を取ったんです。
その野号がひらがなで余白。
そうなんだ。
僕個人事業務仕の野号は余白で。
そうなんだ。
その時点で細かい時期まではよく覚えてはないけど、明確に意識しだした時期ってわからないけど、
少なくとも2016年には野号にしようっていうぐらい、多分自分の中で大事な言葉になっていた。
2012年に柏で始めたので、その4年の間に多分自分の中でのシフトがあったのかなって。
いやー、それ大きいそうですね。その変化すごいな。
確かに。
ちなみに、もっとしてやろうっていうふうに思っていた当初の辻さんは、その頃読んでた本の記憶とかあります?
えー、その時読んでた本か。本読んでたのかな?
あー、なるほどね、なるほどね。はいはいはい。その時期は読んでなかったかもしれない。
あー、でもなんかそのこう、プロジェクト学習の本とか、探究学習の本とか、そういうなんか教育のハウ・ドゥ・ボンみたいなのを、
はいはいはいはいはい。
読んでたかも。
そうだそうだ。
全然違う、僕はシステムエンジニアとかコンサルとかをしてたので、仕事で。
いや、そうでしたよね、そういえば。
そっから教育畑に移る時に、やはり専門で学んできてないしなって思って、たくさんその教育に関する本を読んだんですよ。
そうそうそう、思い出した。
で、その時になんか、うん。
もう自分の本棚にはその本は、今見たけど一冊も残ってなくて。
そうだ。
子供たちとの関わり
で、記憶を紐解くと、なんか教育のなんか破壊的イノベーションみたいな本があって、要はその今の教育ぶっ壊せみたいな。
なんかそういう海外の本を読んで、そうか、今からの時代はプロジェクトベースのラーニングなんだとか、なんかアクティブラーニングの時代が来るぞ、探究学習だみたいなとか、なんかそういう本をたくさん読んで実践しようみたいな。
あー、なんか確かに今の辻さんとムーブが全然違いますよね。
うーん、そうね、そういうのをたくさん読んでた。
はいはいはい。
なるほどね。
その、なんかよく考えてなんか気になったんですけど、そういうふうに子どもたちのっていうふうな場所を作るっていうのを、もともとのSEだったりコンサルみたいなところから移ってきたのってどんな流れなんでしょうか。
えーと、僕は大学でドボクのことを学んでたんですけど、大学1年の最初前期ぐらいで違うなって思って、早すぎる。
なんかあんまり考えてなかったら進路選択のことを。
で、大学のその学びにあまり興味を持てない一方で、バイトを始めて、それが塾の講師だったんですけど、もうそこに本当にドハマリをしてしまって。
個別指導の塾だったので、本当に小学校の低学年から高校3年生までがいるようなところに、で、自分は理系でセンター試験とかも受けてたので、重宝されて。
はいはいはい。
なんでも教えれるぞ、こいつみたいな話。
なるほどね。
で、週に本当6日、月曜から土曜までそのバイトをしてて。
本当に?はい。
で、なんかその子どもと関わるのって楽しいなとか、そのバイトの中で中心でやっていく経験もできたので、なんかそういう子どもと関わる仕事をやりたいなって、もうその時にも思ってて。
はいはいはい。
で、児童館のボランティアとかもやったりとか、だからそういうことをしてたんだけど、いざ就職になった時に、なんかこう、まあいろんな人に反対されて。
うんうんうん。
まあよくある。親からすると、いやいや、あんた建築とか土木とかのために入ったんでしょうみたいな。
まあ確かに。
そうそうそうそう。で、ね、就職は起業にしなさいみたいな感じで。
うんうん。
あんまりそこにこうすごく抵抗もすることもなく就職をしてしまったけど、やっぱりなんか違ったなっていう感覚があって。
だから子どもに関わる仕事はずっとしたいなって思っていた。
まあそれがその2012年に実現できたってところかな。
そうか。今その流れ聞いてみたときに、さっきほら、最初の頃は余白ということを意識してなかったって話されてましたけど、
とはいえ続けられている中で、その部分が確かに変わっているかもしれないけど、その当初から変わっていない富士山としての願いとでもいうのか、
大切にしていることみたいなものも根底にずっと流れているものはあるんだろうなって思いながら今聞いていたんですけど、それってどんなものだったんですか。
えーと、そうだな。
自分の中では、最初30歳でこの仕事を始めたときに、40だったら現役じゃなくなるんじゃないかと思っていた。
もうちょっと言うと、管理者とかマネージャーみたいになっていくつも教室を持って、それを統括するようなポジションになるんだろうなって思ってて、
それは40とか過ぎると子供との年齢差が大きくなるから、現場でやったときに子供にとってもあまり良くないんじゃないかなとか、そういうこともちょっと思ってて、
じゃあ最初の10年間は現場でがっつりやって、その先はマネジメントの方に入るんだって思って始めた。
だけど、10年経って全然現場続けてるし、この先も多分マネジメントみたいな方になることはない。
それって根底に流れてるものは何かっていうと、子供という存在を面白いなって思ってる自分が多分ずっと続いてる。
なんかシンプルに子供が好きでみたいな、そういう話じゃなくて、よく話をするんだけど、こういう仕事をしてると子供好きなんですねって言われるけど、
決して僕は子供がすごく好きかっていうと、いや自分の時間の方が好きだなって思う方で、
1対1で例えば将棋するとか遊ぶのがあんまり好きじゃない。
子供がわらわらしてて何が起きるかわかんないっていうちょっとカオスみたいな空間の中にいるのが好きなんですよね、自分は。
それって何かっていうと多分子供がいろんな言葉もそうだし行動もそうだし、予測不可能だったりとか、
予期せずに成長の瞬間を見せてくれたりとか、子供っていう存在は本当に面白いなって、面白がってる12年って感じなのかな。
だから飽きない、子供と関わることに飽きてないっていうのが、自分の中でもこんな続くんだっていう感覚で。
なんかいいな、いいこと聞いたな。
あとはずじに引っ越してきて、40代でも50代でも元気な人たちめっちゃ多くて。
確かにここら辺そうですよね。
いや本当に走ってる人もそうだけど、肉体的に体力的に元気な人も多いけど、それよりも気持ちが若い人が多いっていうか。
まあでも確かにそれちょっと感じるな。
便宜感のある人が多いっていうのかな。
はいはいはい。
なんかそれはすごく、なんだろうな、嬉しい誤算っていうか、自分も40過ぎて。
誤算なんだ。
うん、誤算誤算。全然なんかね、よく言われる不悪みたいな、40に不悪みたいな。
でもなんか子供と全然今も鬼ごっことかもするし、なんかそれは体力的なものもあるけど気持ちが全然いけるなっていう感じはあるから。
美しさの重要性
それはなんかね、人生を歩んできて、30歳の時に想定した通りには全然ならないんだなって、いい意味でも悪い意味でも感じています。
うん。
なんか今の聞いてたら、ちょっとふとシェアしたくなった、エッセイというか詩があって、ちょっとシェアしてもいいですか。
もちろん。
あの、長田博史さんっていう方、もうずいぶん前になった。
深呼吸が必要ね。
あ、そうそうそうそう。僕すごく長田さん好きで、この方の世界は美しいとっていうやつがあって。
それちょっとなんか、今の辻さんの話をしたらやたらふと思い出したので、ちょっと若干短いから読み上げてみたいなと思ったんですけど、いいですか。
お願いします。
ありがとうございます。
世界は美しいと、美しいものの話をしよう。いつからだろう、ふと気がつくと美しいという言葉をためらわず口にすることを誰もしなくなった。
そして私たちの会話は貧しくなった。美しいものを美しいと言おう。風の匂いは美しいと。渓谷の石を伝わっていく流れは美しいと。
午後の草に落ちている雲の影は美しいと。遠くの低い山並みの静けさは美しいと。煌めく川辺の光は美しいと。
大きな木のある街の通りは美しいと。行き会の何気ない挨拶は美しいと。
花々があっておこゆきのある路地は美しいと。雨の日の家々の山の屋根の色は美しいと。
太い枝を空いっぱいに広げる満州の古寺の大井町は美しいと。冬が来る前の曇り日の南天の小さな赤い実は美しいと。
小紫の実の紫は美しいと。老けていく季節は美しいと。さらりと老いていく人の姿は美しいと。
一体ニュースと呼ばれる日々の破片が私たちの歴史というようなものだろうか。鮮やかな毎日こそ私たちの価値だ。
美しいものを美しいと言おう。幼い猫と遊ぶ一刻は美しいと。
後ろの枝を燃やして灰にして蒔く。何一つ永遠なんてなく、いつか全て塵に帰るのだから。世界は美しいと。
っていう内容でございます。いいですね。
なんかさっきの、ほら、辻さんが話してくれた子供たちとの関わりみたいな話の
なんかそこに結構僕的にここで言っているなんでしょう、美しいとっていうか美しさみたいな
ものをなんか僕はすごい感じたような気がしたのと同時に辻さんもそういうものをなんか感じてたり、美しいという言葉かどうかを置いておいても
そこの煌めきみたいなものもなんかすごいあるんだろうなぁみたいなことを今ちょっと感じて、すごい今この詩を思い出しておりました。
本を通じた対話
なるほどね。なんかそう
子供と関わると、この子が大人になった時にこうなってほしいとか、もちろんそういう気持ちもあるんだけど
今この瞬間っていうのを大事にしたくなるっていうか
今の詩の中にもあったと思うんだけど、今目の前の子供が感じていることだったりとか
やってることが僕の表現では面白い、なんか人間で面白いなっていうその瞬間がすごく大事だなって思ってて
子供たちにもなんかそのなんだろうな、それこそ目的のために習い事だったりとか
学校の勉強とか、宿題やんなさいって将来困っちゃうよとかじゃなくて
今その瞬間を楽しく自分らしくやってほしいなっていうのが根底にある。
いい詩ですね。
本当に深呼吸の必要は時々生み返す方法の一つなので
前のポッドキャストを聞いて、そうなの、そうなのって思いながら
どっかで話しました。
そう。
そうなんだ。
最初。
そうだったね。
いやーありがとうございます。
もうなんだかんだ時間だーみたいなこと思いました。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
今日最後、すいさん、話してみていかがでしたか。
いやーなんか本の話よりも違う話が多かった気もするんだけど。
大丈夫かしら。
全然もちろんでございます。
でもなんかその本を読むっていうことが
こうやって言葉をやりとりするきっかけになるなっていうのをすごく感じた時間でした。
本のことだけを話すじゃなくて
本をきっかけにいろんな方向に話が行って
その感じを楽しむっていう
そうそうそうそう。
それってすごくいいなって思って
ついつい日々の生活の中では対象のことだけをしゃべる時間が多分多くなってしまうので
こういう時間を持つこともやっぱり良くなったのし
すごくいい時間でした。
ありがとうございます。
こちらこそです。
この時間がすいさんにとってもしかしたら余白になったら嬉しいなみたいなことも思ったりもしました。
じゃあ改めてですね、お時間いただきましてありがとうございます。
今日もですね、この場で一緒に聞いてくださった皆さんもありがとうございます。
ここで終わっていこうかなと思っています。
読書のまにまに今回が第13回でしたね。
読書のまにまに第13回のゲストが
子どもの遊び場運営をしている辻さんでございました。
辻さんありがとうございました。
ありがとうございました。
35:40

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