新しい体験をすることで、人が成長したり変わっていくということをサポートされていたりするっていう点が一つ共通点であるのと、
もう一つは、コーチングをほぼ同時期に学んでいたっていう、
自分たちの学びの仲間みたいな関係性と、
三つ目は、子さんがうちと同じぐらいの年ということで、母としても仲間ということで、
異国の街に生活する中で、同志のようにやっている方なので、
今回の大人の学びについて話し合う仲間として、ぜひお呼びしたいなと思ったというのが背景になります。
ありがとうございます。
改めまして、じゃあ自己紹介させていただきます。
柿内由井と申します。
簡単にプロフィールをお話しすると、これまで携わってきたお仕事の中でいくと、
キーワードは人材開発、組織開発とか、リーダーシップ育成だったりとか、
そういうようなキーワードに触れてくることが多かったです。
そして、経験は日本での民間企業での仕事と、NPOの中でのお仕事、
二つの領域に関わったことがあります。
さっき友子さんにも言っていただいたんですけど、
越境体験なんかをしていくプログラムに関わっていたことがありまして、
それは企業に勤めながら、お仕事を持ちながら、また自分の所属しているところではない場所、
国も変えるし、会社も変えるし、そして役割も変えるし、
民間ではなくNPOだったり、社会的企業と言われるところだったりっていう、
いろんなピボットをした状態で学びをしていく。
その体験をしながら、自分について知るとか、社会について考えるとか、
そういうようなプロセスをご一緒するようなプログラムに立ち去ったことがありまして、
その中では大人の人がスキルを得ていくこともするし、
マインドセットをしていくっていう、そういう過程も設計もするんですけど、
それと同時に伴奏する役割という形で関わったりをしていました。
で、コーチングの時刻はそのお仕事をしながら、ちょっと勉強をして取得をしていたという形で、
今ではプライベートのコーチングを中心に活動させてもらっていて、
いろんなそれにまつわるとこから派生したビジネスを作ったりということをやっています。
で、いつもお二人のお話を聞いて、うんうんうんうんって思いながら、
こんな話あるなーとか、私もこういうエピソードあるなーとかって思いながら、
自分の中で噛み締めつつ、子供のお送り迎えを来るまでスライディングで聞かせてもらっているっていう、
私は一ファンです。
ありがとうございます。
あと、りゅうさんもポッドキャストやってるんですよね。
そうなんです。
面白NPOライフっていう名前でやっています。
NPOで働くコーチが語る面白ライフというような形で、
現場で働いている時のこんなことあるよねーっていう苦悩だったり、楽しいんだよねーでもさ、
みたいな話なんかを仲間2人と3人でワイワイ話しています。
ありがとうございます。
では、そんなゆいさんを今日はお迎えして、話したいから話すことは失敗についてです。
今回2人で何を話そうか、ゆいさんをお迎えして何がいいかなって思った時に、
ゆいさんにもちょっと相談してみようと思って、むしろ提案したいですかって私がゆいさんにお伺いしたんですよね。
そしたら失敗ってどうですかって素敵な提案があって、
えみさんと協力しましょうみたいな感じで今回テーマを決めさせていただいたっていう背景があります。
ゆいさんの持ち込みに私たちが乗っかってるっていう形なんですけど。
そうですね。
じゃあちょっと失敗が出てきたところを少し話してみましょうか私。
ぜひぜひ。
ともこさんにメッセージいただいて、ちょっと関連しそうな前のお2人のエピソードをいくつか聞いてたんです。
で、そこからなんか本当にさっき言ったように、こういうエピソードあったよなーみたいなのをメモしてたんですね。
これはこれって話せるなーみたいな。
なんかですね、フラトだったりとか自己効力感とかね、そんなのがあったと思うんですけど、
なんかふと、お2人って失敗って思ったりするのかなって思ったんです。
すごくやっぱり学びについて考えている時って、いろいろ思い返すんですけど、
全部やっぱり自分にとって消化したものになっていて、
そこからはこういうグッドなポイントあったなーとか、
これはやっぱりうまくいかなかったけど、次はこうしたなーみたいなプロセスを思い出すんですよね。
それを思い返している間には、失敗とは全然出てこなかったんだけど、
でもやっぱり苦い思い出もあるんですよね。
で、考えてみると、ちょっと大人になってからの体験の方が苦いと思ったものが多かったような気がしたんです。
振り返ってみる中で。
なんかうまくできてない感覚とか、そんなのをより20代後半30代というか、
年を重ねていくうちに、それを経験していることが多いなーって思ったんですね。
で、お2人にとっては失敗という言葉がすごく遠い存在のように聞こえてきたから、
いやー、どうなんだろうって思って持ち込みました。
なるほどー。
そういう雰囲気がたまるエピソードになっちゃっているのだろうね。
私失敗しないのでっていうね。
そういうことありますね。
お2人もご存知のように、私今、転職活動とかしていて、
大学院の入試の時とかもそうだったんですけど、
エッセイであなたのビゲストフェイリア、一番大きな失敗は何ですかっていう問いとかってたまにあって、
確かに相対的に苦手なんですよ、私その質問が。
失敗ってなんだろうみたいな、どの失敗をどう言おうかなみたいなことを考えて、
で、彼らはそこから何を学びましたかみたいなところにどうせつながるんだろうなと思いつつ、
どのエピソードが自分にとっては失敗だったんだろうっていうところで一瞬やっぱ立ち止まるんですよね。
いっぱいエピソードって鉄板ネタみたいの持ってると強いですよね。
鉄板ネタ。
私もそういうのがなくて、これですっていうのがないので、
もし私もエッセイのテーマでもらったら、
あれかな、でもあれは間違いだよなとか、あれかな、でもあれは挫折かなとか、
失敗に類似する違うことは割と思いつくんですけど、
ゆいさんに言われて、確かに失敗っていうラベルをあんまり張らないのかなっていう気はちょっとしてきましたね。
今のえみさんの聞いていて思ったのが、
失敗っていう言葉の中に、すごいいろいろ全部まとめて失敗っていうふうに思ってる節もあるかもしれない。
今言ってくださった挫折も失敗って置いてるかもしれないし、
間違ったも失敗って置いてることもあるかもしれないなっていうのはなんか、
ふと思いました。あんまりそこの網の目を細かく見てなかった気もしました。
たとえば日常で私は運転してて、よくウインカーを出そうと思ってワイパーを動かしちゃうみたいなことあるんですけど、
これは失敗だろうか、ただの間違い。
間違いと日本語で言う中にもミステイクとエラーっていう区別があったりしますけど、
そんなぐらいの軽いものから、
たとえば今トンコさん転職っていう話やりましたけど、
私も就職活動とかの中で面接に落ちたとか、
なんかやろうと思ってたことができなかったとか、
これは失敗なのだろうか、ユイさんの言葉を借りれば、
苦い経験としてプラスなんだろうかとか、
なんかそういうのがあんまりうまく私区別ができてないんだろうなっていうふうに今回テーマをいただいてから考えたことですね。
ユイさんすごいですよ、私そんな語彙力なくて、そんなにたくさんコラボの類人談語が出てこなかった。
語彙力なのこれ、語彙力。
すごいなと思って、私も最近うっかりはしたことがあるんだけど、
うっかりって今エミさんが言った、エラーか、みたいなのが頭の中でくるくる考えていて、
けど失敗だったのかもとか、難しいですね。
難しい、確かに。
私、ずっと誤食の人って言われていて、スモールエラー、すごいいろいろ間違えるんです。
タイポ。
タイポとか、言葉とかも、それ合ってる?みたいなやつとか結構あって、
学生の時から細かいものを管理するのが苦手だったんです、すごい。
それで仕事を始めてから、新入社員としてはとてもクリティカルなので、
とてもよく怒られていて、もうダメダメだったんです。
それは、当時の私にとっては失敗というよりかは、私の苦手なやつっていう感じで、
苦手分野で怒っちゃってるやつ、みたいな感じに捉えてたんですよね。
で、またちょっと違う観点なんですけど、
でもその当時に先輩から言われた言葉が、
柿内は大きな失敗をしたことがないでしょ、人生の中でって言われた言葉だったんですね。
で、大きな失敗を人生の中でしていった方が、豊かになるだったかな、
もっと深く考えられるようになるとか、
もっと挑戦できるようになるとか、っていう風に言われたんです、当時。
だから、もっと大きな失敗しろって言われたんですけど、
当時の私としては、いろいろ失敗したような気もするけどな。
これって人に決められることなのかなとか、
自分の中で結構相対的に大きな心配、外からは見えないんですね、
多分その自分の前提としていた結果アウトカムと、
起きたことのギャップがこんなに大きかったかみたいな、
外からは分からないものの方が自分の中では失敗が多いかな、
そこから見て分かりやすい、スタートアップの失敗みたいなところのエピソードは、
私は個人ではあまり持っていなくて、
あの転職は失敗だったとか、あのイベントは失敗だったとか、
指させるものは実はあんまりないんですけど、
設計した検証、例えば、現地に行ってやってみたら、
ニューヨークのデスクの前で設計していたものと、
インドでデリバリーしていたときのリアルの違いみたいな、
そういうのは明らかに痛い苦い失敗で、
そこから学ぶものがいっぱいあったっていう感じですね、
学ぶものがどこにでもあるんですけど、
やっぱり失敗から学んだみたいなのは、
そういう自分の想定とのギャップの大きさみたいなのは、
自分では失敗のカテゴリーにしているかなという気もします。
そうですね、失敗から学ぶっていうところで、
学びの方にフォーカスが移ってしまうので、
失敗そのものよりも、
それであんまり失敗のエピソードを強く記憶していなかったり、
失敗の話を面白く作り上げたりするっていうことに、
あんまり注力していなかったりっていうことになってるのかもしれないですよね。
実際、失敗学っていう、特に工学とかそういった分野では、
作ってみてどう失敗するかっていうデータを集めて、
原因を探したり解決したりっていうね、
まさに学ぶために失敗を置いているっていう考え方もあるかなと思いますね。
そうですよね。今、ゆみさんがおっしゃったこと、
すごく社会企業化を支援するプログラムをデザインしてた時にも、
エクスペリメンテーション、実験するみたいなのをすごくやっぱり重視していて、
やってみて、そこから学ぶみたいなのじゃないと、
仮説が正しいかどうかわからない。
結構その工学的なメンタリティで、
エクスペリメンテーションだとフェイルフォワード、
前のめりに失敗せろみたいなフレーズがすごく言われていたのと、
ちょっと近いかなと思いますね。
本当工学ですよね。
データポイント集めるために前に転べみたいな感じの
哲学だったかなと思い出しましたね。
実験って成功と失敗の価値そんなに変わらないっていう風に考えてると思うんですよね。
私、小中学生の学習支援をしてるんですけど、
実験好きの男の子が1人いて、5年生の。
毎週違う実験を考えてやってるんですね。勝手に。
で、この間はチーズを作るって言って、
牛乳使って何かやってたんですけど、
失敗したんです。焦げちゃったか何かなんですけど、
じゃあどうして焦げちゃったのかなって言った時に火が強すぎたとか、
これをしたらチーズができるっていう仮説も一つだし、
ここを変えれば次は成功するんじゃないかっていうのも仮説だし、
仮説を立て続ける、そしてその中で失敗と成功に枝分かれしていく、
そのプロセスを彼は踏んでいるだけなので、
失敗と成功の価値は割と同等に捉えているなっていう、
まさに科学者の考え方だなって思いながら話を聞いてたっていうのをね、
今思い出しましたね。
やってみたら違ったっていう場面を、
失敗と成功を繰り返すっていう風なのを聞いてから思い出してみると、
結構あったわって思いました、今。
自分の中では結局、繰り返した先に見たい結果があったから、
そこに持ってくために、じゃあこうしていこう、こうしていこうっていう風に、
道を変えながら進めていったから、
結果的にはそのプロセスであっただけで、
きっと最終的なところに満足なので、
OKってなってたんだと思うんですけど。
そういう意味では別の類義語としては、
試行錯誤っていうのも失敗の一種なのかもしれないですよね。
そうですね。
試行錯誤、あと出てくるのは臨機応変とか、
その時々ね、合わせて変えていくみたいなのもありますよね。
失敗しないと合わせる必要ないですもんね。
そうですね、確かに。
あるいは、スーッと全部成功することが一番大きな失敗かもしれないな。
ストレートAで何の障害もなく、
俺は何でもできるみたいな、
全能感みたいなのを持っちゃうっていうのは、すごく失敗な気がしますね。
分かりますね。
人生、そんな全能感でいける確率なんてすごくないのでね、
それができちゃったらむしろアンラッキーというか、
何かが起きた時のレジリエンスに影響するんだろうなとか、
あとは教育とか、周りにどういう大人がいたかとかで、
その失敗という名前がついたものに対する心の持ちようって
結構人によって違うのかなとちょっと思っていて、
試行錯誤っていうのがプラスの意味があるよねって思っている環境の中で育った人が、
今試行錯誤中だからって結構前向きに行くのと、
まだ進んでないの?前に、みたいな感じの空気感にある中で
感じるのとは違うんだろうなという気もしています。
周りにどういう人が承認してくれるかによって結構違うだろうなとちょっと思ったんですよね。
すごく今自分の中で思い浮かんでいるのはボルダリングなんですけど、
お二人ボルダリングしたことありますかね?
何回か体験したことはあります。
マナビのオタクの自分としては、子供のボルダリングをぜひやってもらいたいと、
子供が出て生まれる前から思っていて、なぜかっていうとあれって本当にすごいなと思ってるんですけど、
登り方って一パターンじゃないんですよね。
人間の体の大きさとか柔軟性とかも違うので、
人によってベストな登り方って同じゴールがあったとしても、
違うのが全然当たり前っていう空気感でみんなは出発をしていて、
かつ一回でいきなりトップに行けるっていうのは、
敵いる時もあるんですけど、やっぱりレベルを高くしていくと絶対一回ではゴールに行けないんですよね。
なので途中で手が滑って落ちたりとか、みんな落ちまくってるわけですよ。
落ちまくってるのが当たり前で。
落ちたらあの時の右足の角度が間違ってたっていうデータポイントになるので、
次のチャレンジに向かったり、
落ちたら明らかにあそこは無理だったなということでルートを変えるっていう戦略的な決断に繋がるみたいなのを、
頭の中でいろんな無意識の判断が起きていて、
まずあれのすごい良いところは、自分一人じゃないので、
他の人も他の人なりに頑張って試行錯誤してるのを応援し合う部員になっていて、
他の人が落ちたら同じように次も頑張れっていう応援したい気持ちにもなるし、応援されるし。
っていう試行錯誤の結果上に行ったら、
イエーイってなるんだけれども、
じゃあ次のゴールっていうのがまっすぐ横にまたあったりとかするっていう、
永遠に試行錯誤と達成感と失敗からの学びを高速で何歳でもやれる、
すごく素敵な環境だなと思っていて、
なので落ちるのだけをフォーカスしたら失敗してるというポイントは一瞬、
そういうふうに切り替わって、また違う捉え直しをしていくみたいなこともたくさん行っていくんですけど、
それ自体が学びなので、本当におっしゃるように捉え方によって変わってくるし、
あとそれってすごいやっぱり改めて主観的なものなんだなっていうのをすごい思いました。
自分にとってそれが失敗だと思ったら、その失敗という頭へのインプットになるけれども、
全然違うところから違う人の視点とか客観に立ってみたりとか、
真実はどうなんだろうみたいなのを思ってみると、
それはそうではないみたいなふうになっていく。
ちょっと哲学的な、ちょっと現象学に近いような、
なんかそんなふうなものになってくるんだな。
結局失敗ってっていうふうに思いました。
行動する側の本人としての失敗に対する失敗感みたいなものもあるし、
今お二人がおっしゃったように、コーチとか親とか何かサポートする側からの視点っていうのもあると思うので、
本人が何を失敗と捉えているかとか、その失敗に対して、
ここからどうするっていうことを考えやすいタイプなのか、
あるいはもう失敗したくないからもう何もしないっていうふうに後ろ向きに慎重に捉えるタイプなのか、
あるいは失敗を恐れないっていうことだけを考えると、
当てずっぽうに行き過ぎて効率が悪くなってたり、
本当に大きなリスクがあるっていうことが予測できてなかったりすることもあると思うので、
さすがにそれはダメだよっていうね、
ある時は失敗を予測させてストップをかけるっていうこともサポートする側には必要なところだと思うので、
恐れすぎて動けない人には失敗は気にせず動いてほしいし、
あんまり行き過ぎる人にはある程度抑えなきゃいけないし、
そのさじ加減みたいなのが失敗に対応するサポーターには求められるのかなって気がしますね。
そうですよね、元気な3歳児を公園で追いかけてると常に攻め気合ですね。
転んで学んだほうがいいんじゃないかなっていうと、
シャドウはちょっと危ないかもなみたいなところのバランスですが、
支援する側としてはそうかもしれないです。
ただ失敗をズームアウトできる立場でこういうふうに話すのは、
普段に起きたことに対して関わるっていうのはできると思うんですけど、
現実的にあるのは失敗が怖いというか、
なんか恐れがあって、恐れと手の願いが表裏一体で目の前にあって、
あれが欲しいんだけどもこれは怖いっていう、
多分その両方の攻め気合で足を前に踏み出せないっていう状態の人と関わることもあるじゃないですか、
そっちのこれから頭の中で描かれている、これから起きるかもしれないところに失敗が粒として含まれているときって、
また少し違う関わり方になるのかなという気はしますね。
やっぱりでもそれ私にもあって、ちょっと新しいプロジェクトをやっていきたいなって思ったりして、
で、それはすごく自分にとってはモチベイティブ、すごい楽しい嬉しいものなんだけども、
なんかいけない、ニーズとしては私は学びを重ねていくこと好きだし、
やりたかったことが達成されていくことって喜びなんですけど、でも動けないんです。
みたいなときの真相心理ちょっとこうなんでだろうと思ってみると、やっぱり失望したくないとかね、
うまくいかない姿を見たくない、がっかりしたくない、させたくない、
木下を掲げるほどにできなくなる未来は嫌だなみたいなのとか、
勝手にこうできないシナリオを見ちゃうんですよ。
そうすると、なんかちょっと怖い、恐れ、嫌だなっていう漠然とした思いなんかも出てきたりとかしますよね。
で、避けたくなっちゃう。
それをね、公開というか、共有してくださってありがとうございます。
聞きながらね、自分はそういうのはどういう時に感じるかなって、ちょっと今思考が動いているところ。
いや、すごくこう、真っ当な大人としての思考の深さだと思いますね。
先の見通しを詳しくできているっていうこととか、他の人を巻き込んでやることに対する責任感だったりね、
大人としての正当な考えが聞こえてきたような気がしますね。
ありがとうございますって言いたくなりましたけど。
ひるがえると結局、私ってそういうところすごく多分無責任で、
言うと思った。
事務中なんで、あんまり考えてないんだと思うんですよね。
なんで、トライオーによっては、例えば私が留学をしたこととか、アメリカに住んでいたこととかも、失敗っちゃ失敗でしょうし、
今、個人授業でやってますけど、それだってトライオーによっては失敗でね、
後々、あれはやめとけばよかったって思うのかもしれないですけど、
今のところ私が自分でオッケーと思っている以上はしょうがないですよね。
オッケーなことはオッケーだってことですね。
ゆうさんご存知のように、いつもこうやってね、
エミさんそこから投げてくるかっていうのがたまに飛んでくるんですけど、
エミさんが言ってたいくつか大事なことをおっしゃったと思うんですけど、
正当っていうキーワードをエミさんがキャッチしたのと同時に、私はゆうさんの話を聞いて、
誠意と熱意っていうのがすごく伝わってきてて、やっぱり誠意がないとそんなに真剣に思えないんですよ。
っていうのと、熱意がないとそこまでアウトカムにコミットできないですよっていうのを聞いててやっぱり思って、
それがあるがゆえのすごく大切に思っているプロジェクトなんだろうなっていうのが伝わってきて、
けどエミさんがそれがないっていうのは私は意義を申し上げるみたいな感じがします。
いい申し立てですね。そうじゃないんだろうなと私も感じてますよ。
例えば担当されている中高生に対する誠意も熱意もエミさんものすごいありなので、
多分何に対してそれを費やすかの選択が、ゆうさんの場合は見たことも作ったこともないものに対して、
今感じているけれども、エミさんはどういう形で自己申請に接すると、
できる限り誠意いっぱい手伝えられるかってなんとなく経験って持ってらっしゃるので、
2人とも誠意もあるし熱意もあるなと私は思ってるんですけど、
ゆうさんの向き合っているものの不確実性の高さみたいのはちょっと違うのかもなとは思いますけどね。
なんかね、私今日このテーマになって最初に言った通りあんまりこれっていう失敗談が出せないので、
自分が過去に書いたブログとかで失敗って検索してみたんですよ。
さすが。
何を失敗と思って語ってるかななんて思ってすっかり忘れてたんですけど、
私が失敗しても絶対誰かが片付けてくれるっていうことを書いていて、
確かにそんなことを考えてたし今もそう思ってるとこあるなって思うんですけど、
イメージとしてはあの東京駅に新幹線が着いた時の清掃の方たちのイメージなんですね。
だから私はガチャガチャに失敗して東京駅に着くんだけど、
私が失敗したやめとけばよかった恥ずかしいとか思ってる間に何人もの人がババババって車内に入ってきて、
パパパパパって綺麗にしてパパンって方向を変えてもう博多駅になってるんですよ。
で、私はそうなの?もう出発なのねっていう感じで振り返ってる暇もなく次へ行くっていうのに、
私すごくお世話になっているなっていう感じがしているので。
その場合は宇宙なんですかね?宇宙の働きかけ?
具体的にはその清掃の方たちは家族だったり友達だったり本当に通りすがりの人だったりするんですけど、