1. 神田大介の経験
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2023-12-18 10:24

小学2年が始まって、担任はいなくなった

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今回から、私の小学校2年生の時にあった話をしていこうかと思うんですけれども、
小学2年生は、本当に激動の時期でしたね。
これも既に喋っていることかもしれませんけれども、私は小学校1年生の時の担任の先生は、
奈良先生と言っていて、大変優しいおばあさんの先生でしたね。
ちなみに私が通っていたのは三原寺小学校という世田谷にある小学校でしたけれども、
変わった学校じゃない、別に学校自体は特に何も変わったところはないんですけれども、
校歌が変わってましたよね。今考えても意味わかんない歌詞だったんですよね。
宇宙人が出てくるんですよ。歌はいかに高かとはいえ、音楽著作権があるだろうから歌えないよな。
高い空から降りてきて、誰かが私を呼んでいる。
青い空から降りてきて、誰かが優しく呼んでいる。
そういう場面があるんですよ。そんな校歌あります?
だって私その後、名古屋に引っ越すわけなんですけど、転校しましたけれども、
校歌って強いんじゃないじゃないですか。だいたい場所から出てきますよね。
私の名古屋の小学校の校歌だと、
名古屋の南高台に街並み遥か見渡して、高く高く羽ばたく白鳥の。
白鳥小学校って白鳥って書いて白鳥っていう地名だったんですけど、
名古屋の南にあるよと。これ和世田のね、都の西北、和世田の森にっていうのとだいたい同じですよね。
私は忘れてないんですけど、私は一橋大学、一橋は武蔵野深き、松風にだっけ。
でも武蔵野が深いじゃないですか。国立ですもんね。
ってな具合ですけれどもね。三原寺小学校の校歌はね、
花よ鳥よと光は通う。光は通う。みんなの春だ。春だ春だ。
体を鍛えて追いやれば。意味わかんないでしょ。そういう歌詞だったんですよね。しょうがないですよね。
だからなんかね、歌いにくかったんですよね。子供心にね。
で、あとこれも三原寺小学校では普通のことだったので、みんなやってるのかなと思いきや全然なかったのが、温度。
温度ですよ。東京温度とかの温度。三茶温度っていう温度がありましてね。
三茶祭りっていうお祭りやってて、小学校でおみこし担いだりするんですけども、その時にね、その温度踊るんですよね。
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緑燃えたつ三茶の庭に、おばあやし太鼓が渦をまく、渦をまく。はあ、ささん三茶の心意気。みたいなね。そういう歌詞でしたけどね。
なんだそれっていう。全然名古屋の小学校にはそんな温度とかなかったし、後に聞いても別に東京の小学校でみんなあるかって全然ないんですよね。
何だったんですかね、三原寺小学校はね。いい小学校でしたよ。フォローするみたいですけどね。
はい、で、その三茶祭で1年生はね、だから特に何事もなく過ぎていきましたね。
まあ、細々としたことはね、あったんだろうと思いますけれども。私がね、人様の家からゲームウォッチを盗んできたりとか、そういう細々したことはありましたけど、それは俗人的な私の問題でして。
小学校自体何もなかったです。が、2年生になってからですね、いろいろなことが本当に激変したんですよね。
まずそもそも、1年生と2年生って結構同じ先生がね、受け持つなんていうこともあると思うんですよ。
クラスも持ち上がりが基本ですよね。あれ、私はどうだったのかな。1年の時のクラスと2年の時のクラスって確か一緒だった気がしますけどね。顔ぶれね。
クラスが入って2年に1回でしたよね。だったと思います。それで2年生、1年1組だったんですけど、1年1組で2年1組だったんで、やっぱり持ち上がりだと思いますね。
先生は変わっちゃって、奈良先生は確か退職されたんですよ。最後の1年だったんですね。私はですね、名前関係ないかな。須藤先生っていう先生でしたけど、こういった若いというか、荒沢ぐらいの女性だと思いますね。
当時の私にとっては、あんまり30代とか40代とかよくわからなかったんですけど、たぶん荒沢の方です。何でそれは言えるのかというと、途中で3級を取られていなくなっちゃったんですよ。
2年1組の最初、8、7月に担任になられたときに見たときには、別にお腹が大きいという感じじゃなかったんですけれども、あっという間にそういう感じになってですね、5月か6月、ありとすぐにいなくなっちゃったんですよね。
それで、比較的混乱をきたしてるなと私は感じたのは、まずそもそも3級を取りそうだっていう人が担任になるのかな。しかも5月、6月にですよ。いなくなるような感じ。
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とつき10日って言いますし、別に仕事自体は臨月になるまではできるっていうのはそうなんでしょうけれども、何なんでしょうかね。そういうタイミングの間でとかいろいろあったんですかね。
絶対、私が2年生になったとき、つまりその先生が担任になったときには、もう臨月がいつかっていうのはだいたいわかってたと思いますけどね。しかもおおむね安定期だったのではないかと思われますが。
ともあれ、なんで慌ててかっていうと、教頭がしばらく担任をしていて、須藤先生、担任の3級で学校休んで行かれた先生の公認が全然決まってなかったんですよ。
だからその授業の受け持ちがない教頭がしばらく私たちのクラスの授業を見てたんですよね。あんまりそういうことってなくないですか。当時はそうだったんですかね。
だって子供が生まれる、そして3級を取るっていうその意思がはっきりしているのであれば、担任外したらいいですよね。そんなね、今でこそ教員不足って言われてますけれども、全然教員が余分が余計がないっていうような、そういう状況ではなかったと思うんですよ。
私たち一応段階順にやってられる世代の端っこですから、人数は確かに多かったんですけど、一クラス40人とかいうのも当たり前でしたしね。先生がそんなに足らなかったって話も聞かないんで。
ともかく須藤先生はいなくなっちゃって、しばらく教頭がやってて。その辺からですよね、多分。クラスがざわついてる感じは私も子供心に思うところがありましたね、小学校2年生の時。
小学校2年生ですから、別に授業なんか聞いてようが聞いてまいがっていうそんなところもありまして、須藤先生がいなくなったからどうこうっていうのもあんまりない。むしろやっぱり生活面ですよね。
先生がいきなりいなくなっちゃって、代わりに教頭が来て。教頭だからみんな言うことが聞きますよね。教頭先生って言ったらだいたい偉い人だし、小学校2年生とはいえ偉い先生か偉くない先生かなんていうのは子供だってわかりますから。むしろ子供って言ってもわかりますよね。
しばらく数週間だったと思う。私の記憶で2週間くらいなんですけど、教頭がやってて、新しい先生が来たんですよ。山田先生っていう女性の先生でしたね。
山田先生は本当に若くて、須藤先生はおそらくあらさわで、結構気の強い感じの人だったんですけれども、山田先生は大変気の弱そうな方で、用心がどうこうってわけじゃないんですけれども、
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メガネをかけてオカッパで、自信なさげな感じで若かった。たぶんね、本当それこそ大学を出たばっかとか、そんな感じなんだろうと思うんですよね。
だからね、子供心にこれもあれって、この先生、先生っぽくないなっていうふうに思ったんですよ。実際問題として本当に自分に自信がない感じだったんですよね。そんな先生見るのが初めてで、1年生の時の定年間際だったと思われる奈良先生にしても、その後の須藤先生にしても、そんな子供を前に自信がないとかってのはありえないじゃないですか。
でもね、たぶん、突然呼んでこられたんでしょうね。
ちょっとね、そろそろ10分過ぎますんで、今回はこの辺にしておきます。
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