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さて、そういうね、小学3年生の時期に、私はしかし、それどころじゃなかったんですよ。
何があったかというと、父親が死にましてね、亡くなったのは8月の16日です。
夏ですよね、夏休みなので、私は母が名古屋の出身、父は東京の出身なんですね。
東京世田谷の出身ですよ、世田谷にいたんですけど、母の実家の名古屋に帰省してたんです、父も一緒にね。
だからそこで、お盆ですよね、8月の16日ですもんね。
お盆を一緒に過ごしてた、おじいちゃんおばあちゃんとですね、過ごしてたわけですよ。
で、名古屋でいろんな夏休みを何回も開いてたんだと思いますけれども、
16日は何をしてたかというと、そこまでいわゆる家族サービスということも聞かなくなりましたけれども、
うちの父親もね、会社勤めで忙しかったですから、久々に子どもと遊んで、
ただその日はですね、何日目か、滞在何日目かで、ちょっとちょいゆっくりすると。
母と私と妹と3人で三重県にある戸場水族館に行くということで、電車乗ってですね、行った。
で、行った先で、帰ってきてからだ、夕方ぐらいに帰ってきたんですよ。
水族館のことは僕は何にも覚えてないですけど、帰ってきたんです。
帰ってきたらね、おじいちゃんの家の前に救急車が停まってるんですよね。
え?って思うじゃないですか。
ただ、そこでちょいよいよ死んでるとは思わないですよね。
おじいちゃんかおばあちゃんか何かあったのかなと思うわけなんですけれども、
中に入ったら、お巡りさんいましたもんね。
あ、そうそう、パトカーも止まってたんだな。
で、どういうことかっていうと、
おじいちゃんとうちの親父で酒飲んで、ビール飲んで、話なんかもしてね。
で、じゃあちょっとお風呂入らせてもらいます。
うちの親父がお風呂入って、入ってる間に死んだんですよ。
心臓が止まった。
お風呂からいつまでも出てこないんで、不審に思った祖父が風呂場に見に行ったところを
もうぐったりしてたらしくて、あわてて119番したんですけれども、
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救急隊が駆けつけた頃にはもうすでに脈がないと。
死んでたわけですね。
理由がわからないんですよ。
父親は特にその時に深刻な持病を抱えてたわけじゃないですから、
抱えてたらそんな名古屋に来れませんしね。
なので、不審死っていうのは必ず警察を呼ばなきゃいけないんですよね。
ていうか勝手に来るんじゃないかな、救急からそういう連絡が行って。
たぶんお前らさっき言ってたんですけど、わかんないですよね。
外傷ないし、外傷ないっていうことは要するに誰かが侵入してきて殺したっていう形跡は全くないわけですよ。
だいたい風呂場ですしね。
風呂場に行こうと思ったら家の中に入ってこなきゃいけないから、そんな場所ないですからね。
不審な形跡はない。
例えば自殺の可能性とかもあるじゃないですか。
ただそれを示唆するような証拠も何にもないわけですよ。
生産管理能力とかないわけです。
そうなると、もう単に心臓が止まったとしか言えないよねってことになって、
診断は急性心不全。
急性心不全ってのは心臓が止まったっていうただそれだけことですけれども、
病気で死んだのか何なのか、いまだによくわかってないんですよね。
後に母に聞いたところによると、健康診断って当時も当然あって、受けていて、
あんまり数値が良くないとかってのが出て、見つかって収容だとか言ってたかな。
それはでも措置をして、経過を見ましょうねみたいなことになっていると。
別に癌だったとかっていうことじゃないです。
なので、それこそそんな健康状態には問題がなかったはずなんですよね。
何かよくわかんないですけれども、とにかくそれで亡くなってました。
でね、父も心目医者なんですよ。
私と同じ会社ではないんですけれども。
東京新聞社っていうね、中日新聞社。
名古屋に中日新聞っていうのがあって、それの東京本社が東京新聞社。
もともと都新聞という新聞があったのを中日新聞が買収したんですけれども、
その東京新聞社に勤務してました。
私の母と父が出会ったのは職場なんですよね。だからね、職場結婚ですよ。
私もそういうのが多いですよね。
で、父はね、降り出しが2ですね、確かね。
三重県、鳥羽水族館と何かちょっと近いですね。
降り出しは確か2で、その後に一宮、愛知県一宮市ですね。
一宮市にいる頃に私が生まれてます。
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だからその前に母とは出会ってるんですよね。
母はね、記者じゃないんですよ。
当時ね、記者採用の女性ってないんですよね。
そういう時代ですね。男女雇用機会禁得の前ですからね。
男しかいないんですよ。
で、男しかいないってこともあるから、とにかくすごくワクワクしちゃったんですね。
でも母は記者期死亡で、私は記者にしろ記者にしろってずっと言ってたらしいです。
秘書として採用されたって言ってましたね。社長秘書か何かでしょ。
で、秘書室にいたんだけれども、念願かなってと言いますか、
ただすごい普通の記者職にはなれなくって、
今も新聞にはね、街の情報、今度こういうイベントがありますみたいな短診を、
短診ては短いっていうことですけど、いっぱい載せてるようにならんとかって、
ある新聞もあると思いますけれども、だいぶ減っちゃいましたけどね。
そういうお知らせ欄みたいなのを書いたりするっていう、それも記者の仕事といえばそうなんで、
いわゆるね、総合職と一般職みたいな違いっていうのは抜けられなかったわけですけれども、
ともあれですね、字を書くっていう仕事には後に行ったみたいですが、
なんかそんな中で、どういうことだか知りませんけど、知り合って、
で、結婚をし、一宮にいた頃に私が生まれた。生まれたのはだから名古屋なんですよね。
名古屋に中日病院っていう中日新聞社系の病院があってですね、
基本的に社員しか入らないんですけど、そういう病院ありますよね。そこで生まれてるんですよ。
で、一宮で子供時代を過ごした後、赤ん坊時代ですね。
移動があって、千代屋なんですね。それが神奈川、横浜に移動すると。
そこの時点で中日新聞のエリアを外れ、中日新聞のエリアっていうのは静岡までなので、
神奈川から東京新聞なんですよね。東京新聞は1都6県、基本。なので神奈川に行ったと。
もともと東京の人間なので、東京新聞学的な作業だったんでしょうね。
で、神奈川県警のキャップ、県警キャップっていうのがあるんですよ。
警察の取材をする中ではリーダーってことですね。やり、それを何年やったんですかね。
3年とかやって、その後東京に移動になった。そこから私は世田谷での生活が始まるんですけれども。
これもね、昔々のポッドキャストで話をした最初の記憶の頃ですよね。
米原君と出会った神山ハイホーム。あれが自分が年中の時ですよね。年中だから5歳、4歳5歳の頃ですかね。
だから3年もいないから2年ですね、多分ね。
で、そこでもう警視庁担当になって、警視庁公安担当になって。
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だから私全然その夜なんか父親の姿見たことないですもんね。夜回り、夜打ち。朝掛けはあんまりやってなかったですね。朝はいるんですよ。ただ寝てるんですね。
私が8時半きっかりに幼稚園に出てくるんですけれども、その時には親父は寝ていて、私が出ていくと起きてくるっていうすれ違い生活が基本でしたね。
そういう生活だったので、なかなか父親とは休日ぐらいしか顔を合わせることはなかった。しかも当時は土曜日も仕事でしたからね。半分とか言ってたけど、親父が半分で帰ってきたことは見たことないので、日曜日ぐらいしか顔を合わせることはないっていうそういう生活でしたね。
そんな父親が私が8歳の時も死んでしまった突然というわけです。