1. 【体験者の証言】戦争の記憶(Memories of War)
  2. 【記憶4】中村房江さん/Memori..
2013-11-10 36:09

【記憶4】中村房江さん/Memories4_Fusae Nakamura

【記憶4】中村房江さん/Memories4_Fusae Nakamura


00:00
今日はクレの銀座美容室の中にお邪魔してお話を伺います。今日は中村房江さんにお話を伺います。中村さんよろしくお願いします。
はい。
クレの銀座美容室とお話しましたけども、これ聞いている方は音だけなんで、なんで美容室なんだろうと思うと思うんですけど、ここは中村さんが立ち上げられた。
そうなんです。
もうどのくらい?
60年です。
すごいですね。
20歳の時にお店を出した。
あ、20歳の時ですか。
はい。
場所はずっとここ?
ここです。
60年。
最初は4年間2階の美容院でした。
はい。
それで下へ降りてきて。
最初は何かした?別の…
年配のご夫婦に甘酒屋さんに貸してあげておった。
あ、そうなんですか。
うん。で、その方はもうお年取って、神戸の息子さんのところへ行かれて、ここが空いたからここへ変わって。
60年ということで、まさに今日戦争の話も伺おうと思うんですけど、68年ちょうど戦争今年経ちますけど、終わって8年経ってそこからずっとということで、またそのあたりも伺いたいと思うんですけども、
神戸さんはもうずっと広島というか呉という…
呉で生まれたんです。
本当にずっと呉で生まれた感じですね。
で、まさにその1945年、その戦争終戦の年ですけど、もちろんその前から第二次大戦入っていると思うんですけども、第二次大戦の頃、記憶があるところからでいいんですけども、どこでどういう状況でその大戦を迎えられていたというか。
あのね、戦争で、戦争にあったのはね、呉の今本通り4丁目になるんですが、あの当時は本通り7丁目。
ちょっと違うんですね。
7丁目だったんです。すぐそこですけど。
昭和20年の7月1日の夜10時頃から呉の空襲が始まったんです。
もう鮮明に覚えてる感じですか。
覚えてます。着てるものも覚えてますよ。
着てたもの。ちなみにどういう。
あのね、今の中学1年生、あの当時は女学校って言ってたんですよね。
1年4月に入学して、7月に空襲にあったんです。
まだ3ヶ月か経ってない。
だからセーラー服を着て、その上に名戦のモンペと上着を着てました。
7月1日ってことですけども、そもそものところなんですけども、空襲って当然警報とか鳴ったりとかするんですよね。
呉の空襲が始まったのが夜10時ですね。
その時に雨が降ってたんですよ。
雨が降っていると言うんで、布団をかぶって救急袋を持って、
03:07
それで私の父親が警察に勤めとったもんで、
爆弾の時は横穴、焼夷弾の時は9丁目の防空壕へ逃げるように指示されとったんです。
それが焼夷弾だったんですよ。
焼夷弾だから防空壕へ逃げればよかったのに、
みんながうわーっと逃げたもんだから、その後へ着いて逃げたんです。
そして和尚の横穴へ入ったんです。
横穴っていうのは防空壕みたいなもんですか?
山を掘って穴を作って、その中へ入ったんですよ。
その時雨が降ってたから、
雨が降っているねと言ったんですが、後から分かったのはB-29が石油ですかね。
あれを空から撒いたんですよ。
石油?爆弾じゃなくて?
うん、石油。
それを撒くことで後で爆弾の時に?
燃えるんです。
それで私らは横穴へ、姉と母と私と、
母が2歳の妹を背中に覆って4人で逃げたんです。
そして横穴へ行ったんですよね。
その横穴はうちの母が掘ったんです。
町内の婦人会で掘って作った横穴だったんです。
その横穴は両方から入り口があって、片一方は井戸があって、片一方は何もなかった。
一軒たちの木の家が残っていた。一軒だけ残っていたんです。
そして井戸は空襲で苦襲になった時に、お水が飲めるから湯んで、井戸は埋めなかったんですよ。
そしてその7月1日の夜、逃げて横穴へ行ったんです。
そしたらもういっぱいで、私ら入れなかったんです。
もうそこに入っていた。
そしたらB-25が飛んできたんです。
私ら逃げるとこがないから、その一軒たちの木のあった家の軒下へ逃げたんです。
一番向こう側におったのが娘さんとお母さん。
その家に?
私らと一緒に逃げたんですね。
その隣がうちの母。子供を追って、妹を追って。
そしてその次が姉。そして私が一番へりにおった。
布団をかぶっていたんですが、その家に焼夷弾が落ちたんです。
06:05
一軒残っていたたちの木の家に焼夷弾が落ちたんです。
その時に、低空飛行から来ますからね、B-29は。
B-29からウーって飛ぶでしょ。
ウーって言った時が低空飛行。
その時に焼夷弾が落ちたんです。
そして私らも布団をかぶって、そこへ避難しとったんです。
そしたらうちの母の隣、よその人、娘さんと親子が避難しとったんですが、
その人が直に焼夷弾に当たったんです。
それでバーッとその人が燃えたんですよ。
それで私の母は亡くなったから知らんのですが、
私の姉はまだ今現在生きてます。84歳でね。
それで布団をかぶっとったのに、右側の脚が出とったんですよ、布団から。
それで脚を火傷したんです。
それで私は顔が出とったんです。
バリッと言ったら、火の焦げ散ってきたんですよね、焼夷弾の火が。
それでバリッと顔をこっち半分火傷したんです。
それからみんながうおうおう、うおうおう、うおうさおうして、
横穴がちょっと開いたんですよ、入り口が。
それで急いで布団をかぶったまま横穴に入ったんです。
それで私らは横穴の5メートルくらい奥に入ったんですが、
母はちょっと入り口におったらしいんですよね。
それでうちの姉は私のちょっと手前におったんですかね。
学校のときに、もし息ができないときは土を掘って顔を埋めときなさいと、
そう言って学校で習ったんです。
私がだから女学校ですね、昔の女学校、今の中学1年。
女学校1年入ったところです。
それで学校で、いざ言うとき空気がないなったら、
土を手で掘って顔を埋めときなさいって聞いとったから、
私は顔を埋めとったんです。
そしたらうちの母が、姉がみどり言うんですよね、名前が。
みーちゃんみーちゃんって妹が小杖。
こうちゃんがね、おっぱい飲まんのよいって。
もう亡くなっとったんです、そのときにはね、妹が。
で、もうお母さん飲まんのならほっときなさいって、
背中から下ろしたら、言って姉がおらんだんです。
だいぶ離れとったんですよ、入り口からね。
ほいで、そこで妹が亡くなったので、ショックで母が死んだんです。
妹が死んだから、さっき死んだんです。
ほいでショックで、心臓も弱かったし、死んだんです。
09:01
ほいで、それからわんわんして、
そしたらどっかの女の人がね、
誰か助けようって、入り口でおらびよってんです。
ほいで私がほうて出たんです。
そしたら、ここに若い子がいる。
将来大人になったら、この仇は絶対取ってもらわんといけん。
言って、私を足を引っ張って、
ほいで、今のヘルメット言うんですが、鉄かぶとですよね。
あれでお水を、減りに川があったんです。
その川から水を汲んで、私を頭からぶっかけたんです。
そして川へ運んでもらって、生き延びたんです。
ほいで、その時に防空壕の中で、海軍の兵隊さんも上陸しておられたんです。
うちはね、2階を海軍の兵隊さんの下宿に貸し取ったんですよ。
海軍の兵隊さんも一緒に逃げたんですがね。
まあバラバラでね。
ほいで、その時に防空壕の中で私が助け出される前の状況は、
他の人は何も言わんのですが、
海軍兵隊さんはね、
お母さん、お先に行くことをお許しくださいって、海軍の兵隊さんが言いました。
そして、海浮かばうと歌うんです。
海浮かばう歌うとって、その人らは亡くなったんです。
そして私は表へ羽織って、助けてもらって川の中におったんですよ。
ほいで、その隣に男の人が川におった。
その隣が私の姉がおったんです。
で、それがもう真っ暗闇ですよね。
ほいで、朝になって明るくなった時に、
ひょっと隣を見ると、その男の人は苦しかったんか、
川の石垣があったんです。
その石垣に頭をぶっつけて、頭が割れて亡くなったんです。
死んどっちゃったんです。
ほいで、姉と私は助かって、そこに川の中に行っときよって。
ほいで、うちの父親が今の消防の車、赤い車に乗って来たんです。
ほいで、私らの名前を呼んで、
私ら、お父さん、お父さん、ここにおるよおるよ、
ほいで、父親が上へ引っ張ってあげてくれたんです。
川だから崖があって、川になってこうなったんです。
だから上へあがったんです。
ほいで、お母さんは、お母さんは、お母さんは死んだよ。
それからどうなったんか、
その母は、みんな亡くなった人を重ねて焼いたんですね。
だからお骨が取れないんですよ。
それで、うちの父親がハサミで髪の毛を切って、
12:00
威発として、看護系入れて持って帰る。
ほいで、私らは助けてもらって、
そこの9丁目の防空壕のところへ寝かされたんです。
そして炊き出しがあって、
じゃがいもをたくさんふかしたのを呼ばれました。
そのぐらいのことですね。
それから何日かたって、母が四国の人間だから、
その威発を四国の長浜というところがあるんですよね。
北軍伊予長浜に、そこへ持って行ったんですよ。
今度はそうしたら、そこの伊予長浜にきれいな素晴らしい橋があるんです。
大きな船が通ったら、橋が半分に割れるすごい橋がある。
そこを今度は空襲でやられたんです。
ほいで、みんなどこへ逃げたか、家のものはおらんのですが、
姉と私は裏の庭の防空壕に二人が入っとったんです。
死ぬときは二人が一緒よ、一人だけ死んだらだめよ、
二人が抱き寄って、そのときに爆弾が落ちたんです。
その橋の上に、橋を狙ったんですよ。
橋がやられて、私らはなんとか助かったんです。
そのときは四国の橋のところにいらっしゃったんですか?
そうです。四国へ渡るときに、そこの伊予長浜というところから船に乗るんですが、
そのときにやっぱり空襲があったんです。
ほいで、船が出んようになって、結構で。
そこの宿屋へ、ホテルはあの頃ないですからね、宿屋へ一泊したんです、朝までね。
ほいで、三人が枕を並べて寝たんですが、
父親が枕元にいたんですよ。
朝目が覚めたら、お母さんが枕元に座ったと。
で、どうしたの、お父さん。
お母さんが子供を二人置いてね、亡くなって、
あとの二人の子をね、どうぞお父さん元気で育ててください、言って、
あの、私の枕元に座った。
ほんと?言ったら、うん。
言って、その遺髪が枕元にあったから。
で、それから長浜へ、伊予の長浜へ、北郡伊予長浜いうとこですが、
そこへ行ったんですよ、おこつ持って。
その時はまだおばあちゃんも健在で、
70の後半ぐらいだったですがね、おばあちゃんが。
四国行った時も、危機一髪じゃないですか。
15:02
うん。
だからね、学校時代もね、ひろの学校に通っとったんですよ。
県立第二高等女学校、言ってひろにあったんです。
そこに私らがおって、もうしょっちゅう空襲警報、
勉強するどころじゃなかったです。
で、ある時ね、B29が飛んできた時に、
ビラが巻かれたんですよ。
その時に、日本のじょうちゃんぼっちゃん、眠いでしょ。
もう少ししたら永久に眠らせてあげます、
いうビラが飛行機から落ちたんですよ。
日本語なんですか。
日本語です。
だから、たぶん日本語のわかる人が帰ってビラを巻いたんでしょうね。
失礼なことをビラを巻いていて、私らはね、と言ったんですがね。
だから、ひろから通う時も、ひろに第一空襲を言って、
大きな工場があったんです。
そこを機関重装車で狙われましたよね。
バリバリバリバリバリバリって。
私らひろからね、車で歩いて帰った。電車が通らんのです。
ビラの話もありましたけど、
当時、僕とかは当然経験してないですけど、
日本の報道とかだと、日本は戦争に勝って負けててもっていう話ありましたけど、
その時に、実際、夫妻さんは戦争で実際負けてるわけじゃないですか。
そういうのって、やっぱりもう気づいてたんですかね。
どういう感じだったんだろう。
気づいてないですよ。
気づいてない。
日本は絶対勝つと思ってたから。
それは夫妻さんだけじゃなくて、例えば。
みんな。
お父さんも、お母さんも。
うん。うちの父親も、そうですね、76歳で亡くなったんですけど。
おいで、母が死んで、何年か経った時に、私と姉がおって、姉は女学校の4年生。
私が1年生だったんですがね。
それで、周りの人が、お母さんが欲しいだろうから、お父さんもう一回結婚しなさいって。
44じゃったんです、父親が。
母が40歳で亡くなったんですよね。
だから、それからお見合いして結婚した相手が美容師さんだったんです。
それで、姉はもう上の音楽学校へ行ってまして、現在はもう84ですから丁寧で一人でおりますけど、
その時は音楽の先生を修繕後はしてたんです。
広大附属中学の福山にあったんですが、そこの音楽の先生で勤めてたんです。
それで二度目の母親が美容師で、それで私が後取りになって。
だから途中から平成中学に変わりまして、3年で卒業して、
18:05
普通女学校は4年までなんです。
それを3年で卒業して、それで母の店を手伝うようになった。
1年ぐらいして大阪やら東京やらお勉強に出たんです。
それで父親が、あんたもその腕なら店出せるから、店出したら言うんで、
20歳でここの銀座美容室を出したんです。
昭和27年?
11年です。28年です。お店出したのは。
1月15日、私の成人式。
それこそ当時、20歳でそういうお店を美容院に女性出すとかっていうのは、
結構普通聞き方も変ですけど、他にはいなかったですか?
ないですね。
その時の気持ちっていうのも変ですけど、
お父様から言われたこともあると思うんですけど、
例えばもうやんなきゃみたいな悲壮感だったとか、
それよりも何か希望に燃えてたとか、どういう?
そういう気持ちはなかったんですがね、
ただ父親に押されて出しただけなんですよね。
その頃60年?
60年。今年の1月15日で60年。
その60年後もやってるっていう想像つきましたか?当時。
ついてない。
余裕もないですよね。
もう必死で勉強しました。
だから年も若いから、お店を出してから、
着付け、メイク、ヘア、日本髪の湯上げ、
そんなのを毎週月曜日の休みに道具を持ってお勉強に行きました。
暮れでは昭和20年7月1日から空襲?
2日にかけてものすごく燃えました。石油まい取るから。
話がいただきましたけども、その前からも極地的に空襲みたいなのあった?
あった。
いわゆる大空襲みたいな形が?
そう。7月1日から2日にかけて。
軍港を狙われたんです。
暮れの軍港をね。
先ほど皆さん、戦争を勝っているという言い方を持っていたし、
1日から2日の間に空襲の前に戦争に入っていたわけで、
その時の、いつ空襲警報になるかわかんない。
当然今とは当たり前ですが違うわけじゃないですか。
寝る時はもうね、木の幹のまま。寝巻きは着替えておりません。
枕元に持って出る荷物を枕元に置いて、着たままでいつも寝てました。
覚悟じゃないですけど、寝る時に次の日どうなっているかとか、
21:01
そういうことって考えていました?
何にも考えていない。2本カツをもう取ったから。
そういう意味では怖くないってことはもちろんないでしょうけど、
すごい怖くてもう眠れないとか。
そういうことはなかったですよ。あんまり怖い感じはなかったですね。
ただ、防空壕入った時に皆さんが亡くなったでしょう。
亡くなる時にその海浮かばを歌われたり、
お母さん先行くことを許しくださいって海軍の兵隊さんらのことは
もう耳についている。今でも耳にありますね。
もう完全に覚えてますよ。あの時の状態は。
それから本鳥の9丁目でジャガイモ、虫芋のジャガイモを呼ばれて、
それからうちの父親の知り合いにキロの横路というところがあって、
そこに釈野があったんですよ。そこへ家を借りて、
親子さんがそこへ移ったんです。
8月15日、終戦の時って、まさにあの放送も聞いたんですか。
聞きました。
その時どういう感情というか。
あのね、学校の行動で聞いたんです。女学校の時の行動で、
社会科の渡辺先生という方がおられて、もう亡くなられたですけど、
その先生がお国のために何にもお役に立てなかったことが残念ですって、
泣きながら私らを集めて話をされました。
その天皇のお言葉はその行動でみんなで聞いたんです。
それから後にその社会科の先生が話をされたのが、
お国のために兵隊に行ってないから、尽くすことができなかったのが残念って言って、
先生がおいおい泣かれたんですよね。
その時の夫妻さんの気持ちというか、
それこそもうやっぱり真剣に戦争がこれで終わるんだみたいな感じで、
パーッと開けた感じで。
ホッとしましたね。
それこそやっぱり将来を描くこととかってあまりできなかったですか?
ないですね。ないない。
父親が美容師さんと結婚するというのも、考えもつかんかったですよね。
天皇に戦争責任があったかないかとか、そういう意見もいろいろあるじゃないですか。
それは答えは出せないと思うし、いろんな考え方があると思うんですけど、
その時に例えば天皇陛下を憎いとか、そういう感じは全然。
それはなかったです。
ただ、あれは当初秀樹ですかね。
あの人が主になって、戦争戦争言って言ったですよね。
24:01
あの時に真珠湾攻撃があって、勝利しましたでしょ。
あれは不意打ちだったんでしょ。
その時はもう勝った勝ったで、日本中が湧いた時ですからね。
だけど後で聞いたら、不意打ちだったんだから勝つのは当たり前ですよね。
その戦争が終わって、クレももうやけの腹って感じだった。
やけの腹ですね。
そこからまさに、よく僕もいろんな、こういう形で戦争を体験された方にインタビューさせていただいた理由は、
例えば原爆落ちた時とか、空襲の時は本当に大変だったけど、ある意味大変だったらその後の方が大変だった。
つまりそこから戦争が終わって、その辺は一言でもちろん語り尽くせないと思いますけど。
私ら小さいから、どういうふうにして父親が焼け跡へ家を建て出したんです。
お父さんが建てた?
そうそう。どういうふうにして建てたかそれは分かりませんけどね。
途中で美容師さんと結婚することになって、急遽その家を美容室にできるように2階建ての家を建てました。
今でもありますよ、その家が。
もう父親が、私が結婚して、私が22で結婚したんですけどね。
お父さんは、戦争前とか戦時中空襲の時は警察官だとおっしゃっていたじゃないですか。
警察官とは違う。初期だったんです。警察で初期をやっていたんです。
警察官じゃないですけど、警察で働いていた。
その戦争の後もしばらく警察で?
そうでしょうね。私らが広に居る時に家を建て寄ったんですよ、呉の焼け跡へ。
広の東横に知り合いの所に住んどって、母の所へ四国へ行きましたね。
帰ってきたら大水害で、その家が流されたんです。
疎開しとった、黒瀬の方へ着物なんかたくさん柳氷入れて疎開させとったのも全部流れて
四国から帰ってきたら、私らがそこに居たら死んどったと思います。
2階建てで、2階上がる階段の所にイリコが1ぴょんぶら下がっとった。
そのイリコ1ぴょんだけが助かって、あと全部汚染から疎開しとった着物も全部流されて
それからまた東横から今度は西横へ変わったんです。
西横へ住んどって、その間に父親が仕事しながら家を建て寄ったんですが
27:04
その時に美容師の母と結婚して、急遽美容室になるように建て替えたんです。途中でね。
ここに建てられて60年ってことですけど、戦争がなかったらこの仕事ついてるか分からない?
してないです。私ね、学校の先生になりたかった。小学校の先生。
あの当時、師範学校やってたんですね。そこ行きたいために、県立へ女学校を受けたんです。
先生になりたいみたいな、それは何か理由があったんですか?
あった。小学校5年生の時に、2年生の掃除当番をしてたんです。
小学校2年生の受け持ちの先生が、小松先生言うんですがね、その先生がテストを私に渡して
正解の問題を1枚くれて、それを見て点数をつけなさい、点数をつけてくれって言って
自分がする仕事を私に任せたんです。
それで、まるかけ、何点、80点とか90点とかいって、点数つけるでしょ。
それが楽しくて、小学校の先生になりたかった。
任されるってことは何かあったんでしょうね、信頼されるような。
どうですかね、その先生も、私がお店出した時、お客さんで来てくれよと。もう亡くなったです、その先生もね。
戦後、美容師さんになられたって話を伺いましたけど、なかなか一つって難しいと思いますけど、戦争がまさに終わってからの記憶で
本当につらかったこと、物質的にでもいいですし、精神的なことでも。
精神的なことはやっぱり、母が35で若かったから、初婚ですしね。
ちょっと、お客さんの前で父親の悪口を言うたり、するのがちょっとつらかった。
その江戸、次のお母さんが。
お母さんがね、父親の悪口をお客さんに言うんですよ。それを聞くのがつらいから。
そしたら、泣こうと思ったら、トイレ行って泣いておいでって言われるくらいつらかった。
16くらいの時、家に出したんですよ。荷物下げてね、母の実家へ、伊予長浜へ。
そこに行っとったんです。美容師のお母さんのお弟子さんが、高浜いうところで結婚して住んでた。
その人を頼って行ったんですよ。
一晩そこで泊めてもらって、あれが18くらいの時ですかね。
17か18ですわ。一人で船に乗って家出したんです。
すぐその日に帰ってきたとかじゃなくて、結構長く?
30:02
一晩泊まって、父親にその子が電話したんです。
私は一晩泊まって、母の実家へ行ったんです。
弟やらいもと、おじさんおばさんがいましたから。
すぐに帰らせてくれ、お母さんに悪いから、すぐ帰らせてくれって言うもんで、
おばさんが当時食糧団の時に、おはぎをようけ作って、私に持って帰らせたんです。
その時にお店の人が急に住み込みでおったんです。
まだ美容院も少ない時ですよ、修繕後だから。
本当1軒か2軒ぐらいしかない時ですよね。
それでそのおはぎを持って帰って、みんなに、お店の人に食べさせて、
そしたらうちの2度目のお母さんに、男の子が1人生まれとって、
その子がお姉ちゃんちょうだいって言うから、その子にもやったんです。
お母さん気が強い人じゃったから、そういうものを食べんでも、
お母さんが作ってあげるって言って、弟が持っていたおはぎを玄関にぶち投げたんですよ。
私はもうここにおれんから言って、大阪でカット専門の男の先生に、
安藤先生言うんですが、安藤牧大と書いてしげおって読むんです。
その先生が呉の公衆に来られて、その先生に頼んで、そのお店へ行ったんです。
そこでおったんです。
戦時中もそうです。終わった後も。
違うかもしれないんですけど、今じゃ考えられない辛い中で支えになったものとか、人かもしれないですけど。
支えですか。やっぱりお店ですね。
25歳ぐらいから着付けを勉強して、25歳ぐらいから着付けをしだしたんですよね。
それで27歳で婚礼着付けに出だしたんです。
もう仕事するのが生きがえで、もう誰にも会わないし、
お店でもちょくちょく泣き寄りましたけどね。
昔のことを思い出しちゃうとかですか。仕事でいろんなことが辛くて。
仕事で辛いことはないです。楽しかったですよ、仕事は。
家庭環境ですよね。ご充都さんもたくさんおられたし。
でもこの仕事があったから。
そうです。仕事が助けてくれたようなもんですね。
今昔のことを聞いて、そして今ちょうど今年2013年で、
終戦68年経ちましたけど、改めて何でしょう。
今年、さっきもお話ししましたけどやたら戦争の映画が多かったりとか、
33:00
いろいろあると思うんですけど、当時当然中学生ぐらいですね。
戦時中のこととか雰囲気とかいろいろ。
戦争始まる前の記憶はあんまりないですか。対戦始まる前。
小学校じゃったんですかね、私が。
小学校5年ぐらいですかね。
一番記憶に残ったのが横穴。
たくさん人が死んで、焼夷弾が落ちて、
その隣の方が焼けて、ボッと燃える火の玉、
リンが焼けるんですか、あんなのを見ましたね。
それが記憶まさに。
それと朝起き後着いた時に隣の男の人が崖に頭をぶっつけて、
頭が割れて亡くなったのは覚えております。
それとどこの人か知りませんが、女の人が私の足を引っ張って、
この人は今からの人じゃ、この仇は取ってもらわないといけないから、
若い人は助けにはいかないと言って、
おらんで私に手を掴むと水をぶっかけて息を吹き返させてくれた記憶は今でもあります。
鮮明にも。
覚えております。どこの人か知りませんが、女の人だったです。
戦争が68年経って、やっぱり直ちに日本で戦争が起こるとは考えづらいですけど、
やっぱり考え方によっては、例えば原発も輸出するとか、
例えば憲法を改正するとかいろんな話もあって、
その是非は置いておいて、
蔵さんが実際に戦争を体験された方として、
なんとなくその戦争があの頃あった時のような雰囲気になってきていると言い過ぎかもしれないですけど、
今が平和だけどちょっと将来わかんないみたいに感じていたり、
なんか空気が昔に似てきているような感じたりすることってありますか?
それはちょっとありますけど、もう戦争は人の殺し合いですからね、したくないですね。
ちょっと感じるというのはどういうところに感じますか?
やっぱりいろいろテレビでニュースを見たり、
中国とか韓国とかいろいろなニュースを見るとまた始まるんかなとか、
できるだけ戦争はしたくないから、それはありますね。
でも私も年ですから、それまではもうこの世におらんかもわかりません。
もう今本当にお仕事がある意味支えで生きがいで、まさに今日もここでお仕事されていることですけど、
それこそずっと生涯元気でいるというイメージですか?
倒れるまで。バタンキューで死にたいですね。
だから病院も一切行っていません。
まあおそらく調べたらどっか悪いと思いますけど、病院行ったことないですよ。
36:05
でも本当のね、繰り返しになっちゃうんですよ。
とてもじゃないですけど、80歳とは思えないとか見えないほど若い。
36:09

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