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2024-02-02 27:13

#414 (週末版) 関西人の口癖「知らんけど」は、実は仏教的だった?(松波龍源さん編②)

週末版ではゲストを招いて、脱力系ながらも本質をついた商売論・人生論を展開。NewsPicksではこのPodcastを元にした記事も配信しますので、ぜひそちらもご覧ください。

■NewsPicks掲載記事:

⁠⁠⁠https://newspicks.com/news/9386349

■ゲスト:

松波 龍源(実験寺院寳幢寺 僧院長)

■MC:

亀山 敬司(DMM.com 会長)

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#かめっち #かめっちの部屋

サマリー

実験人報道陣の松波龍源さんは、仏教のポテンシャルや実験の許容性について語ります。仏教的な考え方を理解することで、物理法則の世界とコンフリクトしながらも、空という関係性を理解し、目の前のことにどう向き合うかという点で行動が変わります。また、知らんけどは、関西人の口癖であり、仏教的な要素を持っています。

実験人としての活動
はい、どうもDMMの亀山です。亀っちの部屋ラジオ、始まります。
サブMCの高橋です。今週もよろしくお願いいたします。
ゲストをお呼びします。先週に引き続き、実験人報道陣の松波龍源さんです。よろしくお願いします。
はい、どうぞどうぞ。引き続きよろしくお願いいたします。
ゆうえさん自身は、実験人員でしたっけ?
はい。
実験人員っていうのは、人員と何が違うんですか?
そうですね。旧来の日本の仏教、文化財も出たりとかですね、素晴らしいものはあるし、
お葬式とか法事とかっていうのも、人の社会に必要とされているものではあると思うんだけど、果たしてそれだけが仏教だろうかと。
今、これから21世紀、22世紀の日本に世界に求められるあり方っていうのは、もっともっと活躍できる方向があるはずだって思うんですけど、
正解がわかんないですよね。ロールモデルもないし、戦後事例もないしっていうことなので、
これはもう実験っていうことで、いろんなことをやりながら、これダメだと、これもダメだと、これまたダメだということを繰り返しながら、
これは行けるのかと、ここは意味があるんだっていうことを拾っていこうっていうようなことを考えてですね、
これは僕たちなんて名乗ろうってすごい悩んだんですけど、うちに来られている若い方がですね、
皆さんやってることって実験ですよねって言ってくれたのがヒントになって、そうか、実験人と名乗りましょうって言うので、
何年前かな、3、4年前から実験人という名乗りをしております。
仏教思想のポテンシャル
実験っていうのは、一つの仏教に対してどうこうという、以前に哲学的なことになるわけですか?
仏教をベースにした哲学みたいな形?
そうですね、まさにこの仏教思想、仏教哲学って僕はものすごいポテンシャルがあると思うんですよね。
いろんな西洋系の哲学の方々も、ひょっとしたらもう未来の人類の究極的な世界観は仏教かもしれないっていうようなことを言ってる人も出てきているので、
すごいもう仏教は完成していると思います。
ただそれを社会にどう生かすか、使えるものにするかっていうのが結構問題だなと思って、それが本当にわからないんですよね。
どうやったらいいか、そこに対する実験かなと。
仏教の中では、いろんな中での実験を許容するというか、
例えば神が絶対的なものが西洋であったとしたら、もう実験の入り込む余地がないじゃないですか。絶対閉いてから。
まさにまさに、ほんとそうですね。
一方で仏教っていうのはそういったふうに、いろんなふうにみんな考えていいよみたいな、
そこから自我と向き合いなさいとか、自分なりの達者との付き合い、悟りの仕方とかっていうのは、そこに関しては許容してもらえると思っていいんですね。
そうですね。仏教にもだいたい今2系統あって、ご存知の方も多いかと思いますが、
東南アジアですね、タイとかミャンマーにある南方定座部っていう伝統の方々は割と保守的なので、
仏教はこうです。お釈迦様の時代にこうだったんで、これ以外のあり方がないですという言い方をする人が割と多い。
それに対して東アジアですね、ヒマラヤから東アジアに伝わっている、当然日本もそうですけど、大乗という伝統は変化しないと無理だよねと。
2500年前のインドっていうところで、お釈迦様がこうだよと教えていただいたことが、
300年も1000年も経って、ヒマラヤの山の上とか海越えて日本に来ちゃうと、ちょっとこれ無理だよねってなるんで、そこはアジャストしようねっていうのが大乗なので、
僕は大乗の伝統にあるものですから、即するっていう言葉を僕たちはキーワードにして、とにかく社会に、時代に、状況に即していこうと。
それが大乗だっていうことだと思うので、やっておりますが、結構大乗の方も保守化している部分も歴史が長いですからあるので、
仏教の変化と現代社会
圧力があったりはするんですけど、そのあったりも柔軟に考えながら、いろいろやっていくしかないよねっていうところですかね。
そこはすごく共感しますよ。僕はもっと先輩世界ですけど、ビジネスなんかでも、こういうふうにやっていくんだよって言って、
去年とか、もっと言えば昨日言ったことと違うことを言うんですけど、状況違うだろうみたいな話になるんで。
そうですよね。
会長が10年前に言われた、このシステムを未だに使ってます。決めたんだからみたいなことを言ってたら、いやいやいや、どんどん変えててくれ、勝手にみたいな話になるんですけど。
それで言うと、例えば釈迦だろうがキリストだろうが、何ていうか、もともとの人たちって、創業者って言ったら変ですけど、
もともと哲学者だってイメージなんですよ。例えば。
で、それがなんとなくその弟子たちとか、他の人たちが神格化したっていうのが宗教的なイメージなんですけど、そこはどうなんですかね。
いやもうおっしゃる通りだと思います。
お釈迦様って有名な言葉に大器説法って言われることがあるんですよね。相手によって言い方変えてるんですね、お釈迦さん。
例えば勉強しすぎで体壊してる人にはもっと遊びなさいって言うだろうし、遊びすぎてちょっとバカになってる子にはもう遊ぶのやめて勉強しろっていう逆のことをおっしゃるわけですよね。
それは統一した目的がある。みんながハッピーになるようにっていう目的があって、現場に即した結果遊べって言ったり遊ぶなって言ったりするっていうことがお釈迦様の特徴だと言われているので、それをやって何が悪いんだっていうことだと思うんですよね。
どうおっしゃる通り状況は刻々と変化していくし、特に現代社会なんてスピード早いですからね、10年前に言ってたことなんて到底通用しないっていうことにもなるでしょうから、本質の根本的なところはものすごいと思います。
僕は変える必要なんて1ミリもないと思うけど、使い方ですよね、表現の仕方っていうのは刻々と変わっていくもんだというふうに考えてやってます。
いやいや。事務職というか経理側のほうには、営業マンが口を言うわけですって言ってくるから、そっちのほうにはあいつらもあいつらも精一杯なんだから支えてくれみたいなことになるし、営業マンのほうにはお前は経費ちゃんとしろよみたいな話で、そっちが大事だよってちゃんとするのが大事だっていう。
やっぱり言う人によって、その人が足りないと思うことを言うとか、他者との付き合いをうまくやるためにこういうふうに考えて、彼らにさせてくれるから経費ができるんだよみたいなふうに言うことも変わったり、他者との付き合い方もアドバイスっていうのはそういうところがあるじゃないですか。
でもそれが何か、一人の人が決めたことが受け取り方によって違うという。
でも考えたら、それでも2000年、3000年かわかりませんけど、長い期間に多くの人に支持されたわけですよね。
そうだと思います。
でもたぶん生きてるときと言うのは言ってることは違って、それをみなさんがまとめたんでしたっけ、あれは。
そうですね。こういうときにお城さんこんなこと言ってたよねって覚えてる人を集めてまとめたんですね。
でもその人たちが実際に伝えたかったことは、そういうふうに考えて自分たちでどんどん変化していけよとか、
自分たちが思考することが大事だよって、実は言いたかったかもしれないけど、そのままコピーしてどんどん使ったほうがいいよねみたいなことになってたのかなって思ったりとか。
いや、おっしゃるとおりだと思いますね。ある意味、自分からの逃げ、ちょっとひどい言い方ですけどね。
要はお釈迦様を深刻化して、釈迦様が実際におっしゃったのが間違いない表現だけ取ってたら、間違いだって言われることはないので。
本質はここだから、お釈迦様はこうおっしゃってないけど、僕たちはこうするべきだってなると、自分に責任がかかってきますよね。
それは回避したいっていう気持ちが働くのはわからん話でもないし、僕も怖いですもんね、お釈迦様の教えとか。
僕は密教系なので、神保大師の教えを今この状況で適用するならこうだろうっていうことを言うわけですけど、やっぱりね、度胸は必要ですよね。
お前ほんまかって言われますしね、度胸のほうからは。
でもやっぱり僕はこう思うっていうのが修行者の使命だと思うんで、そこから逃げたらいかんと思うんですけど逃げたいですよね。
逃げた結果、すごくドグマティックになっていくっていうか、原理主義っぽくなっていくっていうのがあるかなと思います。
でもそれは例えば昔だと、ニチェとか神は死んだとかって言ったのは、
宗教自体が人に与える悪い部分もある程度指摘した上で、自らこういった道を生きようみたいな話で、ちょっと対峙するような感じじゃないですか。
うん、そうですね。
あ、ごめんなさい。ニューゲンさんのほうは別にブッダと対立してるわけでもないわけですよね。
そうですね。むしろお師匠さんたちが今生きておられて、ここの状況にいらっしゃったら、こうするだろうということを考えておくわけですよね。
なので、もし仏教とはちょっと合わないですけど、天の上から見てたとしてね、僕が見せてたら苦笑いだろうねっていう話なんですけど、
でもそれも許してくれるだろうなと思いながら、自分にできる実践をやっていかないととは思うんですが、この辺は本当に度胸の話になってきますよね。
あとは裏付けになる、勉強と修行っていうのはしとかないとね。
勝手な思い込みでこうだとかってたまに言いますけど、それはまずいですからね。
ちゃんと説得力も持たないといけないし、論理の発端があっちゃいけないのでっていうのは、当然前提としてあった上でっていうことだと思いますけど。
その中で言うと、何千年前の人たちから見たら、今の社会ってちょっと変わってるじゃないですか。
インターネットとか、結局AIとか、メタバースとか、いろんな世界が、たぶんそれほど想像してないようなものも出てるわけじゃないですか。
でもある意味は、頭の中でメタバースとかって、ある意味自分の頭を騙して仮想の中に連れてくるようなところもあったりするんですけど、
そういうのって言ったらどうですか。
例えば、大正さんというか、市長から見たときに、今の社会ってどう見えますかね。
良くなってるのか、なんか変なほうになっちゃったなみたいなことなのか。
たぶんいろんな文献とかから、お伺いしてることができる社会の状態で見ると、たぶんね、ましにはなってるんですよね。
人の命の軽さっていうのは、今もひどいところありますけど、まだたぶん全地球的にはましになってると思うし、行われてることあんまり変わってないなっていう感じがする。
プラス、テクノロジーが発展してきたことによって、昔はそのごく一部の天才しか理解できなかったような、まさにメタバースとかですね、Web3とかですね、あとブロックチェーンとか、
仏教思想と物理世界
あるいは量子力学っていう領域とかみたいなことを仏教は言ってるわけですけど、僕らなるほどそうだねって思えるようになってるんですよね。
たとえば古墓大師がですね、万物の根源は響きって言っていて、波動なんですよね。響きであって、その響きに人の認識がかかったときにその響きが物質化するみたいなことを言っていて、
これって量子力学の二重スプリット実験の電子の振る舞いの話をしてると思うんですよね。その波動性と粒子性の重ね合わせっていうことだと思うんだけど、
そんな江戸時代の人にしたら何言ってんだって話ですよね。古墓大師平安時代の人ですからね。
でも僕たちは今、科学の力を借りて、あ、江戸大師さんは二重スプリット実験の波動と粒子の重ね合わせの話をしてるんだ、すげえって思えるわけで、これね、ものすごくありがたいことだと思うんですよね。
確かにすげえですよね、それはね。
すごいけど結構難しかったですね、今のものは。
いやでも、全部じゃないけど8割方はなんとなく理解したいな気がします。もうちょっと続けてください、じゃあその辺の話を。
そうですね、例えばWEB3とかもマンダラっていう考え方に似てるっていうか、多分それは考えてたんでしょうね、その中央集権的に一つのドグマみたいなもので塗りつぶされる世界っていうのは不安定でよろしくなくてですね、
もっと分散的にこの中心っていうものがずれながらですね、それぞれの中心をまさに中心に展開していく関係性っていうので展開していって、
そのすべての中心っていうところが他者を変異にしながらネットワーク作っていくっていうのが強固で安定した社会だよねっていうのは、これマンダラという図で表されるところですけど、同じようなこと言ってるなって思うし、
あとはGOっていう考え方ですね、カルマガっていう考え方しますけど、これってブロックチェーンですよね、その人がどこでどんなふうにそのブロックチェーンのお金を使った移動させたっていうのは消えないわけで、
僕たちがどこでこっそり悪いことして見てる人がいなくても、そのGOとしてね、日本だったらお店と様が見てますよっていう話で、GOとして残っていく、カルマとして残っていくんだっていうのはブロックチェーンによく似てますよね、誰にもバレてなかった、
その僕がお金を使ったシーンは見られてなかったとしても、あ、こいつこんなことしてやがるっていうのはバレちゃうって言って消せないっていう、それをいつか報いるみたいなのね、社会的信用が下がるとか、
そういうのって今技術で可視化されてるし、僕たち体験できるので、めちゃくちゃアドバンテージあるなと思います。
なるほどね、確かにその記録書かれていくのがGOですか。
インターネットでWeb3である分散型の中で一極に集中しないような考え方っていうのも、確かさっきのマンダラウスという考え方なんですね。
はい、そうだと思います。
うん、なるほどね。じゃあまあ根底にあるのは確かにそれで言うと、もともと絶対的なものというよりも多くの中で分けていくみたいな、ごっきょっぽいですね、確かに。
そうなんですよね。いろんなやつがいるわけですよ、いいやつ悪いやつ。でもそれぞれがあることによって、LMMなんていうのもそうですよね。
大規模言語モデルっていうのもヘイトばっかりでも問題だけど、教科書みたいなものばっかりやっても面白くなくて、ちょっと揺らぎがあって、すべてそれが当価値のものとしてある意味、あることによってそこから導き出されるものがより良くなっていくってそうじゃないですかねって思うんですよね。
特定の意図を持った誰かがそのデータを全部、一つの意思によって作ってるんじゃなくて、いろんな人がぶっ込んだデータっていうのの中から生成されてくるものっていうのが面白いというか、豊かであるっていうのはマンダラ的だし、独協ってそうだよねって思いますね。
一心協的な考え方をすると、極端な話、聖書以外のことは文章として書くならみたいな話もあるわけで、それって強いかもしれないけど、逆に強すぎて脆いよねっていう部分もあると思うんですよね。
マンダラ的なものでみんながそれぞれ、事故と他者との付き合い方も、今でいうと一つの他者の変化によって全体的にまた変化していくっていうことですね。自分も含めて。
そうだと思います。マンダラの考え方だと、僕の解釈ですけど、あくまで私の世界は私が中心にいるんだけど、私の右側の人が中心の世界、その人の世界だと僕は中心の左になっちゃうんで、そうやって関係性っていうのは広がっていくし、全員がつながってるわけですから、誰かの変化っていうのが全体の構造っていうものに変化させていくわけですよね。
それを中心である自分自身がどう感じてどう動くかっていうのは自分のことなんだけど、他者っていうのは切り離すっていうことは基本的に不可能だっていう考え方ですし。
それでいうと、今世界がつながってるって言ったあれですけど、温暖化とかもくんくんってそんなような話になりますよね。
そうだと思います。総合体として、縁が近いところ遠いところっていうのがあるので、
今この瞬間の南米のどっかの国の少年のご飯とか知らないですけど、それはものすごく多分縁が遠い。
でも総合的に、完全な全体としては何らかの影響を与えてるはずなんですよね。微弱だけどっていう考え方。
ということは、サトリオは周りの5人10人だけを見てるのをほぐして、周りを見ていくっていうのも一つの形ですね。
そうですね。絵に描いたマンダラとか、僕らは瞑想のために使うわけですけど、
ああいうものがある理由っていうのが、俯瞰視点を持ちなさいっていうことを直感的に教えようとしてるんでしょうね。
と同時に、目の前の人も大事なんで、俯瞰視点だけが大事だってやると目の前がぐちゃぐちゃになるし、
いや、目の前のことだけやったらいいんだってやるとまた周りがぐちゃぐちゃになるし、バランス取りなさいっていうことだと思います。
今のでいうと、ずっと俯瞰だけで見てたりすると、結局、昔、いろんなことを考えすぎて何もしゃべれなくなったっていうのがあったんですよ。
これを見たら、これでも自信ないな、ここは違うよね、みたいな話になって。
とりあえず、さっきの話、瞬間、瞬間じゃないですけど、今思っていることでいいや、みたいな話ですよ。
明日違うかもねっていう、とりあえず話そうみたいな、とりあえずの世界で生きていくかなっていう感じで、ずっと今まで生きてきたんですけど、それでいいんですかね。
いいと思います。結局、仏教思想みたいなものが何の役に立つんだっていう話はよく問われるんですけど、
やっぱり僕たちこの仏教世界というか物理の体を持って、物理法則の世界に生きていって、実際今日も食べられるものを手に入れないといけないし、
うちなんかだったら賃貸ですから、家賃払わなきゃいけないっていう現実があるわけですよね。
それをほっといて、万物は空だとかって言ってみたところで、これ何の意味もないんだけど、万物は空であるということを知ってるっていうのが、理解できてるっていうのが大きいと思うんですよね。
すべてのものに実態を見てしまって、言うてもお金は稼がなきゃいけないじゃないかっていう限定を自分にはめちゃうんじゃなくて、
すべてのものは空という関係性っていうものはすべてであって、それはしかも変化そのものであってっていうことがわかった上で、
その因果関係とか関係性の結果を現実してる目の前のことにどう向き合うのかっていうのは、空という理解をしてる人としてない人というのは挙動が変わるはずなんですね。
そこが仏教は一番強調してるところなのかな、大事なところなのかな、また誤解を受けやすいところかなって思ってて、
すべての一切の空性、空性というものを知りながら、偶像世界で僕たちはどう動くのかっていう、それができる人を悟った人っていうのかなって思います。
マンダラ的な視点とバランス
やっぱりいつもそれを、時々トイレで3分間、とりあえず悟ってまた会社に行きますっていう。
めっちゃ大事ですよね。
要はこの仏教世界、物理世界でコンフリクトしたってですね、もうなんかダメだってなった時に一回意識を飛ばすっていう、
メタ視点で俯瞰視点を持たすっていうことで、どうでもええわっていう。
大阪の人がよく最後に大演説取った後で知らんけどとか言うじゃないですか。
あの感じだと思いますね。
そうですね。さっきは柳田さんのことを言った後に、とりあえずねっていう感じで。
取って抜けがあるっていうのが大事なのかなって。あんまそこでガーッと力が入って、主観が強くなって、
使命感みたいなのが燃え上がっちゃうと、やっちまえみたいな話になっちゃうし、もうダメだとかなっちゃうんで。
もう最終的にまあ知らんけどみたいな。っていうところでこうふって抜けるっていうのがね大事なのかなと思いますけど。
抜けたら、いや昨日って違うじゃないか言ってることがあって、まあみんなが助けられたりするわけなんですけど。
まあ知らないから、みたいな笑い声。
そうですね。最終的には仏教的に言うと慈悲なんでしょうね。
面と向かっている人がよりハッピーで、より苦しみがないようにっていうことにつながるように自分がどう行動できるかっていうことになると思うので。
知らんけどって言ったら激怒しそうな人の前では言わないとかですね。そういう判断があるべきなのかなと思いますが。
でもそれと言うとなんかまあ、いや自分はとりあえずなんだけどなーみたいな感じだけど、結構攻められるとやっぱりきついじゃないですか。
弊社とかってまだマシで、政治家とかタレントとかって結構人気商売もあるから、それでなんか、いや知らんけどって言っても許さーみたいな話でやめろーとか。
なんかなるときに、でもその人たちもどうですかね。
そうですね。もうちょっと許しちゃってよって思うときがあるんですけど。
でもそんなふうに言われる人も結構いると思うんですけど、そういうときもどうですかね。それも因果として受け取って、ちょっと言葉気をつけようとかするべきなのか、そうなんですかね。
僕としてはそんな立場の方のお心っていうのはわかりかねる部分もあるんですけど、まずおっしゃる通り因果関係はありますよね。
そういう人気商売の世界に生きている、自分が望んでそこに行ったとか、政治家さんとかを批判しかされないような場所であるっていうのもわかっておられるわけでしょうから、
それを甘んじて受けるっていうのは自分の決断の結果としては必要でしょうし、
その上であまりにもご無体なことを言ってくる人とかに関しては、結構僕も批判されたりすることが多いんですけど、
知らんけどの仏教的な起源
与えられた試練だし、僕にはそれを受ける必要があるから受けてるし、この状況っていうのを超えてもっと良い状況に至れるからこれが起きてるんだっていうふうに思うようにはしてます。
そういう因果関係になっているっていうふうに、これはやや信仰っていうところに近くなってきますけど、そう思うようにしてますし、
究極やっぱり慈悲っていうのを持とうっていうのはできる限り、無理なことはあるんですけど思ってますね。
文句言ってくる人って何か怖かったり辛かったりしてるはずなので、そこが良くなったらいいねと、それも縁の近い問いがあるので、自分自身に手が出せる領域と出せない領域があるんですけど、
それでもせめて迷走とか自分の心認識の中では全ての人が幸せであるようにっていうことを思えるようにすると、あんまり心が腐っていくっていうか穢れていくことは避けやすくなるのかなっていうふうに思いますけど。
でもね、僕も殺しちゃおうかとか思うことはあるんですけどね。
僕はカウンタックみたいな車がみんな走ってたりとかしたらうるさいと思うんですけど、あいつも寂しいんだろうなって思うとちょっと楽なんですね。
そうですよね。そういう発想でいいと思います。何かそれをせざるを得ないその人の業みたいなものがあって、お気の毒だなーとか苦しかろうなーとか思いますよね。
みんな寂しいとかみんなちょっとしんどいですね。それが受け入れられたら、自分自身が一番楽になりますよね。
そうだと思います。そういうののために仏教思想っていうのはすごい威力を持っているので、もっと使える。本当に日本ってもともと仏教国なので、うまく使えるようになったらいいのにって単純に思いますね。
そうですね。そういった身近なお互い一体をお参りしたいとか、そんなん以外にもっと根幹に置いておくと結構楽ですよね、このへん。
そう思うんですね。
でも墓参りとかしてたら、お墓ってただの石じゃないですか。
でもそれを参ってる周りの親戚とか一緒に集まって見てて、同じ方向見てるっていうのも意外と良かったりするじゃないですか。
まさに関係性と認識で、ただの石と見ればただの石なんでしょうけど、そこに自分のルーツであるご先祖とか、亡くなったおじいちゃんおばあちゃんとかっていうのを見ることができたら、その石っていうのはただの石じゃないですもんね。
これも仏教的にはそうだと思います。あえて有意物論的に石なんか置かないで何するんだって言わなくてもいいと思うんですよね。
どうしてもそれも含めて、そういった対象物がないと人が集まりにくいとか、気持ちが入りにくいとかっていう仏像でもなんでもそうでしょうけど、
本当はそんなのなくても空見て思ってもいいんでしょうけど、何かあると向き合いやすいですよね。
そうですね。僕たちホモサピエンスという種族の特性なんだと思います。
そこを無理やり抵抗しなくていい気がする。
なるほどね。メタバースとかいろんなVRの世界でもそういう感じもありますかね。
あるんじゃないですかね。やっぱりシンボルみたいなものに意味を託すっていうことをするのが人間だから、
メタバースの世界では特にそれ自体に意味ないんだけど、象徴的に意識を向ける対象っていうのは必要とされるっていうのは、僕らが人間である限りはそうなんじゃないですかね。
まだまだなんでしょうけど、ちょっとずつそこの悟りちょっとずつ育てていけたらいいかなっていう結論でいけるかなと思います。
いいと思います。知らんけどっていうね。
知らんけど悟りでいいと思います。
シンボルとしての対象物
とりあえず悟ります。
ということで、これ聞いた皆さんもちょっとずつ試しに悟ってみましょうということで。
ぜひぜひ。
いいのかなこの軽いのね。
カジュアルにいったほうがいいと思います。
どうも今回は短かったですけど、またそのうち遊びに行きたいと思いますので。
ぜひぜひお待ちしております。
よろしくお願いしますね。
ありがとうございました。
27:13

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